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シャドウ

作者: イチジク

夕暮れの風はひんやりとした。橙色に染まった校舎の窓が、まるで遠い記憶の欠片を映し出す鏡のように揺れている。天宮樹あまみや いつきは、重い鞄を肩にかけ、黙然と歩道を進んでいた。周囲の友人たちの声は遠く、まるで自分だけがこの世界から取り残されているかのように感じられた。毎日のように繰り返される「他人の顔色を伺う」思考と、そこに生まれる自己嫌悪。その果てにあるのは――虚しさしかない。


「俺は一体、何を求めて生きているんだろうか」


心の中で呟く言葉は、昼間の陽光さえ飲み込む沈黙となり、樹を包み込んだ。彼は眉をひそめ、足早に交差点を渡る。ふと見ると、古びた商店街の一角に、ひっそりと掲示板が立っていた。錆びついた枠組みに、貼り紙や広告の類は一枚もない。ただ――


「自らの影を求む者、試練を覚悟せよ」


不気味なほど端正な書体でそう刻まれていた。しかも文字が、かすかに脈動するように見えたのだ。樹は足を止め、指先が触れそうなくらいまで近づいた。正体不明の叫びにも似た胸騒ぎが、全身を駆け巡る。


「あ…なんだ、これ…」


地寺真美ちでら まみが樹の隣に駆け寄ってきた。

「樹、何見てるの?」

彼女の声は風に乗って明るく響いた。だが、その向こうに暗い影を背負っていることを、真美はまだ知らない。


「この掲示板――何か書いてある。『影を求む者、試練を覚悟せよ』って」

樹の声は震えていた。文字を見るたびに、胸の奥で小さなきりが回るように突き刺さる。


海坂隆二うみさか りゅうじが静かに近づく。

「また変なの見つけたのか?」

隆二は眉をひそめ、樹の横顔をじっと見つめた。

「俺は気味が悪いと思うけど…」

彼の言葉には、決して軽口ではない不安が滲んでいた。


三人は無言で掲示板を見つめる。夕闇は早足で迫り、商店街の蛍光灯がひとつ、またひとつと灯り始めた。その薄暗がりの中で、樹の心臓だけが不規則な音を立てる。


「…触ってみないか?」

樹は思わず呟いていた。自分でも驚くほど淡々とした口調だった。だが、その言葉には、どこか抗いがたい引力があった。


真美は首をかしげながらも、樹の視線を追った。隆二は腕組みをしたまま、黙って二人を見つめている。樹は深呼吸をひとつすると、掲示板にそっと手を伸ばした。


金属の枠に指先が触れた瞬間、空気が変わった。風が巻き起こり、三人の髪を乱し、掲示板の文字が唐突に輝きを増す。樹の視界が真っ白に染まり、鼓膜が圧迫されるような感覚に襲われた──


「――ッ!」


樹は思わず声を上げ、手を掲示板から引き剥がした。しかし既に遅かった。足元の床が揺れ、街灯の光が滲み、周囲の建物が蠢くように歪んでいく。真美と隆二も反射的に樹の腕を掴むが、光の奔流に呑まれ、三人は声にならない叫びを上げる。




次に樹が意識を取り戻したとき、そこは廃墟と化した商店街そっくりの光景だった。だが、輪郭は滲み、色彩は失せ、ただ無機質な焦土と化していた。白い空には黒いもやが張り付き、遠くからは機械めいた低いうなり声だけが聞こえる。


「…ここは、どこだ?」

樹は膝をついて震える手で顔を覆った。靄の中から、かすかな足音が近づいてくる。振り向くと、そこには先ほどの掲示板の文字と同じ筆致で書かれた影のような存在が立っていた。


黒いコートの裾が虚空を撫でる。マスクのように平滑な仮面に隠された視線が、樹を捕らえて離さない。


「ようこそ、『影の領域』へ、天宮樹」

声は樹の脳裏を直接震わせるように響いた。人ならざる低音。それは彼の心の奥底にある恐れと、同時に忘れてしまったはずの「自己」を喚び覚ます。


胸の奥で何かが凍りつき、鼓動が止まりかける。だが、その冷たい威圧の中に、樹は奇妙な安堵も感じていた。これまで常に他人に合わせ、自分を殺してきた彼には、誰にも知られない「影」があるはずだ──それを見せつけられることで、逆に救いがあるのではないかと。


