02話 フラスコの中で
―福富春幸―
字面を見るといかにも幸運を呼び込みそうな名前をしているが、これまでの人生特別に幸運だった事などは無かった。
良くて人に名前を覚えてもらいやすい程度の効果しかない。
学生生活は可もなく不可もなく、勉強はそれなりに真面目に、遊びもインドアに寄っているものの、それなりに友人らと馬鹿に楽しく過ごした。
一言でまとめると、極々普通の学生生活を送っていたと思う。
惜しむべくは数年片想いした女友達についに告白できなかった事だろう。彼女は俺が足踏みしている間に、別の男と恋仲になったらしい。
社会人になったら今度こそ彼女を作る。そんな下らなくも俺にとっては割と真剣な目標を持って迎えた社会人一年目。
学生と社会人の差に苦労しつつ、先輩に厳しく指導されて新人研修をこなして初めて迎えた給料日・四月二十五日。
初任給を手にしたその日、きっと他人から見たら浮かれまくっていたのだろう。俺は怪しげな露店商に掴まり、そして口車に乗せられるがまま怪しいブレスレットを購入した。
そのブレスレットは願い事を何でも一つだけ叶えてくれると言う、とても、それはもうとても怪しい品であった。
俺は怪しいと思いながらも騙されていると分かっていながらも、そう高くない値段であった事と、デザインが気に入った事もあり、軽い気持ちで購入した。
薄い桃色の丸く加工された輝石が数珠状に連なり、アクセントのように赤の輝石が間に入っていた。そして小さな桜のモチーフが中央に付いていた。
自宅に帰ってから、自分の腕に着けて眺めてみた。男が着けるには可愛らしすぎるかもしれないな。
俺自身が着けるにはあれだが、嘘でも願い事がかなうという効力があるなら、妹にあげても良いかもしれない。女の子はこういうの好きだろう?
そうだなぁ、もし本当に願いが叶うと言うならば、俺なら何を願うだろうか。
絶対に叶わないと思いつつ、けれど少しばかりの希望を胸に、俺は何とも無しに願いを口にした。
人生をやり直したい、出来ればゲームのような世界で、と。
ゲームが好き、漫画が好き、小説が好き、娯楽にあふれたこの時代、この手の娯楽が好きならその世界で生きる自分を想像したことがある者も少なくないだろう。
けれどいつしか大人になり、逃げられない現実の中で、夢や希望もなくただ日々を生きるために仕方なく会社等で働く。
いや夢や目標を持って働いている人も当然要るだろうが、俺は少しでも良い高校良い大学良い会社と周りに流されるままに生きてきて、いざ会社に入社してから今後何を目標に生きて行けばいいのだろうと漠然とした不安に襲われていた。
次に周りに言われるのはいい嫁さん貰って子供を作れ、だろうか。
なんなのだろう、この既に決められているような人生は。
今更になって、もっと子供の頃から自分の夢を持って生きてこれば良かったと思うようになっていた。
だからこの時俺は、今更無理だと諦めて、本当に軽い気持ちで人生をやり直してみたいと願った。
この後何も起こらず、自分の馬鹿げた行動に恥ずかしくなる事が当たり前の展開だと思っていた。だが俺の考えとは違う方向に事態が動いた。
ブレスレットの石に連鎖的にヒビが入り、一瞬にして砕け散り、景色がぐるりと混ぜられたように歪んだ。
急に起きた奇怪な現象に目を回している間に、天井から部屋を照らしていたLED電球が割れ、破片が床に着くよりも早くフローリングの床が消え、寝転んでいたベッドも壁一面に並べていた本棚も消え、俺はただただ黒い空間に投げ出されていた。
ぎゅうぎゅうと身体に襲いかかる締め付けるような力に痛みを感じ、俺の意識はだんだんと遠のいて行った。
――――――――――
次に意識が浮上した時は、周りには何も無かった。
手を…手だと思うのだが、感覚が曖昧で良くわからない…手だと思う物を動かしてみると水の中を泳いだかのような抵抗を感じた。足も同様だ。
もっとよく見てみようと目を開いても靄がかかった様に何も見えない。瞼は開けていると思う。
ならば見えないのは眼が機能していないか、周りに何もないのか。
もっと情報を手に入れようと、腕を伸ばし足を伸ばし、体全体を伸ばして、前だと思う方向へ移動した。
すると指先が壁のようなものに当たった。
良かった、壁があると言うことはここは部屋なのか。
俺は自分の部屋で意識を失って、まだ頭が覚醒していないだけなのかもしれない。
ぺたりぺたりと壁を触ってちゃんとそこに壁が存在して、俺の感覚が確かであることを確認していた。
するとその壁が何かおかしい事に気付いた。自身の部屋の壁紙は模様に沿った凹凸があるはずなのだ。
なのに今手に感じる壁はまるでガラスのようにつるつるとしていて、さらには壁自体が湾曲しているらしい。
