二章 Ⅲ
爪で引っ掻くように、勢いよく取っ手に指先を噛ませる。
「おじい様!」
おずおずと後ろについてきていたらしい夜紘が、わざとらしく耳を塞いだ。わんわんと響く少女の声、そして、引き戸を開けた際に響いた、鈴の音。まるで趣を感じられない喧騒と、清涼感を煽る清音のギャップが、室内の緊張感をぶち壊した。
勇んで踏み込んだのも束の間、だん、とメアの右足の踵が床を踏みつけた瞬間、
「あら、随分なご登場ですね、メアさん」
ソファに腰かけ、優雅に紅茶を啜る淑女が一人、メアを咎める。ひ、と声を詰まらせ、メアはわなわなと唇を震わせた。「先生……!」
音を立てずにカップをソーサーに戻し、ドレスシャツの襟元を直してから、皇黒学院の学院長、有村馨は、ゆっくりとメアに視線を向けた。その緩慢な動作のせいで、少女の体感時間は大幅に狂う。何でここに、と声を絞り出すと、有村は息を吐いた。
「あれほど『表』からこちらに来てはならないと教えたのに、あなたは……。そういう無茶苦茶なところは、蓮杖様にそっくりですね」
「そりゃあ、わしの孫だし。ねー、メアちゃん」
ぞわりと走る悪寒、粟立つ肌、痒くなる首筋。理事長、というプレートが置かれたデスクは、ひどく綺麗だった。書類の束もなければファイルの一つもない。仕事っ気の全くないそのデスクに頬杖をついた、大分白の混ざった黒い髪に眼鏡をかけた老人。完全に人を舐めきっているような表情は、外見の老熟さと砕けた雰囲気を一致させない。金色の瞳はにやにやと歪んでいる。
おじい様。メアが、口内で言葉を噛み殺す。
「超絶可愛いよメアちゃん、さすがわしの孫! いや、トアちゃんの娘! 写真撮ってもいい? メアちゃんフォルダに永遠に残しておくわ、わし」
いそいそと引き出しからデジタルカメラ(最新型)を取り出し、シャッターを切る理事長、皇黒院蓮杖の大人気ない行動に、有村が冷静につっこみを入れた。
「理事長、今はそんなことをしている場合ではないです」
「だってさ馨ちゃん、メアちゃんがコスプ――いやいや、晴れ姿で目の前にいるんだから、ちょっとくらい」
「駄目です」
前足を擦り合わせて果物に飛びつくハエを容赦なく叩き潰すように、有村が問答無用でカメラを取り上げた。ごほん、と大袈裟に咳払いをした彼女は、カメラを懐に収めてから、メアを、対面しているソファに座るよう促す。おずおずとそれに従い、メアはスプリングの利いたソファに腰を沈めた。
「君も中に入りなさい、無藤夜紘くん」
引き戸の手前で壁の花となっていた夜紘をも呼び、有村は紅茶に口をつける。無言でそれに従い、夜紘もまた、緊張感の壊れた理事長室に足を踏み入れる。だが、彼は、空いているメアの隣に座すことはなかった。睨みつけるように、理事長の席に視線が集中している。まるで挑発するような目だった。それを咎めることもなく、有村はメアを見つめる。
「あなたが家から抜け出したと聞いて、まず間違いなく、ここに来るだろうと待っていました」
「ずっと……? でも、入学式には、」
「エインセルという妖精の力を借りました。式に出ていたのは、私の使役した召喚魔です」
――では、姿が見えなかったのは人込みに紛れていたからではないのかもしれない。
あのまま講堂に戻らなくてよかったと今になって安堵しながら、メアは差し出されたカップに映る己の顔を見る。ダージリンの香りが漂う中、有村は続けた。
「なぜ、来たのか。なんて、愚問ですね。リアさんのことでしょう」
腿の上で組まれていた指先に力が入る。浮き上がった骨に、有村が溜息をついた。
「――だそうですよ、理事長」
えぇ、と不満そうな声が上がる。ケーキを切り分けていた蓮杖は顔を上げ、ずり下がった眼鏡の奥にある黄金色の瞳を細めた。
「リアはー……うーん……」
「行方を教えてくれるなら今すぐ帰るわ、どんな罰でも受ける。捜索してくれるだけでもいいの」
