二章 Ⅰ
通り過ぎて行く黒服たちを、冷や冷やした目で見送る。きょろきょろと忙しないメアに、夜紘は早くしろと冷たく言い放った。まるで虫でも見るような目つきだ。こいつは果てしなく冷たい奴に違いないと心の中で呟きながら、メアは黙って夜紘のあとについていく。だが、彼と出会えたことは本当にラッキーだった。中庭から走りに奔り、よく分からない場所の木陰に身を隠していたのだが、その場で起こった召喚術を使った攻防(夜紘による蹂躙にしか見えなかったが)は鳥肌ものだった。目の前を行く少年は、並大抵の召喚士見習いではないだろう。何だかんだメアの助けを引き受けてくれたり、根は良い奴なのかもしれない。目つきはすこぶる悪いが。
それにしても、召喚魔の魔術というのは、人間の使う魔術とは格が違う。自分の肉体に何ら変化はないのに、メアを捜す皇黒院家のSPたちは、まるで彼女の存在に気がついていない。自分と夜紘の頭上を旋廻する黄金色の蝶を見上げ、メアはほうと息を漏らした。
人間にりんぷんを振りまくことで一定時間、不可視の存在にする魔術を使える妖精をあっと言う間に召喚した夜紘は、クマを召喚した段階でかなり疲労しているように見えたが、平然とした顔をしている。下級妖精の召喚程度なら、造作もないらしい。だが、そんなに長くは保てないとは言われた。彼の魔力の残量が一定限度より下回れば、召喚魔の実体化は不可能になる。そうなれば、かかっている魔術の効果も消える。
式の途中で切れる可能性は高いと言われたが、講堂までSPたちに見つからなければいいので構わないと答えたのは数分前のことだ。姿は見えなくても、物音は外部に悟られる。黒服たちの姿がないところでは小走りに、姿が見えたら立ち止まる。それを繰り返しながら、メアたちの足は確実に、講堂へと近づいていた。
「もう式は始まってるな……扉が開いてればいいが」
ぽつりと夜紘が呟く。確かに、閉まっている扉を開けて中に入るのは忍びない。人気の失せた講堂前は、既に式が内部で始まっていることを暗に示していた。案の定、黒服たち数名が講堂の前に立っている。無線でしきりに連絡を交わしていて、その表情はどれも険しい。ぞわぞわと這い上がってくる緊張感が心拍数を押し上げた。
砂利ではなく、石畳の上をそろりそろりと渡っていく。石階段を昇り、黒塗りの扉の前で夜紘とメアは顔を見合わせた。すぐ後ろには皇黒院家のSPが控えている。鼻息一つ漏らさないように手で口周りを覆いながら、彼らは互いに思案する。
どうにかSPの注意さえ逸らすことができればと考えるが、その方法は見つからない。召喚術に頼るにも、既に召喚魔を二体呼び寄せ、使役している夜紘にこれ以上の負荷をかけるわけにはいかないし、一方で、自らが召喚を行ったとして、失敗しないとは言い切れない。折角ここまで来たのだ、失敗は許されない。
扉の向こうから拍手が聞こえた。瞬間、背後のSPの無線に連絡が入る。走ったノイズ音に、思わず声を漏らしそうになり、メアはすんでのところで声を飲み込んだ。無線から、高本の声が聞こえてくる。
『蓮見坊ちゃんから至急の連絡だ。お嬢様は蓮杖様の私室に向かわれているらしい。管理棟三階に急げ』
「了解!」
メアが目を細めるよりも早く、SPたちは走り去っていく。その後姿を呆然と見送り、メアは首を傾げた。「兄様……?」
なぜ、兄がそんな虚言リークをするのだろう。まさか、助けてくれているのだろうか。呆けるメアの袖を、夜紘が引っ張る。行くぞ、と囁き、彼は扉の取っ手に手をかけた。タイミングを見計らっているのだろう。言葉には出しながらも、なかなか中に入ろうとしない。再び、拍手が鳴り響いた。その瞬間を待っていたのか、夜紘は扉を開ける。ずず、と石を引きずるような音が響いたが、盛大な拍手に上手く重なったお陰で、目立ちはしなかった。滑り込ませるよう中に入り、メアは講堂を見渡す。
