三章 Ⅶ
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分厚い雲を呼び、雷を轟かせんばかりの叫びが聞こえた。こんなに敵意を持って名前を熱烈に呼ばれることも早々あるまい。更衣室に入ったふりをして、夜紘は、メアが更衣室に入ったのを確認するや否や、踵を返していた。体育の授業の出席は自由だ、これも特待生特権である。故に、さぼったところで彼に罰則ないし、問題もなかった。図書館で時間を潰そうと、グラウンド脇にある青塗りの壁の建物に向かう。
一般生徒が使用できるのは、建物丸々一つが図書館である「青い知識部屋」と称される建物の中でも、一階にある第一図書館だけだ。三階建ての建物のうち、第二図書館以上に踏み入れるには、成績優良者の認定を受けるか、学院側に申請を出さねばならない。司書の教師に軽く頭を下げ、夜紘はエレベーターの脇にある、ボタン代わりである認証装置に身分証明書を近づけた。電子音が響き、ゆっくりと、上へ繋がる唯一の扉が開いた。
図書館の蔵書の数はおよそ五万冊を超えるという。そのうち、世界有数の魔道原本は二〇〇あまり。原本は第三図書館にあるが、ここは教師以外の立ち入りは禁止である。貴重な資料という意味合いが強いため、貸し出しはおろか閲覧も不可能だった。
エレベーターを降り、夜紘は第二図書館の扉を開けた。中には誰もいない。貸し出しは一階の司書のところですることになっているが、第二図書館の書物の半分は貸し出し不可の印がある。整然とした書棚に並ぶ書物を指先でなぞり、夜紘は目当てのものを探した。彼が図書館に来るのは初めてではない。もう幾度も足を運び、幾つもの書棚の前に立った。未だに宝は現れない。
奥から手前に四番目の書棚でこの間は捜索をやめたことを思い出し、夜紘は踏み台を動かしながら書棚の前に立つ。第二図書館の中で、日本語訳されている書物は全体の四割ほどだ。あとはラテン語やら英語やらフランス語やら多種多様な言語で書かれている。それらしいタイトルの本を探し、興味が引かれるものがあれば何語であろうが手に取って開く。それを繰り返した。
第一図書館が大衆向けならば、第二図書館はマニア向け、第三図書館は玄人向けである。第二図書館の書物は、内容は濃く勉強にはなるが、使用に危険やリスクが付き纏う魔術を記したものも多い。故に、学院側が認めた生徒にしか開かれないのだ。
「七二柱の星」と、珍しく日本語で書かれた本を手に取り、夜紘はぱらぱらとページを捲った。タイトルから分かっていたことだが、ソロモンが使役したとされる七二体の悪魔召喚の専門書のようだ。今度、何か召喚してみようか。七二柱の悪魔たちは、その名がそれぞれはっきり伝え残されているほどの存在である、実力は折り紙つきだろう。
席に着き、ゆっくりと頁を捲った。案の定、貸出禁止の印がある。だが、メモしてしまえばいいだけだ。いつも胸ポケットに忍ばせている白紙のメモ帳を取り出し、ボールペンをノックした。ソロモン七二柱の悪魔たちは、さすがに固有の魔法陣が必要となってくる。霊属三段以上の上級召喚魔だ。複雑な工程は致し方ないことである。
円の中の五芒星は小さく、上下左右にそれぞれ配置されていた。その星を直線が結び、その周囲を固めるように、旧聖ルーンが細かく書き連ねてある。空いている中央には、召喚する悪魔に対応する印を描くようだ。なるほど、面倒くさい。
それにしてもと、夜紘は書き写していた魔法陣を射殺すような眼差しで見つめた。メアの肩の刻印は、五芒星を使った一般的なものではなかったと思う。二つの三角形が重なり合った六芒星であったとしたら、癪ではあるが興味深い。現代において使用する人間が殆どいない六芒星による魔法陣が、彼女の常識外れな魔力を生み出しているのなら、自分もあの強大なうねりを伴った力を手にすることは可能かもしれない。
窓から、グラウンドが一望できた。野暮ったい茶色の大地を、蟻が必死で走っている。何かに抗うように。皇黒院の人間が、随分と無様ななことだと、夜紘は鼻で笑ってみせた。
それから、彼は窓辺に手をついて口を開いた。
「監視者が、対象の前に顔を出していいのか?」
冷気が唐突に滲み出したようだった。長髪がさらりと揺れ、しなやかな豹を思わせる双眸が静かに伏せられる。嵐山立花――皇黒院蓮杖が認める召喚士。自然と、夜紘の眼光も鋭くなる。警戒をするに越したことはない相手だった。
「理事長からの言付けを伝えに来ただけだ」
感情の読めない声音は、逆に不信感を強く抱かせる。応えない夜紘に、彼女は続けた。
「皇黒院メアの安全を第一に、彼女に付き従え――だそうだ」
「そんなに心配なら、あいつを家に帰せばいい」
「そう簡単な話でもないということだ。お前はただ、彼女に付き従っていればいい」
「俺は皇黒院の犬じゃない」
宝玉をも噛み砕くような勢いで、夜紘が歯を剥いた。一瞬で熱された空気は、しかし、微動だにしない立花の怜悧な面差しによって零度に戻される。
「……それから、新しい条件が提示された。パートナーが敗北した際も特待生権限が失われるそうだ」
「そこまでして俺にあの女を守らせたいのか。つくづく悪趣味だな」
視線を逸らし、毒すら生み出しそうなほどの憎悪を吐き出す夜紘に、何かまだ言いたげに目をやる立花は、だが、結局何も告げることはなく、去っていく。残された静謐さに、若き天才は一人、悪態をついた。蟻は未だに、走っている。