第9話 睡蓮
「失礼します。猊下、ミナ様と何かあったんですか?」
相変わらずアンジェロがノックの返事を待たずにジュリオの部屋に入って来た。ソファからうーん?と振り向いたジュリオは、顔に笑みをたたえたままで溜息を吐く。
「なーに? なんかミナおかしかった?」
「先ほどすれ違ったんですが、話しかけても無視されて、壁や柱にぶつかりながら歩いてました。ミナ様の事ですから、猊下に失礼なことを申し上げて怒られたのかと思ったのですが」
違うんですか? と首を傾げるアンジェロにジュリオはクスクスと笑った。
「喧嘩とかじゃないよ。ミナが勝手に悩んでるの。2つ」
「2つ?」
不思議そうにするアンジェロを手招きしてソファに座らせると、ジュリオはニヤニヤしながら口を開いた。
「とりあえず、俺と伯爵を仲直りさせようってのは諦めたっぽいね。アンジェロとの密会は無駄に終わったわけだ」
それを聞いたアンジェロは目を丸くした。
「え!? 猊下、ご存じだったんですか?」
「いや? お前の今の態度を見るまで知らなかったけど?」
「・・・カマかけたんですか」
「フフン。アンジェロもまだまだだね。俺がミナに昔話をした直後だったから、多分そうじゃないかなとは思ってたけど」
「チッ! まぁ、既にミナ様が諦めてしまったならもういいですけど」
「主人に向かって舌打ちするなよ」
まんまと策にはまったアンジェロは悔しそうに舌打ちして、ジュリオに怒られて余計に悔しそうな顔をした。
「ですが、なぜ急に諦める気になったんですか?」
「あぁ、なんかね、俺と伯爵はハンニバルとスキピオみたいだって、ミナが。多分、自分でいろいろ考えてる内に自己完結しちゃったんじゃない」
「ハンニバルとスキピオですか…あぁ、なるほど。ミナ様の考えそうなことですね」
「最後に勝つのはスキピオだって一応言っといたけどね」
なぜか得意げにそう言うジュリオに、アンジェロは苦笑しながらもそうですね、と相槌を打った。
「それで、2つめとは?」
「聞いて驚けよ?」
「え? あぁ、はい。内容によりますが」
アンジェロの返事に微妙に残念そうにしながらも、ジュリオは大いににもったいぶって、急に真顔になってアンジェロに言った。
「ミナが気付いた」
「え…まさか」
「そのまさか」
その瞬間、アンジェロは目も口も目一杯開いた。
「えー!! 本当ですか!? 嘘でしょう!? もう!?」
「ちょ、お前、驚けって言ったけど驚きすぎだよ。うるさいよ」
わざわざ立ち上がって叫ぶほど驚きを隠せないアンジェロの大声に、ジュリオはたまらず耳を塞いで迷惑そうに顔を歪めた。それを見たアンジェロは、少し落ち着いたのか、渋々ソファに座りなおす。
「すいません。ていうか、本当ですか?」
「あの様子ならそうだろうね」
「あー、まぁ確かに。でも、最悪、伯爵が言うまで気付かないと思ってたのに。思ったよりも早かったですね。ていうか、あっ!ヤベ! 俺のせい!?」
あー! やっちまったかもー! と頭を抱えるアンジェロに思わずジュリオは猜疑の目を向ける。
「お前なんか言ったの?」
「…伯爵の話をした後に、「お前がちゃんと気付いてやれ」って言ってしまいました」
「えぇ!? お前なんでそんな敵に塩を送るような真似するわけ!? ・・・いや、それが全てではないだろうけどさぁ」
「申し訳ありません」
ばつが悪そうにして俯くアンジェロの隣で、ジュリオは力なくソファに崩れ落ちてしまった。
「ていうか、なんでそんな事言ったわけ…?」
溜息を吐きながら顔だけ起こして尋ねると、アンジェロは少し言葉に詰まって答えた。
「レミの事ですけど、ミナ様にお断りを入れる様に進言したのは伯爵だったんです。ミナ様がその場の勢いで返事をしたことを伯爵は見抜いていて、将来的に一層レミを傷つけるだけだから、謝れと。その時私も話を聞いていて、伯爵って意外といい奴じゃん! とか思ってしまって…」
その話を聞いて、ジュリオはガバッと飛び起きて急に泣いたような怒ったような顔をした。
「バカ! お前それは伯爵の策略だよ! 何お前まで引っかかってんの!」
「えぇ!? 策略!?」
「そうだよ! 伯爵にしてみればレミみたいな子供にミナを取られるのは嫌だろうからね。ミナが適当に返事をしたことに気付いてそう言ったんだよ。何よりも、ミナと夫の事を良く知っているし、一番傍にいるのは伯爵だから、自分が一番の理解者だとアピールもできるし。更に言うと、周りで話を聞いていた人間からも好印象を持たれる。そう言う策略だよ!」
「そ、そんなバカな…」
「伯爵はそれほどの人なの! 相手がミナじゃなかったら、そもそもレミの事まで考えたりしない」
「なんてこった…あー! 悔しい! この俺が伯爵に騙されるなんて…」
