トモダチの君は
ある日の休日。
「たまにはアルバムでも見返して、昔を懐かしんでみないかい?」
結婚してからというもの、昔を振り返る機会には中々恵まれなかった。子供の世話も大変だし、碧花との夜はその…………いつも盛り上がってしまって、お互い燃え尽きるし。俺達が想いを通じ合わせ、正式に結婚して五年目。節目と呼ぶには中途半端な気もするが、既に碧花はアルバムを広げ、懐かしむ気満々だった。
「……お前が懐かしみたいだけって線はないか?」
「ふふ、それはあるね。でも君だって見返したくなるよ。私の胸の成長とか、変態な君が気にならない筈がない」
「うぐ…………」
子供を碧花の家に遊びに行かせたのは正解だった。こんなに威厳のない父親は見たくないだろう。しかも言いがかりではなく事実だ。小学校の頃から発育がめざましいとは思っていたが、中学に入って急成長。更に高校で成長したのだからこれは大変。一人だけアニメとか漫画に張り合えるようなスタイルの良さが、当時碧花を一番モテさせた要因である。
普通に考えたら、胸と共にお腹とかもだらしなく大きくなる訳で。碧花は一族自体が体質の改良を続けてきたお陰もあると言っているが、だからと言って本人の努力がないとは言い切れまい。その胸の大きさに反したスレンダーボディとのバランスは、最早奇跡の境地にさえ達していると言っても過言ではない。毎晩裸を見ている俺が言うのだからこれ以上の説得力は誰にも出せまいて。
「そういえば胸が大きくなると下着でお洒落出来ないって聞いたけど、やっぱそうなのか?」
「んー。まあそうだね。私はそこまで気にしていないよ。君が気に入ってくれるなら、それで十分だ」
ここぞとばかりに 碧花が対面から隣に移動してきて、肩を寄りかからせてくる。ページをめくると、仏頂面を卒業した碧花がぎこちない笑みを浮かべながら俺とのツーショットを何枚も撮っていた。
―――昔は、もっと仏頂面だったよなあ。
昔、というのは俺がヘタレていた時の話。それでも俺は、碧花が好きで仕方なかった。その頃と比べると、今は本当によく笑うし、穏やかになったと思っている。
「―――あ」
「どうかした?」
小学校時代の碧花を見ていたら、嫌な事を思い出した。俺がヘタレていた時の話なので、このアルバムにはないが―――記憶は記憶だ。碧花との思い出ならばどんな事であれ片時も忘れた事はない。そのどれもが良い思い出……と言いたいが。
「…………お前にマジ切れされた時がちょっと過った」
「……ああ、あれかー。あれは、君が悪いね。私が絶対に怒らない聖人だと勘違いしたならそれは大きな見当違いさ。もう怒ってないけど、改めて懺悔でもする?」
「いや~……今思い返すと、本当に馬鹿だし。情けないなって。怪異と遭遇した時より泣いてたんじゃないか? まほろばの時よりは、正気だったと思うけど」
碧花が髪を掻き分けながら、そっと俺の顔を覗き込んだ。
「思えば、あの時から君は私の胸が大好きだったね」
「いや、だって……そんなつもりじゃ!」
「ふふふっ、冗談だよ。これだから君をおちょくるのは、時々病みつきになる。良い反応をしてくれるじゃないか」
果たしてあれを良い思い出と呼ぶかは賛否あるが。
ともかく碧花は怒らせると怖い女なのだと。心の底から理解した。ただ怖いのではない。話していて辛くなる、今すぐ自分が消えてしまいたくなるような。あんなのは二度とごめんだ。俺ががむしゃらに友達を欲しなくなったのは―――これが、原因だったかもしれない。
小学校に限らず、子供はたまに、善悪を無視する。
殺人とか強盗とかそういう話ではない。少し考えれば明らかにただ相手の気分を悪くするだけだと分かっていても、どんな反応をするか気になるからやってしまうのだ。眼鏡をつけた友達から眼鏡を取ってみたり。教科書を一時的に隠してみたり。
それはイジメのきっかけにもなりうる危険な行為だが、やる側はイジメのつもりというより、少なくとも最初は悪戯のつもりだ。
碧花と『トモダチ』になってから暫くして。
俺こと首藤狩也には、新しい男友達が出来た。
「いよーす狩也! 今日も遊ぼうぜ!」
「ゲームやらせてやるよ! 家に来いって!」
