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ナイトメア・アライアンス  作者: サキ
一章
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一章 Ⅰ

 

 



 家庭教師が来るまで残り時間は十三分。奴が来たら計画は間違いなく破綻する。その前に家を出て、手配通りトラックに乗り込む。そして、東公園の前で降ろしてもらい、トイレで着替える。公園前のバス停で八時十分発のバスに乗って、学院前で降車。カラーコンタクトの準備は万全、鏡に映る双眸は、茶色い。二、三度瞬きをして、具合を確かめる。良好だ。

 さて、計画を再確認だ。降車後、人込みに紛れて学院へ。何食わぬ顔で入学式に出席する。式場に入る際は、とりたてて生徒の確認がされないことは調べてある。さすがに教室にはいられないだろうが、式にさえ出席できればいいのだ。もし新入生の確認があったとしても、自身の名前を公表すれば済むだけの話である。寧ろ、そうすれば、祖父も表に出て来ざるを得ない。そうなれば、自分の勝ちだ。

 今日だけは物々しい警備も手薄になっている。流れに乗れば、間違いなく、式場までは問題なく行けるはずだ。


 にやりと、鏡に映る口角が吊り上がる。艶やかな黒髪は窓から差し込む光を受けて輝き、思わず触れたくなるようにさらりと揺れる。普段は結わえている髪を下ろしたまま、日本屈指の名家、皇黒院おうこくいんの第三子、メアは、お嬢様らしからぬ笑みを浮かべた。見る者が見れば、他者を甚振る際に彼女の祖父が見せるひたすら底意地の悪い邪悪な笑みそのものだと思い、血は争えないと首を振っていたことだろう。

 ふははははと、燃え盛る火を眼下に収めて笑い出しそうなメアは、朱色の唇を吊り上げたまま鏡の前から立ち去った。地味な灰色のパーカーを羽織り、時計に目をやる。現時刻は、七時三十九分。時計の針が動くまで、残り二十一秒。

 整然とした室内を見渡し、メアは小さく息を漏らした。足首を回す。既に履かれたスニーカーから伸びる足は、お世辞にも筋肉のついた健康的なものとは言い難かった。籠の鳥は出て行く。そう言わんばかりに、メアは格子窓を睨みつけた。


 これを逃せば、二度と、あの学院に行くことは適わない。姉の行方を追うこともできない。失敗は許されないのだ。


 深呼吸をして、時を待つ。十、九、八。

 ドアノブに手をかけ、メアは時を待った。きっと外にはメイドがいて、掃除をしているだろう。家庭教師の奴が来る前に部屋から出てきた己に驚きながらも挨拶をし、朗らかに、お食事は如何しますかと訊いてくる。広間で食べると返したあとは、そのまま東棟のテラスへ走る。

 行ける。

 デジタル時計が四〇を表した。ノブを回す。空気を壊す音が響き、メアの足は廊下へと躍り出た。予想通り、花瓶の位置を直していたメイドは、片手間に持っていたはたきを置いて、現れたメアに頭を下げる。


「おはようございます、お嬢様」

「おはよう、中野なかのさん」

「お食事はどうなさいますか。久利生くりゅうさんとお食べになりますか?」

「広間で食べるわ、シリアルで結構よ」

「かしこまりました」


 質素なロングスカートの端を持って、再度、メイドは頭を下げる。それを横目で見やり、メアは、足早に廊下を進む。この屋敷での障害は三つ、一つ目は家庭教師の奴、二つ目は使用人たち、三つ目は――


「来ないでよね、ロロ」

 

 小さく呟いて、角を曲がる。すれ違う使用人たちはこぞって頭を下げ、それに軽く応答しながら、東棟へ。窓から差す光が目に痛い。強烈なコントラストを絨毯張りの床に散らす陽光に目を細めながら、奥へ奥へ。

 次第に歩調は速くなり、メアの足は駆け出していた。時刻は四二分。約束まで三分。テラスは間近に迫っている。赤い絨毯を目一杯踏みつけた。テラスに通じる出窓を目視したところで、彼女は徐々に減速していく。はあ、と息を吐いて鍵に指をかけたところで、邪魔者は訪れた。

