一章 Ⅱ
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止せばいいのに。
冷めた目は、春の日差しなど永遠に届かないだろう氷河の底を彷彿とさせた。日陰から日向へとその身を露にする夜紘の髪は、黒さの中にどこか蒼を湛えている。小奇麗な顔立ちの彼は、その整った容貌が醸し出す冷たさに加え、酷薄な空気を纏って、周囲を取り囲む上級生たちを一瞥する。
ひい、ふう、みい……視線をスライドさせていくのも面倒になり、数えることをやめる。はあ、と漏れた溜息に過剰な反応を見せたのは、彼をこの場に連れてきた張本人だった。傷んだ金髪はくすんでいる。「ああ?」と、低く、威嚇するような声を出したあと、上級生は夜紘に詰め寄った。眉間に入った筋は深い、にも関わらず、口角は吊りあがっていて、不出来な橋を作っている。
「特待生だか知らないが、お前の天下も今日までだぜぇ、夜紘くん」
確か、藍川だか、藍沢だったか、そんなような名前だった。上級生の顔を見上げ、夜紘は再度、溜息をついた。下らない、入学式なんてものも塩に醤油をかけることくらい無意味で不必要なものだと思ってはいたが、こんな、毛ほどの価値もない権力闘争に巻き込まれるのも非常に下らない事態だ。
特待生になれば、学院内で特権を得られるからと言われて入学してきたのに、こんな面倒ごとにいちいち付き合わねばならないとは。
藍川、と、傍らに控えていた別の上級生が囁く。藍川で正解だったかと、己の乏しい他者に関する記憶力の中に彼の名前の片鱗があったことに静かな感動を覚えつつ、夜紘は目立たない程度に足先を動かす。
「そろそろ式が始まる。さっさと済まそうぜ」
下卑た笑みが周囲を固めていく光景は頭が痛い。こいつらは学習能力がないらしい。数を揃えても、差は歴然だろうに、黒と白の違いも分からない色盲症ときた。懇切丁寧に、自分と彼らの間にある明確極まりない「溝」を教えてやる時間は惜しい。この溝が、埋まると信じて何度も向かってくる彼らは、愛すべき馬鹿というやつなのだろうか。
大体にして、こんなところに呼び出しておいて、呼び出す前に召喚の手順を踏んでいない時点で終わっている。正々堂々だとか、公明正大だとか、そんな言葉を信じているならば、いたいけな後輩を集団で取り囲むわけもない。にも関わらず、馬鹿の一つ覚えのように、呼び出しておいてから仕掛けるというのは間抜けとしか言えない。
まだノリのかかった制服は、肩がかさばって着心地が悪い。女子の悪趣味な制服に比べ、男子の制服はなんの捻りもないものだが、これでよかったと夜紘は心の底から思っていた。チェックのズボンのポケットから、メモ帳を取り出す。さて、今日は、どの魔法陣を使ってやろうか。
悪魔、妖魔、幻獣、怪獣……。一番お灸になりそうなのは、はてさて。
実力者ともなれば、掌サイズの魔法陣を門に変え、強力な召喚魔を呼び出すことができるというが、どれだけ天才ともてはやされたところで、まだ未熟である夜紘に、そのような芸当はできない。よって、彼はセオリーのとおり、召喚魔の階級に見合った魔法陣をきちんと描く。彼を取り囲む愚かな上級生たちのように、喧嘩を吹っかけてきてから召喚する準備に入るような馬鹿な真似はしないが。
連れてこられ、取り囲まれた時点で、既に彼の召喚の準備は始まっていた。よほど位の高い召喚魔でもない限り、細やかな魔法陣は必要ない。円に、ラテン文字一字、六芒星。これさえ描ければ、門はとりあえず、通じるのだ――異世界に。
藍川たちに、上位召喚魔は必要ない。こちらが先手を打ってしまえば、彼らに勝機はない。藍川の背後で、魔法陣の作成に入った上級生を嘲笑い、夜紘は唇を動かした。
「我、九天に座する胞なり。九地に眠る門を叩かん」
