三章 Ⅰ
「全校生徒一八四名の内、合格判定者は一三二名、不合格判定者は五二名。……過半数以上では、仕方ありませんね。合格です、入学を許可しましょう、皇黒院メアさん」
管理棟二階の学院長室で、メアは、その言葉に打ち震えていた。無論、喜びからだ。溢れんばかりの喜色を湛え、彼女は有村に抱きつかんと机に身を乗り出す。それを諌め、有村は「ただし」と低い声音で付け加えた。
「あなたは仮入学の身です。本入学を果たしたいなら、一ヵ月後の中間考査で上位の成績を修めるか、二ヶ月以内に契約召喚魔を得なさい。それができなければ本家に戻りなさい」
「……その上位の成績って、どれくらい?」
「そうですねぇ。蓮見さんもリアさんも学年トップの成績でしたから、あなたも、」
「トップ!? 無理無理無理、私がそういう知識ないから今回の試験だって、」
「一ヶ月あります。本気で勉強すれば大丈夫でしょう。あなた、根本的なお馬鹿さんではないのですから。特別補習を明日から用意してあります、受けなさい。あと、特別教官を傍につけました。つきっきりで学ばせてもらいなさい」
手を組み、ほっそりした指先を絡ませ合う有村の表情はどことなく愉しげだ。特別教官ってまさか、とメアの顔色が蒼くなる。「久利生じゃないわよね、先生」
己の家庭教師の爽やかだが腹黒い笑みを思い出し、メアは両腕を抱く。彼はそんなに嫌ですかと冷静につっこむ有村は、違いますよとやんわり否定した。と、そこで、控え目なノック音が響く。お入りなさい、と穏やかに返す有村に、ドアはゆっくりと開いた。失礼しますと会釈しながら入ってきた人影に、メアは声を上げた。
「夜紘」
「げ」
見るからに嫌そうな顔をした夜紘少年は、眉間の皺を濃くしながら、メアとは一定の距離を保ちながら学院長の座す机に近づいて行った。
「あなたたちは、これからパートナーとして生活していきなさい」
夜紘が立ち止まると、すぐに有村が言う。暫しの沈黙を挟んで、メアと夜紘は素っ頓狂な声を出した。
「パートナー……? 何で俺が」
「そうよ、どうして私と」
詰め寄る二人をいなし、有村は「これも理事長の命令なので」と肩を竦める。またあのジジイめ……! と憤怒の炎を滾らすメアを他所に、夜紘は落ち着いた声音で尚も文句を続けた。
「俺は学内での自由が認められているはずです、こんなお嬢様とパートナーになんかなったら自由が利かない」
こんなとは失礼な。じろりと夜紘を横目に見るメアは、唇を尖らせた。
「確かに、メアさんが試験に合格した以上、あなたは処罰を免れているので特待生の利権は得たままです。しかし、あなたの自由行動も目に余る部分があるとのお達しなので、我慢して下さい。諸々の自由はありますよ、メアさんにあなたを拘束する権限はないので。ただ、召喚術や魔術に不慣れなメアさんをサポートしてくれればあなたへの信頼と評価は高まるでしょう。それはあなたの将来にプラスの作用をすると思いますが」
そう言われては、噛みつく箇所もないのだろう。言葉の刃を収め、夜紘は不服そうだったが、そうですかとだけ頷いた。
「さて、話も纏まりましたし、」
「いやいやいや、私はまだ認めてないわ」
手を叩いて丸く収めようとしていた有村の所作を遮り、メアは首を振る。だが、彼女の言葉を、有村学院長は聞かなかった。
「無藤くんの話を聞かずに入学試験を独断で決めたのはあなたでしょう。今度はあなたが話を聞かれない番ですよ。もう決定したんです、理解なさい」
その通りだった。返す言葉もなく項垂れて、メアははいと素直に返す。
「では、無藤くん。メアさんを寮に連れて行ってください」
「女子寮に? 構いませんけど、さすがに寮内には行けませんよ」
