逃げと焦りと霧と悲鳴
空は悪魔を追って森の中へと入っていった。
そこは、地面は人の手が加わった形跡がなく足元が取られるほど凸凹しており、上を向くと育ちきった枝葉が天を覆い隠し日の光を遮っていた。漏れ出た残光が地面の草木に斑点を作り出し煌めいていた。
しかし、空の目にはいつも通りの灰色の風景が映る。灰色に映るその風景は、空の目には一秒も留まらず、辺りを見渡しては次のポイントへと移動することを繰り返していた。
悪魔の姿を追って木々で溢れた森へと入った瞬間、空はその遮蔽物の多さと薄暗さで視野を狭められ悪魔を見失ってしまった。途中までは悪魔の残した痕跡を辿って追跡していたが、その痕跡さえもなくなってしまった。
途中、ギハンは森の入り組み具合に追跡できないと不満をぼやいていた。気づけば空は森の奥深くまで足を踏み入れていた。
「空。この辺りをくまなく探してください。痕跡がこの辺りで消えているということは、おそらく近くで身を隠しているはずです。彼の傷でそう遠くにはいけないはずですから」
ギハンは空にこの辺りを捜索するように指示を出した。空はギハンの言葉に従い辺りを探し始めた。しかし、悪魔の姿らしきものはそこには見当たらず、その痕跡さえも見つけることができずにいた。捜索範囲を広げ周囲を探すも悪魔も痕跡も、どちらも見つけ出すことができなかった。
「おかしい。これだけ探して痕跡すら見つからないのは明らかに変です。あの悪魔特有の能力で痕跡を消した? いや、それでも何かしらの跡は残っているはず……」
ギハンは悪魔の痕跡すら見つけられないことに疑問を抱き、独り言を呟いた。
「痕跡を見間違えたり偽物である可能性は?」
独り言を呟くギハンにリエガはその可能性を示唆した。リエガは空が、悪魔を逃したことが面白くないのか、協力的な姿勢を示した。
「それは無いと思います。私たちが追っていたのは悪魔が通った草の割れ道や踏まれた枝、彼の足跡や傷から出たであろう血痕などそれら一つ一つを追うのではなく、それらを総合して通ったであろう道を導き出して追跡していました。その結果、次から次へ出現する痕跡を辿ることができていました。よって、見間違えた可能性は限りなく低いと思われます」
ギハンはリエガの一つ目の可能性を否定した。ギハンの声は少しばかり早口で、焦りが再び出ているようだった。
「それと偽物である可能性ですが、これもありえないと思います。そこに痕跡がある以上、それが偽物であろうが本物だろうが彼自身が通った証拠になり得ます。彼に分身する等の能力があって本体ではない分身に痕跡を作らせているのなら話は変わりますが、その可能性もないでしょう。そんな能力があれば最初から逃走のために使っているはずですから」
ギハンは二つ目の可能性についても否定とその理由について説明した。全員がギハンの説明に納得すると、しばらくギハンは何かを考えるように独り言を呟いていたが、それ以外は誰も口を開こうとしなかった。
「まぁまぁ。ここで悩んでもしょうがないし、もう少し探してみようよ。さっきは見つからなかった何かが見つかるかもしれないよ」
少し暗くなった雰囲気をぶち壊すかのようにリギラが口を開いて提案した。リギラの声で雰囲気が明るくなった気がした。また、リエガとギハンの焦りも少しばかり解消されたような気がした。
「……そうですね。リギラの言う通りかもしれません。」
ギハンはリギラの言葉に納得し、同意の言葉を述べた。その表情は心なしか穏やかなものに見て取れた。ギハンはリギラの言葉で、ひとまず心を落ち着かせた。
「空、最後に痕跡を見つけた場所に戻りましょう。私たちが何かを見落とした可能性があります。そのた
め、一度戻って確認に……」
ギハンが空に戻るように指示を出そうとしたとき
「うわああああああああ‼」
森のさらに奥深くで誰かの悲鳴が響いてきた。三体はその声を聞いて少し驚いた反応を示した。空は声のした方向をじっと見ていた。
「ッ‼ この声‼」
リギラが声の主に気付き、辺りを見回した。しかし、リギラはどこから声が聞こえてきたかわからなかった。
「あぁ! 間違いねぇ‼」
リエガも声の主に気付きリギラと似たような反応を示した。
「空‼」
ギハンが空の名前を大声で叫ぶと、空は指示を受けたときのように声のした方向へと走り出した。空は人里離れた森の奥深く深くへと足を踏み入れていく。空が森の奥へと走るにつれて、次第に霧が出るようになっていた。
(霧……?)