唱えた瞬間、彼の足下で歪だが、確かに描かれていた魔法陣が光を放つ。熱が足下から夜紘の頭へと伝わっていく。びりびりと、僅かに痺れる感覚が脳を活性化させているようだった。藍川の顔が、一瞬、蒼くなった。だが、彼は退かなかった。それどころか、卑しい笑みを一層深くする。
不自然さに夜紘が目を細めた瞬間、ディベルデキャッサーリという叫びと共に、熱が一瞬にして消え去った。奪われたように光は失せ、夜紘は舌打ちを漏らした。いつもならば、夜紘が召喚詠唱をした時点で、藍川は驚き慌て、身を退くはずだったのだが。
「召喚に干渉する魔術なんて、随分とお勉強されたんですね」
不敵に嗤うと、藍川は不愉快そうに顔を歪めた。くすんだ金髪を掻き、彼は、ほざけと一瞥してくる。
上位の召喚魔を呼び出す際には通用しないが、低位の召喚魔を召喚する際には、術者たる召喚士が発動させた魔法陣の効果を打ち消す魔術が存在する。魔道大全の後編に記された高等魔術に値するものだが、それを知っているとは予想外だった。侮り過ぎていたかと自己の見込みが甘かったことを反省しながら、夜紘は効果のなくなった魔法陣を見下ろす。一度使用した魔法陣は、描き直さなくては使用できない。
「魔術って、どうにも不便ですよね」
穏やかな口調で語りだす夜紘に、藍川が片眉を吊り上げる。背後から現れた数体の赤い身体をした悪魔たちを見やり、夜紘は息を吐いた。
火をつけたいならライターがあるし、水がほしいなら蛇口を捻ればいい。空を飛んで海外に行くならば、飛行機の方が手間も時間もかからないしよっぽど安全だ。移動するにも車の方が便利だし、土を黄金に変える魔術は未だに存在しない。
科学の進歩は、この世界の古から存在していた魔術と呼ばれる文化を衰退化させていった。それは人間が望んだことともいえる。魔術は手間がかかる、その効果と吊り合うには、少しばかり不吊り似合いな、面倒臭い手間が。その点、科学は発達すればするだけ、利益を生む。世界は豊かになった、人々の生活は楽になった。
召喚術という新たな魔術体系が正式に編み出され、世界に浸透して久しいが、科学の発達は止むことはなかった。そんな中で、召喚術が科学に食い潰された既存の魔術とは違い、世界中に浸透し、伝えられてきているのは一重に、科学に比肩する――もしくは、それ以上の利益と効果を生み出すからだ。魔術と呼ばれる、古からの理の中の一つでしかなかった召喚術は、既に、ただの派生技術ではなくなっている。召喚術の普及は、失われかけていた本来の魔術をも繋ぎ止め、先ほどの召喚中断の効果を持つような新たな魔術も生まれている。裏を返せば、召喚術が体系化されなかったのなら、当の昔に、不便極まりなかった古からの叡智は滅んでいたのであろうし、召喚術に付随して生まれたような魔術でなければ、最早、使う機会もないということだ。
唐突に膝を折った夜紘に、藍川は一歩、後退する。それと入れ違うように、背後で今か今かと飛び回っていた人間の幼児程度の大きさをした悪魔たちが夜紘に襲いかかった。下級の悪魔とはいえ、生身の人間を傷つけることなど、卵を片手で握り潰すよりも造作ないことだ。
陽は当たっていても、冷たい草地は湿気ていた。早朝の靄の名残か。普段は靄がかかっているほどの早朝に目を覚ますなんてことはないのだが、いやに、今日は早く目が覚めた。何かの報せだったのだろうか。
草地に手を這わす。熟れ過ぎたトマトのような色をした醜い悪魔が、手に持った身の丈の倍はある槍を振り回した。その刃先が、夜紘の身に傷をつける直前。一息で詠唱を済ませた彼の表情に浮かんだのは、剣呑とした黒でもなければ、焦燥に駆られた赤でもなかった。刃先が唸る、空気が啼く。大地に触れていた手を貫かんと迫っていた槍が、草地から漏れ出した光に弾き飛ばされた。金属が擦れ合うような不愉快な悪魔たちの鳴き声が、鼓膜の奥を震わせる。