二人の名前は羽群茂流と高無李久。俺が碧花と仲良くなり始めた頃、たまたま声を掛けてきて、意気投合した。やはりゲームは共通の話題になりやすい。俺達は前世での縁を信じて疑わないくらいには仲良くなり、当時の俺は、碧花を軽視してまで二人と交流していた。
「なあ狩也。お前ってさ、碧花ちゃんと仲良いよな」
「え? …………まあうん。トモダチだしな」
「すっげー気になってるんだけど……アイツって―――泣いたりすんの?」
茂流は興味津々な様子で俺の机に腕を置いた。考えてもみれば、確かに見た事がない。どちらかというと俺が泣いている。俺の方が泣いていて、いつも胸の中で慰められている。考えていたら凄く恥ずかしくなった。ちょっと、自分でも泣き虫な気がする。
「…………無い、かなあ」
少なくとも日常で碧花が泣く事はない。笑う事もないが、例えばゴキブリを見てもあまり動じない。小学生の内から決めつけるのもおかしいが、鋼の女の子だ、アイツは。
「じゃあさ、じゃあさ! 俺らで泣かせてみないか?」
「え。やだよ。絶対先生に怒られるじゃん」女の子泣かせるとか何事だ! って。しかも先生、怖いし。俺五回くらい泣いてるぞ」
「マジ泣き虫じゃん。やば」
李久がケタケタ笑いながら俺を小馬鹿にしてくる。これだから泣くのは嫌いだ。男子でも女子でも、とにかく馬鹿にしてくる。慰めてくれるのは碧花だけだ。それがより惨めに思えて、やっぱり泣きたくなる。悲しい。
「あーいいじゃん。狩也泣き虫だけど、これで度胸付けようぜ度胸! やっぱ女ってのは一回くらい泣かせた方がいいんだよ! 男らしく行こうぜ! ワイルドにさ!」
「……でも、碧花を泣かせるなんて」
「いや、俺らはな? お前の為に言ってるんだぞ? 大丈夫だって。先生に怒られても碧花ちゃんがお前を大嫌いになっても俺達は友達だ? な?」
「いや、でも……」
ドンっ!
机に、拳が叩きつけられる。休み時間の喧騒の中さして気にする人間はいなかったが、俺の思考能力はその音に驚いて、剥奪されてしまう。
「やるよな?」
「やった方がいいと思うな俺は。碧花ちゃんをえっちな目で見てたってクラスに言ったらどう思われるよ。な?」
「……………………………分かった」
殆ど強引に脅されたような形で、それで泣きかける自分が本当に情けなくて。心の底から、どうしようもなく頼りなくて。だから思う事にした。正当化するしかなかった。俺もアイツの泣いた顔が見たいなんて。
碧花が同じクラスに居たら思いとどまれたかもしれないが。そこまで好都合にクラスは動かない。大体壮一が同じクラスの時点でむしろ都合が悪すぎるだろう。それはそれとして悪友二人に背中を押され、俺は放課後までに何とか立ち直る事に。
そして。時機はやってきた。
「あ、碧花。ちょっと話……あるんだけど」
放課後、クラスに一人残っていた碧花に声を掛けた。薄生地の白い長袖にデニムのホットパンツを履いているので、間違えようがない。今日の彼女の服装だ。背中からはうっすらとピンク色の下着が透けている。
「ん。君か。どうかした?」
作戦はこうだ。俺が理由をつけて碧花と二人きりで学校に残る。可能ならば出歩かせない方が良いらしい。それで放課後になって誰の姿も見えなくなったら、茂流達が怪奇現象を騙って俺達を脅かすとの事。俺は碧花を不安にさせるように怖がらなければならず、碧花が泣いたら終了。
わざわざ彼女のいるクラスにまでやってきてこんな馬鹿らしい阿呆らしい作戦を実行するなんて、俺が馬鹿だ。どうか断って欲しいとは思いつつも、まだ無表情の碧花に用件を切り出した。
「き、き…………肝試し、しない、か?」
「…………君、自分が何を言ってるか分かってるの?」
碧花が言いたいのは、俺と彼女の出会いについてだ。友達欲しさに、或いは目立ちたくて俺はひとりかくれんぼをした。その結果死にかける様な目に遭ってしまい、正直な気持ちとしては懲りている。
二人の判断の元、あれは無かった事にされたが、無かった事にされただけで俺と碧花を語るには切っても切れない事件だ。『あんな事があったのにまた肝試しなんかやるのかと』、つまりはそう言っている。
「…………だ、駄目か? 駄目なら仕方ないんだけどな」
「―――何か隠してる?」
「ど、どうしてだ?」
「歯切れが悪いからさ。肝試しは建前で、裏のテーマがあるんじゃないかなって」
