お疲れ女友達
今日やるべきことを全部済ませて明日に備えて寝ていると部屋の鍵がカチャリと開き、誰かがバタバタと入ってくる。俺の部屋の鍵は家族ととある女友達にしか渡していないのでたぶんどちらかだろうが、こんな夜遅くに無断で上がってくるのは後者だろう。
無視して寝ていると、カバンが床に放られた音が聞こえ、次いで上着が床に放られた音がする。その直後、女友達がパイプベッドに上がり込んでくる。背を向けている俺にくっついてくる。
「ねー疲れた。家まで帰れないから泊めてよ。もう一歩も動けないんだけど。このままいっしょに寝ていい?」
会社の事務服のままだし、シャワーとか浴びなくていいんだろうか? あと、このまま寝るって、夕食は? もう夕食というような時間じゃないけれど。
「このまま寝るの! 疲れたし、もう動けない。シャワーとか食事とかどうでもいい。寝たい。あんたとのんびり寝てたい」
女友達が俺の足に足を絡め、俺の脇腹に腕を回してきて、俺はのんびりと寝ていられなくなる。今までにもそれなりのスキンシップはあったけれど、こんなに密着したのは初めてだ。なんにせよ着替えたらどうだろう? 事務服がシワになる。
「着替えるったって、着替え持ってきてないし。もうこのままでいいよ。シワになってもいい。もう私あの会社行かないし」
え、辞めてきたの?
「辞めてないけどもう行かないのー! あんなブラック企業もう無理。明日から行かない。あんたの家政婦になっていい? 給料いらないからごはんだけ食べさせてよ」
唐突だな。
「二週間後の会議を明後日に変更するから早急に資料を用意しろって、こっちにはこっちの日常業務があるんだってのー! そんないきなり用意できるわけないじゃん! 上様はお暇だからいつでも構わないんだろうけどねー、私らは忙しいんだよ!バカ」
俺にバカと言われても。でも資料はちゃんと作成したんだろう? だからこんなに遅くまでかかったのだ。
「私真面目すぎー。偉すぎない? でもそうやって文句言いながら会社に従っちゃう自分が超嫌。ふざけんな!っつって帰ることができたらどれほどいいかって思うよ」
まあでも、真面目なのは悪いことではない。偉い偉い。悪いのは、真面目な子達の足下を見る会社の方なのだ。
「ねー好き。ありがとう。メッチャ嬉しい。え、もっと褒めて。頭も撫でて?」
偉い偉い偉い。でも頭を撫でてほしいなら足や腕のロックを外してもらわないと。俺は動けない。
「あー……じゃあナデナデはいいや。抱き枕にさせて。ねえ、お布団の中メッチャ暖かいね。あんたの体も暖かい。幸せ。こんな暖かさだけでも幸せになれるくらい私不幸なんだけど」
そうか? こんなので幸せを感じられるなら、それは幸せなことなんじゃないだろうか? 少なくとも、意識が高すぎてどこまでも満たされない人間よりはずっと幸福だと思う。
「まあねー。あんたがいてよかったよ。私も、ただ暖かいだけじゃ満足しないけどね? あんたが褒めてくれて、暖かくて、そんで大袈裟にせずそっと接してくれるから、私は幸せなんだよ?」
そっとと言っても、俺も男なので女子にくっつかれると当たり前に下半身が痒くなってくる。夜中だとなおさらだ。
「でも、私に抱き枕にされてるだけでも充分に気持ちいいでしょ?あんたも。え、不充分か。ダメか。男子ってそんな感じ? いや、私も男についてはそれなりに知ってるけど、私らって友達じゃん?」
友達だし、この女友達と何かをするって想像するとそれはゾッとしないが、しかしながら、男なんて女を目の前にしたら、もう猿なのだ。女に抱き枕にされているんだとしたなら、余計に猿だ。
「そっかー。私はただ、あんたのぬくもりとか優しい口調に癒される~って感じなんだけど、あんたはちょっと違うってことか。意外。あんまりそういうのに興味ないのかと思ってたけど。いや、あっちゃダメってことはないよ? 意外だなーと思っただけ」
男に例外はないし、俺の中の猿が山から下りてくる前に抱き枕を解除してもらいたい。並んで寝るだけなら全然構わないし、手ぐらい繋いだってもいい。