 舌打ちが漏れそうになるのを堪え、メアは振り返った。

 陽光とは明らかに違う金色の輝きが空中を漂っていた。何ら不思議な光景ではない、それは彼女にとって――否、屋敷の人間にとって普通のことであった。ロロという名前のそれは、人間でもなければ霊魂でもない。人とは違う確かな生命体。世の人々は、召喚魔しょうかんまと呼ぶ。この世界とは別宇宙に存在するという、もう一つの世界の住人。

 輝きが、その光度を増した。メアとは一定の距離を保ちながら、空中を泳ぐ魚よろしく漂う。


『おはようございます、お嬢様』


 声が響いた。いたいけな声音だった。柔らかく染み渡るようなロロの声に、メアは後ろ手に鍵を開けながら、いつでも飛び出せるように息を整える。


「おはよう、ロロ。どうしたのかしら」

『お嬢様こそどうしたのですか。寝坊ばかりして、久利生さんが起こしに来るまで延々と寝続けるあなたが、一人で起きてお食事もせずにテラスに御用ですか。天体観測なら夜にしてください、目を焼きますよ』


 冷たい口調は、明らかに不審の色が強く滲んでいた。誤魔化すのは久利生の講釈を聞くくらい時間の無駄で、アヒルを白鳥に仕立てようとすることくらい無理なことだと悟り、メアは出窓を押し開ける。ロロの叫びが耳を裂いた。テラスに並んでいた木製の椅子を踏み台に、手すりに乗り上げる。


「お嬢様! 馬鹿なことやらないでくださいよ!」


 唐突に重みを感じる。僅かに視線を投げると、パーカーの裾を掴んだ十歳程度の少年が、茶色の髪を振り乱して必死な形相で叫んでいた。


「もし、おじい様が姉様を捜してくれると約束したなら帰って来るわよ、だから離して、ロロ」

「駄目ですよ、あなたを外に出すなって命令なんですから!」


 引き戻されそうになり、縁に手をかけて、メアは前方に体重をかけた。テラスの下は柵がある。だが、このままここから飛び降りれば、屋敷の外に出られるのだ。泥を吐き出すような低音が聞こえた。


「私は、行くって決めたら行くのよ!」


 姉の顔が脳裏を掠める。捕まれていたパーカーの片袖を抜き、力強く足場を蹴り上げる。攣ったような感覚が腕に走るが、それも瞬間のことだった。もう片方の腕もするりと抜け出し、かかっていた重みが完全に失せる。

 お嬢様! と、ロロの悲痛そうな声が響いた。じりりりりとアラートが響く。屋敷内に張り巡らされた警備システムが、柵の上に落ちたハンカチによって作動したらしい。あまり感度が良過ぎるのも問題だと頭の隅で考えながら、メアは通り過ぎる軽トラックの荷台に載った。足が痺れる。靡く布の屋根をしっかりと握り締め、メアは息を吐き出す。SPがやって来るまでに時間はかからないだろう。早急に人込みに紛れねばならない。

 急停止したトラックの助手席の扉が開かれた。何かを考えるよりも早く、助手席に乗り込む。


「上手くいったな、お嬢ちゃん」

「今のところはね、坂根さかねさん。でも、これからが本番よ」


 今年で二十四歳、バツイチ子持ちの若き運転手は、火のついていない煙草を噛んだ。楽しそうに緩んだ口角を横目に、メアは助手席の脇に置いてあったボストンバッグの持ち手を握り締める。


「坂根さん。クビなったらごめんなさい」

 

 俯いて、メアは小さく呟いた。しかし、坂根は豪快にハンドルを捌きながら言う。


「大丈夫、クビになっても次の就職先あるから」


 どこに、とメアが問いかける前に、大きくカーブした車体に言葉を遮られる。慣性の法則に引っ張られたメアの顔は窓に張りついた。


「東公園より駅の方が目立たないだろ。そっちから行きな、お嬢ちゃん。さっさと制服を着ちまった方がいいぜ」


 通り過ぎた公園を見送るメアに、坂根ははきはきした口調で告げた。頷くよりも先に、メアはバッグの中から綺麗に畳まれていた制服を手に取る。坂根の元嫁のものだそうだが、この際、誰のものだろうがなんだろうか構わない。Tシャツの上からドレスシャツを着る。趣味の悪いデザインだと思った。

