戻り橋
誰もが一度は考えたことがあるはず。あの時に、あの時代に戻れたら違った生き方が出来たのに…と。
戻り橋という言葉は何か哀愁のある響がある、山奥にひっそりと、青く透き通るような青空と新緑に包まれ清水の流れる渓流に掛かる、そんな風景が頭に浮かぶ。もしもあの時に戻れる橋があるのなら渡ってみたい。
青い空と緑に囲まれた吉備高原医療リハビリセンターの廊下を進む一台の車椅子、彌生沙織が赤い風船を大事そうに抱え持ってグランドに向かっていると看護師の村山典子に声をかけられた。
「沙織ちゃんグランドに行くの」
「また風船飛ばしてくる」と風船を持ち上げて穏やかな朝の顔に笑顔が似合う沙織。
「段差が危ないから私も付いていく、沙織ちゃん具合はどう、リハビリしている」典子は車椅子を押しながら聞いてくる、沙織は「ポチポチ」音にせずに呟く。
典子は何を察したのか「そうか、早く車椅子に慣れて。沙織の足だからね」沙織は一つ溜息をついて感情の在処を探す、「私の足…ね」何とも言えない感情が込み上げてくる。
立つことも、歩くこともできない、あの時、あの道を行かなければ普通の女の子でいられたのに、私は一生歩けない、車椅子では恋もできない、かなり真剣に、自殺の方法も考えた時もあった、しかしまだ生きている、あの時に戻れたらとまだ障害を受け入れていない自分がまだここにいる、時の戻り橋があるのなら渡ってみたい…。
飛ばした風船、誰か拾ってくれないかな、メール来ないかな、あてのない希望を持って風船につけたメールアドレスと向日葵の種を入れた袋に夢を託している沙織だった。
*
朝の岡山空港、俺は気象管制官の都築慎吾、山上にある岡山空港はこの時期、霧がよく出る、霧の様子を見に空港ターミナルから外に出ると俺は風速計タワーのポールに絡まっている赤い風船を見つけた。
「風船がポールに引っ掛かっている、どこから飛んできた、しょうがないな、風速計に絡まったら厄介だ」迷惑な風船だなと思いつつラダーを登る、縮んでいる風船を手に取ると何かついている、何だろうと風船を持って管制塔に入ると管制官の野茂祐美が飛行機をタクシーウェイからランウェイに誘導している、祐美は俺と同年齢だが航空管制官で上司だ、長い髪にスリムな体型、キリッとして忙しそうにしている祐美に風船を見せると「赤い風船…、何でこんなものが、どこから飛んできた、よく見つけた慎吾」祐美は双眼鏡で周りを見渡し「地上監視員にも連絡しといてまだ飛んでいると危険だから、それと封筒の中を調べて」祐美は風船を俺に渡しパイロットに風船のことを知らせている。
俺はおしゃれな封筒を開き中身を確認する「何か植物の種が入っていますよ、それとメールアドレスですね」祐美が種を見て「向日葵の種だね」と手のひらに広げる「よく分かりましたねと」俺が感心していると「うちで飼っているシマリスの餌だわ」と笑い「メルアドあるなら注意しておいて」静寂の空間を切り裂く刃のごとく言い切る。
すぐに携帯を出し注意メールを打つ「岡山空港の航空気象管制官の都築と申しますが、貴方が飛ばしたと思われる赤い風船が観測機器のポールに絡んでいました、運行上危険ですので空港周辺で風船類は飛ばさないでください」相手をなるべく刺激しないようにメールを打った。
*
晴天の清々しさに魅了された沙織は朝食もそこそこにセンターの中庭に出て空を見上げていると携帯が震えた、岡山空港?管制室?航空気象管制官?都築慎吾…、誰だろうとメールを見て息が詰まった、胸が踊る嬉しさとも全く違う何かが背中を押してくる、とりあえず謝罪のメールを打つ「ご迷惑をおかけしました。私、彌生沙織と申します、風船は吉備高原から単発で飛ばしました申し訳ありません、それと種は向日葵です、どこかにまいていただけたらと思います」メールを打ち終えて目を閉じる、事故がなくてよかったと安堵の気持ちと申し訳なさとが込み上げてくる。
*