召喚完了までの数秒間。魔法陣が異世界と基世界を繋ぐ門となり、空間が歪む、その一瞬は、外部からのあらゆる接触を無効にする。永遠の無敵ではない、ほんの一瞬の絶対防御。だが、その一瞬は、夜紘にとっては十分すぎる時間だった。藍川たちがたじろぐ。
「複雑な魔法陣を必要としない召喚魔の段位は、最低位の七段から四段まで。純粋なルーンを使わなくても、ラテン文字に転写した簡略ルーンで代用が可能。慣れにも拠るが、この程度の魔法陣を描くのに時間はいらない。一分もあれば、二つ以上の陣形成なんて充分だ」
腹の底を波打たせるような、獣の唸り声が収束した光の中から聞こえてくる。夜紘の言葉に、藍川がまた一歩、後退りする。
「てめぇ……最初の召喚はブラフか」
「まさか。あそこでキャッサーリを使われるなんて予想外だった。ただ、余りにも時間があったものだから、落書きをしていただけだ。ちょっとだけ、手の込んだ」
夜紘が、無感動に喋る。感情の篭らない目線が動いた。彼の傍らに現れたのは、有に三メートルはあろうか、赤銅色の毛を逆立てたクマに近い生物だった。丸い双眸はひたすら黒々としていて、底なし沼を彷彿とさせ、恐怖心を煽る。剥けた歯肉はマグマのようで、ぎらつく牙はがちがちと鳴っていた。滴る涎が、草地に落ちる。瞬間、じゅわりと厭な音がした。ひっ、と、夜紘を取り囲んでいた上級生の一人が慄く。春先だからと顔を出していた雑草が、酸をぶちまけられたかのように溶けたからだ。
のそのそと、緩慢な動作で、異世界から呼び出された住人は夜紘の前に四足で移動する。そして、藍川たちをブラックホールのような目で見つめた。
「その召喚魔は、低位じゃねえだろ、どっから見ても」
逃げ腰の上級生たちに瞑目し、夜紘は深く息を吐いた。
「地属の三段、ベルンオーガ。あんたらの悪魔如きじゃ手に負えないよ。新しく召喚するっていうのなら待ってやっててもいいけど、一分以内に召喚できないようだったら……」
退くなら今のうちだ。
そう付け加え、夜紘は藍川を一瞥する。ぐっと、喉に何かを詰まらせたように苦しげな表情を見せた藍川は、舌打ちを零した。帰還させろ、と低い声が空気を伝う。夜紘の目は冷ややかで、故に、冗談を言っているようには見えなかった。酷薄な唇が引き結ばれる。爛れる雑草を見て、他の上級生たちはゆっくりと、夜紘包囲網を解除していった。呼び出されていた悪魔たちが、再び光となって消えていく。それを見届けてから、夜紘は静かに告げた。
「もうそろそろ、うんざりだ。今度こんな下らないことで俺を呼び止めてみろ。本気で潰す」
掘削機のような唸りが、夜紘の言葉のあとに続いた。牙が音を打ち鳴らすのをやめ、早く獲物を噛み砕きたくてたまらないと言わんばかりに、赤銅色のクマの巨大な口が開いていく。じりじりと藍川たちは後退していき、そして、校舎の影に消えていった。
学院長も、随分と、乱暴なやり方で特待生の力量を測るものだ。
舌打ちを漏らし、夜紘は召喚魔に呼びかける。
「盟約に従いて、汝、九地、門の彼方に座せ」
展開する魔法陣から、光が溢れる。赤銅色の毛が眩い白に呑み込まれていくのを見届け、夜紘は静まり返った校舎裏の空を見上げた。流れる雲が、太陽を覆い隠す。まるで何事もなかったかのように、辺りは整然としていた。強烈な虚脱感を覚え、レンガ造りの校舎の壁に寄りかかる。
足下に描ける範囲の魔法陣では、やはり、三段レベルの召喚にも負荷がかかるのかと、ずるずると壁伝いに座り込む。魔法陣が大きければ、異世界に繋がる門も大きくなる。門が巨大になればなるほど、流入してくる異世界のエネルギーは多くなる。マナと呼ばれるそのエネルギーが多ければ多いだけ、召喚魔は、この世界で実体化しやすくなるのだ。だが、門が小さいと、流入するマナは少なくなる。すると、召喚魔を実体化させるためには、召喚士の精気を、マナと同等の魔力に変換しなければならなくなるのだ。精気の消費は体力の消耗と同義である。魔力の量には自信がない夜紘に、先ほどのベルンオーガ召喚は一〇〇メートル全力疾走並みの疲労をもたらしていた。
