振り止まぬ雨
「空‼」
天に雷鳴が鳴り響く中、リギラの悲鳴にも似た声が頭に響く。その声は震えており、空を心配している様子だった。
空はリギラの声に答えるように咳き込んだ。空は悪魔の重すぎる怒涛の攻撃を喰らうも、意識を失うことはなんとか免れていた。勢いよく殴られた空は空中で一度停止し、そのまま落下し始めた。
悪魔は空に拳を食らわせた後、追撃を仕掛けず倉庫の中に膝を付くように着地した。
「……弱ぇ」
立ち上がりながら小さく呟く。人間が予想以上に弱かったことに対してその言葉が自然と口から漏れ出ていた。
(想像以上に大した事ねぇ。初めに殴って来た時は少しばかり期待したんだが、あの程度でなんで来やがった。……まあ、いい)
勢いよく攻撃を仕掛け、逃走の機会を自ら断った人間に最初こそ関心は高まれど、期待していたよりも大したことのない人間の動きに悪魔の興味や警戒心は薄くなっていた。自身と相手の力量を測ることができなかったのか、はたまたこの力の差を覆す何かを隠し持っているのか。なぜ挑んできたのか疑問は残るが、それ以上に人間の処理を早く済ませることを意識し始めていた。
悪魔は近くにあったものに手を付き息を切らし、口に手を当て咳き込んだ。
「はぁはぁ、無茶しすぎた」
口に当てた手を見ながら言った。その手にはかなりの血が付着していた。
(この程度の動きで体に響いてきやがる。早めにけり付けてさっさと休まねぇと)
手に付いた血を握りしめ、早く済ませる決心を強めた。
その時、悪魔の後ろに天井にできた穴から天井の部品と共に空が地面に落下した。その衝撃で今度は先ほどより大きな砂煙が巻き起こった。砂煙は悪魔ごと一帯を包み込んだ。
「チッ、」
纏わりつく砂煙に苛立ち、腕で砂煙を払うと人間の安否を確認した。視線を動かして落ちてきた周囲を確認するも、そこに人間の姿はなく部品だけが転がっていた。
「……どこ行きやがった」
悪魔は落ちてきた部品を睨みつけた。
空は砂煙に乗じて殴られた腹を押さえながら、倉庫に置かれていた物陰に隠れ座り込んだ。表情にこそ変化はなかったが口からは呼吸と血が漏れ出ていた。
「空、大丈夫?」
リギラはまたも心配そうに空に声をかけた。リギラの声は未だ震えていた。空がS級悪魔に勝つ希望の兆しが見えた時に出した明るい口調は再び恐怖の色へと染まり上がっていた。
「ごめん、S級の強さを甘く見てた」
リギラが初めて空に謝った。
リギラはどんな時も謝るようなことはせず明るく振舞うお調子者であった。リギラの指示ミスでタスクで失敗しそうになった時でも、空がそれを責めることはなかったが、リギラは能天気に言い訳を並べるだけで謝ることはなかった。そんなリギラが謝るほどにリギラの精神は追い詰められ、それほどまでに危機的な状況に陥っていた。
危機的な状況に陥っていることは戦っている空自身も理解していた。怪我を負っていてもなおもこの強さ、今までとは次元が異なる悪魔の強さにS級悪魔に分類される所以を知った。これまで弱らせてきた悪魔たちとは明らかに格が違った。空はS級の強さを噛み締めるかのように腹部を押さえていた手を静かに丸めた。
一方の悪魔は落下してきた空を、探し回ることさえしなかった。いや、できなかったというべきか。
砂煙で視界が悪かったこともあるが、悪魔の激しい動きは彼の傷を自ら深めることに等しく、追撃をするには傷の痛みはかなりの妨害となった。
悪魔は自身の傷を鑑みて勝負を早めに決めたいと思っていた。
「はぁはぁ、どうしたよ人間。隠れてばっかじゃ俺を倒すことはできねぇぞ」
自分自身で人間を探すことも難しいほど衰弱していた悪魔は、相手から姿を現すように悪魔の挑発を倉庫内に響き渡らせた。
先に攻撃を仕掛けた空も、悪魔が話したことは先ほどの悪魔の攻撃を受けて身に染みて理解していた。今思えばケガを見ただけでなぜ悪魔に攻撃してしまったのか甚だ疑問であった。しかしあの時、空の思考に反して体は何かに引っ張られるかのように悪魔の元へと向かっていたのだ。
