三章 Ⅵ
補習は再び座学に戻り、淡々と、粛々と続いた。多量の宿題を出されたメアが不平を呑み込んで帰路に着いたのは六時を過ぎた頃だった。薄暗闇を照らすように、外灯が柔らかい光を放つ。その光に誘われるように、メアは、朝来た道を思い出しながら慎重に歩を進めた。迷子になるのはさすがに恥ずかしい。
石畳からただのアスファルトが伸びる下り道に差しかかり、この道だと確信するまでに時間がかかった。明かりの漏れるゴシック建築の特別寮を目の当たりにし、ほっと息をつく。風が吹き、木々が揺れた。木の葉が、脇の湖面に吸い込まれていく。早々に自室に戻ることにするが、キッチンに夜紘の姿はなかった。自室に篭っているのだろう。生活感のないその場所を寂しそうな目で見過ごし、メアは静かに自室のドアを開けた。暗闇が裾野を広げて待っている。スイッチに指先を這わせ、明かりがついた頃にはリボンを首元から外していた。ベッドに腰かけて息を吐き出す。
「夕飯どうしよう……」
ぐぅ、と鳴ったへその辺りを押さえる。制服を折り目正しくハンガーにかけ、手早く部屋着に装いを変えた。ショートパンツから伸びた滑らかな肌を晒す足を軽くマッサージしたあと、メアは空腹に耐えかねて立ち上がる。食いっぱぐれはごめんだ。
確か、女子寮の食堂が使用できるのであったか。一人で行くのは少し不安だ。校舎外にもう一つあるという購買に行ってみようか、夜紘を連れて行けばいい。女子寮でもないし、行くこと自体に問題はないだろう。室内用のサンダルを爪先に引っかけ、メアは隣人が控える木製のドアを叩いた。
「やーひーろー、いるんでしょ、入るわよ」
その呼びかけから数秒の間を空けて、内側からドアが開かれた。ジャージ姿の夜紘は勉強でもしていたのか、片手にシャーペンを持っている。不機嫌そうな表情は、最早見慣れてしまっていた。
「ただいま。無事で何よりよ、大丈夫だったみたいね」
放課後も、軽く上級生たちをいなして早々に帰寮したのだろう。どーも、と淡白な声音が耳を掠めた。労いにきたわけではないことを意識し、メアは今にも扉を閉めようとする夜紘の手首を掴んだ。シャーペンの先が皮膚に当たる。
メアの魂胆が見えたらしい夜紘は、掴まれた手首を必死で反そうと手前に引いた。が、メアの食への執念もまた強いらしい。少女は、少年の引き篭りを全力で拒んでいた。
「購買に連れて行ってくれるだけでいいから」
「校内案内図持ってたろ、それ見て行けよ。第二校舎のすぐ隣だから」
「暗いし迷うかもしれないじゃない」
「俺は勉強中、」
「どうせあんたも食べてないんでしょ? ついでに買ってあげるわ」
「いや、俺はもう済んだし。わざわざ買いに行かなくても、今日色々買っといたからそれ食べれば? 全部インスタントだけど、簡単だし、そんなにまずくもない。作り方は裏面に書いてあるから。じゃ、俺は勉強してるから失礼します」
えーっ! と、不満そうに声音を荒げるメアが文句を言い連ねる合間に、夜紘がぶつぶつと呟いた。瞬間、彼の手首を掴んでいた己の指先が跳ねる。ばちっという音が響いたと思ったときには、彼女の手から逃れた夜紘はドアを閉めてしまっていた。がちゃんという施錠音が、やけに大きく響いた。
「ちょっとー! 魔術使うなんて卑怯じゃない、出てきなさいよ!」
返る言葉はなかった。メアの憤慨の声などまるで聞こえていないようだ。夜紘の徹底した無視っぷりに、メアは鼻を鳴らして踵を返した。夜紘をぎゃふんと言わせたい、あのすかした顔を驚きの色で染めてやりたい。さぞかしすっきりすることだろう。感謝はしているが、あの無愛想さはどうにかならないのだろうか。
キッチンの棚を見回すと、カップ麺が幾つか積み重ねられていた。一番上にあったものを適当に取り、ビニールの包装を除く。インスタント食品など食べたことがないが、何も食べないよりはましだ。予想よりも美味しいかもしれない。