もっと魔力がいる。短時間で、かつ、強力な召喚魔を従えるためには。用意周到に、念入りに、慎重に魔法陣を描くことは時間次第で可能だが、不測の事態に陥ったとき、小さな魔法陣でも対応できるくらいの魔力がほしい。だが、こればかりは、一朝一夕で身につくものではない。魔力の多さは、身体を鍛えて体力をつけたところで増えるものではないのだ。
基世界と異世界は、隣り合わせにあるのではなく重なり合っている世界だと言われる。別宇宙にある、もう一つの地球。それが、俗に異世界と呼ばれるところだ。人間が住む基世界を満たす生命の源が酸素であるならば、向こう側の世界を満たすのはマナである。マナは、基世界に存在し得ないわけではない。重なり合う世界の構造ゆえか、日々、微々たる量ではあるが、基世界にマナは流入している。鏡であったり、水面であったり、召喚に必要な神秘文字たるルーンであったりを介して。流入してくるマナを、酸素と共に取り込んでいるからこそ、人間は魔力と名付けられた素養を手に入れたのだ。マナを吸収しやすいかどうかは、体質に依存するところが多い。故に、生まれながらに強大な魔力を有している者もいれば、そうでない者もいる。魔力量の多寡は才能ではないと大きく叫ばれているが、夜紘はそんな言葉を鵜呑みにはしていなかった。魔力の多さは、それだけ、召喚の幅を広げる。充分な才能だ。
ゴーン、と、東の時計塔の方から雲を割くような音が響いた。音に驚いて雲が開けたわけではあるまいが、不意に表れた陽光に目を細める。時間だ。そろそろ、式が始まる。膝に力を入れ、背中を壁に擦りつけながら立ち上がる。我ながら、情けないことだ。自嘲気味に口角を吊り上げ、入学式を行う講堂を目指す。北校舎からは、結構離れているが、歩いても十分程度で着くだろう。異常に広いこの学院の敷地に辟易しながらも、既に脳内にインプットされている校内地図を思い出す。西校舎に続く渡り廊下を突っ切っていくのが一番近いだろうか、わざわざ中庭に行くよりも。
式などさぼってしまっても構わない気持ちだったが、特待生の紹介を受ける手前、講堂にいないわけにはいかない。面倒ごとばかりの称号だが、これで特権を得られるならば我慢あるのみだ。ポケットの中に手を突っ込み、持ち歩いている指輪に触れる。冷たい感覚が、彼の目を細めさせた。自分は目的がある。それを再確認しながら、だるい足を動かした。
ポケットから指輪を取り出し、眺めようとした、まさにその瞬間。
「買ったわ」
不意に、背後から声をかけられた。はあ? と顔を顰め、振り向く。指輪に触れていた手を引き抜いて、身体の向きを反転させた。声をかけてきたのは、見知らぬ少女だった。見知らぬ少女とはいっても、夜紘からしてみたら、この学院の生徒で知り合いなんて、生憎と、自分を倒そうと躍起になっているあの藍川たちくらいしかいないのだから大半の人間が見知らぬ相手になるのだが。
黒いロングヘアは、さらさらとしていて手入れが行き届いている。帽子を目深に被っていて顔全体の印象が暗くなっているが、十中八九、人目を引く容姿である。桜色の唇は忙しく動いているが、声が小さくていまいち聞き取れない。
なんだコイツ。そう一瞥して、踵を返す。無視して歩き出した夜紘だったが、腕を引っ張られたことで歩みを止めさせられる。予想外に強い力だった。
「何か用ですか。俺、入学式行かなくちゃいけないんですけど」
むすっとした態度で言うと、少女は、茶色の瞳を瞬かせた。「私も入学式に出たいのよ」と意味不明なことを言う少女に、夜紘は不機嫌さを露にした。
「なら講堂は西校舎の渡り廊下を過ぎてすぐだ」
「場所はいいの。問題は行き方」
「はあ? だから、西校舎の、」
「私、不法入学生なの」
んん?
