第001話 沈黙の石環 ドワーフのロージ初めて石と話す
ロージが初めて「石と話した」のは、十の歳の秋だった。
その日、鉱山村の朝は早く、まだ霧が残るうちに祖父はロージの肩を叩いた。
「石の声、聞きに行くぞ」
「石に声なんてあるの?」
「あるさ。お前が黙っていられればな」
祖父と一緒に歩く尾根道には、話さないルールがあった。
道の先にあるのは“石聖域”。誰も手を触れず、誰も名をつけず、ただ残されてきた岩が静かに眠っている。
息を潜めるように進むと、ぽつりと丘の真ん中に据えられた黒い輪石が見えた。
大人の掌ほどの丸い石。真ん中に穴が開いていた。
「“静耳石環”だ。これに耳を当ててみろ」
ロージは首をかしげたが、素直に従った。
……何も、聞こえなかった。
ただ、冷たく乾いた静けさが、頭の奥にじんわりと染み込んできた。
「何か言ってる?」
「それは石が決めることだ。声があるかどうかじゃない。“感じ取る耳”があるかどうか、だ」
祖父のその言葉が、幼いロージの胸に小さく響いた。
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年月が流れ、ロージは王都の学術院に進んだ。
人より少し小柄なドワーフの身体に、書物と石のかけらばかり詰めた重たい鞄。
彼は“記録する者”として、ただ真っすぐに知識と向き合っていた。
だが、提出した論文「記されぬ石と語る旅路」は、教授陣に一笑に付された。
「聞こえない声? 記録にならんだろう、それは詩だよ」
「語られないなら、それは“存在しなかった”のと同じことだ」
ロージは何も言い返さなかった。けれど心の底で確信していた。
——それは違う。
語られなかったものは、消えたわけじゃない。
“名がついていない”というだけで、その存在が否定されるなら、誰もが語られぬまま忘れられる。
そして彼は旅に出た。
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ロージの鞄には、かつて祖父から譲り受けたしじま綴があった。
石粉を漉き込んだ重たい紙に、鉱筆で書き込むと、時間とともに文字がわずかに浮かび上がる。
“沈黙を記す”ための、ドワーフの特殊な記録帳だった。
ある日、ロージは北方の山裾で、不思議な岩と出会った。
それはただの岩のように見えたが、一部だけ磨かれたように滑らかで、まるで誰かが触れ続けていたかのようだった。
ロージは無言で、静耳石環を耳に当てた。
……やはり、音はない。
だが、そこには“触れた痕跡”があった。
誰かが、話しかけようとして、言葉にならなかったもの。
ロージはしじま綴を開き、ゆっくりと記した。
《記録日:第41日》
対象:未分類の石面/構造=掌の形状に近い凹み
観察:表面温度+1.2℃(周囲比)/風圧微弱吸収
思念記述:
「この石には、声より確かな“触れた手”の記憶が残っている」
「語られなかったことが、石の沈黙をあたためている」
そして、祖父の言葉を思い出した。
「石は語らない。けれど沈黙には、言葉より深い物語がある」
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その夜、焚き火の前で、ロージはふと自分の手を見つめた。
記録するということは、語られなかったもののために“ページを空ける”ということ。
「書くってのは、語られるのを待ってる石のために、ページを空けておくことなんだ」
そう呟いて、ロージは再び、ペンを取った。