気象レーダーを見ていたらメールが届いた、俺はメールを見ながら祐美の席へ、「管制官、返信メールが来ました、風船は吉備高原から飛んできたみたいです」と報告すると祐美は「そう…、吉備高原ですか、何かイベントあったかな」俺はとっさにカレンダーを見る、「イベントでは無さそうですね、この人、入院していてメル友を探しに単独で飛ばしたそうです」そう応えると祐美は「そうですか、では地上監視員に個人的に飛ばしたものだと伝えてください」と言ってキリッとした姿勢で管制塔から出ていった。
*
まだ車椅子に慣れてない沙織は乗りこなす練習に集中している、段差の乗り越えや転倒した場合の対処方法を終えて理学療法士、坂井洋子に付き添われて病室に戻ってくる。
「だいぶ慣れてきたね、午後は外へ出てみようか」と洋子に言われたが「外はまだ怖い、上手く乗れるかな」自信のなさか不安を訴える沙織、「慣れないとね、車椅子は沙織ちゃんの足だもの、身体の一部にしないと」なんか励まされているような気はするが納得のいかない、妙な気分だ。
煮え切らない態度を取っていたら典子が病室に入ってきた、後先も考えずに「風船はどうだった」突然聞いてくる、洋子が一呼吸置いて「それじゃあ午後から来るね」と言い残して病室を出ていった。
典子は淡い予想を漂わせ、眼力で応えを要求している。
「岡山空港で墜落した、おまけに怒られた」沙織の言葉も墜落し、かぼそくなってゆく、「怒られた…、誰に」典子の言葉が急上昇した。
「空港の風速計のポールに絡んで航空気象管制官という人に」
「ほう〜、空港までは飛んだか」感心しているのか馬鹿にしているのか息を一つ吐いて感情の在処を探す沙織、「ほれこのメール」典子にメールを見せる沙織、「航空気象管制官なんて、なんか怖そう」「大丈夫だよ、どんな仕事か聞いてみたらいいのに…、検診終了、血圧も、体温も正常、大丈夫だよ」あっけらかんとして病室を出てゆく典子、行動についてゆけない沙織。
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俺がレーダーのスクリーンを見ていると後ろから甘い香りと共に祐美の声がした、モニターを覗き込み「異常ないね、午後も雷雲もなく最終便まで大丈夫みたい、管制塔に上がってくるわ」祐美が部屋を出ると斎藤一也が管制室に入ってきた。
「慎吾さん、代わるよ」ヘッドセットを着ける、俺は席を立ち一也と代わり管制室を出て空港ロビーへ向かう、ガラス張りの通路からどこまでも続く青空と葉の落ちた樹々の間にランウェイがよく見える、羽田便が轟音を響かせ離陸しようとしている。
*
昼食を終え何気なく携帯を触る沙織、典子が血圧計を持って入ってくる、「昼食は…、ほぼ完食ですね」食器を覗きチエックを入れる、言わなくても見ればわかるだろう、メールが入らないこともあり苛立つ沙織。
「車椅子に慣れてきた?」追い討ちをかけてくる、「単独走行はムリ」音にせずつぶやいてみせる。「血圧測定終わったらリハビリルームへ、洋子さんが迎えにくるから、午後は転倒した時の対処方法だと言っていたよ、怪我しないようにね」無意識に弱みを探すので厄介なこと、この上ない。
車椅子を押して理学療法士の洋子さんが入ってきた「これからバランスの取り方と転倒した時の対処方法を教えます」少しガタのきた車椅子に移乗させられる、少し動いても転倒しそうだ「転倒ですか…」シャーシ全体にウレタンが巻いてある、それ用の車椅子があるのだ、初めて知った。「クッションの上で走行するしヘルメットもつける、介助も四人付くからド派手に転倒しても大丈夫だよ」お気軽に言うけれど、怖いよ…。
恐る恐るコースを行く、コースは少し硬いウレタンだが両サイドは柔らかいウレタンの山だ、前後に介助人がついて来る、ちょっと油断すると転倒、痛くはないが転倒の瞬間がなんとも言えない恐怖、世の中が回転する。
