二章 Ⅱ
「昔は森だったのよね、ここ。今は、皇黒院家の所有地ってことだけど」
カラーコンタクトを外しながら、メアは間を繋ぐように呟いた。
皇黒学院は、今から三〇年ほど前に、皇黒院蓮杖の手によって創立された。敷地総面積は二十二万ヘクタールにも及ぶ。象徴となっている時計塔を背に、丁度、時計塔の反対方向にある四階建ての管理棟を見上げ、メアは、改めて学院の広さに息をついた。彼女もよく遊びに行っていた世界的に有名な某テーマパークの約半分の面積を誇るのが、この学校なのだ。生徒数は並みよりも少ないのに、それに不吊り似合いな規模の大きさは、まさに皇黒院の名を知らしめるものである。
慣れないうちはまず間違いなく、迷子になるだろう。似たようなレンガ造りの建物が所々に点在する敷地内は、ちょっとした町のようだ。にも関わらず、夜紘は、戸惑うような顔一つせず、目的地までのルートを正しく導いてみせた。あなた新入生よね、と訝しいと言わんばかりに首を傾げるメアに、彼はさらりと返事をする。
「俺は春休みの頭からここにいるから、ある程度の地形は把握してる」
「へぇ……」
特待生だから、と一言付け加えた夜紘は、もう話すことはない、したくないと無言で告げるように歩調を速める。だが、そんな無碍な反応にへこたれることはなく、メアは追いついてから、新たな質問をぶつけた。
「ねえねえ、どこの出身? きっと寮に住んでるんでしょ? 特待生にまでなれたってことは、随分昔から召喚術を習ってたのね。講習会に参加してたの? ねえねえ、」
ざ、と、砂利が摩擦される。急停止した夜紘の肩口に顔をぶつけ、メアは潰れた声を出した。いきなり何、と不機嫌そうに顔をしかめる彼女に、夜紘は怜悧な瞳を向ける。
「生まれは京都、育ちは東京。召喚術は家族から教えられた。講習会には出てない」
「京都! 一度は住みたい町ナンバーワンの場所よ、個人的に」
「あっそ」ふんと鼻を鳴らし、夜紘は歩みを取り戻す。
「あなたの家系、みんな召喚士なの?」
屈託なく笑みを咲かせ、メアは夜紘の隣についていく。それを鬱陶しげに睨みながら、夜紘は乱暴に肯定した。
「別に珍しいことじゃないだろ、ずぶの素人が入学できるほど、この学院は簡単じゃない。先祖代々魔術師とか、両親祖父母が召喚士とか、そんな奴が来るところだ、ここは」
家系がそういう方面に関係していれば、嫌でも幼いときから召喚術に触れる機会は多くなる。両親や祖父母が正式な召喚士としての免許を持っているならば、指導されたとしても罰則には当たらない。召喚術は独学による習得は禁止だが、師弟や親子、孫子による一定の継体に沿って指導され、学ぶことに問題はないのだ。――メアのように、遠ざけられる存在の方が稀かもしれない。
その後も、メアの質問は続いた。だが、その波状攻撃に無視を決め込んだ夜紘は一切、返事をすることはなかった。への字を書いた唇は、断固として口をきかないという強い意志すら感じさせる。つまんないの。わざとらしく肩を竦め、メアは瞑目した。
事前の調べでは、管理塔の四階に学院長室がある。が、用があるのは学院長ではなく、理事長の方だ。理事長室も同じ棟内にあればいいものを、全く面倒なことに、祖父は、わざわざ離れを作ってそこに部屋を構えている。私室も管理棟にあるならば、その隣に理事長室を併設すればよかったのに。小言を漏らし、メアは赤いレンガの壁を恨めしげに見つめる。
石畳が道を作る中、木々に囲まれ、学校というよりは公園を思わせる場所に足を踏み入れる。この石畳を真っ直ぐ行った先に、理事長室はあるのだろう。でかでかとした看板に大きなゴシック体で、「この先理事長室」と、矢印付きで書いてあった。どこまでもふざけたことをするじいさんだ。うんざりしたような顔を見せるのはメアだけでなかった。人形のように、感情の欠落した表情ばかり浮かべていた夜紘の、人間らしい苦々しげな横顔を見て、メアは思わず口元を綻ばせた。