豪勢なシャンデリアが天井から吊るされ、荘厳なステンドグラスが人々を見下ろしている。教会を思わせる造りは、いかにも格式美にこだわる祖父らしい。
新入生たちは、講堂の奥にある壇上の真正面に並べられた椅子に座しているようだ。
「続きまして、今年度の特待生、無藤夜紘くんによる新入生代表挨拶です」
不意のアナウンスに、メアは隣の夜紘を見やる。ち、と小さく舌打ちを漏らし、夜紘は蝶に、自らにかかった魔術を打ち消すように命じる。同じ魔術にかかっていたメアからは、夜紘は可視できていたので変化が分からないが、傍から見たら、突然現れたかのように見えているのだろう。
メアが何かを言うよりも早く、夜紘は保護者席を突っ切って、堂々と壇上に近づいていく。一瞬ざわついた空気はすぐに氷のような静寂を取り戻した。マイクをいじり、夜紘は静かに語り出す。つらつらと並ぶ言葉は、最初から用意でもしてあったのだろうか。何も考えずに言っているとしたら大したものである。
特待生。
この学校にそんな制度があったなんて知らなかったが、なるほど。特待生ということは、それだけ優れた才能がある生徒ということだろう。皇黒学院は実力至上主義、天性の才を何より重要視している。選抜は他の召喚士育成専門学校に比べて厳しいと聞いている。その分、生徒の質は圧倒的に高いと評判らしい。
あの、一つ頭抜けたように見えた立ち回り方も、特待生ならば納得できる。やはり彼は凄い人間であったと、メアは挨拶を終え、拍手喝采を浴びる夜紘を見つめながら考えた。そのまま、夜紘は空いていた己の椅子に着く。壁際に寄りかかりながら、メアは職員席らしい列を嘗め回すように見つめた。祖父の姿は――ない。まさか、入学式には出席しないつもりだろうか。
訝しむうちに、蝶が透けていく。召喚限界ということか。夜紘の姿は人に紛れてしまって見えない。だが、ここまで来れたら、あとは学院長に直訴するだけだ。理事長に会うまでとは言ったが、実質、彼の役目はここまでだろう。特待生と分かった以上、もう無茶はさせられない。理事長にたてつくような行為などして彼の特待生としての称号が失われるようなことがあってはこちらも後味が悪い。
保護者席は、結構な穴が空いていた。新入生の数は一〇〇名もいないだろう。保護者は目測だけで三〇人ほどだ。端の空いている席に腰かけ、メアは息をつく。居ずまいを正して正面を向いたところで、視界に黒いスーツが飛び込んできた。ぎょっとして立ち上がりそうになるのを堪える。皇黒院のSPの証である、金色の腕章がなかった。朝、盾にしてきた見知らぬお坊ちゃんの警護の者たちだろう。まるでカルガモの雛のように、揃って席に着いている男たちの姿は何だか滑稽に見えた。合成写真のようにちぐはぐ感が拭えない。意識した途端、笑いが込み上げてきた。噴き出しそうになるのを必死で抑えつけ、歪む口角を押し隠すように下を向く。
幸いにも、周囲に人はいなかった。少ない保護者たちは、メアの存在にさえ気がついていないようだ。今だ魔術の効果が続いているのではと錯覚しかけるが、既に、輝く蝶は顕現していない。ただ、夜紘が帰還させていないのならば、まだ近くにいるのかもしれないが。