「転倒する感覚を覚えて」別に覚えたくない、沙織は心でそう叫ぶ。今度は転倒した状態で床に置かれる、「まず車椅子を起こす、そして確実にブレーキを掛け、バランスに気をつけて腕の力だけで座席に座るの」これはかなりの重労働だ、「通行人がいれば助けてくれるけど一人ならこうして乗るのよ」簡単に言うけどこれは辛いわ、私は即、「助けて」と声が出るわ。
病室に帰ると隣室の白石加奈が待っていた、脊椎損傷の加奈も車椅子生活だ、「沙織…これ」瞳を輝かせてチラシを見せる、それはマクドナルドの開店チラシだった。
「空港ロビーにマックができるよ、外出許可取って行こうよ」少し浮かれた気配を漂わせて沙織を誘う、「車椅子の二人だけで外出させるかな」現実に引き戻す言葉にさあどうしょうか、と次の一歩を探している加奈も、悩む時間を飛ばしている。
典子が見回りに入ってきた「加奈さん来ていたの、病室に居なかったから心配したよ」「すいません…、このチラシ見た」謝る仕草をして期待を持ってチラシを見せる加奈、「見たわよ、マックができたのだって、娘が行こうと騒いでいた。ダメですよ、二人だけでは外出許可は降りませんよ」完全に先を読まれている。
「外出許可の申請書が飛び交っているわ、たかがマック、されどマックか、わかる気もするけど誰かに買ってきてもらいなさい」連れない返事が戻ってくる、「屋外リハビリ訓練」二人の落胆した姿を見て典子が呟く、「洋子さんと相談してみたら」一筋の光を残して部屋を出る典子。
「沙織、どう言うこと」一筋の光を懸命に探す加奈、「平日で、昼前か昼過ぎ、屋外訓練が空港と言うことだよ」典子は規則の間をついた方法として、名目を屋外訓練として空港に行きついでにマックを食べて帰れと言うことだった、意表をついたアイデアではあるが全ては洋子にかかっている、何かアクシデントでもあれば洋子の責任問題にも関わる、何事もなく無事に戻ってくることが大前提だ。
次の日、リハビリルームに加奈と沙織が一緒にリハビリしていると洋子が音もなく近づいてきた、「お二人さん、何か私に言いたいことがあるのでは」突然の声がけに驚く、「あ、あの…」平行棒で引き攣る加奈、「あの〜洋子さん、お願いが…」やっと言葉に出した沙織、
窓から空を見る洋子「あの雲、マックに似ているね、美味しそう」独り言を言う。
「そ…そう、マックのことですが」一呼吸置いて言葉を弾く沙織。
「典子に聞いたわ、私を悪者にしようと企んでいるのね」腕を組み二人を睨む洋子。
「もう、空港マックで大騒ぎね、屋外訓練してもいいけど、条件が二つある、まず保護者の承諾がいるから申請書に保護者指名を自筆で書いて捺印してもらうこと、もう一つ、日時は私に一任して私の指示どおりに動くこと、これが条件だ。いいかい」上から目線、男前の洋子、例え用のない眼力に逃げ場を閉ざされる二人。
空港の障害者専用駐車場についた二人は洋子の指示で車から恐る恐る車椅子に移乗する、
歩道から空港ロビーへ向かうと典子が子供を連れて待っていた、「典子、休みの日に悪いね」「洋子いいよ、子供も来たがっていたから」「典子の子供は可愛いけど、うちは大きな子供が来たがって」ロビーの混雑にふたりのあいだの笑いがどんどん乾いてゆく。
開店から一ヶ月も経っていると言うのにロビー内は混んでいた、立ちつくす典子、「用心して車椅子を進めるのだよ」洋子の声が飛ぶ。
俺は管制塔でランウェイを見ている、行きたくても開店以来混雑で行けなかったから平日の開店時間、今日こそマックに行こうとウズウズしている、「何もなかった」交代にきた祐美が俺の後ろに立っている。
「早く行って来なよ、開店したら混むよ」どうやら俺の行動は読まれている。
平然を装い「その予定ですが、もう混んでいるでしょうね、でも行ってみます」と急いでエレベーターに向かった。