切羽詰ったような声を出すメアに、祖父は顎を掻いた。
どうやら、教える気はないらしい。それとも、本当に何も知らないのだろうか。怪訝そうな表情を見せるメアに、蓮杖は唸った。
「リアの行方ねえ……わしは捜す気ないしな」
「おじい様!」
囲んでいたテーブルが揺れる。音を立てる食器も構わず、メアは理事長席に詰め寄った。
「どうして! なぜ姉様を捜してくれないの? 心配ではないの?」
同じ血を分け、育て、才能に恵まれた姉の行く末が楽しみだと語っていたのに。荒ぶるメアの口調をものともせず、蓮杖はやれやれとでも言いたげに、フォークをスポンジに刺した。
「放任主義だし。リアがいなくなったのは自発的なものだ、それをわしがどうこうと……。するわけなかろ、面倒くさい」
「面倒……?」
ひくり、と、舌が下がった。氾濫する感情が、防波堤を乗り越えていく。姉が失踪する直前、メアに託したものは無記入のメモ帳だけだった。破かれたページに書かれていた内容が示すものの正体を、メアは何も知らない。だが、わざわざ、自分に宛てて残したものがあった。それが無意味なわけない。
皇黒院リアは、皇黒院メアにとって、唯一無二の大切で最愛の姉である。そして、蓮杖にとっても、彼女は可愛い孫の一人であると、そう思ってきたのに。
切り分けていたホールケーキの底を持ち上げる。そのまま、メアは祖父の顔目がけてケーキをぶち当てた。甘ったるい香りが紅茶の匂いを掻き消していく。ぶは、とくぐもった声が聞こえた。有村が息を呑む、夜紘が引く。
生クリームとスポンジに塗れた自身の手を、容赦なくデスクに押しつけた。そして、メアはぎらつく瞳で白に汚れた祖父の顔を睨みつけた。
「放任主義なんでしょ?」
祖父は、何も言わない。ぺろりと舌を出し、生クリームを舐めた。
「姉様は勝手に捜すわ、私が」
それだけ言って、メアは有村に向き直る。唖然とした様子の彼女は、しかし、メアの暴挙に口を挟むことはなかった。彼女の表情が、まさに真剣そのものだったからだ。太陽をも溶かすのではないかと思わせる瞳が語っている。
「この学校に、姉様がいなくなった理由を知る鍵はある」
低くなった声音は、少女の怒りを露にしていた。ソファを過ぎ、部屋から出て行こうとする彼女を、夜紘は黙って見送った。彼からしてみれば、メアの怒りなどどうでもいいことで、関心の余地など泥岩ほどもなかったことだろう。だが、制止の声は間を置かずにかかった。
「待ちなさい、メアさん。いくらあなたが皇黒院本家の令嬢であったとしても、ここは新たな召喚士を育成するための教育機関。所属すらしていない人間の勝手は、私が許しませんよ」
立ち上がった有村の顔もまた、真剣だった。首だけ動かし、メアは見返る。有村は続けた。
「あなたの行為は、著しく風紀を乱しました。入学式が混乱に陥らなかったのは行幸です。しかし、あなたを咎めないわけにはいきません。これは皇黒院家だけの問題ではなく、学院全体の問題です。――そうですね、無藤くん」
冷水を注ぐような口調に、夜紘が顔を逸らした。不遜な態度は改まらない。
「夜紘は関係ない」
メアが淡白に言う。が、有村は首を振った。
「彼があなたに協力したのは事実でしょう。気付かれていないとでも思っていましたか、無藤くん」
二人を交互に見つめ、有村は肩を竦めた。蓮杖にタオルを差し出した彼女は、処分はどうしますか、と問いかける。処分ねぇ、と蓮杖が気だるげに言ったところで、夜紘の拳が握られていることに、メアは気がついた。
それもそうだ――だって彼は特待生で。
処分を受けることになれば、間違いなく特待生という称号の剥奪で。
そうさせてしまうのは、やっぱり自分で。
私が、と。最初の一言は、小さかった。どうしようかのー、なんて、間延びした祖父の声が彼女の全てを掻き消してしまう。リアのことを見限っているような言葉を思い出し、メアは叫んだ。「私が!」と。
