三章 Ⅳ
休み時間になるや否や、立花は教室を出て行った。副代表になるべく、彼女の元に行った人間はいない。これはくじ引きのようだ。解放感を味わうように、生徒たちが席を立つ。一人長机に残り、夜紘は周囲を見渡した。既にグループはできていた、寮で過ごした生徒たちはそれなりに打ち解けているようだ。部分部分でぽつねんと座っている生徒は自宅通か。寮生が大半を占める中で、自宅通の生徒の馴染みにくさたるや、想像に難くない。
馴れ合うつもりは一切ない夜紘は、ぼうっとお喋りに興じるクラスメイトたちを見つめた。その視線を、黒が過ぎる。思った通り、皇黒院メアが、一人俯いて座っている少女、美条冬紀の元を訪れていた。
聞き耳を立てるわけではなかったが、ざわつく室内を澄み渡らせるように、彼女の声音は非常に鮮明だった。
「冬紀、一緒のクラスになれるなんて思わなかったわ。昨日はごめんなさい、あなたに何も告げずにいて」
心なしか、周囲のざわつきがなりを潜めたようだ。皆、気にしない風を装っているが、内心は好奇と疑問でいっぱいなのだろう。ちらりちらりと、遠慮しがちな目が余計に不躾な仮面を生んでいく。そのことを気にしているのは、声を出している当事者の方ではなく、話を振られた内気そうな少女だった。唇が僅かに動く、恐らく、メアにしか聞こえないほどの小声だろう。
思わず口角が吊り上がりそうになるのを隠し、夜紘は手を組んだ。どうやら自分も、とんだ性悪らしい。だが、いい気味だと思ってしまうと、その時点で下卑た感情が渦を巻いてしまった。ぎこちない冬紀の様子を、メアは怪訝にも思わないのかぺらぺらと喋り続けている。お嬢様は楽天的だ、やはり、本質はおめでたい頭をしているらしい。
数学の授業で再び、立花は教室にやって来た。手にはトランプの束を持ち、ジョーカーを引いた者が副代表だと端的に告げた。彼女が何かを呟いた後、トランプは意思を持ったように空を裂き、生徒一人一人の前で網目模様の裏面を見せる。夜紘の鼻先を掠めたカードは、隣の少年の前でぱたりと落ちた。夜紘の眼下には教科書以外ない。
「ジョーカーの保有者は手を挙げるように」
立花の声で、生徒たちが一斉に、カードを裏返した。セーフ、と、隣人が安堵の息をつく。潜む音が溢れる中、控え目に手が挙げられた。これはまた随分な仕打ちだと、夜紘は背もたれに身を預ける。
「美条か。そんなに面倒なことはない、気楽にやればいい」
そう言葉がけする立花に続いて、ぱちぱちと拍手が飛んだ。美条冬紀は、やはり俯いたまま、耳を赤めて頷くのみだった。災難な少女だ、メアに声をかけられたせいでクラスでは浮き、ここにきて副代表にまでなってしまった。
浮き足立ったようなクラスの雰囲気はすぐさま薄れ、授業は粛々と始まった。簡単な進度説明のあと、立花は早速数式を書き始め、教科書のページを指定する。ルーズリーフを出したはいいが、夜紘はシャーペンをくるりくるりと回すだけだった。
授業が終わり、教師が変わっても、彼の態度は変わらない。くあ、と欠伸に耐え切れず視界をぼやけさせたところで、外語の授業は終わった。着物姿の女教師は朗らかに微笑んで、授業終了を告げる。お昼ですね~、と呑気に言いながら、教師は出て行った。
チャイムが鳴り終わらないうちに、移動したのか、夜紘のすぐ脇にはメアがいた。ぎょっとして手が一瞬震える。
「何だよ」
周囲の視線が鬱陶しい。突き放すような口調で問うと、メアは、「学食ってカード使える?」と小首を傾げた。カードぉ? と眉間を寄せる夜紘が、「そんなこと自分で確かめに行けよ」と矢継ぎ早に言おうとした間際、枯れた男の声がぬかるんだ室内を干上がらせた。――引き戸を開け放った集団の姿に、夜紘は肩を落とす。
傷んだ金髪はいない、また新手らしい。
「無藤夜紘に用がある」
生徒たちが一斉に壁際に身を寄せていく。メアを手でどけ、夜紘は憮然とした表情で立ち上がった。昼時にこれだ。能無しどもめと心の中で吐き捨て、彼は慄くクラスメイトたちを一瞥しながら、己を呼ぶ上級生たちに近づいた。
「ちょっと、何よあんたたち。いきなり失礼じゃないの?」
凍えた空気の中、よほどの温度音痴なのか厚着女なのか、メアが口を開いた。いきなり人の名前を呼び捨てにするお前も充分失礼だとは突っ込まず、夜紘はただ一言、「黙ってろ」と振り向き際に一蹴した。
促されることもなく、夜紘は教室を出て行く。彼を取り囲むように、上級生たちもまた、1のAをあとにした。出て行く間際に少年が漏らした舌打ちを聞いていた入り口付近の生徒たちは、揃って少年の後姿を見送っていた。