「伯爵はお前の20倍生きてんだから、お前も普段の20倍頭使わなきゃ勝てないよ。本物の策略家は、一つの行動で複数の戦果を生み出すもんなの」
今度はアンジェロがくそー! と叫びながらソファにドサッと倒れこんでジタバタ暴れだし、ジュリオは困ったように溜息を吐いた。
「猊下…本当に申し訳ありません」
「まぁ、過ぎたことは仕方がないからいいけどね」
アンジェロが起き上がってジュリオに謝罪すると、ジュリオは力なく微笑んでそれを許した。
「しかし、今の段階でミナ様が気付いたとなると少し厄介ですね」
「そうだね。しかも聞いてよ。ミナが気付いたの、俺が愛を語った直後だからね。マジショック。多分今頃ミナは考え事に夢中で、俺が言ったことなんか忘れちゃってんだろうな…」
そう言うと再びジュリオはソファに倒れこんでメソメソ言い出す。そんなジュリオにアンジェロも気の毒そうに視線を向けるも、何と言っていいかわからない様子。
「それはまた…ある意味さすがですけど。恐らくミナ様の事ですから、気付いたという事を態度に出して、すぐに伯爵に感づかれるでしょうね。クリシュナさんが亡くなったのは最近と言う話ですから、あからさまに攻めたりはしないでしょうが、裏から仕掛けてきますよ」
「そうだなぁ。状況としては「ミナ」の時と同じなんだけど、今回はミナの傍にクリシュナがいるから、時間をかけて遠回しに攻撃してくるだろうね」
再び起き上がったジュリオは、ふむ、と考え込んで、しばらく経って顔を上げた。
「とりあえず、俺は正攻法で行ってみる。で、伯爵は何してくるかわかんないからアンジェロ、俺がミナの傍にいない時はお前がミナをぴったりマークしとけよ」
「わかりました。猊下、一つお伺いしたいんですが。もしそのせいでミナ様が私に惚れた場合、私が美味しく戴いてもよろしいでしょうか?」
「よろしくないし、あり得ないから安心しなさい」
「チッ! わかりました」
「だから舌打ちやめろって」
お風呂に入っている間も、上手く頭が回らなくて、というか脳内の天使と悪魔が壮絶な戦闘を繰り広げてしまって手に負えない。
ある程度これからどうするか考えが落ち着くまでは、アルカードさんと顔を合わせづらいな…どこかでゆっくり考え事をしたい。
「ミナ様!」
レミの呼ぶ声に顔を上げると、目の前には壁があった。あぶねー。またぶつかるとこだった。
「あはは…ごめんね」
「ミナ様、さっきからどうなさったんですか? なにか悩み事ですか?」
心配そうに尋ねて来るレミ。子供にまで心配させるなんて大人失格だな、私。はぁ、と深呼吸をしてレミの前にしゃがんだ。
「なんでもないよ。ごめんね。今日は説教されたり色々あったから疲れただけだよ」
にこっと笑ってレミを撫でながらそう言ったけど、レミはなぜか俯いてポツリと零した。
「僕のせいですか?」
「違うよ! 色々あって疲れたのはその後! 私仕事でちょっと失敗しちゃって、ジュリオさんに1時間近くお説教されちゃってさ。伯爵にもアンジェロにも怒られて散々だったんだよ。だから、レミくんのせいじゃないよ。そもそも、それも私のせいだし」
そう言って笑うと、レミは私の頭に手を伸ばしてナデナデしてくれる。ちょっと驚いた視線をレミに向けると、レミは元気になるおまじないですと、にこっと笑った。
私はこの子を泣かせてしまったのに、嫌われてもおかしくないのに、それでもこんなに優しい。せめて、レミの優しさには報いなきゃいけないな。
「レミくん、ありがとう。元気出た!」
顔の前でキュッと手を握って笑うと、レミも笑ってくれた。
どうしようかな、どこなら落ち着いて考え事出来るだろう。自分の部屋はアルカードさんが来た時、どうしたらいいかわかんないしな。かといってジュリオさんの部屋に行くわけにもいかないし、書斎とか公共の場所だといつアルカードさんに遭遇するかわかんないし。
ふと、外に目をやると、池の中に薄い桃色と白が浮かんでいるのが見えた。そうだ、もうそろそろ睡蓮が見ごろだな。池に行こう。
冷蔵庫から輸血パックを一つとって、庭に出ると夜だからかまだ少し肌寒い。池のふちに腰かけて、パックを口に着けた。
「クリシュナ、北都、でてきて」
そう呼びかけると、しゅるんと二人が出てきた。なんとも複雑そうな顔をして。
「私が何を相談したいかわかるよね? ていうか、二人とも知ってたんでしょ?」
私の問いかけに二人は顔を見合わせて、はぁーと大きく溜息を吐いた。
「さぁね。本人に直接聞いてみたら?」
「オレ達の口からは言えないし。それはお姉ちゃんとアルカードの問題だから」
私的には隠しててごめんとかが来ると思ってたんだけど、二人とも冷たいなぁ…。まぁ、確かに本人に確認した方がいいんだろうけど、聞けるか! っていう話ですよ。ていうか、それを聞いてそもそも私はどうしたいんだろう?
