善意の否定
目を覚ましてからの一週間、空はリハビリを行いながら病院で生活した。お爺さんが言うには事故にあった日から一ヶ月間眠っていたらしい。リハビリを開始して最初こそふらふらとしていたものの、数日が過ぎたころには医者のお爺さんが言った通り特に後遺症のようなものもなく普段通りに体を動かすことができた。
リハビリを行っていた途中、トラックを運転していた人が空に謝罪に来た。少し小太りなおじさんはリハビリの途中で切り抜けてきた空に深々と頭を下げた。おじさんは完全にこちらの不注意だと何度も謝罪してきたが、道路に飛び出た空にも責はあり、空が特に何も感じていなかったこともあったため、謝罪を素直に受け入れた。持ってきていた謝礼の物を受け取り、この件は片が付いた。
別れ際に、空の態度を見たおじさんは空のことを大人びていると言った。空は自分に言われた気がせず、他人事のように話を聞いていた。
そして迎えた退院の日、
「具合が悪くなったり体調に異変を感じたりしたらすぐに病院に来ること。あと、定期健診も忘れずにね」
病院の入口でにこやかに微笑みながらそう言い残す医者に、頭を下げて空は病院を後にした。両親は仕事で忙しく空は徒歩で戻ることになった。
「退院したばかりの子供を迎えにも来ず徒歩で帰らせると何事だ‼」
と、常に温厚だった医者もこの時ばかりは親の対応にひどく怒っていた。命に別状がないと分かったその日から、空が寝ている間にはトラックの運転手以外誰も空の見舞いに来なかったらしい。空が目を覚ましてからも両親が見舞いに来ることはなかった。兄は地方の大学へ進学したばかりのため忙しくこちらに来ることはなかった。
しかし、空は気にならなかった。むしろ来ないことが当然だと思っていた。嘘で固められていた過去の空ならまだしも、何者でもない今の空に見舞いなど来ない。
寝ている途中で二人が見舞いに来た理由は、家庭から死者を出して憐みの視線を向けられることを避けたかったから、もしくは見舞いに行かなければ毒親と後ろ指を差されるからだ。
目が覚めてから来なくなった理由は、回復して元の生活に戻ると分かって先の心配事を考慮する必要がなくなったからだ。
兄に関して言えば、医者が述べた言い訳の通りだろう。愛情を注ぐ価値がなくなった。空の中ではそのように帰結し、完結していた。悲しみも怒りもなく、どうでもよかった。
医者に歩いて帰っても特に問題ないと言われたので歩いて向かうことにした。医者は歩いて帰ることは認めたが、推奨はせずにずっと不服そうであった。あらかじめ届けられていた衣服を着用して、空は足を動かし睡眠の場所へと体を動かす。いつも学校から戻る重い足取りと同じように。
「~~!」
ただひたすらに重たい足を動かす。何ら変わらぬ事。ただ、いつもと違うことがあるとするならば空の頭上から声が聞こえることくらいだった。
「~~‼」
空の上の声は次第に大きくなっていく。空は無気力・無感情ではあるが、思考ができない植物人間ではない。空は確認した方が良いという結論にたどりつき顔を上に向けた。この判断でさえ自分以外の誰かのものの気がしたが、どうでもよくなり行動に移した。
空の視線が天へとずれる。するとそこには慌てふためく顔が、空の顔の間近にあった。空が目の前にあるものが顔だと認識した刹那、空の顔に衝撃が走った。感じなれた重みでもトラックにはねられた衝撃でもなく、また感じたことのない新たな衝撃。
空は道端に倒れこみはしたものの意識を失うことはなかった。幸いそこは車通りの少ない道沿いで車も人影も空の近くにはなかった。空は上体を起こしてその場に座り込む。嘆きもがくでも泣きわめくでもなく空は顔色一つ変えず鼻をさすった。
「ッ~~!」
近くで誰かが嘆いている声がする。ちょうど空の体が向いている方向からうめき声は聞こえた。空は地面に向けられていた視線を声がする方向に向けた。
そこにいたのは背中に羽が生え頭上に光る輪を浮かべた人間で、空と同じ様に道端に座り込んでいた。
「いったぁ……。だから避けてって言ったじゃん!」
自身の頭をさすりながら座り込んだ人が、文句を言いながら空の方を見た。空とその人はふと目が合う。お互い特に恥ずかしがることもなく、顔と顔を向け合う。
一方は難しそうな顔で。一方は無表情で。
その人は数秒間、男か女かわからない中性の顔だちで空の顔を覗き込んだ後、ニカッとはにかんで唐突に空に提案をした。
「君、ボクの仕事を手伝ってくれない?」
唐突の妙な提案をされた空はしばらく動かなかった。目の前の人が訳もわからないことを言っている状況。このような状況でも空は戸惑うことなかった。単純に聞きなれたことのないワードにどのように返答するか考えていたための不動だった。
結果、やはりというべきか空は当然断ろうという結論に至った。ただでさえ明らかに普通ではない風貌、上から落ちてくる不可解な行動、関わるはずもない。このような奇妙なことでさえも空は興味を示すことはなかった。ただ、普通の人なら断るだろうという合理的判断の元で、その結論を見出したに過ぎなかった。
目の前できらきらした目で見つめてくる人に断る意思を伝えようと空は首を横に振ろうとした。
しかし、体が思うように動かずふと下を向いた。
「ほんとに⁉ よかったぁ、ありがとう!」