ポットにお湯があることを確認し、メアは慎重に作り方を目で追い、工程を重ねる。具材を入れ、線までお湯を注ぐ。煙る湯気を払い、蓋の上に液体スープを載せた。待つこと三分、蓋を取り外すと、黄色い麺が解れて、乾燥していた具材も息を吹き返したようだった。液体スープを入れると、塩気の強い風味が湯気に巻かれて鼻腔をくすぐる。
割り箸で麺を掬う。一口食べて、メアは感慨深そうに頷いた。家で食べていたロロたちの手料理に比べれば味は劣るが、そこまで悪くもないと思えるのは空腹のせいだろうか。スープまで平らげることはできなかったが、すぐに麺はなくなった。流し台にスープを流し、水で容器を洗いながら、今頃、屋敷はどうなっているのだろうかと考えた。我儘のままに飛び出たくせに今更何だと、久利生辺りには言われそうだ。
爽やかな毒舌家だった家庭教師の姿を思い返し、メアは苦笑を零した。容器をシンクの上に置き、自室に戻る。ロロからのメールに返信したあと、夜紘から借りたルーン基礎入門の本に目を通した。
ルーンは二種類ある。古代から伝わる本来のルーンは「旧聖」と呼ばれ、字に宿る魔力も大きい。上位召喚には必要不可欠であり、特殊な大規模魔術を使う際にも用いられる。一方、召喚術の普及に伴って、ルーンが一般により認知されやすいよう、簡略されたものが「新聖」と呼ばれるラテン文字だ。旧聖ルーンより魔力の宿り具合は悪くなるが、上位召喚に拘らない限り、転写された新聖ルーンだけで事足りる。
ルーンの意味を一つ一つ確認しながら、旧聖と新聖の両ルーンを見比べる。指先でなぞったり、声に出してみたりするが、中々頭に入ってこない。そのうち眠気が這い寄ってきた。反射的に立ち上がり、メアは睡魔から逃げるように備え付けられているバスルームに向かった。ぶつぶつと本の内容を反復しようとルーンを口に出す。
本入学を果たすための条件は二つ、学年首位の成績になるか、契約召喚魔を手に入れるか。どちらの条件をクリアするにも、ルーンの習得は必須だ。シャワーのノズルを回し、メアは温い湯を頭から受ける。黒い滝のように髪が垂れた。鏡に映る胸元に掲げられたロザリオを軽く握る。母親の形見は同時に、姉との絆の象徴でもあった。
バスルームの狭さに文句を言うのは堪え、メアは早々にシャワーを切り上げる。足が自由に伸ばせないバスタブなど、浸かる意味もないだろう。滴る雫を、使用人が届けたトランクに詰められていた柔らかなタオルで拭き取る。肩から腕が大きく剥き出しになったキャミソール姿で、メアはドライヤーを片手にベッドへと腰かけた。普段であれば、お嬢様なんてはしたない格好をしておられるのですか、と一息にロロが説教を垂れてくるところだが、今は彼女を叱る者は誰もいない。あの毒舌な家庭教師も、口やかましい世話係も、メアの目の前にいきなり現れることはないのだ。
そのことに僅かながらの感傷を覚えつつ、メアはドライヤーのスイッチを切った。まだ多少は毛束が濡れているが、今すぐ寝るわけではない。睡魔も飛んだし、まだやれそうだ。入門書を左手に持ち、立ち上がる。何もなに壁際に向かって右手をかざし、肩幅程度に足を開いた。見かけだけなら様になっている。いかにも、成績優秀な召喚士見習いのようだ。立花のしれっとした横顔を思い出し、彼女の声音を真似て詠唱をしてみる。こんなものを本人に聞かれたら、名匠の生んだ刀の切っ先よりも研ぎ澄まれた目で殺されそうである。――が、案の定、変化はない。魔力は確かに、集中してきているはずなのに。
剥き出しになった肩に刻まれた魔法陣が、熱を孕んでいる。
歪な六つの辺を持つ星が、爛れた皮膚の上に乗っていた。不自然に隆起した皮膚は赤茶色に染まり、染み込むように黒い星の線が走っている。星自体は掌で隠せてしまう大きさのものだったが、覆い隠せない切り傷がしっかりとその姿を主張していた。肩から二の腕の中程にかけて伸びる傷は、墨で色付けされたかのように鮮明に晒されている。だが、その傷跡よりも目を疑いたくなるのは、目を凝らさねば分からないような幾種類もの文字が、びっしりと星の中、外に、規則的に並んでいることだった。まるで蟻がエサに群れているような黒点が、異常性と狂気性を強く生んでいた。