声を絞り出す。


「お前は…何者だ?」

影はかすかに首を傾げ、こう答えた。


「私はお前の――“影”だ」

その言葉に、樹の表情が歪む。自分自身の闇が、目の前に形をとって立っていた事実が、彼を言葉以上に震わせる。


「お前はずっと、他人の期待に囚われていた。笑顔と優しさの裏で、己を押し殺し、孤独を抱え続けた」

影は一歩、樹に近づく。

「だが今、試練を望むなら――自らの影と向き合い、これまで封じてきた『本当の自分』を解放せよ」


その声音は、優しくも残酷な命令だった。樹は痛みを伴うくらいに目を閉じ、深く息を吸い込む。


「…わかってる。俺は、俺自身を知らなかった。だが…」

樹の喉が震える。

「――受け入れる。これまでの自分を、すべて」


影は静かに頷き、両手を掲げると、黒い靄が渦を巻いて三人を包み込んだ。風と音と光が、再び樹の意識を白の世界へと引きずり込んでいく──


――廃墟化した「影の領域」に再び立つ天宮樹。灰色の空は静まり返り、遠く聞こえるは、自らの鼓動だけだった。

足元の瓦礫を踏みしめながら、樹はかすかな声を漏らす。

「俺は…何と戦うべきなんだ?」


深い霧のように漂う闇が、ゆっくりと樹の前で渦を巻いた。そこにひとりの影が浮かび上がる。黒く歪んだコートの裾、仮面めいた顔。だが、それは他人ではない──自分自身の「影」だった。




「お前は、これまで何度も自分自身に嘘をついてきた──」

影の声は、樹の胸の奥でずっと鳴り続けていた言葉を代弁する。

「“いい子”であり続けるために、感情を抑え、欲望を隠し、誰かの期待を生きる仮面を被って――それが本当に、我が生きる理由か?」


樹は肩を震わせる。

「違う…俺はただ、楽をしたかっただけだ。自分で決める責任を負いたくなかった。だから、誰かに『こうしろ』と言われれば、そのまま従っていればよかったんだ…!」


影は薄く頷く。

「その怠惰こそが、真の絶望を生んだ。自らの意思を放棄した者に、この先の自由はない」


闇の中、樹の思考は渦を巻く。自分を縛ってきたのは、自分自身だったのか。誰かの期待も、教師の言葉も、親の望みも──すべて、自分が選ばず受け入れてきたのだ。




影が指先を動かすと、樹の胸の内に封印してきた過去が映し出される。

•幼い頃、家族の前で泣けば「しっかりしろ」と叱られた夜。

•中学時代、友人に合わせて作った笑顔の裏にあった孤独。

•高校での文化祭準備、みんなを喜ばせるために自分を犠牲にした疲労と後悔。


一つ一つが、棘となって樹の胸を突き刺す。息が止まりそうになる中、樹は自分の声で叫ぶ。


「そんな記憶…見たくなかった!」


だが、影はやさしく言い返す。

「隠せば隠すほど、深い闇となってお前を蝕む。真に光を得るには、その痛みさえ抱きしめるしかない」


樹の目から、熱い涙が頬を伝った。痛みは鮮明だが、同時にそれが「確かな自分の痕跡」であることも確かだった。



そのとき、霧の奥から地寺真美と海坂隆二が駆け寄ってきた。


真美は膝に手をつき、荒い息を吐く。

「樹……ご、ごめん。私、まだ終わってないの……!」


隆二は冷静なまま樹を見つめる。

「俺もだ。樹だけをここに残せない」


二人も独自の闇と戦ってきたのだ。真美は「正義のために誰かを裁く」強迫観念、隆二は「孤独から逃れられない」自己嫌悪に囚われていた。それぞれの試練を乗り越えて合流した今、三人は互いの手を取り合う。




