空
――灰色だ。
四秀高校二年、白時空は学校の廊下を歩いているときに心の中でそう思った。
正しくは“そう思ったかもしれない”だ。実際に、彼の目で捉えられるすべての物、景色、人物が灰色に映り、また彼の心も灰色に染まりきっていた。
彼は最初からそのような体質だったわけでもなく、彼が生きた短い人生の中で障害を患ったわけでもない。彼は人生を経験するにあたり、彼を含む彼の周りの世界が灰色に移り変わっていったのだ。
「おいっ、クソラ!」
空が無気力で教室に向かう途中に、突然、大きな声が空の後ろで発せられた。それと同時に一般的な高校生より少し大柄の少年が後ろから空にぶつかってきた。標準的な体型である空の体ではその重みに抗うこともできず、廊下に倒れこむことは当然のことであった。空は硬く冷たいであろう廊下に滑り込むように倒れ込んだ。
空の周りにいた人たちは何事かと音のした方向に顔を向けるも、騒ぎの中心が空だと気付くと、気まずそうにすぐにそっぽを向いた。ちらちらと空の様子を伺うも、誰も倒れ込んだ彼に手を差し伸べようとはしなかった。
空の様子を伺っていた一人の少年が倒れ込んだ空の虚ろな目と合わせると、少年はその目をすぐに反らし、またちらちらと目を動かし空の様子を伺った。少年の態度は誰の目から見ても明らか、面倒事に関わりたくない者がする仕草そのものだ。廊下の壁の端には空に関わらないように人が寄っていたが、廊下の中央にいる者は滑るように倒れ込んだ空と大柄な男子高校生だけだった。
「ひょろっちぃなあ、クソラ」
「ちゃんと飯食ってんのか?」
大柄な高校生に続いて二人の高校生が嫌味を言いながら廊下中央の舞台に足を踏み入れ、空に近づいてきた。
空のことを「ひょろっちぃ」と、吹き飛ばされたことを罵る方は前歯が優れた少年。どう見ても取り巻きにしか見えない、強者のおこぼれを貰うハイエナみたいな人間。もう一人は喧嘩上等な肉体を持つ少年。どうやら彼が三人組のリーダーのようだ。
三人はこの進学校では存在するのが珍しい不良グループであり、先生の目の届かないところで暴力や恐喝を行っていた。先生たちの前では優等生を演じ、教師陣も進学校ブランドに盲目してこの学校に不良など存在するはずないと、疑いなど微塵も持っていない様子。
優等生を強いられるストレスを抱える日々の中、彼らは何をされても無抵抗で何の反応もしない空の噂を耳にする。彼らにとって、空の噂話はまさに朗報。空の性格が彼らを呼び寄せ、挙句の果てにストレス解消の捌け口にされてしまったのだ。
そんな折に付けられた空のあだ名。クソな空でクソラ。なんとも安直なネーミングセンスである。高校一年のときに三人が命名したことからいつの間にかそのようなあだ名が定着し、今や学校内で周知されていた。そのため、学校でクソラに関わろうとする人は不良グループ以外いなかった。
(何するんだ!)
