三章 Ⅷ
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脳内で夜紘をぶちのめす想像をしながらノルマの十周を走り終えた頃には、チャイムが鳴っていた。罰則を受けるためだけに授業に出席したようなものだとごちながら、メアは憮然とした表情で更衣室に向かう。初回の授業ということで、メア以外の生徒はチャイムが鳴るよりも早く授業から解放されていた。ちらほらと更衣室を後にする男子生徒の姿が目に入る。
更衣室はそれなりに騒がしかった。メアを見ても、その反応はあまり変わらない。各々、グループを成して少女たちが去っていく。二組分同時の授業というだけあって人数は多かったが、あっと言う間にロッカーが空になっていった。背後でロッカーが閉められた音がしたとき、メアは思い切って振り返った。
「ねえ」
甘ったるいチョコレート色の髪が、大袈裟に揺れる。冬紀、と続け様に名を呼ぶと、観念したかのように、少女は肩を震わせながら顔を向けてきた。眉は情けなく下がり、目は狼を眼前に捉えた羊の如く潤んでいる。そのあまりにもな態度に、メアは溜息をついた。
「私が皇黒院の人間だから、普通に接することができないの?」
肯定するように、華奢な冬紀の肩が跳ねた。――慣れた反応ではある。が、慣れているからといって甘んじて受け容れることはできない。胸元のリボンを締め、メアは煌々としている瞳を真っ直ぐ、冬紀に投げた。行きましょう、と口に出して、彼女の前を過ぎる。その言葉が暗に「ついて来い」という意味を持つことを冬紀は理解したのか、俯いたままメアに続く。なんだか苛めをしているようで心に鳥肌が立っているが、きちんと話さねばならない。居心地の悪さを覚えながらも、メアは冬紀と共に歩んだ。
運動着が入ったバッグを片手に振らせ、黄金の瞳を瞬かせる。靴を脱いで渡り廊下から校舎内に入ってから、メアは静かに口を開いた。
「私、血筋の中じゃ落ちこぼれの部類に入るわ」
こんな話をしても、冬紀の心には響きもしないかもしれない。ただの自己満足、聞こえによっては不幸自慢にすら思えるだろう。もっと敬遠されてしまうかもしれない、だが、学院の生徒として初めて接した彼女との縁をこれだけのものにはしたくなかった。薄暗い廊下は、昇降口に続いている。目を眇めて、光に溢れる生徒玄関を見つめた。
「祖父も、父も、兄も姉も、みんな召喚士として周囲に認められていた。私も、当然のように召喚術を学んで、普通にこの学校へ入学するのだと思っていた。でも、私には才能がなかった。おまけに、魔力増大症なんて大層な体質になっちゃって、魔術世界とは切り離された。私は確かに、皇黒院の人間だけど、それ以上に無益で無能な子供なんだと思い知らされたわ。みんな見ているところは同じ、世界十家の召喚士という優れた存在でしかない。無力な私は、黙っているしかなかった」
家が嫌いだった。皇黒院という忌々しい家名が疎ましかった。何よりも、才能のない自身と、愛してくれなかった父親が、この上なく憎かった。名前に惹かれて群がってくる蛾の鱗粉から逃げたくて、ずっと走っていた。追われる恐怖から救ってくれたのは、敬愛すべき姉だった。
「皇黒院リア、それが私の姉の名前よ。四ヶ月前、なんの連絡もなく、姉様は姿を消してしまった。おじい様は姉様のことを捜してくれもくれない。だから、私はこの学院に来たの。私にとっての輝きを取り戻すために」
薄暗さが、昇降口に近づくにつれて薄れていく。その光の柔らかさを掻き消すように、昏い声音が響いた。新緑の葉が、一瞬にして腐り落ちる。
「メアさんは、逃げることをやめて、ご自分の足でここに来たんですね」
――やっぱり、私、あなたの近くにはいられない。そう続けた冬紀に、メアは反論しよと踵を返した。奇妙な熱が首筋を撫でる。乾いた音がした。「冬紀、私はっ、」
だが、その音が最後まで響くことはなかった。紡がれることのなかった言葉は、メアの腹の底に落ちていく。振り返った先には、誰もいなかった。緩やかな闇が、ぼんやりと存在しているだけだ。
まだ白い外用の運動靴と、桃色のビニールバッグが、簡素に転がっている。ばらばらの死体を間近で見ているような恐怖心がせり上がった。
「冬紀……?」
震える指先で、冷えた床を撫でた。