恐れ
指揮は恐る恐るマンションの出入り口を見た。
誰もエントランスホールには誰も居ない。
居たら、誰かの家に転がり込まなければならない所だった。
「よかった……」
そう思いつつ、エントランスホール(というか、郵便受けとエレベーターがあるだけのショボイ場所)からエレベーターに乗り込み、五階を押す。
そこで、一番考えなければならない事態を想像した。
五階に着いた途端にグサリ、である。
「やっば……ッ!?」
何でコレを考え付かなかったんだよ俺は! と自分を罵る。
けれど、防犯カメラもあるしそんな大胆な事が出来るとも思えない。
大丈夫。
そう思おうとするが冷や汗が背中から垂れ、脚に力が入らない。
スプーン曲げしか出来ない指揮の『曲げるだけの』能力なんて何の役にも立たないだろう。
指を折ろうにもナイフを曲げようにもやったことはないが少し時間が掛かる、と思う。
その前に斬られてお終いだ。
丈夫な布製の鞄を前に持ち到着を待つ。
あの程度のナイフならこの鞄で防御可能な筈だ。
チーン、という安っぽい音が響き、扉が開いた。
目の前には、「わー!!」と叫んでエレベーターに入ってくる幼稚園くらいの子供と母親と父親の姿。
指揮は人影を見た瞬間、咄嗟に鞄を目の前に突き出してしまう。子供は指揮を興味深そうに覗き込みながらエレベーターへ入る。
男性と女性は怪訝そうに指揮を見やり、乗り込んだ。
慌てて指揮はエレベーターから降りる。
一息吐いてゆっくりと鞄を下ろす。
エレベーターが閉まったのを背中で確認してから廊下を突き進む。
冬の夜は寒い。制服のブレザーごときでは寒さ対策にすらならない。
「うーさむ……」
そう言いつつ部屋の前まで来る。
『508』号室。
それが指揮の家だった。
ゆっくりと鍵を差し入れ、回す。
鍵はかけてから学校に行っているし、一人暮らしなので部屋に入れるわけはないのだが何となく緊張してしまう。
「たっだいまあー」
様子を見るように一言発する。
指揮の声は無人の空間に溶け込んで消えた。
一人暮らしの寂しいところである。
玄関で靴を脱ぎ、唯一の部屋へ入り、鞄を投げ捨てた。ホットカーペットの電源部分へ鞄が激突し、少し焦る。
それから一応風呂場やトイレ、キッチン、押入れの中を覗きこむ。
「……くそ」
命を狙われた所為でどこか用心深くなっている事に言い知れない怒りを感じる。
部屋へと戻り、暖房を点ける。
設定温度は二八度。
何もする気になれず押入れから布団をダラダラと運んで寝転んだ。
目を瞑るが眠れない。
「腹、減った……」
コンビニで何か買えばよかった。
そう思いながら、意識は闇に堕ちていく。
◆◆◆◆◆◆◆
もわり、と毒々しい紫のガスが指揮を取り巻く。
誰かの笑い声が聞こえるが、視界が紫に染まって一メートル先も見えない。
毒だと本能が訴えている。息を止める。
鼻から、耳からガスが入り込んでくる。
閉じた口をガスが無理やり抉じ開け、侵入してきた。
息が苦しい。
喉に鉛が詰まったように息が出来ない。
誰かの嘲笑が聞こえる。誰かが指揮の耳元で呟く。聞こえない。
声が、遠のく。
鈍い銀色の文字が見えるが、それよりも早くに意識が暗闇に塗り潰される。
……。…………?
何時まで経っても、死なないことに疑問を覚え、目を開ける。
窓から差し込むのは暗闇だった。
まだ夜中らしい。
どうやら昨日の出来事は指揮にとって精神的ダメージが物凄く大きかったようだ。
「夢……」
十字団、聖騎士……そんな単語の羅列が脳内を占拠し、眠気が吹き飛ぶ。
ペットボトルを置かれているパソコンを見た。
「調べてみよう……」