「こうしてあんたの顔を見ずにあんたに話しかけてるこの状態が、私は好きなんだけどなー。あんたの声が真っ暗な部屋にポツンと浮かんで、また沈むみたいなのが好き」
それは俺の顔が不細工だから観賞には不向きということか。友達とはいえそういうふうに皮肉られると傷つく。
「違うから。そういう意味じゃないし。ときどきネガティブだねあんた。じゃあこっち向く? 私は全然いいけど、向かい合ったらもっとやりづらくなるんじゃない?」
それは間違いない。だったらこの状態のままの方がまだマシだが、それはそれとしてシャワーでも浴びて事務服ぐらい着替えたらどうだろう。俺に触れている事務服の硬さがなんか気になる。寝ていて落ち着かない。
「シャワー? もう疲れたしなあ。こうして喋ってるけど、ホントに疲れてんだよね、私。気を抜いたら寝ちゃいそうっていうか、気絶しちゃいそうな感じ? ねえ、私臭い? 汗とか掻いてんのかなあ。臭かったらシャワーするしかないんだけど、どう?」
臭くはない。でもたぶん汗ばんではいて、それが本来の体臭と混ざり合って独特な匂いを捻出している。この匂いも俺の頭をくらくらさせる。俺の猿をキーキー言わせる。
「あはは。猿はもういいから。でも私変な匂いしてるってこと? エロい匂い? バカかー!もう。女友達に向かってエロいとか言わないでよ。でも、そうだな。私もあんたの匂いは嫌いじゃないよ。あは、嫌いだったらこんなふうにしないよね? シーツとか全然替えてないし、今着てるスウェットも五日はおんなじの使ってるでしょ? 汚ぁ……。でも全然臭いと思わないし、むしろなんか落ち着くんだけどね」
俺は少なくともシャワーは浴びている。
「私はシャワーいらない。明日の朝にします。え、明日? うん、ホントに会社行かないよ。もう辞めるもん。もう絶対行かないから。あんたの部屋掃除して、シーツ洗って、夕食の買い出しとかしてるよ。えー?えへへへ、本当だよ?」
辞めるんだったら資料なんて用意しなくてもよかったんじゃないか。まあ本気で辞めるつもりがないことも俺はわかっている。明日になったらけっきょく、嫌々ながらに出勤するんだろう。だから事務服はしわくちゃにしない方がいい。
「……じゃあ服脱ぐ。いや全部は脱がないよ! あはは! もうやめてよー。上着とスカートだけ。ブラウスは脱がないし……下もストッキング穿いてるから大丈夫。見られても恥ずかしくない! 見ないだろうけど」
今は夜中で消灯しているから見えないだろうけど、ストッキングなんて明日の朝、透け透けじゃないか。俺が抗議している間に女友達は本当に服を脱ぎ始めている。だったらついでにシャワーを浴びるなり俺の服を着るなりしてくれ。
「無理~。今ので体力使い果たした。もうマジで動けない。あ、ちょっと……カラダ逃がしたでしょ!? もう~、抱き枕させてよ。ちょっとこっちに、ゴロンてして戻ってきて。寂しいの! 癒して!」
ワガママな。自分の欲求だけを満たそうとしよってからに。体力を使い果たして動けないなら、今夜はもうそのまま眠るといい。あんまりにも駄弁って寝ないでいると明日に響くだろう。
「明日は一日中寝てるからいいのー。あー、あんたの部屋の掃除はしてあげるけど。……はい、捕まえた。抱き枕復活! ふふふ。あ、ホントだ。服脱いでくっつくとより気持ちいいね。すご。なんかあんたの体温がより伝わってくるっていうか……あんたの体の雰囲気もリアルに感じれる……」
要するに、より生々しくなったのだ。女友達の太股は細いわりに柔らかい。体温も暖かいというより熱っぽい。籠ったような暖かさというか……。こんなことなら事務服を着させておけばよかっただろうか。
「もう遅いよ。もう事務服なんて部屋の隅に投げ飛ばしちゃったから。……ねえ、私が早く眠れるように、優しい言葉をいっぱいかけてよ。そうしてくれたら、もう動かないし、ちゃんと寝てあげる」