それに対し、彼は敏感な反応を見せる。「言っとくけど」
散々無視しておいてからの一言目は、随分と剣呑とした口調で発せられた。
「俺は、もしあんたの共犯をしたことで罰則を与えられそうになったら、全部あんたのせいにするからな。権力を刃物に替えて脅迫してきたって、そう言うから」
突き放すような一言に、メアは唇を尖らせる。
「男らしくないわねー……」
「こんな下らない逃走劇に付き合ってやってるだけありがたく思え。約束がなきゃ、寧ろ俺がお前を学院側に突き出してるところだ」
「はいはい、どうも。ナイトさんはとっても心強い存在ですよー。保身的だけど」
「当たり前だ、何で俺が皇黒院の人間なんかのために……」
「なんかって何よ」
「なんかはなんかだ」
「ずっと思ってたけど、あんたって本当に無愛想なくせに偉そうね」
「偉そうなのはお前だろ。何が『実力を買ったわ』だ、ふざけんな」
「ふざけてないし。大真面目に褒めたのに」
「うるさい、皇黒院の人間に褒められても何とも思わない」
「はぁ?」
口調が荒ぶるにつれ、歩調は速くなっていく。止める人間は、誰もいない。ただ、草木がさわさわと、春風に揺さぶられている。既に、彼らの目前に理事長室として設置された離れのウッドハウスは迫っていた。深みの強い茶色が、近づくにつれてその色を濃くしていく。だが、少年少女のヒートアップしてしまった口論は、より一層熱する以外に道を知らないようだった。
「特待生だか何だか知らないけど、人の足下見てんじゃないわよ」
「別に見てない、興味ない」
「ほら、それ。その態度が気に喰わないの!」
「俺はお前の存在が気に喰わない」
「存在否定!? 出会って一時間も経ってないのに……!」
「時間の問題じゃないし」
「もういいわ、約束はなしよ」
「いいよ、俺はあんたのこと今すぐ学院側に突き出すだけだし」
「ぐ……っ!」
言葉を詰まらせ、悔しそうに唇を噛むメア。美少女の苦悶と後悔に滲んだ顔を愉しげに見やり、夜紘はふんと鼻を鳴らした。蟠っていた彼の気分が僅かにすっきりしたところで、メアは拳を震わせ、それはちょっと、と小さく呟く。
口で負けたことなど、数える程度しかなかったのに。
引きつる口角を直せない。――無藤夜紘、何て奴だ。手離しに賞賛することもしたくないが、負けを認めざるを得ない状況が確かに広がっていた。今は分が悪い。優位に立つ素材が手元にない。最悪、共犯を学院にばらしてやることはできるが、一応の義理はある。ここは屈する他に道はないだろう。
嘲笑を浮かべる夜紘は、メアが負けを認めたと認知するや否や、背を向けてしまった。既に、目的地には着いている。ウッドハウスのドアノブに手をかけ、彼は、軽くノックをした。――と、返事よりも先に、ノブが傾く。手を離した夜紘に、メアは背後から、怪訝そうな声を漏らした。
「ちょっと、何それ」
「俺が知るかよ」
手が離れたにも関わらず、ノブは傾いたまま。そして、木製のドアが徐々に開いていく。夜紘がノブをいきなり捻ったわけではないようだった。気付かれてるな、とぼやいた夜紘に、メアは額を押さえた。
「……そりゃあ、近くでバカみたいに口喧嘩してれば……ねえ」
ちらりと、咎めるような視線を蛇のように這わす。やはり、鋭敏にそれを感じ取った
らしい夜紘は首がもげるのではないかと思うような速さで振り向いてきた。お前が言うなと顔に書いてある。ふんと顔を逸らし、メアは腕を組んだ。
扉は開く。招くように、誘うように。
夜紘の横を颯爽と過ぎ、メアは、臆することなく敷居を跨いだ。夜紘が非難の声をあげるが、聞こえないふりをする。すう、と息を吸い、悪趣味な絵画やら骨董品やらが並んだ通路を真っ直ぐ進む。引き戸に行き当たり、ぐっと拳を固めてから、自身を鼓舞した。