メアが魔力を使おうと意識すると、肩に刻まれた魔法陣は、まるで歓喜に震えるかのように熱を持ち、不愉快な痛みをもたらしていく。その不快感を押さえつけるように唇の端を噛んだ。魔力の制御は呼吸と同じだと囁いた立花の姿が脳裏にちらついた。だが、呼吸は意識すると上手くできない。魔力の制御もまた然りなのではないか。
空気がやたら澱んでいる。錯覚ではあるまい。肩から這い寄る不快感に耐えかね、メアは気取っていたポージングを解いた。投げやりに本を枕元に落とし、凝った肩をほぐすように大きく回す。
どうせ口にしたところで何も起こりやしない。そう、半ば諦め、自嘲して、独り言よろしくぼそぼそと適当に詠唱した瞬間だった。
じゅ、と、肉をバーナーで直接焼いたような音が響く。視界に溢れた、光。橙色に染まった球は、火の粉を散らして壁に吸い込まれていく。爆音が轟いた。
「やった……!」
その歓喜の言葉が漏れた刹那、ぐらりと足場が揺らいだ。地震、ではない。壁にぶつかった光球の衝撃だった。咄嗟に手で顔を庇っていたメアは、目を細めながらおずおずと惨状を目の当たりにする。浮かれている場合では更々なかった。
ぼっかりと、大きく空いた、穴。
飛び散った破片は起こした微かな粉塵の先に見える、あまり本が置かれていない書架。夜紘の部屋の一部が、丸見えになっていた。がん、と激しく何かを打ち付ける音が広がる。どうやら、彼もシャワータイムであったらしい。急いで身支度をしたのであろう、ぼたぼたと水が垂れる髪はろくに拭かれておらず、Tシャツはあちこちが濃くなっていた。夜紘の黒い瞳が驚愕に見開かれるよりも早く、メアは気丈に笑ってみせた。作り笑いだ。
「ま、まあ、私が本気を出せばこんなものなのかしらね。自分でも怖いくらい、」
「ふざけてる場合じゃないだろ……。どうするんだよこれ!」
夜紘の激が飛んだ。居た堪れない。非常に、心苦しい。引きつる顔をどうしようもできずに、メアは沈黙した。室内に篭った高密度の魔力が、詠唱を受けて暴発した――ということだろう。ガス充満状態の密室でライターを使用したようなものだ。しかし、一体、どういうタイミングで魔術が成立するのか、さっぱり分からない。あれだけ音律に気を配り、魔力の制御だなんだともがいていたのに、投げやりにした瞬間これだ。結果は全くオーライではない、ぬか喜びした己が恥ずかしい。
がしがしと塗れた髪をタオルで拭きながら、苛立たし気に夜紘が口を開いた。
「俺は関係ないから。あんたがこの壁、どうにかしろよ」
「弁償すればいいんでしょ、するわよ」
正確には、祖父ないし兄が、だが。
「だから隣は嫌だったのに……! 世間知らずのド素人女が」
散らばった破片を拾い集め、夜紘が唸った。その酷い言い草も、今は正論である。己の非を口には出さなくとも認め、メアは口を噤んだ。そして、自らも破片集めを始める。暫く両者は無言だったが、穴の境界のところで顔を突き合わせたことで、夜紘が眉間に皺を寄せた。
「何やったらこんな大穴空けられるんだよ。本当にただの魔術なんだろうな?」
「そうよ。私も予想外だったの」
「予想外なんて一言で壁をぶっ壊されたらたまったもんじゃないな。下手したら壁どころか、この部屋もろとも俺の部屋が吹っ飛んでたかもしれない」
「そんなことにはなら――ないこともないかもしれない、けど……」
「ろくに魔術のことも知らない奴が中途半端なまま手を出すな。って、ちょっと待った。おい、あんた、」
気まずそうに身を逸らしていたメアの腕が、不意に掴まれた。ぎょっとして夜紘の顔を見る。瞬間、メアはしまったと唇を噛んだ。迂闊だった……! 慌てて肩の魔法陣を隠そうにも、もう遅い。夜紘の顔が近づいていた。石鹸の匂いが鼻腔を擽る。身を引こうにも、腕を掴まれていて自由が利かない。少年の目が、猛禽類の如く鋭くなった。