「あ、焦らないで空。何か打開策があるはずだ。こういう時こそ落ち着いて……」
焦るなと言うリギラの方がよっぽど焦っているように見られる。
一方の空に焦っている様子はなかった。空の思考に焦りはなく、追いやられた結果、天使の力をより綿密に感じ取ることに成功していた。腕・足・体幹だけでなく目や耳にまで張り巡らされている感覚。体が研ぎ澄まされていくのを実感していた。
空は静かに立ち上がり、一呼吸おいて物陰から飛び出すと、再び悪魔に攻撃を仕掛けた。
「やっと出てきたな!」
悪魔はすかさず出現した人間の気配を察知し反応する。
二人は右腕に力を集め大きく振りかぶりお互いに攻撃を仕掛けた。お互いに力を集めた腕がクロスする。力と力のぶつかり合いに先ほどより大きな衝撃が生じる。
「ッぐ!」
大きな衝撃が深い傷に響いて悪魔は少し怯んだ。衝撃の影響で悪魔の腹にある傷から血が滲み出る。
空は悪魔の一瞬の隙を見逃さず、自身の腕を悪魔の腕の上で滑らせそのまま回転した。回転した勢いのまま、左の肘に力を集め悪魔の腹に入れた。
「! あの動き!」
リギラは空の戦いを見て反応する。回転する今の戦い方は、空が初めてタスクをこなした時と類似していた。リギラは初めて空がタスクを行ったときの思い出がフラッシュバックした。あの時よりも何倍も速く、何倍も重い空の攻撃を見て、空の成長に期待と感動を抱いていた。
(がんばれ、空)
リギラは空の頭に響かせず、心の中で静かに思った。
「ぐはっ、」
空の攻撃を受けて悪魔は口を開いて血反吐を吐き、さらに怯んだ。空はさらに追撃を加える。
しかし、悪魔も負けじと空の攻撃を防ぎ、空の顔にカウンターを入れた。空は口に溜まった唾液を吐き捨てた。唾液には血が混じっていた。
先ほどは防戦一方の空であったが、二撃、三撃と攻撃を繰り出していく中で、悪魔に攻撃を当てられるようになっていた。悪魔が攻撃するたびにその動きを鈍らせていることもあるが、空は悪魔との戦いの中で飛躍的な成長を遂げていた。
次第に空と悪魔の攻防は激しさを増していく。ただ殴り合うだけでなく徐々に足の動きが加わり、体を大きく動かして攻撃を繰り出すようになり、倉庫内を縦横無尽に駆け回る。倉庫にあるものを武器や遮蔽物として使い始め、気づけば倉庫内全体が戦闘舞台として成り立っていた。天使の力を借りた人間と悪魔の戦いはとても人が行えるそれではなく、激しい音と共に倉庫内の形を歪ませていった。
途中、悪魔は道端の邪魔な小石をどけるかのように倒れていた三人の学生を倉庫の隅に蹴飛ばした。空は学生にまで手を回す余裕が無く悪魔から目を反らすことができなかった。
空は今までタスクをこなし多少なりとも戦闘経験が蓄積されていたとしても、所詮は人間の激しい喧嘩程度の経験でしかなく、それだけではS級悪魔との戦闘力の差は埋めることができなかった。しかし、類い稀なる戦闘センスと研ぎ澄まされた天使の力、圧倒的な成長力でなんとか悪魔との力の差をカバーしていた。
一方、悪魔の攻撃は防がれる数は多いながらも空に確実にダメージを与えていた。悪魔の攻撃その一撃一つが重く、たとえ攻撃を防いだとしてもジワジワとダメージを蓄積していた。しかし、最初に空を苦しめたときよりも攻撃の威力が落ちている。
「はぁはぁ」
悪魔は息を切らし苦しそうな表情をしていた。悪魔の負っている怪我は見た目よりよほど重症なのだろう。それでも悪魔は攻撃の手を緩めなかった。その様はまるで見えない何かに必死に縋り付こうしているようであった。次第に洗練されていく人間の動きに、先ほど薄れた興味と警戒心が再び強まり、それどころか目の前の人間以外を意識することが難しくなっていた。
倉庫内を動き回る中、空と悪魔の瞳の中に一瞬だけ相手の瞳が映った。
(こいつ……!)
