苛立ち
「アイツ、どうしたんだ? アイツがあんなにうろたえるなんて珍しい……いやそこまで知り合って時間経ってないけど。後を追った方がいいのか?」
指揮は思わず、一人暮らしの末の成果を発揮する。独り言だ。
「どうする? この場も放っとけないし……姫ってケータイもねえんだよな」
金髪はようやく事態の収拾がついたのか、気味の悪い笑顔を作り上げた。
「お前、見捨てられたな。そりゃあそうだ。お前みたいなクズがあんな子と知り合いってだけでおかしいんだよ」
唇が金髪の人格を現すようにひん曲がる。
スプーン曲げ、その存在を思い出す。
『曲げる』ことの出来る単純な能力。
今なら、金髪の指を折れる。
折って、苛めをした事を後悔させる事が出来る。
スプーン曲げと同じ要領だ。想像して、発動する。
金髪が苦しんでいる姿が強制的に脳裏に浮かび上がった。
折れた指を持って、泣いている。
その想像に、胸が痛くなった。
「出来る訳ねえだろ……っ!」
震える声で、吐き出した。
指揮には出来ない。
人に暴力を振るうなんて、怪我をさせるなんて出来る筈がない。
無理だ。
「何で、科もお前も! こんな簡単に暴力が振るえるんだよ!!」
気づいたら叫んでいた。
「お前らに心はねえのかよ!!?」
殆ど泣きそうな声音だった。
理解が出来ない。
このファミレスの暴力を許す、雰囲気も、コイツらも。
心が熱い鉛でも流し込んだかのように、重く、焼けるように痛い。
「暴力はいけませんってか?」
金髪が笑い、黒髪が言う。
「世界を見てみろよ。戦争なんて――人殺しなんてどこの国もやってるじゃねえか。世界屈指のアメリカ大国だってやってるんだぜ? 俺達は人を殺してない。まだマシな部類だと思わねえ?」
ふざけるな。
自分は世界の仕組みがわかっているんだ、だから絶望して不良をやっている、そんな主張が言外に伝えられ、吐き気がする。
別にコイツらの言っていることを全てを否定する訳じゃない。
コイツら苛めを止めたところで世界は変わらないし、苛めの件数が劇的に減少する訳でもない。
だけど、一人の人間は救われる。
「お前らが苛めを止めれば、ソイツは救われるだろ!」
指揮のセリフに金髪が表情を歪めた。
「うっせえな。さっきからベラベラとウゼえんだよ!」
金髪は脚を振り上げる。
指揮は目を瞑り、身体を丸くする。ダンゴ虫のように、来るべき衝撃に備えた。
それしか防御方法がないのだ。
「やめ、ろっ!!!」
引き攣るような声が聞こえた。
小気味良い音が響く。
一瞬遅れてガラスが割れた音だ、と気づく。息を吐く音が聞こえる。
続いて、木琴を木刀で鳴らしたような音が聞こえた。
多分、人の頭が床を叩いた音だ。
急いで目を開ける。
「はあ、はあ……」
そこには、肩で息をしている少年が居た。
黒髪は呆然として床に視線を落としている。
指揮もそれに倣い、床を見た。
金髪が無様に口から泡を吹き、白目でコチラを見ている。
頭からポタポタと血が滴り、床に出来た血の池に波紋を投げかける。
コップの残骸が床に散らばっていた。氷が床を濡らしている。
指揮の血液が凍ったように、冷たくなった。
身体が針金で縛り付けられたこのように動かない。
異様な程の静けさの後、サヨナラ満塁ホームランを打った後のスタンドのように、ファミレス内が悲鳴で覆われた。
「え? ちょっと何あの子? やっちゃったの?」
「切れちまったんだ!」
「何でそこまでするんだよ!」
とか言う声が聞こえる。
(コイツが、やったのか?)