店の前で困惑している沙織、前に進もうと焦る加奈、「あの子たち車椅子で来て、どうかしているわ、邪魔よ」「こんなに混雑しているのだ、車椅子では来ないでくれ」「あの二人、常識を疑う」など、話し声が聞こえる、沙織の耳から黒い音のシミが身体全体にじわじわと染みてゆく、典子が一つ大きな伸びをして息を吐いた、沙織の名を呼ぶ。疲れと息苦しさで充血した赤い目がこちらを向いた。
「どうにもならんわ、大混雑だよ、車椅子では進むことも入ることも無理」
混雑した列の後ろにいた人をかき分け俺は無意識のうちに車椅子の二人に近づいた。
「行列から抜けて安全なところで待っていて、店員を呼んでくる」早口で告げ、入口側の通用口から入り状況を店員に説明すると店長らしい男性が出てきた。
男性は落ち着いた口調で「こちらからお入りください」と告げた、「俺も一緒でいいですか」という俺の言葉に「もちろん」と反応した沙織。
俺たちは通用口から店内に入るとホールの中にある個室に案内された、そこにはテーブル席が二つと車椅子のまま入れる障害者スペースのあるテーブルが一つあった、「ご注文はテーブルのタブレットでお願いします」と言い残し店長は部屋から出て行った。
迷うことなく沙織と加奈、典子と洋子はモーニングセットを注文する、俺と典子の子供はダブルバーガーセットだ。
「都築慎吾です、空港の航空気象管制官」と簡素に自己紹介をすると沙織が訝しそうに「航空気象管制官ですか」と言い直した。
何か得体の知れない不安感が俺の脳裏を霧が漂うように抜けてゆく、「航空気象管制官が何か…」思わず訪ねる。
「ちょっと前に岡山空港の航空気象管制官という人に私が飛ばした風船のことで怒られた」言葉をオブラードに包んだように辿々しく沙織が言う「それって、風船に向日葵の種、つけてあった」俺が聞くと沙織は焦って食べかけのバーガーをテーブルに落とした。
「慎吾さん、なぜ向日葵の種のこと知っているの」
「そ、そのメール送ったのは俺です、いやー参ったな」こんな偶然があるなんて、雷雲の空間を飛ぶ閃光を見た驚きと、心に響く雷鳴を感じた瞬間であった。
すると加奈がバーガーを頬張りながら「これは驚き」とスパーク、「偶然会った…、こんなこともあるのだ」典子は避雷針のごとくその場を繕った、そして一言「何かの縁だからメール交換してもらったら」と大地を揺るがす。
沙織は「そうね、慎吾さんさえよかったら」と俺にスパークしてくる、洋子が突然、時計を見ながら「早く食べて戻らないと、時間がないよ」と急き立てた。
帰りの車の中で加奈がおもちゃを見つけた子猫のような目をして「沙織、どうなった」と聞いてきた。
「とりあえず、メール交換してもらうようになったし、一人では行けない映画にも連れて行ってもらう事になった」
「ほう〜、よかったね」運転しながら洋子が微笑む。
*
薄暗い館内、最前列の扉に向かう沙織。
「何で最前列なの?」と問いたくなる俺を尻目に車椅子を進める、「車椅子の場所は決まっているから仕方がないの」と言って器用に人を避け車椅子を進める、もうすっかり身体の一部になっている。
「そうなの、知らなかった」とついて行くと、最前列の左右に座席のないスペースがあった。
沙織はそのスペースにピタリと車椅子を止め、「ここだよ、座って」隣の座席を軽く叩く。
映画が始まると俺は慣れていないのか、スクリーンが大きすぎて視点が定まらない、上下左右と頭が自然に動く、沙織は車椅子に深々と座り、与えられたスペースで自由に溢れているのか余裕で観ている。
映画も終わり食事に行こうと外に出る、街は茜色に染まり少し冷たい風が吹き抜け心地良い、店を探しながら街を進むがなかなか店が決まらない。入口の段差、障害者用のトイレ、店内の構造など俺は車椅子の不便さを嫌と言うほど思い知らされる。
やっとの思いでバリアフリーのファミレスを見つけ入ることに、「ねえ、大変でしょう」と沙織が明るく笑う、この余裕はどこからくるのか…、生きることの目的が根本から違う。