 一般の制服と呼ぶべき衣類とはかけ離れた制服だ。白いドレスシャツの上に着るのは、ベストでもなければブレザーでもない。取り出したコルセットスカートをげんなりとした目で見つめ、メアは祖父の趣向にぞっとした。あのじいさんは、生徒のことをメイドか何かと勘違いでもしているのだろうか。


「坂根さん、見ちゃ駄目よ、絶対に」


 溜息をつきながら言うと、坂根はげらげらと笑い出した。「いやいやいやいや、見るわけねぇよお嬢ちゃん」

 心底ありえないと言わんばかりの反応に少しむくれつつ、メアは短パンの上からスカートに足を入れた。コルセットの部分を胸元まで押し上げる。綺麗な網目がへその上辺りまであった。スカート部分はフリルがあるせいで二層に分かれているように見える。金糸でヤドリギがあしらわれたスカートは触り心地もよく、高級なものであることは明白だった。


「制服代はお返しすればいいのかしら」


 短パンを脱ぎながら訪ねると、坂根は「いいや」と、暫く間を置いてから言った。


「俺のじゃないしな、元嫁が置いていったものだし」

「そう、ならありがたく使わせてもらうわ。元奥さんにお礼を言っておいてね」

「そりゃあお嬢ちゃん、難しいこと言うね」


 苦笑を浮かべる坂根は、危なげない手つきでハンドルを切った。協力してくれた彼のためにも、失敗することは許されない。気を引き締め、メアはニーソックスを手に取った。リボンを首下につけ、最後に、ローファーに履き替える。


「おーおー、似合うねぇお嬢ちゃん。皇黒おうこく学院生だぜ、どっからどう見てもな。懐かしいねぇ」


 坂根に返事をしようとしたところで、再度、慣性の力がメアを襲う。窓に張りついた頬を引き剥がし、撫でながら彼女は礼を述べた。

 今のところ、まだ追っ手たる皇黒院家のSPたちの車は見えない。だが、必ずしも車で現れるとは限らないのだ、油断はできない。何しろ、皇黒院に仕えるのは異世界の住人から一流の武道家まで幅広い。街中で魔術だ爆弾だ何だと、見境なく非常識を振り回すことはしないだろうが、一度でも捕まってしまえば脱出はできまい。

 駅のバス停には、既にバスが停まっていた。気持ちが逸るのを抑え、メアは咳払いをする。信号機が丁度赤になり、車が止まった。短パンのポケットから、メモ帳とカードを取り出す。


「行くわ」

「おお。頑張れよ、お嬢ちゃん」


 ドアを開け、目一杯外の空気を吸ってから、メアは振り向く。するりと落ちた足は、縁石の上に載っていた。


「ありがとう、坂根さん」


 それだけ告げると、坂根は親指を立てて見せた。それが別れの挨拶だった。

 扉を閉め、メアは走り出す。ヒールの高いローファーは走り辛かったが、よろけることも躓くことも許さないと言わんばかりに、しっかりとした足取りでバスまで向かう。周囲の人間が、こぞって振り向いてはメアを見た。だが、そんな視線など気にすることもなく、少女は手の中のカードを握り締めた。

 バスに乗り込むと、タイミングよく出発の時間だったらしい。切れる息を整えながら、車内を見渡す。スーツ姿の人間が三割、制服姿の人間が六割、残り一割は私服だった。普通の高校の制服の、なんと慎ましやかなことか。己の着ている制服という名のコスプレ衣装に羞恥を覚えながらも、毅然とした態度で手すりに指を絡ませる。

 やはり、皇黒学院の制服は人目を惹くのかと、周囲から集中する視線を自覚しながら、メアは腕時計に目をやる。八時三分。SPたちは既に臨戦状態となってメアを捜索していることだろう、学院の前で見張られていたらどうやって突破すればいいのだろうか。俯いて人込みに紛れる戦法がどこまで通用するのか未知数だ。