室内に静寂が訪れる。ぴりぴりした空気が、甘い香りを塗り潰した。
「私が、夜紘の分の罰も受ける」
「えっ」
そう飛んだ声を漏らしたのは、夜紘ではなく蓮杖だった。それはたちまち、驚愕と戸惑いに変わっていく。えぇええぇ~、と、情けなく昇降を繰り返す声色に続いて、有村がこめかみに指を添えながら言った。
「メアさんは生徒じゃないのだから、無藤くんの分まで罰則を受けるというのは……」
「だから、生徒になるわ」
生クリームを完全に拭き取ることを諦めた蓮杖の手が、ぴくりと動いた。
「メアちゃん、それは駄目でしょうよ~」
「なぜ? なぜいけないの? 放任主義なんでしょ、自由にやらせてよ」
「いや、おじいちゃん、そうは言ったけどね? メアちゃんが召喚術なんて危ないものに手を出したら、おじいちゃん、怖くて怖くて心臓おかしくなっちゃうかも……」
「お願い、有村先生。一度だけチャンスを頂戴」
「え、わしスルーなの? 無視?」
困惑した色をありありと浮かべる有村に近寄り、メアは彼女を見上げる。頬に手をやり、考えるような仕種をする学院長は、その役職ゆえに、決断をこまねいているようだった。そして、メアの過去を知っているだけに。
暫くの沈黙の後、有村は、メアの右肩に手を置いた。
「私はこの学院を預かる身。多くの生徒と保護者の信頼を裏切るわけにはいかない。あなただからといって、甘い評価はしませんよ」
その言葉に、メアは頷いた。
「構わないわ、先生」
先生の厳しさは、嫌というほど身に染みているしね。
にっこりと笑いながら付け加える少女に、有村は複雑そうに眉根を寄せた。しかし、それも一瞬のことで、面白くなさそうに頬杖をつく生クリーム塗れの老人、もとい、蓮杖に問いかける。よろしいですか、と。理事長は、鼻を鳴らして頷いた。
「丁度、十時から歓迎会ですね。全校生徒に判定してもらいましょうか」
「生徒に?」
腕時計を確認し、呟く有村に、メアは首を傾げた。教師が合否を判断するならば分かるが、生徒が審判とは不思議だ。
「――勝手に話が進んでるが、お前さんはいいのか、無藤夜紘」
唐突に、蓮杖が言葉を発した。そうだ、と夜紘に振り返るメアは、彼の表情を窺う。壁に寄りかかっていた彼は、別に、と素っ気なく返事をするのみだった。己には関係ないと言わんばかりの彼の態度に、有村が補足するように告げる。
「メアさんが試験に失敗した場合、あなたは問答無用で罰則を受けることになるわ。本当に構わないのね?」
「罰則って、つまり、具体的には?」
「特待生称号の剥奪か……最悪、退学かしらね」
退学、という言葉に、夜紘の無関心に満ち満ちていた黒い海が揺れた。
「結局、俺が嫌がったところで罰則逃れはできないんだろ。お嬢様が合格しない限り、俺の処分は免れないわけだ」
「突き詰めて言えばそうなるわね」
あっさりと肯定する有村に、夜紘は唇を噛んだ。選択肢はたった一つしかない。そう言わんばかりに。
「じゃあ、メアさん。諸々の手続きがあるわ。ついてきて頂戴」
現在時刻は、九時十分を若干過ぎた頃。歓迎会まで一時間を切っていることに、この学院長は焦りを感じているのだろう。昔から、時間には非常に厳しく、神経質な人だった。理事長に頭を下げ、退出していく有村は、夜紘の隣で立ち止まる。君はどうするの、と問いかけようとしたのだろう。だが、それを遮ったのは、部屋の主たる蓮杖だった。
「わしに話があるんだろう、残ればいい」
その一言に、夜紘の目つきが鋭くなる。ぞわりと臓腑に毛が立ったような気持ちの悪い感覚に襲われ、メアは夜紘と祖父の間で視線を行き来させた。だが、口を挟むに挟めない空気がメアの唇を接着させる。
有村に二、三度呼びかけられ、メアは幾度も振り返りながら、理事長室をあとにした。