それからしばらくして沙織は退院し、医療事務の資格を持つ彼女は入院先でもあった医療センターに就職、単身者用ワンルームの寮で一人暮らしを始めた、ベッドも家電もついた部屋、トイレも障害者仕様で広い、どこも少し手を伸ばせば用が足りる、一人で暮らす部屋はまるでコクピットみたいなワンルームだ。
*
冬の山上空港は気候が変わりやすい、気象レーダーから目が離せない、俺は雲の動きを管制塔の管制官に逐一伝える、最終便がランディングするまで気が抜けない。
「お疲れ、最終便も無事にランディングしたわ、雪もちらつき始めたから早く帰ったほうがいいよ」祐美が管制塔から管制室に降りてきた、雪が積もると早朝から厄介だ。
空港ロビーから外に出るとチラチラと街灯に照らされて妖精の様な粉雪が舞っている。
頼まれた春の京都案内パンフレットを持って沙織の寮に寄った。
沙織にパンフレットを渡し「旅行でもするの」それとなく聞いてみた、「うん、ちょっと…」歯切れの悪い返事が戻ってきた「一条戻り橋に行ってみたいの」はにかみながら訳のわからないことを言う。
「戻り橋」って、「一条にあるいろんな伝説のあるあの橋かい」沙織が手放した未来を、あるいは自分が得られなかったことを眺めているような感覚に襲われているのだろうか、俺はただ微笑むしかない。
「あの事故の前にもう一度戻りたいの、そしたら違う人生を歩んでいたかもしれないから」
食い入るような目をして見つめる「何を言っているのだ、生きていただけでもめっけもんだよ、生きていたからこうして逢える」俺は無意識に長く大きなため息を吐いてしまう。
帰路、溶け残った沿道の雪がやけに光って見えた。どこまでも続きそうな直線道路を走りながら懸命に考えた、この道は果たして、戻る道なのか行く道なのか…。
戻り橋を渡っても過去に戻れる訳はない、それでも戻り橋を渡ることで気が休まるなら桜が咲く頃に一緒に行く事にした。
*
高原を舞っていた白い妖精も朝の陽光に追い返され澄み切った青空が広がり、職場に向かう歩道の端に、舞踏会の名残を残している、沙織は白い息を吐きながらセンターへ入ってきた、夜勤明けの典子「沙織、まるで機関車みたいだね、何かいいことあった」振り返りながら急ぎ足で通り過ぎて行く「春になったら彼と京都の戻り橋に行くの」「京都…、戻り橋…、なんのこっちゃ」典子、首を傾けながらナースステーションに消えて行く。
午前の仕事を終え食堂へ向かう沙織、典子がのんびりとランチしているテーブルへ向かう典子がトレーを覗いて「沙織、カレーか」「早く話したいから簡単に済むものにした」石炭を焚口に放り込む火夫の如く勢いよく食べる沙織。
「まったく、機関車だ、ところで京都、戻り橋って何のこと」典子が身を乗り出してくる。
「春になったら、桜が咲いたら慎吾さんと京都に行くの、一条戻橋だよ」弾んだ声を出す沙織。分かっているのか、渡れば時を戻せるものじゃないのだよ、分かっていて、何もかもを忘れ尽くして見せているのではないかとも疑う典子。
「戻り橋ってあのいろいろと伝説のある橋のことか」
「そう、その橋を渡って事故の前に戻るの」やはり沙織は足のことを忘れ尽くしたいのだ、そう確信した。
「アホか、タイムマシーンでもあるまいし、戻れるか」呆れ果てて声にもならない。
「いいの、戻り橋を渡って、もう一度自分を取り戻したいの、車椅子を捨てて慎吾のために歩きたいの、今のままでは何にもしてあげられないから」
「歩く…?」予想もしていなかった言葉は脳中を駆け巡り、しらけた気配に塩を刷り込んでゆく。
「歩くためにリハビリするの、先生もリハビリ次第で杖歩行はできるかもと言ってくれたし、洋子さんもリハビリ承諾してくれた」
「そうか、戻り橋は沙織の胸の中にあるのだね」という清々しい思いがじわじわと寄せてくる。
「そう、渡る決心をしに京都へ行って戻り橋を渡ってくる」手の込んだ演出をするものだ、しかし一からやり直す意味で戻り橋と言った沙織の言葉は、案外正しかったのかもしれない。