 バスが停車し、新たな乗客が入って来るまで考え込んでいた矢先、メアの視界を、黒が横切った。黒なんて見慣れた色だが、自分と同じ制服に目を奪われる。思わず、袖口を掴んでいた。掴まれた方の少女は、帽子の下のショコラブラウンの髪を大袈裟に揺らし、丸い瞳でメアの顔と掴まれた袖口を交互に見つめる。


「あの、な、何でしょうか……」


 小さな声だった。もし車が停車していなかったら、エンジン音で掻き消されてしまっていただろう。ずいと顔を寄せ、メアは少女に言う。


「あなた、皇黒学院の生徒よね。新入生?」


 少女は、おろおろろ視線を彷徨わせるが、はい、とこっくり頷いた。名前は、と矢継ぎ早に問いかける。炭酸が抜けたような音が響き、バスのドアが閉まる。がたりと車体が揺れた。


美条冬紀びじょうふゆきです……」


 目線を下げ、少女はやはり、小さな声で名乗る。びじょうふゆき、と口内で名前を繰り返してから、メアは彼女の手を取った。冷たい手だった。


「私、メアよ。よろしくね、冬紀」

「え、あ、はい……。よろしくお願いします」


 目を瞬かせ、冬紀は軽く頭を下げる。これは行幸だ。そう思わずにはいられない。メアは、自然と緩む表情を抑えられなかった。


「ちょっと、お願いがあるのだけど」

「お願い、ですか」

「その帽子、貸してくれない?」

「帽子……? いいですけど、どうしてですか?」


 首を傾げながら、冬紀は帽子をメアに手渡した。車体が縦に跳ねる。体勢を崩した冬紀を引き寄せ、メアは微笑んだ。


「あなたに会えてよかったわ」


 冬紀の問いかけには一切関係ない言葉であったが、冬紀は結局、はあ、と相槌を打って首を傾げるばかりだった。


「あなたのご両親は式には出席しないの?」


 空いた席に座りながら、冬紀に尋ねる。彼女はどこか居辛そうだったが、メアに勧められるがまま、彼女の隣に座った。皮の鞄を膝に置き、俯いて頷く。


「私の実家は遠いので、断ったんです」

「そうなの。じゃあ寮で暮らすのね」

「はい」


 寮生は少なくない、そもそも、皇黒学院は日本全国から入学生が集う学校だ。遠方からの入学生など、何も珍しくない。実家通いの方が稀だろう。


「メアさんも、あの……ご両親は式に出られないんですか?」

「メアでいいわ。親っていっても、私、そもそも親がいないからね」


 帽子のつばをいじりながら平然と返す。だが、気楽に返した本人に対して、尋ねてきた方の冬紀は、まるで毒薬でも飲まされたかのように顔色を悪くし、すみませんと、視線を泳がせながら肩を震わせた。その反応に、メアははっと目を見張る。彼女にとって、親がいないのは普通のことであった、今更、親がいないことに関してとやかく言われたところで何も感じないが、こういう気まずい空気は未だに慣れなかった。うっかりしていたと悔やんでも遅い、気にしなくていいのよ、と慌てて訂正するが、悪いことを訊いてしまったと言わんばかりの冬紀は鞄をぎゅっと抱き締めていた。


「あ、でも、おじいちゃん! おじいちゃんと、お兄ちゃんが来るのよ」


 咄嗟に零れた言葉は嘘だが、完全に黒とは言い切れない。今頃、自分が家を飛び出たという話は兄にも伝わっているだろう。きっと、兄は学院に来る。そして、祖父はどうせ学院にいるのだ。


 にこっと笑ってみせるメアに、冬紀は「そうなんですか」と、若干表情を緩めた。だが、相変わらず暗い色がちらついている。


「冬紀、一緒のクラスになれるといいわね」


 無理やり話を転換させるために喋る。その言葉が実現することはないと分かっていたが、たった一言で、冬紀が笑顔を見せたことに嬉しくなる。社交辞令かもしれない笑顔でも、暗い顔をされるよりは断然よかった。