「いえいえ、特別寮のことです。あなたの部屋の隣に、彼女を住ませます」
は、と。夜紘が息を呑む。メアが固まる。有村は微笑む。
「信じられないわ、隣の部屋!?」
時間を取り戻したように捲くし立てるメアに、有村は当然でしょうと返した。何しろパートナーですから、と。何とも便利な言葉である、パートナーとは。何で何でと連呼するメアは無視し、夜紘は静かに問い返した。
「いっそのこと自宅通いでいいと思いますが。皇黒院家の邸宅は、さほど遠い場所にはないですよね」
「ええ、確かにここから三〇分もすれば着きますよ。ですが、彼女を溺愛するジジバカ……いえ、御大が、特待生のお隣さんなら安心だと」
どこまでもふざけたジジイだと、夜紘の顔が面白いほどに歪む。担当教官は無藤くんですよ、頑張って勉強して下さいと付け加えた有村に、二人の顔が更に強張ったのは言うまでもなかった。
これがおよそ四〇分前の出来事だ。
特別寮は、校舎の北の端にある。一キロにも満たさない小さな湖の脇に作られた、その名が示すように特別な生徒のための寮だ。世界十家の子息がかつて皇黒学院に留学してきた際に、警備のしやすさの点から新設されたらしい。そのためか、部屋数は少なく、規模も小さい。だが、設備内容だけは一級品だ。何しろ、皇黒学院といえども相部屋が基本の学生寮において、一人一部屋が保証されるのはここだけである。絵本にでも出てきそうなゴシック建築の外観は、風景と見事にマッチしていた。
特待生として夜紘に与えられた特権の一つが、長らく使用されていなかったこの特別寮での居住だった。校舎から若干離れているのは難点だが、静かだし、誰にも干渉されない空間は彼にとって心地よかった。それも今日までかと、少年は肩を落とす。
早速引越しの用意を電話口でしながら、メアはぐるりと、己に宛がわれた室内を見渡す。八畳一間。キッチンは個人部屋の外にある共用。トイレとバスルームは部屋ごとに用意されている。ベッドは窓際にあり、既にシーツが新しいものに取り替えられていた。クローゼットの中は、当然何もない。備え付けのデスクの上はぽつんとライトがあるだけだ。
狭いなんて文句は言わない、強いて小言をつけるならやはり、自身の学習教官というのが夜紘である点か。感謝はしているが、それとこれとは別問題だ。どうにもいけ好かない奴と四六時中顔を合わせねばならないとは苦行である。それは向こうも同じようだが。
日用品一式を今日中に届けてほしいと告げると、電話の向こうで、メイドである中野がかしこまりましたと柔らかく返答した。通話を切り、部屋の入り口で退屈そうな顔をしている夜紘に振り返る。
「何だか意外ね、あんなにあっさり、私とパートナーなんてこと認めちゃって」
ベッドの端に腰かけるメアに、夜紘は喋るのも面倒だと言わんばかりの気だるさを伴いながら返事をした。「大人しく監視されてた方がいいだろ、刃向かってもしょうがない」
「監視?」
「パートナーなんて、監視しやすくするための方便だろ。纏めておけば管理は簡単だ」
かつて、この寮は警備のしやすさから重宝されていた。今では、監視のしやすさから利用されているわけだ。皮肉気に告げる夜紘の表情は明るくない。お互い監視されるような立場なのかと小首を傾げながらも、メアは、何も言わずに夜紘の横顔を見つめた。
この学院の警備は、十全たる防除魔術と対召喚魔用の三重結界が施されていると聞く。それがいかほどの効力を示すのかメアには皆目健闘もつかないが、入学式でその魔術と結界が解除されなければ、守衛から逃げたところで魔術の作用によって道は塞がれていたはずだ。今日の日没を以って、学院は通常警備に戻る予定である。そうなっては、許可なく学院の外に出ることも入ることもできない。だが、身の安全は保証される。