「…………」
凄く、頼りたい。碧花に泣きついて、何とかしてほしい。でもそんなの駄目だ。情けない。あまりにも弱虫だ。こんなに頼もしくないんじゃ碧花は俺を好きになってくれない。トモダチだとして、そのまま進展もしないだろう。
浅ましいプライドが邪魔をして言い出せない。半ば脅される様な形で付き合わされているのだ、大人しく頼るのがどう考えても最適解なのに。どうしても口が動いてくれない。嫌われたくなくて。弱虫と思われたくなくて。
「………………いいよ」
横目で用件を窺っていた碧花は椅子をこちらに向けて、真正面から黒真珠のような瞳で俺を見た。そんな真剣な眼差しは非常に困る。
「い、いいのか?」
「うん。別に予定はないしね。部活にも所属はしてないというか、所属する意味を見出せない。それで、今夜は何を試すの?」
「え…………あー。あー。な、七不思議、的な?」
「的な? 七不思議ではなくて?」
「あーあーあーあー……………さ、最近怪奇現象が多いらしいんだ! それをな……夜に、調べて見たくて」
「ちょっと、ごめんね。前」
碧花のクラスは教室に留まる人間が少ないようだ。担任の先生が居なくなると、多くは部活に向かっていく。彼女は周囲をきょろきょろと見渡し、両隣のクラスと廊下全体を確認してから教室の扉を閉めた。鍵は掛けるなと言われているのだが、おかまいなしに施錠していく。
「―――狩也君。一体私に何を隠してるんだい?」
「えッ!」
彼女の席は隅っこだが、一度逃がしてしまった事で立場が逆転した。外側から詰め寄ってくる碧花に俺は成す術もなく椅子に膝を狩られる。ここは他ならぬ彼女の席なのに、座ってしまった。
「隠し事はナシだよ…………トモダチだろ?」
「か、隠してなんか………………」
「本当に?」
「え?」
「嘘、吐いてない?」
「……………………」
水鏡碧花は滅多に笑わない。怒りもしない。今も淡々と問い詰められているが、それが逆にこちらを追いつめている。感情を感じないのだ。トモダチになってまだ一年も経っていないからだろう、俺には感情の機微が掴めない。
「何を隠してるか知らないけど、私は君の味方だよ。誰も聞いてないんだから、教えてくれてもいいんじゃない?」
「…………そ、そういうお前だって、隠し事くらいあるんじゃないのか! か、隠してなんかないぞ! ないんだからな!」
「……隠し事、か」
碧花は一瞬だけ気まずそうに眼を逸らして―――全く手ごたえはなかったものの、追及をやめた。
「分かったよ。何もないんだね?」
「な、何もない」
「うん。じゃあ肝試しの準備をしないとね」
「え?」
今度は切り替えが早すぎる。あんなに疑っていたかと思いきや突然乗り気だ。テンションの変化についていけず困惑しているが、せっかく疑いが晴れたのに何もしないのでは結局頑張って碧花を騙した意味がない。
「どうするの? 後でまたここに来るかい? それともここに残る?」
「こ、ここに残ろう。どうやって見回りにバレないかは……ちょっと、考えて」
「それなら私に良い案があるから心配要らない。事前に見回りの人が確認しない場所は調べてあるんだ」
「ど、何処だよ」
彼女は何も言わずに教室の鍵を開けて廊下の外を覗き込む。これではどちらが騙す側なのか分からないが、ここまで真面目に乗ってこられると罪悪感を燻られて気分が悪い。自分でもどうかと思う理由なのに碧花は信じてくれた。それなのに俺という奴は、なんて下らない事を……。
「今がチャンスかな。狩也君。一緒に来て」
「え、あ……おお」
「ランドセルもちゃんと持ってくるんだよ?」
「隠しちゃ駄目なのか?」
「隠してもいいけど、そこまでは調べてない。結局自分と同じ場所に隠してあればいいじゃないか。それとも君は今回の肝試しに際して、事前に持ち物を隠せる場所を調べてきたのかい?」
「い、いや」
「……………………」
俺の手際の悪さはわざとではなく、生来の物だ。仮に騙すつもりがなくても同じ轍を踏むだろう。自分の事が嫌いになる。こんなんだから俺には友達が出来なかったのだ。碧花が何も言わないのは、俺に呆れているからに決まっている。これ以上同じ事を繰り返すと愛想を尽かされてしまうかもしれない。