動揺しながらも指揮はもう一度、少年を見た。
少年は呆然としながら、自分の手と金髪の倒れている姿を確認している。
少年の後ろ。
黒髪がソロソロとコップを持とうとしている場面が目に飛び込んできた。
金髪がやられたように、少年にもするつもりだ。
そして、黒髪を止める力を少年は持っていない。
そう気づいた時には能力を使用する事を決意していた。
(折りはしない。曲げるだけ)
黒髪のコップを持つ、指を見る。意識を指の根元に差し向けた。第二関節だ。
黒髪がコップに掌をつける。もう握るだけだ。
(速く!)
透明の川のような『流れ』が指の根元から溢れ、集め、押し込み、曲げる、想像。
ふっと指揮の意識が準備が完了したことを告げ、現実と寸分の狂いもなくリンク。
「え……? ぐ、があああああああああああ!!?」
指は根元から何かに押さえられるように曲がっていく。
ファミレス内はなおも盛り上がりを見せる。
指揮はそんな事に構っていられない。曲げ続ける。
指は、黒髪の胸元に隠れて見えないが意識し続けた。
何を言うべきかも分からないままに、立ち上がり、黒髪の元まで歩いていく。
黒髪は余りの痛みに目に涙を溜め、涎を垂らして呻き続けている。
「何か、かた……う、わああ、くあ……!!」
(もう、解除してやろうか)
罪悪感が胸を締め付け、痛そうだなと同情する。
指揮は優しく、意識を指から遠ざけようとした瞬間。
黒髪は呻き、指揮を見て縋りつくように言った。
「助けてくれ、指が、指が折れ、いてえ……あ、うああああああ!!」
指揮はその姿を見た瞬間、何かが冷めた。
それが、理性なのか優しさなのかはわからないが、何かが冷めたのは確かだ。
アメリカが、戦争が、そんな事を平気でのたまっていた不良だったのに、この程度の痛みで自分よりも『下』だと信じて疑わなかった奴に頭を下げている。
しかもソイツは『治せるかどうかもわからない奴』だ。
いや、多分そんなことすら考えていない。
暴力だけの、人間だ。人を殴る度胸しかない。人を殴るための知恵しかない。
自分だけは安全圏に居て、痛めつけられる事を良しとしない最低の人間だ。
吐き気がする。
「助けて欲しいなら、謝れよ。あいつに! これ以上の痛みをテメエらはアイツに与えてたんだろうが!!」
指揮は激昂し、叫ぶ。
もう、人間の汚い部分を見るのは嫌だった。
黒髪は涙を流し、鼻水を垂らしながら少年に頭を下げる。
「ご、ごめん。もう苛めえねえ……! 許し、が、う。あああああああ!!」
「あ……うん」
少年は人形のように頷く。
多分、その場だけの許しに違いない。
場の雰囲気に流されている。
黒髪は痛みで涙を浮かべながらも、ホッとしたように、少年を見た。
すぐに縋るように指揮を見る。
その捨てられた子犬のような瞳に、指揮の苛立ちが火を放ったように燃え上がった。
苛立ちで涙さえ込み上げてくる。
(ふざけやがって!!)
もう顔すら見たくなくなった。
もう一度、何かのきっかけがあれば死ぬまで殴り続けそうだ。
「今の痛みを忘れるな。テメエがもう一度、コイツを苛めたらもう一度同じ痛みが襲うからな」
黒髪をぶん殴りたいのを我慢し、脅す。
意識を手放し、立ち去る。
黒髪がホッとし、溜息を吐いたのが聞こえた。
苛立ちが胸を占拠して、辺り構わず殴りたい衝動に駆られるが、それらを押し殺し、歩く。
アイツらのように、誰彼構わず暴力を振るう人間になりたくなかった。
「あの、ありがとう!」
少年が指揮に言った。
「俺、これからは君みたいに戦うから! 安心して!」
指揮は辛うじて手を振り、頷く。
また歩き出し、レジの受け取り皿に二千円を捻じ込むようにぶち込んで、外に出る。
店内に居る人は皆、指揮に視線を注ぐだけで止めようとしない。
窓から中を覗いていた見物客が指揮を無言で通してくれた。誰も指揮を止めない。
指揮は歩いていく。