「ミナはさ、これからどうすればいいかわかんなくて悩んでるんでしょ?アルカードがどうこうじゃなくて」
「うん。ぶっちゃけ超きまずい。けど、できれば今までどおり現状維持でいきたいのが本音。だけど、アルカードさんは何考えてるかわかんないし、それに私まだクリシュナの事が大好きで、忘れられないしそんな気にもなれないよ。だから、どうしたらいいか…」
その事は、アルカードさんだってわかってるはず。だから、今まで何も言わなかったんだと思う。だけど、それは私が気付いていなかったせいだとしたら、気付いてしまったこれからは違うかもしれない。それが、今の関係が崩れてしまうことが、怖い。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。そんなのほっときゃいいんだって」
手元のパックを見つめて俯いていたら急に北都がそう言いだして、驚いて顔を上げた。
「ほっとくって…でも…」
「だって、アルカードだってわかってるはずだよ。お姉ちゃんが今どんな気持ちかって。現に今まで何も言わなかったわけだし、どちらかっていうと隠してたくらい」
「そうだね。アルカード的にはそれでミナに避けられるのも嫌だろうし、本当にミナを思ってるなら無茶なことはしないと思うけど。まぁわかんないけど」
「わ、わかんないんだ…」
「あいつのことだからね…まぁでも、あいつがどういう考えかは置いといて、ミナはどうしたいの?」
問いかけられて、再び手元のパックに視線を移す。
私がどうしたいか、か。うーん、どうもしたくない。できる事なら考えたくもない。正直めんどくさい。もういっそのこと何も考えたくない。チクショー、気付かなきゃよかった。
「うーん、私は現状維持が望ましいですね」
しばらく考えて顔を上げてそう言うと、クリシュナはふふっと笑って隣に腰かけた。
「じゃぁ、もう何も考えなくていいよ。本当にほっときなよ。アルカードとジュリオが勝手に頑張ればいいんじゃない」
「勝手にって…なんかそれ可哀想じゃない?」
少しだけ眉を顰めてそう言うとクリシュナはにこっと笑った。
「全然可哀想じゃないよ。ミナ、忘れてるでしょ」
「え? 忘れてるって、なにを?」
クリシュナを覗き込んで尋ねると、クリシュナは私の頬に手を伸ばして、冷たい影の唇でそっとキスをした。
「君は、僕のモノだってこと」
その瞬間、悩みも迷いも吹っ飛んだ。
「そっか! そうだよね! 私にはクリシュナがいるんだから悩む必要ないじゃん!」
「そうだね。ミナが僕を愛してる内は、ミナは僕のモノだよ。まぁ、ミナに誰か他に好きな人でも出来たら話は違うけどね。でも、それまでは僕の奥さんだよ」
「うん!」
久しぶりにしたクリシュナとのキスは冷たくて、少し悲しかったけど、でも嬉しかった。
それにすごくドキドキして幸せになった。やっぱり、他の人じゃだめだ。アルカードさんもジュリオさんも、どちらのキスもこんなにドキドキしない。やっぱり私はクリシュナを愛してる。
「クリシュナ、愛してる」
「僕も愛してるよ」
そう言って抱き合って再びキスをしようと目を瞑ると、横からコホンと咳ばらいが聞こえてハッとして目を開けた。
「二人とも仲良しなのはいいんだけど、人目をはばからないのは相変わらずだね」
腕組みした北都が呆れたように笑っていた。
「あ、ごめん北都。忘れてた」
「ごめんねー! また異次元作っちゃってた」
「忘れてたとかちょっと酷いよね。まぁいいけどさ」
3人で笑いながら池のふちに腰かけて、睡蓮の花を眺めた。水上に揺蕩う薄桃色と白の花。私はクリシュナが大好きで、クリシュナの奥さんでいたい。私を愛してくれた彼を、愛し続けたい。
彼が水底から私を見上げて、その愛で支えてくれるから、私は日ごと豊かに花開く。
それでも、私も10年後か100年後かわからないけど、その内また恋をしようと思う事があるかもしれない。その時、ハンニバルとスキピオが奪い合う蓮の花は、どれほどの時間を経て、どちらを向いて咲くのだろうか。