悪魔は目の前の人間の目を見て確信したことがあった。それと同時に苛立ちも覚えた。こいつからは何も感じられないという事を悪魔は確信したのだ。戦うことの愉悦も、死ぬかもしれない恐怖も、勝ちたいという渇望も、相対している自身への興味でさえ感じ取ることができなかった。
悪魔は思った。
(こんなやつに負けたくねぇ)
悪魔が態勢を立て直し少しばかり攻撃の鋭さが増す。
空も喰らいつくように悪魔の攻撃に対応する。
時間が経つに連れて体力は減り、傷は増えるばかりの両者だが攻撃だけは衰えることはなく、むしろその鋭さを増していった。
拳を相手に殴りつける轟音が鳴り響き拮抗している状態が続いたその時、悪魔が足を滑らせて体勢を崩した。悪魔が態勢を崩した理由が分からず不意に地面を見ると、悪魔が踏んだその地面の場所にだけ泥水があった。先ほど壊れた天井から雨が降り出し、泥水が出来上がっていたのだ。
「ッ! くそ!」
焦る悪魔。空はその隙を当然見逃さず、悪魔の顔めがけて拳を繰り出す。振りかざされた拳は悪魔の頬に直撃し、決定的な一撃となった。
「がッ!」
空の拳を顔に喰らった悪魔は苦しそうな声を放ち、地面を転がるように倒れ込んだ。倒れた衝撃で飛び散った砂煙は悪魔の体を包み隠し、その煙が振り払われることはなかった。巻き上がった砂煙で影となった悪魔は動く気配を見せなかった。
ほんの少し前まで倉庫内に鳴り響いていた激しい音は天井を打つ雨音へと変わり、空の息切れの音と共に静かに響いていた。
「お、終わった?」
息切れと雨音が静かに鳴り響く中、リギラは恐る恐る、伺うように口を開いた。
「ウッ……」
リギラの言葉に返答するかのように悪魔の方からうめき声がした。倒れていた悪魔が立ち上がろうとしていた。しかし、見た目以上に体にダメージがあり、なかなか立ち上がることができなかった。
空との戦い以前に付いていた本来の身体能力を低下させるほどの致命的な傷跡に加え、負傷した体を蝕む過度な戦闘。さらにはこれまで悪魔に直撃せず、その全てを防がれていた天使の力を纏った空の攻撃でさえ、悪魔の体にダメージとして蓄積されていた。
極めつけは空の強烈な頬への一撃。悪魔の行動を制限させるには十分な負傷だった。
「お、終わってなかった! まだ立ち上がるの⁉」
リギラが悪魔の動きを見て反応する。リギラは立ち上がろうとするS級悪魔の強さだけでなくしぶとさも実感していた。
「はぁはぁ」
肩で息をしながらも悪魔は片膝をつき、腕を伸ばしてなんとか立ち上がろうとしていた。しかし、体に刻まれた傷と蓄積されたダメージが、立ち上がることを拒んだ。
「! チャンスだ空!」
動けない悪魔を見てリギラは空に促す発言をした。空もここを好機と捉え、リギラの言葉に応えるように一人奮闘する悪魔に近づこうとした。
空が足を動かそうとしたその時、空の視点が急に低くなった。空はふと下に顔を向けると、自身がその場で片膝を付いていたことに気が付いた。ダメージが蓄積されていたのは今なお立ち上がれない悪魔だけではなかった。空も悪魔同様立ち上がろうとするも足が動かなかった。
悪魔は動けない人間の姿を見逃さなかった。悪魔は横目で空の位置を捉え、狙いを定めた。
次の瞬間、悪魔が口を開けて全体をひねって体ごと空の方向を向いた。刹那、悪魔の口が黒色に光だし、やがて光の束となって勢いよく空へと向かって一直線に放出された。黒い光の束は空を包み込み、これまでで一番大きな轟音を鳴り響かせた。
光の束が消えると、それが通った跡は焼き尽くされて跡形もなく消え去っていた。まるで、レーザービームのようなそれは地面に削ったような跡と倉庫の壁に大きな穴を残し、隣接していた作業場をも貫いていた。