三章 Ⅱ
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七時三〇分過ぎに目を覚まし、夜紘は暫く、布団の中でもぞもぞと動いていた。今日は授業のオリエンテーションがあるだけだが、途方もなく気だるい。予定表には、一時間目がクラスでのホームルームと書いてあった。始業は八時三〇分なので、まだ充分に時間はある。あと三〇分は寝ていられるだろうが、カーテンの端から差し込む朝陽が意識を覚醒させていく。二度寝に持ち込む前に冴えてしまった脳内を恨めしく思いつつ、夜紘はベッドから降りた。
バスルームに附属された洗面台の前に立つ。鏡に映る彼の顔は白かった。温水で顔を洗い、置いてある時計に視線を伸ばす。今の今まで忘れていたが、お嬢様はどうすればいいのだろうか。頬を伝う水をタオルで拭きながら、思案する。
この特別寮から校舎までは、それなりに距離がある。途中で各施設に伸びる分かれ道がいくつも登場するわけだが、不親切にもこの学院の案内図は正門前の銅像にしか付随されていない。迷子になるなと言う方が難しいかもしれない。となれば、連れて行かねばなるまい。
ワイシャツの袖口のボタンを留め、黒のネクタイに手を伸ばす。金糸でヤドリギがあしらわれたそれは、女子の制服と共通する唯一の部分だ。皇黒院の家紋である。慣れた手つきでネクタイを結び、固さを調節する。きっちり締めるのは性ではない。今日の授業を確認しながら、真新しい鞄に、机上で整列していた教科書を詰めていく。数学、外語。それから魔道史、魔術詠唱、召喚術基礎。
皇黒学院は召喚士育成専門という冠があるとはいえ、一般教養として普通の高校と同等の教育もしている。二年次からは、授業選択によっては一般教養科目は減るが、一年次は一般教養も専門教養も半々だ。当然試験はあるし、成績不良であれば落第もありうる。この学校での落第はそのまま退学に直結するのでシビアだ。
一般教養はともかく、専門教養の教科書は一通り目を通してある。予習というよりは暇潰しの読書に近かったが、それなりに有益であった。そこで、夜紘は目を眇める。召喚術基礎の教科書を手に取った。恐らく、異世界と基世界をモチーフにしているだろう球体が重なり合い、ウロボロスの環のようになっている絵が表紙だった。ぺらぺらと項を捲り、「魔法陣」の項目を見つけ出す。
魔法陣は、異世界と基世界を結びつける門を開くために必要な一要素だ。描かれた魔法陣に魔力さえ注げば、陣は展開する。ここに詠唱を加えることで、魔術としての召喚術は形を成す。詠唱だけしても門は生まれず、また、魔法陣なくして門は開かない。魔法陣は、それこそ、ちょっと知識があれば小学生でも描けるし、召喚もできるが、これを抜きに召喚する術はない。召喚術に魔法陣は必要不可欠である――という、基本中の基本が太字で書かれているのを睨み、夜紘は壁の向こうにいるメアのことを考えた。
入学試験のとき、確かに魔法陣は展開していた。それも、感じたこともない莫大な魔力を伴って。
魔法陣は、召喚魔の位ごとにその大きさが変わってくる。強力な召喚魔を呼び出すために必要な魔力が補えないときは、巨大な魔法陣でバランスを取るしかない。異世界側からマナが大量に流入するため、召喚魔の実体化がしやすいからだ。――それでも、召喚魔側が召喚士の力量を見限ってしまえば召喚拒否となり、術は失敗する。
魔力の底が深ければ、魔法陣の大きさに依存しなくとも召喚の幅は広がる。己の魔力を召喚魔に注ぎ込み、実体化を促せるからだ。その分、召喚士の消耗は激しい。しかし、この場合も、小さな魔法陣でも描かれている、という前提がある。にも関わらず、メアは魔法陣など描く素振り一つ見せずに、あの巨大な陣を展開させた。
魔法陣を描かずして門を開く方法があるのだ。夜紘の知らない、召喚術の穴が、必ずある。少女は、現実にそれをしてみせた。その術を知ることができれば、目的を達成する上で大いに役立つだろう。だが、夜紘には、メアほど莫大な魔力があるわけではない。いずれにせよ、少しでも自分の魔力量を増やすことを念頭に入れておかねばならない。
時刻は七時五二分、用意を済ませた夜紘は自室を出た。共用のキッチンは、入寮してから二、三度しか使用していないので小奇麗なままだ。寮生は、基本的に各寮に付随している食堂を囲んで腹を満たす。特別寮は、規模の問題か、そういったものはなかった。元々、一人二人程度の受け入れしか考えられていないところなのだから、当たり前といえばその通りだ。キッチンで自炊をするか、男子寮の食堂に行くかしか、朝夕の選択肢はない。昼は校内のカフェテラスや購買、学食がある。休日は許可さえ取れば外食も可能だったが、わざわざ面倒な審査や手続きを経てまで夜紘は外に出たくはなかった。