 それから暫くお喋り――……一方的にメアが喋っているだけだったが――の後、皇黒学院前でバスが停まる。降りるのは、メアと冬紀、そして、いつの間にか乗車して来たらしい数名の男子生徒たち。

 運賃を投入していく男子生徒たちに倣って、メアもカードを投入しようとする。――が、止めたのは運転手ではなく、冬紀だった。


「メアさん、それお金じゃないですよ……!」

「え?」


 心底不思議そうな顔をして、メアは首を傾げる。まるで意味が分からないと言うように、もう一度、カードを投入しようとして、今度は運転手が止めた。


「お客さん、それお金じゃないよ」

「そんなわけないわ」


 カードをずいと運転手に近づけ、メアは言う。だって、兄も祖父も、買い物に行った時は必ずこれで支払いを済ませていた。「カードで」と、兄を真似て言うが、運転手は首を振るばかりだ。どういうことだろう?


「カード払いはやってないんだよ」

「ありとあらゆるものはこれ一枚で料金を払えるんじゃないの?」


 尤もらしく言うメアの背中を、冬紀が押す。本来支払われるべきだった料金の二倍のお金が投入され、ちゃりんと音を立てた。


「私が払いましたから、いいですよね」


 運転手が呆然と頷くのを最後まで目にすることなく、メアは追い出されるように降車する。顔を真っ赤にした冬紀に、メアは疑問符を浮かべつつ、「ありがとう」と声をかけた。いいえ、と首を振る冬紀と、手の中のカードを交互に見つめ、メアは、じゃあこれ、と輝くカードを差し出す。


「メアさん、それ人前で見せてちゃ駄目ですよ」


 そう言って、冬紀は受け取った素振りを見せて、すぐにカードをメアの胸ポケットに入れる。カードは、もしかしたら、大人にならないと使ってはいけないのだろうか。あとで調べようと心に決めながら、メアは帽子を目深に被り、冬紀の隣に並ぶ。

 荘厳な建物が、目の前に広がっていた。

 召喚術。異世界の住人をこちら側――即ち、世界へと呼び出し、対話と使役を可能とする魔術。次代を担う召喚士たちを育てるために設立された、世界有数の召喚士育成専門学校。それが、彼女の祖父が理事長を務める、皇黒学院だった。

 目にすること自体は初めてではない。だが、踏み入れるのは初めてだ。心地いい緊張感がメアの気分を高揚させる。親を連れ立った新入生と思しき生徒たちが、次々と正門を潜って行った。二メートルは有に超える柵は、屋敷のものと似ている。レンガ造りの正門を暫く見つめていると、門の先に、見慣れたスキンヘッドにサングラス姿の男がいた。ひ、と声を漏らしそうになり、慌てて口元を押さえる。

 メアさん? と冬紀が振り向いた。彼女の袖口を、出会った当初と同じように掴む。向こうはまだ気づいていないようだが、このまま進めば、間違いなく鉢合わせになる。SP頭の高本こうもとが、まさか直々に学院にお出ましとは思いもしない事態だ。来るとしても、下っ端程度だと思っていたのに。

 どうする、どうする。進みあぐねているメアの様子に、冬紀はもう一度声をかける。名前で呼ばないで、と小声で言うと、彼女はさらに困惑したように眉を寄せた。ひたすら俯いていくのも不自然だし、かと言って走り去るのもおかしい。冬紀の背後霊のようにぴったりくっついて行くのは間違いなく目立つだろう。

 どうしよう。

 あわあわと考え込む内に、ゴムが突っぱねたような音がした。うわ、と、冬紀が小さく感嘆の声を漏らす。歩道の脇に、黒いダックスフンドのような車が停車したのだ。メアにとってリムジンほど身近にあった車もそうそうないのだが、冬紀は興味津々と言わんばかりに目を輝かせる。こういう表情もできるのかと密かに思いながら、メアは、車から降りてくる人間を注視した。