影が再び姿を現し、三人に静かに問う。

「お前たちが求めるものは、本当に“自分らしさ”か? それとも、また別の仮面なのか?」


三つの視線が交錯する。三人のモノローグが重なり合い、まるで合唱のように響き始めた。

•樹(内心):「自分を殺すことで、誰かを傷つけずに済んだ。でも、その代償は大きすぎる――俺はもう、逃げたくない」

•真美(内心):「皆を守りたい。でも、自分が犠牲になれば、本当の助けにはならない。私は、私のままでいたい」

•隆二(内心):「強がって孤独を隠してた。でも、もう誰にも嘘はつかない。俺にも、支えが必要なんだ」


その瞬間、三人の心がひとつになった。自分を誤魔化す仮面を捨て、互いに助け合うという新たな誓いが、領域を揺るがすほどの光となって爆ぜた。




灼熱のような光が、黒い靄を焼き払い、影の姿を溶かしていく。瓦礫の床には、三人を刻印するかのように輝く光の輪が浮かぶ。


樹は額に手を当て、震える声で言った。

「…これが、俺の、俺自身だ」


真美と隆二も、互いに相手の手を強く握り締める。「これが、本当の私たちだ」と無言で通じ合った瞬間、異界の試練は終わりを告げた。



光が消え、三人は現実の商店街へと戻っていた。掲示板は再び錆びつき、あの囁きは跡形もない。だが、彼らの胸には確かな変化が刻まれていた。


――彼らはもう、他人の期待に縛られることなく、自らの選択で歩むことを誓ったのだ。次の一歩は、それぞれの未来へと続いている。

帰還して数日が経った。

異界《影の領域》での体験は、まるで悪夢のようでもあり、強烈に現実を変えた記憶でもあった。


天宮樹は、教室の片隅でぼんやりと窓の外を見ていた。

昼の陽光は眩しく、何もかもが「本物」のように思えた。

以前のような、虚無に包まれた灰色の世界ではなかった。




「天宮くん。最近、ちょっと雰囲気変わったね」

同級生が何気なくつぶやいた。

笑顔で返した自分の口元に、樹は不思議な実感を覚えた。

無理に作った笑顔じゃない。ただ、嬉しいから自然に笑った。それだけだった。


誰かに認められたいわけじゃない。

誰かを演じる必要もない。

ただ、こうして自分でいることが──少しだけ誇らしく思えた。




地寺真美は、生徒会での活動を休止した。

「もう、私が私を裁くのはやめたの」

とだけ言い残して、生徒たちの輪に戻っていった。

そこには、かつての孤高さではなく、人の中で生きる彼女がいた。


海坂隆二は、以前より少しだけ口数が増えた。

「…群れるのも、悪くないな」

不器用な笑顔を浮かべながら、いつも通り自販機の前で缶コーヒーを手渡してくれる。


三人は「変わった」のではない。

本来の自分たちを、ようやく受け入れ始めただけだった。




その夜、樹の夢の中に再び“声”が現れる。


「見つけたぞ──“仮面の継承者”よ。影に踏み込んだ者は、もはや戻れない」

「お前たちは、世界の真理の門を叩いた」

「次は、“理想の影”が、世界を飲み込む」


目覚めた時、汗が額を濡らしていた。

胸の奥で、何かが蠢いている。何か、未だ終わっていない予感。


樹は天井を見上げ、深く息を吐いた。


「そうか。ここからが本番、ってことか」




夜明けの商店街。

薄明の中、かつての《影の掲示板》が静かに輝きを取り戻していた。


だが、そこに浮かんだ言葉は、かつてのような皮肉ではなかった。


『自分の心を、信じろ』


その瞬間、樹の中に確かなものが芽生えた。

痛みも、過去も、間違いもすべて抱えたまま、それでも歩いていける自分がいると。

仮面を脱ぎ、真実を受け止めた自分こそが、本物の「俺」なのだと。


そして──また一人、影に飲まれた少年がいるという報せが届く。


天宮樹は立ち上がった。

地寺真美と海坂隆二も、無言でうなずく。


新たな「心の戦い」は、もう始まっている。



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