朝は自炊も面倒なので、夜紘はいつも、お湯一つで簡単にできるスープしか飲まない。電気ポットのコンセントを入れ、惰性でテレビをつける。朝のニュースは芸能関連のものばかりだった。コーンスープの素をカップに注ぎ、沸騰した湯をポット口から落としていく。ぐるぐるとスプーンで掻き回し、昇る湯気が落ち着くまで待つことにした。
八時を回ったところで、夜紘はカップに唇をつける。熱さがぼけていた頭の靄を払った。ニュースは国内政治に関するものへと切り替わり、キッチンの隅の置き時計が愉快な音を立てる。お嬢様の部屋は、キッチン前の廊下を少し行った先にあるが、扉が開く音はしない。まだ寝てるのか。そろそろ起こさないと遅刻する。
はあと溜息をついて、夜紘が立ち上がった矢先、タイミングよく騒がしくなった。それもかなり。どったんばったんという音の連鎖の後、「何で起こさないのよ」という不平の声が上がる。当事者の姿は見えない。やかましい猿でさえ、もう少しスマートに不平を唱えそうなものだと、夜紘はしらっと無視した。無言で席に戻る。静寂を貫くように。
だが、それを許さない喧騒発生機は何かに蹴躓いたり蹴り飛ばしたり、とにかく朝の静寂をぶち壊していく。スープを飲み干した辺りで、夜紘の前に皇黒院メアは現れた。およそ名家の子女とは思えない所作と姿で。
制服のリボンは何だか傾いているし、襟は左右非対称だし、スカートの裾は変なところで捲れている。昨日まで流していた黒髪は両耳の上辺りで結わえられているが、慣れていないのかそれほど急いでいたのか微妙に高さが違っていた。夜紘は見ていられなくなり、視線を逸らして、「おはよう」と、テレビのニュースをぼんやり見つめながら、気のない声で言う。
「おはよう……って、起きてたなら起こしてくれてもいいじゃないの」
「俺はあんたのお守りじゃないし。ここは学校で、あんたは学生だ。自己責任だよ」
「正論すぎる……! そうよ私が悪いのよ他人任せでごめんなさいねっ」
「朝っぱらからよくそんなに騒げるな」
一人で勝手に逆上し、気落ちしているメアを横目で見て、夜紘はカップを流しに持っていった。その後姿に閃いたのか、メアが首を傾げる。
「そういえば、朝食はどこで摂るの?」
「ここで自炊か女子寮行けよ。尤も、もう始業の時間だから間に合わないけど」
「じゃあ朝食抜きってこと!?」
「それも自己責任だろ……」
言うなり、メアはテーブルに突っ伏してしまった。盛大に腹の虫がオーケストラを組んだ。聞いているこちらが心苦しくなるような空腹の叫びに、夜紘は嫌々ながらも振り向く。
「もしかしてあんた、昨日から……」
「そうよ、朝もお昼も食べてないし、夜も早くに寝ちゃったし」
馬鹿かお前、とは言わず、夜紘はテレビ画面に表示された時間を確認する。八時三分、が、四になったところだ。走っていけば、第一校舎までは五分ほどで着くが、何か作ろうにも、冷蔵庫の中はミネラルウォーターしか入っていない。レトルト食品は昨日の分で終わりだ。今日中に買わねば。
スープだけで足りるだろうかとは思ったが、何もやらないよりはいいだろう。生憎とカップは一つしかない。綺麗に洗い、干してあった布巾で水気を取ったあと、手順通りにスープの粉末を投入する。お湯を注げば、あら簡単。お嬢様の口に合おうが合わなかろうが関係ない。腹に入ればみんな一緒だ。
「ほら」
感謝しろというニュアンスで、鼻を鳴らす。
「あ、りがと……う」
不意のことだったためか、どもるメアは勝気な表情を潜めていた。恩を売るのは悪くない、蓮杖にまだまだ用はあるし、彼女の魔法陣形成の秘密のことも知りたい。デメリットしか感じられなかったが、メアのパートナーであるということは、有村が言ったようにプラスの作用をすることもあるだろう。
だが、これだけでは言ってやらねばなるまい、たとえ逆切れされたとしても。不評を買ったとしても。
カップスープをおずおずと飲むメアを見つめ、彼女がスープを嚥下した段階で、夜紘は練っていた言葉をぶつけた。
「あのさ……リボン曲がってる。ボタンかけ間違えてる。髪も結び直した方がいい。それから――スカート」
下着が見えてる、と、あえて固有名詞を唱えなかったのは彼なりの最後の優しさである。カップを持ったままメアは硬直し、壊れたロボットよろしくぎこちない動作で首を、顎を、目を動かす。
露になっている白磁の肌をした太腿を目の当たりにしたらしいお嬢様は、一瞬で頬の色を朱に染め、「何で早く言わないのよ馬鹿!」と、羞恥に塗れた顔で叫んだ。鉄拳が漫画よろしく飛んでこなかったのは救いだ。玄関先にかけてある姿見の前に急ぐ少女の後姿を追わないように心がけ、夜紘は肩を竦めた。あんなのが皇黒院家の人間だとは、輝く黄金がなければ思えないに違いない。