「この魔法陣、何だよ」
言い逃れを許さないと言わんばかりに、腕を掴む指はより強く皮膚を圧迫してくる。血管が止まるかと錯覚するような一瞬に、くらりと眩暈がした。渇いた口内で舌を動かし、必死で言葉を繰る。
「……昔、ちょっと。家で色々あって」
「そんなこと訊いてない。これは何の魔法陣だって、そう訊いてるんだ」
「何のって、それは……」
真実を告げてしまって、告げたとして、彼はどういう反応をするのだろう。憐れむ? 憤る? どちらでもなく、軽蔑してくるかもしれない。その反応が怖いわけではない、ただ、真実が少なからず皇黒院の名を汚すことになるのは確かなことで、折角、讃えられてきた兄や姉、先祖たちの歴史を壊してしまうようなことは避けたい。
その思いがメアの口を閉ざした。言ってしまってもいいと思っていた心が失せていく。
「おい、」
「いつまで人の腕掴んでるのよ変態セクハラ特待生!」
ばちんという鋭い音が響いた。夜紘の手を虫でも叩くような勢いで弾き、メアはふんと顔を背ける。大仰に腕を組み、今までは気にも留めていなかった素肌の露出を恥じらうように剣呑とした目で夜紘を睨みつけた。対して、こちらもメアの姿になど毛ほども意識を伸ばしていなかったらしい夜紘は眼光を細める。だが、指摘されれば嫌でも意識せざるを得ないようで、気まずそうに視線を逸らした。
「そんな大層な身体でもないくせに……」
だが、不遜な態度は健在である。ぼそっと囁く夜紘の頭にスリッパを投げつけ、メアはつんつんした口調で、彼を穴の向こうへ追いやった。顔を合わさずに口論を続け、熱くなる二人を他所に、夜はしっかりと更けていく。珍しく夜紘が黙り込まずに反論してきたせいで、言い合いは終わりを見せない。部屋が繋がった状態であることに居心地の悪さを覚えているのはメアだけではなかったようだ。そのことに共感するどころか、魔法陣のことを問い質されまいと、メアは必死で下らない言い合いを続けた。折れたのはやはり夜紘で、もう寝るから黙れと彼が言ったのは日付が変わって数分経過したときだった。暗くなった隣室の様子を見届けたのを最後に、意識が混濁し始めたのは覚えている。
はたと、次に意識を取り戻したとき、視界は光で満ちていた。まさか昭明を点けたまま眠っていたのかと起き上がったところで、カーテンの向こう側が明るいことに気がついた。夢も見ずに爆睡していたようだ。自然と目が覚めたことが証拠であった。そこで、メアは習慣のままに携帯へ手を伸ばした。真っ先に着信履歴が目に入った。ロロからだ。最初の着信時間は六時三四分。随分と早い。三度目の着信が、八時一三分。八時……、と反芻し、メアは現時刻を確かめた。なんと無情なことであろう。アラビア数字は慈悲なき九時二分を示していた。
何か呟くよりも早くベッドから下りる。洗面台に走り、手早く洗顔歯磨き整髪を終える。およそ一分三〇秒。髪は下ろしたまま、制服に腕を通した。このコスプレもどきは着るのが面倒なことこの上ないと歯噛みしながらリボンに触れたところで、今日の一時間目が体育であったことを思い出した。着かけていた制服を脱ぎ捨て、まだラップに包まれた状態だった運動着を開封する。スタンダードな白いTシャツに、黒い短パン。鞄と制服を抱え、メアは部屋を飛び出ようとし――夜紘、と一声発して、穴の向こう側を見た。
声もかけずに行くなんて酷すぎると憤慨するよりも先に、彼もまた眠っているのではないかと思った。おずおずと穴を潜って、彼の部屋へと踏み入れる。破片がまだ散らばっていて、足裏を刺激した。案の定、制服はハンガーにかかったまま、ベッドは盛り上がりを見せている。布団を目深に被った夜紘の寝顔は見られなかったが、安らかに布団が上下している辺り、夢の中にいることは間違いない。
「夜紘、夜紘」