 同じ新入生だろう。男子の制服に身を包んだ少年だった。ぞろぞろと、黒服の男たちが少年を囲む。一人や二人、なんてものじゃない。十名以上の黒服たちが、少年を取り囲む。黒い壁に覆われた少年の姿はもう見えない。どこぞのお坊ちゃんだろうか、知らない顔だが。

 冬紀は、すごい、と息を漏らす。そうね、と返事をしてから、あ、と、メアは声を零した。あの集団にうまく隠れることができれば、高本の目を欺けるかもしれない。そう考えた時には既に、足は動いていた。冬紀の手を引き、足早に黒ずくめの集団の隣に並ぶ。じろりと男たちに睨まれるが、メアは気にしない。歩調を合わせて、校門を潜る。手を握った冬紀は萎縮しているのか、メアさん、と小さく泣き声を漏らした。


「今のところ、お嬢様の姿は確認できません。引き続き任務を続けます。既に校内には二

十三名配置していますが、街頭捜索の方に増援をお願いします」


 びくりと肩が震える。高本の声だった。集団の向こう側にいる。足音に紛れてはっきりと聞こえる低い声に胃が収縮した。校内に二十三人なんていくらんでも割きすぎた。本当に、力の入れ方がおかしい。よほどあのじいさんは、自分をこの学院にいさせたくないようだ。憎々しげに悪態をつきながら、メアは背後を振り返る。携帯越しに連絡を続けている高本の後姿が目に入った。ばれなかった……! 

 しかし、まだまだ問題は山積みだ。二十三名の刺客をいかに交わすか。


「冬紀、ありがとう」


 高本が視界から完全に消えたところで立ち止まる。祖父をモチーフにしたらしい銅像を見上げてから、メアは手を離した。


「いえ……、私も心細かったから、助かりました」

「また会えるといいわね。同じクラスになったら、よろしくね」


 冬紀をこれ以上、振り回すわけにはいかない。講堂に入れば式は始まる、だが、間違いなく、講堂には刺客がいることだろう。式が始まる前に捕まっては意味がない、せめて、式が始まってから――学院長が、姿を現すまで。そこまで凌げば、SPたちも騒ぎになるようなことはしないはずだ。式が終わるまでは、たとえ自分の存在に気がついていたとしても猶予時間をくれるはず。せっかくの行事をむざむざ潰すような真似はしないだろう。

 メアの望みはたった一つ、祖父に会うことだけだ。SPに捕まる前に学院長と接触することができれば、可能性はある。そのためにも、今、捕まるわけにはいかない。

 どこに行くんですか!? と、素っ頓狂な声が響いた。道行く生徒たちが、講堂の方ではなく中庭の方へ走り出したメアを呆然とした目で見送る。またね、と言いながら、颯爽と去って行くメアに向かって伸ばした手をおずおずと引っ込め、冬紀は目を瞬かせた。

 冬紀の帽子を目深に被ったままのことを忘れ、人気のない中庭まで走ったメアは、噴水のところで一旦、歩を止めた。様々な色で溢れ返った宝石箱のような中庭に目を見張る暇は今ない。近くに黒服がいないことを確かめ、噴水の影に隠れるようにしゃがみ込む。


「うまくいきますように……!」


 強く念じながら、スカートのポケットから取り出したメモ帳を開く。粗雑な字で書かれたそれは、書き手が如何に切迫していたかを如実に表していた。


「我、九天に座する胞なり。九地に眠る門を叩かん」

 

 メモを見ながら、真剣な口調で告げる。掌がついた石畳が熱くなっていく。異世界とのゲートは繋がったようだ。しかし、たかだか門を開くこと程度、今時はちょっと召喚術を齧った小学生ですらできることだと言う。問題は、この先だ。

 石畳に触れていた手の感覚がなくなっていく。掌が沈んでいくのが分かった。熱が身体中を廻っていく。手首まで沈んだ時、それは時間切れを表す。召喚術は万能ではない、様々な制約があって初めて、その真価は発揮されるのだ。手首が沈むまでの間に、呼び出したい異世界の住人と繋がること。制約の一つだ。