ギハンは霧が出ている理由が少し気になりながらも、今は他に注意すべき点があったためすぐに意識を反らした。
しかし、空が森の深くへ入っていくにつれて霧は意識せざるを得ないほどにますます濃度を上げていった。空はただでさえ狭い視界を濃霧でさらに遮られ、声がした方向がわからなくなり、一度その場で立ち止まった。
「これじゃ悪魔を探すどころじゃないよ!」
リギラが声の主の正体を叫びながら、霧が深くなっていくこの状況を嘆いた。
(これは悪魔の仕業? いえしかし、先ほどの叫び声や、空から逃げ回っているときに使わなかったことから考えてもその可能性は低い。では、この霧は一体……)
ギハンは霧について意識すると先ほどの悲鳴との関連性について脳の無いその頭蓋骨で頭を働かせていた。
「死神!」
リエガの呼ぶ声で死神は我に返りリエガの方を向いた。
「お前の魂を見る能力で悪魔を見つけられねぇのか?」
リエガが今日初めて焦ったような声を上げた。リエガもこの異様な状況では冷静さを保つことが難しかった。
「不可能です。あれは死神の固有の能力で死神の体があってこそできるもの。私が憑いても空に透過能力が使えないように、空の体がベースである今、その能力は空にも私にも使えません。それに、あれは人間の魂を視覚するものであって人間以外には適応されませんよ」
ギハンはリエガの声に気が付くと早口で説明した。ギハンは頭では冷静さを保とうとするも、その声と心には焦りしか見られなかった。悪魔はふてくされたようにギハンに聞こえるくらい大きな舌打ちをした。
ギハンはリエガが苛立つ様子に理解を示し、怒ることはなかった。
「そういえば、リギラはいつもどうやって悪魔の場所を特定しているのですか? もしかしたらその情報次第で今の状況を脱却できるかもしれません」
ギハンはリギラに質問を投げかけた。ギハンがした質問は、リギラが普段行っていることをこの奇妙な状況で忘れているのではないか、という意図を含んでいるようだった。
「残念だけどそれは無理かも」
リギラはギハンの質問に否定で返した。
「ボクが普段悪魔の場所に案内できてるのは勝手に頭の中に情報が入ってくるからなんだ。それも常に入ってきてるんじゃなくてタスクをしようとする前の一回きりでそれ以降は日を跨がないと情報が入ってこないんだ」
リギラはギハンの質問の回答をより詳しく説明した。リギラの答えはギハンの望んでいた答えとは異なっていた。リギラの妙な答えに気が回らないほどギハンの意識は逃げ出した悪魔と先ほどの悲鳴に集中していた。
「そうですか。それは残念です」
ギハンはリギラの回答を不服そうに返した。
その時、小さくすすり笑う声がした。草のざわめく音が良く聞こえる森の奥深くで、空は脳内ではなく直接耳で確かに聞き取った。空は声がした方向に顔を向けた。
「? どうしたの空?」
リギラは真っ先に空の様子に気付き、空に声を掛けた。リギラは先ほどの笑い声に気付いている様子はなかった。空はいつも通りリギラに反応することなく、さらに森の奥へと足を運んだ。
「おい、どこに行くんだよ」
リエガが急に歩き出した空のことを妙に思い、その本音を口に出した。リエガも笑い声に気付いていなかった。
「もしかしたら、空が何か知覚したのかもしれませんね」
ギハンがリエガの質問に答えるように曖昧な返事をした。ギハンは返事をしたもののその内容は確信の得ないものだった。リエガ同様、ギハンさえも笑い声に気付いていなかった。
「……こいつならありえるな」
リエガはギハンの曖昧な言葉の中に含まれた妙な説得力に感化され、納得してしまった。納得したリエガがそれ以上、空に追及することはなかった。
リエガとギハンが空の中で会話している最中も、足を動かしていた空は開けた場所に出た。そこは木々の数が他の場所に比べて少なく、空の腰の高さまで生い茂っていた草木もその身長を縮め数を減らしていた。空が森に入ってからずっと視界を狭めさせていた自然はその場所だけ息を潜めていた。相変わらず濃いままの霧が、他と比較しても奇妙なその場と相まって、不気味な雰囲気を醸し出していた。
空の中に居る三体もその場所の奇妙さに勘付き、声を出すことはなかった。開けた場所を見つけた後、しばらくその場の様子を見ていた空は不気味な雰囲気に足を取られることなく、再びその足を動かし始めた。
空が辺りを見回しながら数歩だけ歩いたとき、空は自身のつま先に自然のものとは違う別の何かが当たったことを感じ取った。空は顔を下に向けてつま先に当たったものを確認した。
「! これは……!」
ギハンが空のつま先に当たったものを認識して驚きの声を上げた。
ギハンが認識した「それ」は、先ほどまで空から逃げ回り森の中へと逃げ込んだまま姿を暗ませたA級悪魔の倒れている姿だった。