揺すってみるが、応答はなかった。これは強硬手段しかあるまい。ばっと布団を取り上げ、肩を直接、大きく揺さぶった。瞬間、瞼が物凄い速さで持ち上がる。まるで世界が反転でもしたかのような勢いで、夜紘は起き上がった。無言で彼もまた、携帯をまさぐる。火を吹くような表情を見せたかと思うと、彼は小さく舌打ちを漏らし、自己嫌悪よろしくため息をついた。そんな夜紘に、メアは急かすように、黒いメッシュの袋を突き出した。世話焼きの妻の如き仕種に、夜紘は嫌そうに唇を噛む。
「着替えるから出てけ」
「はいはい。……私のせいで寝坊したのならごめんなさい」
簡素な応答のあとに、メアは僅かに目を伏せながら付け加えた。廊下に出ようとドアノブに手をかけたところで、夜紘が「別に」と掠れた声で返してきた。殺風景な廊下に立ち、それにしてもとメアは腕を組む。あの大穴、どうやって塞ごう。素直に祖父に申し出るか。兄に縋るか。学院長に申告するのは恐ろしい。身内頼みにはなってしまうが、リスクは負いたくないものだ。
朝食を摂っている暇などない。一先ず全ての感情と本能を投げ捨てた。無駄口を叩くこともなく、二人は寮を飛び出す。若緑が目に眩しい坂道を駆け上った。アスファルトの硬さが踵に響く。五月までの体育はグラウンドで陸上競技を主に行うはずだ。幸いにも、特別寮からグラウンド――ひいては更衣室までの距離はさほどない。小脇に抱えた制服やらバッグは予想以上に邪魔だったが、存外早く、目的地に辿り着いた。校舎と比べると地味な石造りの建物だが、ただの更衣室に宛てがわれるには十分な造形をしている。中央の石柱を境界に、左手が女子、右手が男子の更衣室へ繋がっているらしい。
「あんたはそっちだぞ」
「分かってるわ。じゃ、あとでね」
「ああ」
息をすることすら惜しむように言葉を連ねた。夜紘を目に入れることもなく、メアは髪を乱して更衣室へ入る。空いているロッカーに荷物を詰め込み、漸く身軽になった肩を回した。
暴力的なまでに、天上は晴れ渡っていた。日焼け止めを持ってこなかったことを悔いながら、メアは笛の音が軽快に響くグラウンドへ抜けていく。ポールにもたれかかりながら、走る生徒たちを見つめる短髪の女性教師を見つけ、彼女はおずおずと足を伸ばした。黒髪の中に混じった、緑色の房が目を引く。耳に幾つも空いたピアスはどれも威圧的で、女性らしさはあまり感じられない。よく焼けた肌は実に健康的だったが、教職という縛りの下で見つめると、手放しで褒められる人ではないと思った。
「あの……」
「あん?」
笛を口に咥えたまま、教師が振り向く。右の目尻から、皮膚が裂けたのであろう傷跡が頬に向かって伸びていた。その痕に動揺しないよう、メアは素早く頭を下げた。
「すみません、寝坊しました」
「あ? ……あー、そう。なんか一人足りないと思ったらあんたか」
からりとした口調で髪を梳く教師は、名簿にチェックを入れる。彼女の言葉に、メアは面を上げた。「一人……ですか?」
グラウンドを見渡す。生徒はランニングを終え、柔軟に入っていた。もしやと頭を背後に向けるが、ポールから伸びた影が更衣室の影と混じり合っているだけだった。メアの乱れた心中を更に乱すように、教師は白い歯を見せて苦笑した。
「あんただけだよ、遅刻」
「やひろ……無藤夜紘は!?」
縋るように教師を見上げる。だが、彼女は酷薄にも見える微笑を湛えたまま告げた。
「特待生って、主要五教科以外の授業は出席自由なんだよね~」
「はあ?」
思わず素で返してしまう。メアの粗相めいた声に、教師はあくまでにこやかだった。だが、その容姿と相反する微笑は、より強い圧力を与えていく。荒涼たる乾燥地帯にしか見えないグラウンドを指差し、彼女は続けた。
「無藤夜紘は特待生だけど、あんたは一般生徒。遅刻の罰としてグラウンド十周」
語尾にハートマークでもべたべたついていそうな口調だった。抗う術もなく、教師にスタート地点まで連れて行かれる。無数の視線が心地悪い、それ以上に、彼のすかした表情が脳裏を過ぎり、苛立ちは叫びとなって放たれた。