満面の笑みを顔に浮かべて、空にその顔を近づけながら目の前の人はお礼を言った。喜んでいるのが目に見えてわかるほどその人はテンションが上がっていた。空が鼻をさすっていた手を強引に握り上下に思いっきり振れ動かした。
動きも言動も表情も激しいその人に比べた一方、空は再び動かなくなった。空はなぜ目の前の人が喜んでいるのか理解できなかった。もしかしなくても先ほど俯いた仕草が肯定と捉えられたのだろう。
空は断るために口に出そうとした。しかし、その口から言葉が出ることはなかった。
なぜ今断ることができなかったのだろうか。先ほど断るという結論に至ったはずなのになぜこの人の頼みごとを受けてしまったままなのか。意思とは別の行動をとった理由がわからなかった。ケガの後遺症のせいなのか、それとも普通でない目の前の人と関わることで自分も何者かになれる気がしたからなのか。
イヤ、何者かになる、そんな希望は捨てた。これはさっき避けられなかったことのこの人への償いだ。空は自身の中でそのように区切りをつけた。
「本当にありがとう! いやぁ君を見たときビビッときたんだよね。こいつには才能があるって! あっ、自己紹介がまだだったね」
怒涛に言葉を垂れ流すその人は腰より長い髪をなびかせ、頭上に光る輪を浮かせながら立ち上がり
「ボクの名前はリギラ」
背中に付いている翼を広げ
「見た通り天使だ」
とにこやかに自己紹介した。空は黙って自己紹介を聞いていた。
「あれ、驚かないのかい」
目の前の人、もとい天使は当然の疑問を空にぶつけた。普通の人なら天使を見たとき驚くか、はたまた好奇心を抱くか、もしくは目の前に天使を名乗る頭のおかしい人がいる状況に引いてしまうか。いずれにせよ何らかの反応を示すだろう。しかし、空は何の反応をするでもなく、他人事のようにただ天使をじっと見て自己紹介を聞いていた。
「反応がないなんてつまらないなー」
天使は頬を膨らまし腕を組み怒っているかのような態度を表現した。ころころと表情が変わる表現豊かな人、ではなく天使であった。
「まあいいか。それで君の名前は?」
天使はすぐに機嫌が戻りそのように言いながら座り込んでいる空の前に手を差し出した。空は天使の言葉を聞き流すかのように、目の前に差し出された手を掴み立ち上がりはするも、自己紹介はしなかった。
空が立ちあがった次の瞬間、天使が白く輝き出し天使は光の中に包まれていった。あまりのまぶしさに空は握っていないもう片方の手で光を遮りながら目を瞑った。
目を開けるとそこに天使の姿はなく、つい先ほどまで握っていた天使の手もいつの間にか消えていた。空は軽く辺りを見回したが、どこにも天使の姿はなかった。
「ちょっと! なんで自己紹介しないのさ!」
突然、どこからともなく天使の声が聞こえてきた。空は今まで経験したことがない感覚に囚われた。脳に言葉が直接響いてくる不可思議な感覚だった。
「今、なんだこの天使って思ったでしょ? 言いたいことは色々あるけど、まずは名前を認識してよ。リギラだよ。リ・ギ・ラ!」
天使、リギラはまたふてくされたように言った。リギラは空が自身を正しく認識していないと思ったのか、念押しするように名前を連呼した。
「さて、自己紹介も終わったところだし、しばらくの間空の体に住まわせてもらうね」
先ほどと同じくリギラはすぐに機嫌が戻り明るい声色だった。また、リギラの声から楽しそうに振舞うリギラの姿を想像させた。空にその姿が見えているわけではない。しかし、リギラの元気溢れる甲高い声は空に想像する意図がなくても、勝手に空の思想に映り込んでくるようだった。
そこに居ないはずなのに、居るように認識する奇妙な感覚。空はリギラのいきなりの寄生生活宣言に対しても、経験したことのない奇妙な感覚にも、特に反応を示すことはなかった。
「あ、そうそうボクが住み憑くにあたってなんだけど」
先ほどからリギラは一人で黙々と話し続ける。空は呆れるでもなく黙ってリギラの話を聞いていた。
「物にはすべて魂の波動みたいなものが流れているんだけど、簡単に言えばエネルギーかな。空の魂のエネルギーにボクの天使の力を流し込ませてもらいたいんだ。タスクをする上で大事なことだからね。あ! 特に体に害はないから心配しなくていいよ!」
淡々とリギラの口早な説明が続く。空の頭にリギラの声だけが響いていた。一人で話していてもリギラは楽しさを醸し出していた。
「ただ、見た目の変化がちょっとだけ出ちゃうんだよね。ほら、あそこにある鏡で自分の姿を見てみて」
リギラに言われるがまま空は近くにあったカーブミラーに自身の姿を映し出す。特に変化は見られないが、頭を見ると髪の色が黒色から灰色に変わっていた。目に見えるもの全てが灰色に見えるからそのように見えるのではなく、これはおそらく本当に灰色なのだろう。髪が灰色に染まっている様はまるで頭に心の色を映し出されているみたいだった。
「よし、それじゃあ行こうか」
リギラは空が外的変化を確認するやすぐに頭に声を響かせ意気揚々と言った。空には一体どこへ行くのか見当もつかなかった。また、どこへ行こうともどうでもよかった。
「チュートリアルだよ」
まるで空の心を見透かしたかのようにリギラは答えた。しかし、リギラの返答は何を意味しているのか全く理解することができなかった。それでも空は天使に導かれるままに足を動かした。
いつもとは異なる方向、しかしながら足取りは同じように。