「問題児扱いされてるわけ、私たち……」
その言葉に、夜紘が返事をすることはなかった。寒々しい空気だけが溶け出した氷のように流れていく。
『お嬢様、僕の気分は最悪です。久利生さんには笑顔で責められるし、蓮杖様がお戻りになられる日のことを考えると気が重いです……』
「うーん、それは悪かったわね。でも、いっそのこと契約満了ってことで異世界に戻ったらどうなの? ロロだって好きで雑用仕事なんて、楽しくないでしょう?」
『つまりクビ宣告ですよねそれ。お嬢様は僕のことがそんなにお嫌いですか』
「そういうつもりで言ったんじゃないわ、ごめんね」
夕刻。日が傾き、水面に映る太陽の赤が、メアの黄金色に混じった。届いたキャリーケースの中身を確認しながら、皇黒院付きの召喚魔たる悪魔に電話口で語りかけるメアの表情の端々には、疲れの色が滲んでいた。つい先ほどまで、夜紘による、この上なく大雑把で偏った内容の講義を受けていたが、頭の奥に霞がかかっているようで気持ちが悪い。
『皇黒院家付きの召喚魔なんて異世界じゃステータスですよ、クビになんかなりたくないです。恥ずかしいし』
「異世界も利権争いに競争社会? 夢がないのね……」
スプリングの利いたベッドに横になり、携帯を持つ手を替える。鳥の鳴き声が窓の向こうから聞こえてきた。差し込む夕陽がシーツを橙色に染める。
『もう弱肉強食って言葉通りの世界ですよ。生まれが良くても弱ければ蹴落とされるし、逆に育ちが悪くても一発逆転の可能性だってある。ま、絶対的な存在同士が覇権争いをしている時点で、こちらよりも殺伐としてますね』
絶対的な存在。反芻して、メアは腕を伸ばす。虚空を掴む掌は白い。
「おじい様って、どのくらい強いのかしら」
何も考えず、息を吐くついでに言葉を投げる。ロロは、また途方もないことを……と小言を垂れたあと、もう滅茶苦茶強いですよとだけ投げやりに返事をした。その適当な台詞にメアは上体を起こす。
「基準を示しなさい、日本列島くらい強いとか」
『日本列島に強さなんてあるんですか……? まあ、強いて言うなら皇黒学院くらい軽く吹っ飛ばせますよ、あのお方がその気になれば、召喚術で』
「ふうん」
言われてみれば、メアは、一度たりと祖父が召喚術を使っているところを見たことがない。故に、その凄さも、ロロのいまいち迫力に欠ける説明を受けても伝わってこない。
夕食の仕度があるのでそろそろ失礼しますと、暫しの談笑の後、名残惜しそうにロロが言った。時計を見ればもう四時三〇分を過ぎている。随分と長い間話していた。
『お嬢様、無茶はしないで下さいね。ロロはお嬢様が一刻も早く退学されることを願っています』
「願うな。……そうならないように努力するわ。それじゃあね、ロロ」
失礼しますと、甘いボーイソプラノの声が響いたところで通話を切る。携帯を枕元に置き、窓辺に頬杖をついて外の様子をぼんやり眺めた。唐突に睡魔が襲ってくる。熱を孕んだ脳内が思考を鈍らせていく。
これから毎日、夜紘による召喚術基礎講座を受けねばならないのは苦痛以外の何ものでもない。向こうもやる気がないのは透けていて、自分がどうでもいいと思っているらしい事柄に関しては質問しても無視ときた。
ルーンは自分で書き写して覚えろ。魔道書の原本が読めないんじゃ論外だ。いちいち俺に聞かずに調べろ。調べても分からないなら諦めろ。詠唱にもきちんとした詠み方がある。試験でどういう小細工を使ったが知らないが初級魔法陣くらい何も見ずに描け。
――土砂のように流れてきた特待生の言葉の数々を思い出し、メアは項垂れた。ひたすらに気が重い。罵詈雑言に言い返せないのが歯痒い。それもこれも、己が無知であるが故だ。