愛の奇跡というか、人を愛すということは病まで治す気になるのか、余命半年という癌患者が恋人のおかげで何年も生き続けたということを聞いたことがある、病は気からというが全く不思議なことだ、現代医学でも解明できない謎が駆け巡っている。沙織もその気になれば杖歩行できるかも知れない、胸の中にじんわりと希望が湧いてくる典子、思わず沙織の手を取り「行っておいで」と涙ぐむ。
*
管制塔に上がって気象情報を管制官に告げる慎吾、春先は爆弾低気圧が発生しやすい、俗に言う春の嵐だ、神経を使う季節、佑美も朝からピリピリしている、「慎吾、空港周辺の風力は」「ノース、20ノット」俺は風速計の数値を読む「横風か、ランディングぎりぎりだね、25ノットになれば他の空港へ回そう」佑美はキビキビと指示を出しパイロットとコンタクトしている。
横風を受け轟音を上げながらスライドしてランディングしてくる航空機、佑美の表情が険しくなる「無事着地、よかった」ふと表情が柔らかくなる祐美は頼れる存在だ、「今のうちに昼食、時間ないからマック」他の管制官に交代して俺を誘う、店内に入ると「その後どう…、うまく行っているの、彼女、車椅子だと大変でしょう」と突然切り出してくる。
「そうですね外に出ると色々と不便はありますがなんとか二人で乗り切っていますよ」曖昧な返事を返す。
「焦らなくていから、大事にしてあげなさい」
「桜が咲く頃に京都へ行こうと思っているのです、どうしてかわからないのですが、戻り橋を渡ってみたいと言うのです」
「戻り橋…?あの一条戻橋ですか、色々と伝説のある橋ですね。戦時中、召集された方が無事戻ってくるように渡ったと聞いたことがありますよ」
「そうですか、俺は妖怪とか亡くなった方が生き返ったとか聞いたことがあります」
「彼女は何故行きたいのかな?」
「事故の前にもう一度戻ってやり直したいと言っていたが…、車椅子では迷惑かけるから歩きたいとも言っていた」
「そうなの、足のこと、車椅子生活のことが気になっているのね」祐美の表情が曇った。
「過去を切り捨て、もう一度生きるため歩きたいとリハビリ頑張っています。どうやら戻り橋を渡ってそのけじめをつけようとしているようです」
「それで一条戻り橋…か、奇跡が起きるといいね、しっかり支えてあげなさい」そう言い残し祐美は店を出て行った。
*
沙織のリハビリは熾烈を極めた、勤務が終わるとリハビリ室へ向い平行棒を頼りに車椅子からの立ち上がりそして歩行練習、洋子の指導のもと実によく頑張っている。
「沙織ほれ、平行棒に縋り付かないで歩いて、早くしないと桜が咲いてしまうよ、橋を渡って人生変えるのだろ、あと10メートル頑張りな」洋子の声がリハビリ室に響く、平行棒から手を離し正面を見据え。脳裏にまだ見ぬ戻り橋を描き進む沙織。
「2メーター行った、すごいぞ、沙織!その調子」がらんとした空間に洋子の声が飛ぶ。
「後は筋肉勝負だね、下半身の筋トレ」洋子は沙織をトレーニングマシンに座らせ足を触る。
「沙織、なぜ戻り橋なの…」穏やかな声で聞く洋子、現実から逃げられないことは知っているのに、息苦しくなるほどしんみりと、しかしどこかふっきれた明るさで沙織は言った。
「このまま車椅子の生活は嫌なの、だからどうしても歩きたい。無理だとは分かっているけど、どこまで出来るかやってみたいの、昔の私に戻りたいの、だから杖ついてもこの足で渡りたい…戻り橋を」
「そうか、歩いてみるか戻り橋、決して無理じゃないよ、今もこうして少し歩けている」
「はい、今日は終了、もうリハビリ室閉めるよ」夜勤の典子がリハビリ室に入ってきた。
外に出ると少し暖かい春の風が吹いている、街路樹の下には風の通り道があり、その風に体を運んでもらっているような心地良さがある、車椅子で寮に向かう沙織の姿があった。
*
桜もちらほらと咲きだし心地良い春風も頬を撫でて行く、俺も管制官として祐美の指示に従いタクシーウェイに飛行機を誘導している、国際線も再開されて便数も増え、結構多忙だ。