 口で言うほど簡単なことではない。門を生み出すことは小学生でも造作ないことだが、実際に呼び出すためにはきちんと、召喚術を学ばなければならない。それが国際的に定められた、この世界の絶対的ルールだ。そのルールを、現在進行形で破る少女が一人。


「我、九天の胞、汝、九地の輩に命ず」


 一音一音を噛み締めるように、言葉を発するメアの掌にじんわりとした熱ではなく、焼くような痛みを伴った熱が集中する。しかし、これしきのことで集中力を途切れさすわけにはいかない。盟約に従い、九天の下に召喚す。残りはこれだけだ。息を整え、慎重に言葉を吐き出そうとした瞬間、


「そこまでですよ、お嬢様」


 面を上げた時に既に遅かった。慌てて召喚を中断して手を門から引き戻すが、その所作の合間に腕を掴まれてしまう。ひりひりした痛みが残る掌に触れる外気がやけに冷たく感じた。


「高本……!」


 サングラスの奥で切れ長の瞳が動く。口元の傷を擦りながら、彼女の目の上のたんこぶたる、優秀なSP頭は溜息をついた。


「帰りましょう、お嬢様。蓮杖れんじょう様は、今回だけは不問に付すとおっしゃっています」

「あのジジイに会って、姉様のことを訊いたら帰るわ」

「リア様の行方は我々にお任せください」

「よくそんなこと言えるわね、知ってるのよ、姉様はもう家族じゃないって、あの偏屈ジジイが言ってるの。捜索なんて嘘なんでしょ、あのジジイがしろって言わない限り、あんたたちは動かないじゃない。姉様は私が捜すわ」

「お嬢様、立場をお考えください」

「私に召喚術の才能がないからこの学院にいちゃいけないって、そう言いたいんでしょ。才能がないなら在籍不可なんて方針がまずおかしいのよ、新たな人材を育てることが目的なら、才能のない人間こそ迎え入れるべきだわ」


 そう静かに叫ぶメアに、高本は押し黙る。

 召喚術という一つの魔術体系が確立して一世紀余り、科学技術の発達によって減少した魔術師人口は、召喚術の確立によって息を吹き返し始めた。次代を担う新たな魔術師、それが召喚師。その召喚師を育成するために、この学院は創設された。何千人といる召喚師たちの頂点に立つ、十の名家の内の一つによって。

 己には、縁遠い世界でしかないと、今までは思っていた。少女の口角が強張る。


「しかし、お嬢様が『こちら』におられますと、『表』の顔がいなくなりますので……」


 渋る高本を、メアは「兄様がいるわ」と一閃する。


「クソジジイがお亡くなりになられたら、当主は兄様でしょ。第一、私が表の顔だなんて方便もいいところじゃない」

「クソジジイだなんて口が過ぎますよ」

「何度だって言ってやるわ、クソジジイのスケベジジイよ」

「お嬢様……」


 やれやれと言いたげに肩を竦める高本はしかし、手を離す気はないらしい。どうにか抜け出せないものかと考えるメアは、ひりつく掌を見つめる。あと少しで、召喚は完了していたのに。悔やむように唇を噛み、心の中で、召喚予定だった下級妖精の名を呼ぶ。あともう少し早く召喚に取り組んでいれば……。その瞬間、ばちり、と、強力な磁石が弾き合ったかのような音が響き、腕が痺れた。静電気が唐突に走ったのだ。あまりに突飛なことに、高本の手がメアの腕を離す。その一瞬を、メアは逃さなかった。

 手を押さえる高本に背を向けて走り出す。ばちりと再び音がして、高本が小さく呻いたのが聞こえた。お嬢様、お待ちください! と、早朝も聞いたような言葉が鼓膜を震わせる。待てと言われて待つ馬鹿はいない。

 もつれた足が煩わしい。箱の中の宝石よろしく、見つめられるばかりで外に出されることはなかった己の身が憎らしい。既に高本から連絡を受けて集まってきていたらしい黒服たちが、メアの行く手を阻まんと壁となった。伸びてくる腕。反射するサングラス。身を屈ませ、横に逸らし、弾頭のように飛び出す。

 無線の機械音が、サイレンのように煩く鼓膜の奥で爆発した。



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