偉い偉い偉い。会社の無茶振りにもきちんと対応していて偉い。それどころかその日の内に済ませちゃうなんてすごい。仕事がよくできる。仕事だけでなく人間もよくできているんだろう。俺だったらPCの画面を殴って帰宅しているところだ。すごいすごい。すごいし、可愛いし、非の打ち所がない。でも会社が本当に嫌だったら、冗談じゃなく辞めていいんだよ。次の仕事はきっとすぐに見つかるだろうけど、それまでは俺の家政婦をやってくれても構わない。
背後の女友達に喋りかけていると、唐突に首筋に柔らかく濡れたものが当たり、俺は体の芯が伸びる。
「あ、ごめん寝落ちかけた。ビクッてなったよ。あはは……眠りかけてるとき、ビクッてなるときない? あれなんなんだろうね。……あー、首にチュウしてた? ごめんごめん。でも唇押しつけたままにしとくのもなんとなく安心するかも。チュウしたまま寝たい。こんなふうにして……あはは。くすぐったい? え、あんたの猿? 猿どうなった? 山から下りてきた? あはは。下りてきたらどうなるの?あんたの猿。なんか可愛いね。あんたの猿可愛がってあげたい」
隠語として言っているのか、マスコット的に見なしているのかわからないけど……いや、もう『マスコット』という言葉も隠語のように感じるけれど、俺の猿は自分のテリトリーであるはずの山で遭難しそうだ。不安そうにキーキー鳴いている。
「ねえ、あんたって私のことどう思ってるの? 襲いたいとかは絶対ないよね。今までもそうだったし、今日もそんな感じじゃないし。いや、わかってるよ? 男は猿だけど……あんたは我慢してくれてるじゃん? うん? 我慢してるんだよね? そういう受け取り方でいいんだよね? でも、なんで我慢するの? あー……まあ友達同士だからね。でも私はあんたをワガママに抱き枕なんかにしてるし、線引きってどこでされてるんだと思う?」
俺は自重するけれど、別に嫌ではないから女友達の行動に制限をつけさせたりしない。嫌ではないというか、まああんまり猿を挑発されると困るんだけど、女友達にとってそれが必要なことなら、別に、まあ仕方ないって感じだ。
「あんたはホントに優しいね。もったいないな、私には。あんたがいつまでもそんなふうに私を受け入れてくれたら、なんだかんだで仕事続けちゃいそうなんだけど。頑張れちゃいそう。……えへ、バレてた? でも明日は休むよ! これは本当! もう行きたくないもーん疲れたし。明日は無理。あんたもいっしょに休んでくれたらなー。一日中こうしてたい。二人でズル休みしたいなー。なー。なー……ふふ、冗談だよ。でも今夜くらいは甘えさせてほしい。甘やかしてほしい」
やれやれ。ちょっと撫でてあげようかなと思い、なんとか腕を曲げて女友達の方に伸ばそうとするが、やっぱり届かない。腕も足も抱き枕にされているのだ。それでも、と体を少し傾けると、女友達のどこかに体重をかけてしまい、女友達が寝落ちかけたときと同じようにビクリとする。
「んんっ……あっ、ふっ、ちょ……ちょ!? あ、ごめん変な声出た。恥ずかし。あははは……寝返り打ちたかっただけか。びっくりした。なんかとうとう襲われるのかと思って。あんたが足を、こう、私のお股にグイッて入れてくるからさ……。あ、たまたまですか。それはすみませんでした。あはは……別にいいんだけど。いや、あんたが私に何をしたってっていう意味。これだけ私の好き勝手許してくれてて優しくしてくれてんのに私の方だけ『は? 触んないでよ』とはならないでしょ。ね? そうじゃない?普通。私も自分からはいちいち言わないけど、そういうところは対等だと思ってるよ?いつも。う、うー……ごめん。やっぱりシャワー浴びてきていい? いや、わかってるわかってる。何もしないよ。したくないんでしょ? 私が浴びたいだけだから。え、したくなくなくなくはない? したくなく、なく、なく、は、ない? ん? どっち? まあいいや! シャワー浴びてくる!」
女友達が布団から出ると、なんというか、汗とはまた違った濃厚な香りが匂い立つ。この香りをシャワーで洗い流したくなったんだろうか? あんな強烈な香りを放ってそれを目印としてくれていたなら、猿も迷わず山から下りられそうなんだが、俺はなんだかんだこの山自体が好きで、迷っていてもそれなりに楽しいのだ。