「そろそろ桜が咲き出すね、いつ京都に行くの」祐実が聞いてくる、テイクオフするジェット機の轟音にかき消され反応が遅れる、一拍置いて「まだ決めていない」祐美はぼんやりと俺の声を耳の奥で繰り返した。
「早くしないと桜が散る」無意識に俺の弱みを探すので厄介なこと、「京都はまだ咲いてない」言葉がフロアーに溢れてゆく何の感情も湧かない、そこから先は惨めな自分を探してしまう。
「新人管制官が入ったけどまだ使えない、日帰りで戻ってくるのだよ、それと転ばぬように気を配るのだよ」思わず頭を下げたくなるような言葉が続くのだが、俺の心には響かない。
不安と希望が入り混じりどちらか分からぬもののあいだでゆらゆらと揺れることを繰り返していた。
桜が咲いた、ついにその時がやってきた。
寮から出ると歩道がピンクの霞に覆われている、歩道で典子さんと洋子さんが待っていてくれた、沙織は車椅子のホイールをゆっくりと前に進め二人のもとへ行こうとしていた時、慎吾の車が歩道に沿って止まった。
「都築さんドアを開けて」典子の声がポツリと告げた、そして洋子の声「沙織、そこから車椅子を置いて車まで歩いてみな」思いがけない言葉に心拍数がジワジワとはい上がってくる。車まで五メートルぐらい、「どうするの、ここから歩く…」急に不安という黒い液体が脳裏に染み込んでくる。
車椅子を止め立ち上がる沙織、洋子が側に駆け寄る「大丈夫、ゆっくり立てば良い」車椅子から立ち上がった沙織が杖をついて車に向かう。
そろそろと足を出し前に進む沙織、取り囲むように俺たちも沙織について歩く、少し暖かい春の風が沙織の背中を推しているようだった。
リハビリ室の冷たいリノリュームの床ではなく草の生えかけた暖かい遊歩道を車椅子から車のドアまで歩いたのだ、シートに座った沙織、断るにしても受けるにしても、とにかくここから一歩進まなければならない時期は沙織が思っていたよりも唐突にやってきた。
「よっしゃ、大丈夫。戻り橋は渡れる、行っておいで」晴れ晴れとした笑顔を沙織に向けた洋子、その言葉にひとつ大きく頷き微笑みを浮かべる沙織。
新緑の山道を下り高速道に向かう車の中で沙織にごく当たり前のことを聞いてみた。
「どうして歩く気になったの」すると「今の私では慎吾に何もしてあげられない、だからせめて歩けるようになって、あなたのお世話がしたいの」予想していたとおりの言葉が戻ってきた恐ろしくまっとうで、善意に溢れておりぶれがない。なんて良い人だろうと思った過去に悔いはないし、今もやっぱりこの考え方に惹かれてはいるのだけれど。
4時間ほど走って京都に着いた。堀川通り沿いの戻り橋公園近くの駐車場に車を止め沙織を車椅子に乗せ、戻り橋の端に…、沙織を車椅子から下ろし、俺は橋の反対側に車椅子を移動させた。杖をついてそろそろと、でも確実な足取りでこちらに向かってくる、その健気な姿に頬が濡れた、歩いている、過去を振り解くように歩いている、元の姿に戻るように戻り橋の上を歩いている。もう迷いはなかった、沙織と残りの人生を共に歩いていきたい、霧が流れて行くように俺の心は晴れてきた、いつしか目からポタポタと涙が溢れていた、しばらく内側から溢れる震えと戦った。
沙織は橋を渡りきり俺の胸に飛び込んできた、しっかりと受け止めた、沙織の顔は嬉し涙でグチャグチャ、そして「渡れた、戻ってきた、」と一言呟いた。
戻り橋は人の心に掛かっている、渡るか渡らないかはその人次第。
人生は下り坂になってからが面白い。
不完全であることが人を愛おしくさせる。
人は見えるものより、見えないものに支えられている。
そして時の流れが全てを解決してくれる。
どうでした面白かった。
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面白かったら☆五つ、つまらないなら☆一つ。
正直に感じたお気持ちで大丈夫です。