吹き飛ばされたことに対して怒りから出てきた言葉。空の口からこの言葉が出てくることはなかった。今ではそんなことを言うどころか思いすらしない。
――どうでもいい。もはや興味すら湧いてこない。吹き飛ばされた自身のことでさえ他人事のように思える。いつからだろうか。何に対しても興味を持たなくなったのは。
リーダーは横たわったまま動く気配のない空の腹に蹴りを一発入れた。
空は言葉の代わりに痰を吐いた。ひんやりとした廊下に温かの空の唾液が飛び散る。周りからヒソヒソと話す声があちこちから発生する。
空に蹴りを入れた不良がこちらの様子を伺う一般生徒に睨みを効かせた。巻き込まれることを避けたかった観衆は、すぐに目を反らした。周りに構うことなく、リーダーはしゃがみこんで空の髪をつかみ、空の顔を自分の顔にまで近づけた。
空はなされるがまま、動こうとはしなかった。
「相変わらず何の反応も示さねぇんだな」
空の顔の近くにある顔はにやついた表情を浮かべていた。その顔の後ろには立ったまま同じ表情を浮かべる二つの顔。その顔以外にも空の視界の隅にいくつかの顔が入り込んできた。表情までは見ることができないが口元が動いていることを視認した。
「今日の分の昼飯もよろしくな!」
リーダーは空の頬を叩きながら話すと、空の髪から手を離して空の顔は再び廊下の床に近づいた。彼らはそれだけ言い残して二年一組の教室へと入っていった。空はいつも昼飯を買わされていた。
空は何も考えず、何も感じず、何の感情も抱かず、無気力のまま立ち上がった。周りからはまたヒソヒソと話し声が聞こえる。それが空のことを話しているのか、別のことについて話しているのかもどうでもよく、ただ環境音として空の耳に入った。空は三人の後に続いて同じ教室へと入っていった。
悪口の書かれている席に座り授業を受ける。後ろからゴミくずが飛んできた。三人のすすり笑う声が聞こえてきた。気にも留めず授業を受ける。教師は当然気づいていないのだろう、何も言わない。周りの学生は見て見ぬふりをする。空は手に持った鉛筆で黒板に書き出される文字をノートにただただ写した。その動作はまるで言われたこと、指示されたことを繰り返すロボットのようだった。
本日のすべての学校での業務が終了し戻るための準備をする。右足と左足を交互に動かし寝るための場所へと体を動かす。必要最低限のことだけを行う日常。自身が行う一挙手一投足が誰かの物の気がしてならない。
周りがみんなしていることだから、周りが自身に求めていることだから。空はゲームのように客観視したような状態で自分というキャラクターを動かす。
交差点に差し掛かり信号が赤になったので止まる。車が通っていなかったので、何人かは信号が切り替わるのを待たずに赤信号を歩いた。
空は赤信号を渡る、という選択をすることができなかった。自身の選択、自身の言葉が誰かの真似をしているものの気がしてならなかったからだ。どのような選択、思考をしようとも、それはきっと誰かの真似事でしかない。そこに自分の意志など存在しない。空は自身の人生が自分のものではないと思い込んでいた。
空は赤信号を渡る決断をせず、そこで立ち止まった。その立ち止まるという選択でさえ、誰かのものの気がしてならなかったが、その思い込みさえも他人事でどうでもよかった。
立ち尽くす空の背中にいつも廊下で体感している重みがかかり、道路に弾き飛ばされた。背後から聞きなれた三人の笑う声が聞こえてきた。
「じゃあな! 明日も頼むぜ」
そう言って彼らはその場を離れていった。空はいつもと同じように無気力に立ち上がろうとした。
瞬間、今度は感じたことのない重みが横から乗しかかってきた。空は再び弾き飛ばされた。
空は自身を客観視しているものの、体感を感じないわけではない。その体感も誰かのものである、という考えのせいでどうでもよくなっているだけである。空にはいつも以上に弾き飛ばされた感覚があった。吹き飛ばされるのは本日三度目である。
空は再び道路に倒れ込み、先ほどと同じように立ち上がろうとする。しかし、体を動かすことができず、いつもと同じように立ち上がることができなかった。空は硬いアスファルトの上に横たわったままである。
灰色の世界に何かドロドロした液体のようなものと男性が映り込んできた。男性は空の顔を覗き込むように見て口を動かしている。しかし、その声は空に届かなかった。男性は慌てふためく様子で電話をしていた。徐々に空の周りに人が集まりだして誰しもが空のことを見ている。空にとってその光景を見ることは、廊下に続いて本日二度目だった。
空は二度目の光景を見ながら灰色に映る世界は徐々に狭まっていき、やがて完全に黒くなった。