「絶対に覚えてやるんだから……早急に」
窓ガラス越しに夕焼け空を睨みつけ、曇った部分を引っ掻いた。できるできないの尺度でものは考えないことにした、やれるのならやる。それだけだ。眠気を殺し、夜紘が置いていった教本を手に取る。随分と使い古されているが、わざわざ用意してくれるとは思ってもいなかっただけに。嬉しさも倍滲む。こういうところは律儀というか真面目だ。
付箋の項を開こうとしたところで、ヴヴ、と文明の利器が振動した。足下に伝わってくる波を無視することもできず、携帯に手を伸ばす。着信相手は、兄だった。慌てて、必要もないのに居ずまいを正す。正座をしてから背筋に鉄板を仕込んだように真っ直ぐ居直った。息を整えてから通話ボタンを押す。
「もしもし、兄様?」
『やあメア。久しぶり。元気そうで何よりだよ。無事入学できたみたいだね、連絡が遅れてすまない。実は僕も野暮用で学院に用があってね、今日。高本たちから連絡が入ったときは肝が冷えたよ、どんな大惨事になるかとね』
ハハハ、と、まるで文字が浮き出ていそうな渇いた笑いを零した実兄に、メアは閉口する。嬉しいのやら腹立たしいのやら、よく分からない内心だ。大惨事とは、無論、メアが学院に侵入して逃げる手段として魔術や召喚術に手を出した果てのことを言っているのだろう。お生憎様でしたと反抗気味に言い返すと、皇黒院家の跡取りたる蓮見は、ふふんと陽気に鼻で笑った。
『恩人に対してその態度はないんじゃないのかい?』
「やっぱり、高本たちに捕まったときのおかしな静電気も、嘘の情報提供も全部……」
『去年、お前に誕生日プレゼントをあげていなかったからね。その埋め合わせだ。あと、リアの件は僕も結構気がかりだし、お前が自分で決めて行動したことなら兄として応援してやるのが道理だろう? けれど、僕は一応跡取りだし、じい様の意向に表立って反抗することは難しい。今日みたいな手助けはこの先期待しないでくれ。さすがに、命の危機ってときは別だけどね』
「分かってるわ、兄様。感謝してる。……あと、お願いなんだけど、高本たちに、私からのごめんなさいとありがとうを伝えてくれないかしら?」
多少躊躇いがちに、メアは告げた。その気になれば、高本たちSP陣がメアを見つけ出し、捕らえることなど可能だったはずだ。皇黒院に雇われるくらいの実力者たちなのだから。だが、メアが、兄の助けを得たとはいえ逃げ仰せたのは、高本たちが僅かとはいえ目を瞑ってくれたからに違いない。
妙にそわそわして、シーツに指先で円を作る。何だか気恥ずかしかった。伝えておくよと、苦笑気味に蓮見は応えた。それから数秒の間を置いて、兄は声色を変える。
『あまり無茶なことはしないでくれよ、メア。リアに続いてお前まで失踪なんて、笑えないからね。特に、お前の魔法陣は諸刃の剣にもなる。承知しているだろうが』
真剣味が増した響きに、メアは軽口を叩こうとしていた己の唇を諌める。軽い返答はいくらでもできる、私を誰だと思っているの兄様と、一笑に付すことは簡単だ。だが、兄は本気で己の身を案じている。真摯な言葉に正面から向き合わないのは本意ではない。
分かっているわ、と、落ち着いた声色で返す。蓮見は、それなら安心だと笑った。
「ところで兄様、カードは現金とは違うのね」
ベッドの端に置いてあった冬紀の帽子を目にし、メアは思い出したことを唐突に口から飛び出させた。バスでの一件を話すと、蓮見は深く息を吐いた。
『やっぱりもっと外で遊ばせるべきだったかな……。僕らは方針を間違えたみたいだ』
心底残念そうに告げる実兄に、メアは首を傾げた。どういう意味だろう?