思わず、息が詰まる。
不法入学生? 何のことだ。疑問符を浮かべる夜紘に対し、少女はわざとらしく咳払いをしてから、名乗り出した。だが、その名に、夜紘は憮然とした表情で聞き返す。はっきりと聞こえていた、だが、信じられなかった。少女はじれったそうな顔をしたが、ゆっくりと、もう一度名乗る。
「皇黒院メアよ。まさか、皇黒院の名前を知らないわけじゃないでしょ?」
帽子を外し、少女は、強い眼光を放つ双眸を太陽の下に晒す。目鼻立ちのはっきりした少女だった。意志の強そうな瞳が、真っ直ぐに夜紘を捉える。
知らないわけがない。皇黒院の名を。
拳が自然と作られる。皮膚に刺さる爪の感触を確かめながら、夜紘は少女を見つめた。皇黒院。召喚術の祖と呼ばれる名門召喚士一族の一つ。この世界の頂点に君臨する十の名家のうちに名を連ね、日本経済どころか世界にまで影響を及ぼす財閥を纏め上げると言われる大富豪。その令嬢が、この学院に入学するという話は別段おかしくはない。理事長は皇黒院家の現当主であるのだから。
昂ぶる感情を抑え付け、夜紘は、そこで気がつく。少女の瞳の色に。
「皇黒院の血筋の人間なら、身体的特徴が一つあるはずだ」
嘲笑うように告げると、メアと名乗った少女は、ああ、と頷いた。そして、間髪入れずに指先を目に近づける。ぎょっとして夜紘が目を見開くのも束の間、指先に乗ったカラーコンタクトの半球に、彼は表情を一変させる。両の目からコンタクトを外した少女の目は、焼きつくような黄金色をしていた。
その人ならざる色素こそが、皇黒院家の人間を特別たらしめる点であるとは、どこぞのお偉い学者の話だ。
「これで満足かしら。信じてもらえた?」
そう言って、メアは勝気に微笑む。ぐつぐつと煮え立つような感覚に腹の底を満たされながらも、夜紘はぐっと堪えてメアを見つめた。よもや、信じるしかあるまい。目の前の人間が、皇黒院の血を引く少女であると。
それにしても、不法入学とはどういう意味だ。わけが分からない。式が始まる時間が迫るが、話を聞かないことには解放もしてもらえなさそうだ。下手に気に障るようなことをして理事長に報告されても面倒と考え、夜紘はメアに尋ねる。「で、用件は」
「ああ、そうそう。あなた、随分と強いのね。さっきの召喚見てたわ」
「そりゃあどうも」
「それで、あなたの実力を私が買ったってわけ」
「はあ……?」
顔を歪める夜紘に、メアはわたあめでも口にするかのような軽やかさで続けた。
「私、昔から魔術に関してはからっきしでね。こんなこと自分で言うのも変なんだけど、落ちこぼれなの、家の中で。お前は召喚術に関わる必要がないって言われて、一切、そういうことに触れてこなかったから、この学院にも入学できるわけがないの。でも、どうしても会わなくちゃいけない人がいて、式に参加したいの」
「要するに、家の方針をぶっちぎってここまで来たのか?」
「そのとおり」
「……追われてる?」
「当たり」
「それで、俺に頼みがあるわけだ」
「物分かりが早くて助かるわ」
にこにこと笑うメアに邪気は感じられない。頭が痛くなって眉間を押さえる。この少女を助けてメリットはあるのか? 損得計算を始める夜紘だったが、その思考はすぐに遮られてしまった。
「式が終わるまで――私が、祖父に会うことができるまででいいの。お願い。私を助けて」
