悪意との出会い
その日は土砂降りの雨が朝から続いていた。道行く人はみな傘を差し、空から降る水滴が音を奏でる様はまさにテンションを下げる鎮魂歌だ。滴り落ちる水滴は道に水たまりを作り、ありとあらゆる建物を濡らしていく。
あの日以降、空は特段変わらぬ日々を過ごしていた。起床し、学校へ行って避けられるはずの重みをよけず倒されたふりをし、悪魔を弱体化させ、いつもの場所で死んだように静かに眠る。いつもの日常にただルーティーンが一つ増えただけ。空の目にはいつも通り灰色の景色が映っている。空は今日も特に変わらぬ時を過ごす。
放課後、リギラに誘導され傘をさしながら言われた場所に足を動かす。空の傘も音を奏でていたが、心はその音に流されることなく、いつも通り今日の天模様と同じ色に染まっていた。今日もリギラに言われるがままにタスクをこなす。
空は日々こなすタスクの中、C級の悪魔だけでなくB級の悪魔との戦闘も経験していた。少々手間取り時間が掛かりはしたものの、特に大きな怪我を負うこともなく無事タスクを終えた。その時のリギラの様子といえば、大層驚いた態度だった。
その経験があってからかリギラは、空のこなすタスク処理に対して心配することはなくなり、タスクに対する警戒心も薄れ始めていた。
「それでこの前空とすれ違った人に憑いてた悪魔がね! もう少しでC級になりそうだったんだ! それでね……」
リギラは誘導している途中も一人で延々と喋る。空がタスクを順調にこなすことができるようになり、不安などない様子。言葉を返されないなど知ったことか。心配事など一切ないかのように、空に反応されることのない言葉を明るく発する。
「あ、そこを右だよ」
話の所々で出される誘導に導かれ、空はある場所へとたどり着いた。空は建物が並ぶ、とある敷地の境界付近で足を止めた。
「やっと着いた。今日のタスクはここだよ!」
リギラは空の中で指を差した。空は差していた傘を少し上に傾けて、傘から滴り落ちる雨水のカーテンからその場を覗き込んだ。空の瞳に今はもう使われていない町はずれの廃工場が映り込む。
廃工場はフェンスに囲まれ、錆が目立つ大きな二つの建築物が反り立ち、作業場と倉庫に分かれていた。
そこは人の目が届かず不良たちのたまり場として学生の間では密かに噂されていた場所だった。そこで屯するだけならまだかわいい方だが、無関係の人まで連れ込んで恐喝や強姦も行っているという噂話があった。
今日の仕事は学生として、人として行き過ぎた行動をする不良、そんな彼らに取り憑いた悪魔の弱体化であることは明らかだった。
「それじゃあ行こっか!」
リギラの言葉に引っ張られるように空は足を動かし倉庫の入口に立った。中から重い不穏な空気と生臭い鉄の匂いが漂う。リギラは口を開かず、その重苦しい雰囲気を感じて空の頭に固唾を呑む音を響かせた。リギラがタスク前に何も喋らないのは、初めてのタスクを行ったとき以来である。
空は重苦しい空気も、錆びた鉄の匂いも、リギラの静かな様子も、何も気にすることなく中に入ろうとした。空がふと下に目線を向けると靴を濡らして付いたであろう複数の足跡が奥まで続いていた。空は足跡を辿るように倉庫に入った。
倉庫を少し進んだだけで灰色に映る視界が黒くなっていった。電気は当然点いておらず、曇り空に降雨のこともあって視界も悪く、倉庫内にあるものは全てが影として映った。倉庫の中はかなり広く積み立てられた収納箱や棚で溢れていた。
積まれた雑貨の間を通り抜けてさらに奥に入ると、空の瞳に四つの人影が映った。空はその存在に気が付くと、その場で足を止めた。空の目に映った人影はそれぞれに姿勢を取っており、二人は地面に寝そべり、残りの二人は立っていた。
「ーー」
内容までは聞き取ることはできなかったが、かすかな声のようなものが空の耳に入ってきた。持っていた傘とカバンを隅に置き、人影に歩いて行こうとした。
その時、立っていた人影の一つが空の足元に向かって飛んできた。地面は土であったため、人影が倒れ込んできたことで砂埃が蔓延する。少しして砂埃が消えていくと、徐々にその姿が露わになる。空の近くであったため、暗くても姿かたちがはっきりと見えた。
飛んできた人は体に多くの傷跡を残しており、動く気配がない。体から地面にドロッとした液状のものが流れ出ている。それは空がかつて事故にあったときに見たものと同じものであった。
「くそっ、こんなところまで追いかけてきやがったのか」
荒っぽい声が倒れている人の奥から聞こえてきた。その声はおそらく立っていた人影のもう一方が発しているのだろう。空は視界を横たわる人影から声のする方向に向けた。
人影は空の方へと歩み寄る。土の地面を踏みしめる度に倉庫内に音が鳴り響く。徐々に人影が近づき、その姿形がはっきりしていった。
出てきたその姿を見た瞬間、それが明らかに人間でないことを理解した。全体像は人のシルエットと変わりない。空も先ほどまで人と見間違えていたぐらいだ。しかし、手と足には何でも引き裂けそうな鋭い爪、口の中にはすべてを嚙み砕きそうな鋭い牙が並んでいる。その鋭利な爪と牙には血が付着していた。白目の部分は黒く染まり、逆に黒目の部分は別の色に染まっている。しかし、目の前の相手を印象付けるものはそのどれでもなく、頭から生える二つの角と背中から生える真っ黒な翼であった。
「空、早く逃げた方が良い」
倉庫に入ってから何も話さなかったリギラがようやくその口を開いた。しかし、その声は震えており、ただならぬ様子を表していた。このとき、リギラは重苦しいプレッシャーがのしかかっているように感じていた。
「そいつ、S級だ」