一度、この世界に呼び出された召喚魔は、召喚士が再び門を開き、帰さない限りは基世界に居残り続けてしまう。召喚士の魔力が尽き、顕現できなくとも、霊体となって。霊体となった召喚魔を目にすることはできないし、そうなってしまった召喚魔は、基世界のあらゆるものに干渉することができなくなる。召喚士は、召喚魔を帰還させない限りは、己の魔力の減少を防ぐこともできない。召喚から帰還までが、召喚術なのだ。呼び出しておいて使役するだけしたら、あとは放置など許されない。
制服のポケットから、メアはメモ帳を取り出した。召喚術を独学で学ぶことは禁止されている。実際、召喚術に関する書物は認可が下りなければ販売禁止の上に、召喚士連盟とでも呼ぶべき機関に所属しているという証がなければ購入もできない。インターネットが発達した現代においても、召喚術に関する情報の取り締まりは非常にシビアだ。魔道書に関してはこの限りではないが。一般の魔術と召喚術の重さは、火を見るよりも明らかになっている。召喚術は、それだけ危険なのだ。火を起こす魔術を使って小火騒ぎになってしまった――なんて、その程度では収まらないほどに。
だが、それは一般家庭に於ける例であり、メアは特異な家柄の人間である。名門たる皇黒院の家には、腐るほど、召喚術に関する資料やら古書やらがある。今まで魔術の世界から遠ざけられていたとはいえ、人目を盗んで――いや、召喚魔の目を盗んでか――知識を得ていくことは不可能なことではなかった。時間はかかったが。見えないところに隠されていたならば、今、ここに彼女の姿はなかったかもしれない。だが、彼女が知ろうと思えば知ることができた範囲に、その叡智は存在していた。
才能のない自分が召喚術を使えば、取り返しのつかないことになるかもしれない。そう思っていたから、進んで知識を得ようとは思わなかった。兄と姉がいれば、名門として名高い皇黒院の誇りは守られる。無能な己がでしゃばって、家の名を穢すことはすまいと考えてきた。周囲の人間も、メアが魔術に関わることを快くは思っていないようだった。そして、それで構わないと目を瞑っていた少女が双眸を見開くことを、周りは考えもしなかった。結果として、メアは知識を盗み出したのだ。
簡素なメモ帳には、召喚術の基本となる詠唱から魔法陣の描き方が、粗雑だが確かに書かれていた。ページを捲り、メアは、破かれた項を開く。破かれたページにかかった筆圧のせいで、本来ならば未記入のままであった白いページには、薄っすらと跡が残っていた。それを指でなぞり、彼女は、姉の名前を心の中で呼んだ。
閉ざされたメアの瞳をこじ開けたのは、姉だった。
才能豊かで、皇黒院の名に恥じない優れた召喚士見習いであった彼女が、愛してやまない姉、皇黒院リアが、この学院から姿を消してもう四ヶ月になる。何の連絡も寄越さず突然失踪してしまったリアの行方を、祖父は頑として捜索しようとはしなかった。実の孫娘が、己の学院からいなくなったというのに、素知らぬ顔で鼻をほじり、まるで気にも留めていない様子の祖父に、メアの怒りの矛先が向くのは自然のことといえた。
メモ帳を持つ手に、力が篭る。祖父が何かを隠していることは明白だ、姉の失踪に関してとんと無関心なのは、事情を知っているからに違いない。そうでなければ、どうして、家族ではないと言って顔を背けることができるのだろう。姉と祖父の間に何かがあったのだ、軋轢衝突不和確執――形容する言葉など、いくらでもある。
黙っていても、姉の行方は知ることができない。兄でさえ知らされていないというのだ、メアが知ることができるわけがない。それこそ、祖父の口を割らせない限り。
