二章 Ⅳ
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顔を合わすのは、三度目だ。
食い込んでいた指を解放した瞬間、僅かな痛みが神経を尖らせた。道化のように顔を白く染めていた老獪に、敵意を熱く孕んだ目を向ける夜紘の表情は硬い。強張った空気が、より硬度を増す。何者に触れられても壊されないとでも言わんばかりに。小さな隙間すら許さないほど張り詰めていく空気に、首を回して蓮杖が気の抜けた声を出す。だが、夜紘の目は、場の弛緩を許さなかった。
一定の距離を保ったまま、夜紘は口を開く。
「あんな風に言っても、結局、俺は退学にはならないんだろ」
尊大な物言いは、とても目上の者に向けられるべきものではなかった。だが、その態度を気にしたようでもなく、理事長は悠々とした仕種で手を組む。ふざけた表情がなりを潜め、影すら覗かせた顔つきは蓮杖に威厳と風格を想起させたが、如何せん、手が生クリームとスポンジで微妙に汚れているのが情けない。
「どうしてそう思う」
「どうしてもこうも、あんたが俺に、特待生なんて首輪をつけさせてこの学校に呼んだんだ。なのに、あっさりと退学処分にするわけない。俺をここに入学させたのだって、要するに、体のいい監視のためだろ」
噛みつく夜紘に、蓮杖は嫌々をするように頭を振った。最近の若い奴は、と決まりきったような文句を吐く。
「監視じゃなくて、保護だとどうして考えられないんだか……。人聞きの悪い奴だな」
「あんたの言うことなんて信用するわけないだろ」
「そんなにわしって信用ないのか」
子供は分からん。そう目線をずらした蓮杖に、夜紘は殴りかかりたくなる衝動を抑えた。ここで我を忘れては相手の思うつぼではないか。この、下らない押し問答を楽しんで、実の孫娘すら煙に巻くような爺さんの。
堪えて、堪えて。感情の波が落ち着くのを待とうとするが、それを阻むように、蓮杖が口を開いた。
「過信も結構、自惚れも自由。五年前までだったら、確かにお前さんは処罰など受けなかったかもしれん、何せわしが学院長だったわけだし。だ、がー……。今は経営担当の理事長、学院全体を取り仕切る学院長は有村馨。奴がお前の処罰を是とすれば、わしも強権は行使しない。そもそも、馨は特待生なんて認めてないから、もしお前さんに正当な手段で特権の剥奪諸々の処罰が下せるチャンスがあったら、間違いなく罰を是とするだろうなぁ」
角砂糖を摘み上げ、さも自分には関係ないと言うような口ぶりの蓮杖は、どこまでも夜紘を逆撫でしてくる。
夜紘が、今朝のように、上級生に絡まれることは珍しいことではなかった。中学の卒業式を待たず、三月に入ってすぐにこの学院の寮に住むようになった彼の肩書きは特待生――皇黒学院史上初の、特別な選考と推薦を以って入学してきた「天才」。その推薦を行ったのが、目の前に座す理事長こと、皇黒院蓮杖だった。だが、夜紘の立場を保証してくれるのは、裏を返せば彼だけで、学院全体の総意ではない。
現実、学院長が夜紘の実力を訝しいと思っていることは、夜紘自身、知っていた。
蓮杖が、明らかに色の失せた夜紘の顔つきを見て嗤う。愉しそうに、面白そうに。その愉悦に染まった表情はどこまでも陰湿で、底がない悪意を彷彿とさせた。地獄の蓋は、きっと、目の前の老獪のような形をしていて、それを開けた先には途方もない邪気だけが詰まっているのだろうと、佇む少年は思った。
「退学なんてことになったら、お前さんはあの女のところに戻らなくちゃならんな。わしはお前さんの保護者でも里親でもないし」
にやにやと。人の心を、簡単に踏み荒らしていく。一挙一動どころか、鼻から空気を取り込む肉体摂理に至るまで、些細なことが夜紘の神経を障っていく。蝕んでいく。
あの女――ちらつく銀色が、目の前の憎き老人と対を成して、頭の中で煌いた。こめかみに走る激痛が、その輝きを拒絶する。戻るなんて、そんなこと。冗談じゃない。
奥歯を噛み、痛みをやり過ごすべく意識を逸らす。だが、蘇った銀が、鎖よろしく思考を縛りつけていった。一度は諦めた、もう無理だと。逃れることはできないのだと。しかし、外に出ることが叶った今、再びあの女の元に戻るなど、到底承服できる話ではなかった。こんな惨めな己など想像したくもなかった。憎悪すべき相手に生かされ、後ろ盾になってもらっている今の己など。そして、籠を恐れる弱いままの自分など。
「――何で、俺を連れ出したんだ」
辛酸を舐めるように、苦悶を味わうように、毒酒を含むように、夜紘の表情は曇っていく。濁った夜紘の声音に、蓮杖が首をもたげた。口角は意地悪く、上がったままだ。
「あの女の、使える駒を刈り取ったまでだ」
そう、あっさりと告げた蓮杖の眼は、ひどく混濁して見えた。栄光と栄誉の証たる金色の瞳はしかし、イカロスを墜落せしめた太陽のようであった。近づいた者など容赦なく、溶かして沈めて消し去ってしまいそうな。
押し黙る夜紘に、蓮杖は続ける。
「無藤夜紘、お前に残された選択は三つ。死ぬか、戻るか、残るか。何を選ぼうとわしには関係ないが、愚かな道に進んではくれるなよ」
デスクの端に付着していた生クリームを一筋、掬うように線を描き、老獪は哂った。
「メアに手を貸したのがまず間違いだったと思って、巻き込まれるしかないな」
歪んだ夜紘の表情は、甘柿と勘違いして渋柿を食らった童子のようであった。