捕まれていた箇所に、更なる圧迫を覚える。金色の瞳に弱気は感じられなかった。ただただ、真摯さだけがダイレクトに伝わってくる。じくじくと痛む頭の奥が、その瞳を直視することを嫌がった。視線を逸らし、夜紘は唇を噛む。
「俺があんたを助けて、利益はあるのか? 皇黒院の家の方針に逆らった子供の共犯で罰せられるなんてごめんだ」
素っ気なく言うと、メアは、夜紘と無理に視線を合わせるように身体を寄せてくる。再び金色が視界に飛び込んできて、夜紘は居心地の悪さを覚えた。「もちろん、あなたに感謝の証として、できる限りのことをするわ」と息を巻くメアに、少年は訝しそうに目を細める。
「できる限りのこと、ね」
「あなたが望むことを叶えてみせるわ」
「それはあんたの力じゃなくて、家の力でだろ。勝手なことをしておいて、随分とむしがいい話だ」
お嬢様の戯言だと聞き流すことなどいくらでもできたのに、突っかかってしまったことを夜紘は悔いた。また視線を逸らす。どうでもいいことに感情的になるなんて悪い兆候だ。ぐ、とより一層、爪を皮膚に強く食い込ませる。押し黙った少女の顔が気になってちらりと横目に見ると、彼女は相も変らぬ眼光を湛えていた。
「今は、皇黒院の名前だけしか見られないかもしれない。けど、いつか絶対に、私個人の力で周りから認められてみせる。そのとき、あなたの願いを、必ず叶えてあげる」
馬鹿かお前。
そう思わずにはいられず、実際、口に出していた。真剣に言っているところがまた何とも言えない。お嬢様は思考回路が緩いのか。いつかの話を持ち出す時点で交渉は不成立だ。そんな途方もない夢物語に付き合っていられるほど気は長くない。お人形遊びでもしてろと吐き捨てそうになり、出かかった言葉を嚥下する。
「……そりゃまた、随分と先の話だな」
ぷいと顔を背ける夜紘に、メアは苦笑を零した。そうね、と肩を竦める少女の様子に、己のペースを完全に崩されていることを思い知り、夜紘は溜息をつく。
――冷静になれ。
相手は、世界十家、皇黒院の令嬢。恐らく、理事長の孫娘。下手に関係を損ねるよりも、上手に利用するのが手ではないか。折角の機会だ、好機と捉えればいい。
ポケットに手を突っ込み。指輪に触れる。自分には目的がある、そうだろう、夜紘。そう己に語りかけ、少年は息を吸う。
「約束、忘れるなよ」
ぶっきらぼうにそれだけ言うと、少女の瞳は開花したかのように大きく見開かれる。ありがとう、と大袈裟な反応を見せるメアに、夜紘は唇を尖らせた。ずいと差し出された白い手に、彼はおずおずと手を出し――すぐにそれを引っ込めた。
求めるのは馴れ合いではない。純然たる利用価値だけだ。
だが、引いた手を唐突に捕まれる。ぎょっとして目を剥くと、不敵に微笑む少女の視線とかち合った。
「あなた、名前は?」
逃げることを許さないと言わんばかりに輝く瞳は、まるで罪人を縛り上げる縄のようだった。自らの身体に太い黄金色の縄が纏わりつくのを想像しながら、夜紘は引きつった唇を無理に動かす。
「……夜紘」
「やひろ、ね。よろしく頼むわ、私のナイトさん」
「ナイト……?」
ぴくりと持ち上がった片眉はすぐに垂れ下がり、夜紘は召喚中でもないのに痺れる脳裏に、船酔いするような感覚を覚えた。