学院長が登壇する。変わらないその姿に、メアは瞳を細めた。祖父の右腕であり、久利生という男が自身の家庭教師を務める以前に、彼女の世話役であった女性。有村先生と、小さく呟く。有村、馨。皇黒院蓮杖が学院長の座を退いてから五年、彼の推挙で学院長となった彼女と会うのは久しぶりのことではないが、何だか緊張していた。壇上に立つ有村の姿は、まるで知らない人間のようだったからだ。襟足のところで揃えられた髪が、僅かに揺れる。かつての指導者は、絶妙な角度でお辞儀をした。
「ようこそ皇黒学院へ。我が校に、新たな才能が芽吹いたことを、本当に嬉しく思っています。皆さんが、己の力を過信せず、常に進歩することを渇望し、学んでいくことがこれからの世界を開く大きな鍵となるでしょう。皆さんの前に、扉は常に存在します。そのことを忘れず、皇黒学院の一生徒として、次代を担う召喚士の卵として、有意義な学院生活を送ってくれることを祈ります」
再び頭を下げた学院長に、拍手喝采が沸き起こる。つられるように手を叩きながら、メアは、有村の降壇する姿をじっと見つめていた。いつ行こう。式が終わってすぐ? 時間はあるだろうか。
そわそわしだすメアをよそに、式は、終わりの挨拶に差しかかった。凛とした女性の声が講堂内に響き渡る。新入生は各自解散、寮生は自室を確認した後、十時から大体育館で行われる新入生歓迎会に出席すること。自宅通生は校舎内の自由見学等を認め、同じく、新入生歓迎会に出席する旨が伝えられた。保護者が先に、退出していく。
新入生歓迎会、と口内で反芻し、メアは、立ち上がった新入生たちが歩いてくるのを待つ。そのまま、何食わぬ顔で退席する新入生の波に紛れた。人込みの中に入り込み、俯く。当然、周囲から、闖入者たるメアは白い目で見られていたが、それを指摘する者は誰一人としていなかった。
講堂を出るなり、喧騒が伝播していく。荘厳な講堂内の空気は霧散し、開放感に浸るように、生徒たちは自由にお喋りを始めていた。ばらける集団は、二分される。寮生組と、自宅通組だ。少数派の自宅通組は校舎方面へと向かって行ってしまう。講堂の入り口のところに残ったメアは、さてどうしたものかと思案する。
入り口から内部を覗くが、教師たちは何やら話し合いをしている。有村の姿は、紛れてしまっていて見えないが、恐らく中央にいるのだろう。このまま彼女の元に行ってもいいか、と踵を返したところで、ぱしりと渇いた音が爆ぜた。
「おい」
背後から手を捕まれ、はっとして振り返る。あまり顔色がいいとはいえない少年が立っていた。やひろ、と呆けたように彼の名前を呼ぶ。少年は、メアが振り返るなり手を離し、「理事長のところに行くんだろう」と静かに告げた。
「そりゃあ、行きたいけど……でも……」
言い澱むメアに、夜紘は苛立たし気に口を開く。
「俺の願いを叶えてくれるんだろう。あんたになら叶えられる願いだ、叶えろ」
吐き捨てるように言う夜紘は、メアがでも、とごねるより早く、二の句を継いだ。
「皇黒院蓮杖に話があるのは俺も一緒だ。俺はあんたを理事長に会わせる、あんたは俺を理事長に引き合わせる、どちらも目的は一緒だし無謀な願いじゃないだろ」
「おじい様に? 何の話があるのよ」
「あんたには関係ない。――で、行くのか、行かないのか」
強く問われ、メアは、遠慮がちに講堂内部に視線を這わした。有村に訴えれば、或いはとも思ったが、考えは甘いのかもしれない。一つ頷いて蓮杖に快く会わせてくれる――ほど、彼女は優しくはないはずだ。蓮杖の言いつけどおり、メアを魔術から引き離して、こちら側に入り込んではならないと口厳しく教えたのは有村本人である。蓮杖の命令を絶対のものとする彼女が、メアのお願いを聞き入れる可能性は低い。
そんなことすら忘れ、氷柱のような希望に縋っていた自身を、彼女は恥じた。
「行く」
首肯し、メアは、小さく拳を握った。