上下を確認して、この壁が球体のような作りになっていて、俺は今球の中にいるのだと気付いた。
「(これは一体…どういうことだ)」
声を出してみて、話した言葉が音になっていない事に驚き、ますますこの不可思議な状態に混乱した。
一体全体何がどうなっていて、俺はどうなるのだろうか。
助けを呼ぶため、もしくは脱出するため、目の前の壁をとにかく、殴り、蹴り、壊そうと試みた。が、びくともしない。
すると目の前に影が落ちてきた。未だ全貌が掴めない空間に何か動く物が存在するのだと分かった。
助けてくれ、此処から出してくれ、音にならない声で目の前の何かに向けて叫んだ。
「まぁ!まぁまぁ!目が覚めたのね!なんという事でしょう…奇跡だわ!生きているのね!成功したのね!私がわかるかしら?言葉は分かるかしら?おはよう、初めまして私の可愛い坊や、生まれてきてくれてありがとう…!」
急に響いた音に俺のいる球体が細かく震えた。聞こえているとも、言葉も分かるとも、だから早くここから出してくれ。
そう伝えようにも、目の前の人は興奮していてこちらの意思等まるで分かってくれない。
その内に目が慣れてきたのか、だんだんと景色を移す様になってきた。
目の前の壁、俺が現在要る場所はやはりガラスで出来た球体の中で、俺に話しかけてきた人間は黒の服を身に着けた老婆だった。
老婆は俺の入った球体を手に取り、上に掲げて嬉しそうに笑っている。
俺は今最大限に混乱していた。何もかもがおかしい。ここはどこだ、俺の部屋はどこだ、老婆は何者だ、俺は何だ、そして縮尺がおかしいだろが。
目の前の老婆は巨人か何かだろうか。一人の人間が入った物体を軽々と手に取って持ち上げるなんて、どんな怪力の持ち主だ。
老婆に合わせてだろうか、老婆の部屋と思しき空間にある物すべてが巨大だった。
近くに見えるカップやスプーンもおそらく俺と同じサイズだし、以前は一つまみだった角砂糖もいまや一抱えほどの大きさである。
もしかして俺が小さいのか…?なぜだ。
老婆はようやく落ち着いて来たのか俺の入っている入れ物を元の場所に戻してくれた。ずっと揺すられて酔いはじめてきていたのでこれは助かった。
俺は現状を把握するために、老婆とのコミュニケーションを図る事にした。
今は目の前の老婆しか俺が頼る事が出来る者はいない。ならば機嫌を窺いつつ少しでも情報を集めねばならない。
言葉が理解できるのだが俺の声は音にならないようなので、果たしてちゃんとコミュニケーションはとれるだろうか。
不安になりつつも俺は音にならない声で老婆に話しかけた。
「(あなたは、だれ、ですか?)」
「私はテロルだよ坊や。言葉が通じるんだね、これは大成功だねぇ」
「(ここは、どこ?おれは、なに?)」
「ここは私の家さ。坊やは私が作り出した新たな生命と言ったところかね。ふふ…きちんと考える力もあるようだ。千体目にしてようやくの成功体、大切に育てないといけないね」
「(新たな生命ってなに?成功体ってなに?)」
「おやおや、まるで本物の赤ん坊のようだね。何でも知りたがる。いいさいいさ、時間ならある。一つずつ覚えなさい、一つずつ教えよう」
俺の声はきちんと老婆には通じているようで、老婆は嬉しそうに全て丁寧に答えてくれた。
老婆の名前はテロルという。歳は六十八で、職業は錬金術師。人里から少し離れたところに家を建て、錬金術の研究をしているそうだ。
若いころは街では有名な薬師だったそうだが、より効果の強い薬を研究している内に錬金術と出会い、人の治癒力、人の生命を研究しているうちに、自らの手で新たな生命体を作り出すことを夢見るようになった。
その研究の末、生まれたのが俺であると。
話を聞いた時、俺はこの老婆の頭がおかしいのだと思ったが、目の前で錬金術を見せられ、俺の姿を鏡で見てようやく納得するに至った。
フラスコの中の小人、ホムンクルスとは良く言ったものだ。鏡に映ったフラスコの中に衣類を纏わぬ小人がいた。
俺の記憶している容姿とは若干異なるものの、俺が動いたとおりに鏡に映った小人も動くので、あれが俺の今の姿で間違いないのだろう。
俺は、人では無い何かになっている。テロルが俺を人工生命体と言うのならそうなのだろう。
俺はフラスコの中で生かされていた。自力での脱出は出来そうにない。
フラスコの入り口より俺の身体は大きく、かといってフラスコを破壊するような力も無い。
自由はないが不自由も今の所無い。フラスコを満たしている液体の中でも普通に呼吸が出来る…と言うより呼吸そのものを必要としていないようだ。
見れば見る程、考えれば考える程、動けば動く程に、鏡に映った俺はまさしくフラスコの中で生まれた存在であり、テロルの手で生み出された人工生命体だと感じてしまった。