碧花に嫌われる事だけは、避けたいのに。
クソみたいなプライドと脅迫に屈して。駄目な奴だ。自分の気持ちすら貫けない。碧花と俺はトモダチだが、それ以上の関係に進む事は……今は考えられない。年を取れば逞しくなれるだろうか。
「―――え? ちょ、碧花。ここって」
「ちょっと集中させて。鍵を開けるから」
間もなく、鍵を開けるような音がして、ノブが回るようになる。碧花は扉を開けて俺の背中を押すと、振り返って周囲の視線を確認してから扉を閉めた。
辿り着いたのは、女子更衣室。
隣はプールであり、思春期を迎えた男子小学生にとってここは夢の場所だ。着替えてくれる多くの女子はいないが、代わりに碧花が居る。これは俺だけかもしれないが、それで十分ではないだろうか。何故彼女が多くの男子に惚れられているかというと、圧倒的に顔が美人なのもあるが、一番はそのスタイル……もとい、発育の良さだろう。小学生で胸の膨らみが見えるなら、それだけで大騒ぎだ。
「いや……いや。これじゃあ俺が変態みたいだろ!」
「変態? どうして?」
「いやいや! お前だってここで着替えてるんだから分かるだろここが何処か!」
動揺して言葉の順序がめちゃめちゃになっている。伝わっているのかも良く分からなかったが、それなら改めて言えばいい。だって、ここは女子更衣室だ。入ってくる男子は問答無用で変態だと相場が決まっている。
「女子更衣室だけど、他の女子はいないだろう? 授業中でもないし、ここには私と君の二人だけだ
」
「いやあ……でもなあ」
更衣室のロッカーは共用なので、誰が誰のかという話にはならないが、出席番号に基づいて使う場所が割り当てられるので、俺には何となく碧花の使っているロッカーに想像がつく。ここで彼女は服を脱いでスク水に……
ってそんな事考えてる場合か!
俺はトモダチを騙しているのに、呑気な妄想に浸っている資格があるのか。つくづく最低な奴だ。
「ここなら見回りにはまず来ないよ。ロッカーだって狭いから子供でも入れない。流石に鍵を開けて中を見るくらいはするだろうから、隠れるとすればこの用具入れになるね」
「……あ。そっちか。でも中身が外に出てたら怪しまれるだろ」
「細長い物はロッカーの裏にでも隠せばいいよ。バケツは……後で取れなくなるかもしれないけど、私のロッカーにでも入れておこうか。ごめん、ちょっと手伝ってくれる?」
放棄や窓を拭くワイパーみたいな道具は全てロッカーの裏側に倒して、塵取りやバケツは頑張ってロッカーの中へと突っ込む。特にバケツは、全体の形として台形だからそのままの形では入れられなかった。かといって力ずくで形を変えるには腕力が足りなかったので、裏を掻いてロッカーの横―――入り口から死角となる場所に置き去りにした。ロッカーの中はランドセルを頑張って押し込む事で利用している。
それで後は入るだけなのだが、埃っぽいのが嫌だったのでついでに掃除をした。まだ放課後になってそれ程時間は経過していない。大胆に動いてもこの物音に感づいて様子を見に来る人は居ないという判断だ。
「…………何で、こんなに苦労しなきゃ」
「何か言った?」
「いや、何でもないって!」
何度でも言いたいが、俺は脅迫されて、碧花を騙している。自分が弱虫と思われたくなくて、騙したままでいる。これがバレたら軽蔑どころか絶交されたって文句は言えないが、それでも俺は言い出せない。一時の恥さえ恐ろしい。
こんなに追い詰められているのに何故体力まで消耗しないといけないのか。アイツらはただ脅かすだけだ。俺に何もかも任せ過ぎだろう。
「さて、見た感じだとギリギリ二人入りそうだけど、君の方が身体が大きいからさ。先に入ってくれる?」
「…………」
「ん? 何だいその顔は。まさか私に先に入って欲しいの? おいおい勘弁してくれよ。君は物を押し込む時に小さい物から入れるタイプなのかい。言っちゃあれだけど、後で苦労するタイプだねそれは」
「いや、そうじゃないんだけど……」
ギリギリというのは俺にも分かる。入るか入らないかと言えば入るのかもしれないが、お互いの背中は確実に内部の壁にくっつく事になる。俺がもう少し痩せこけていたらこんなドキドキする事なんて無かっただろうに、何てったって普通に成長してしまった。
「早く入らないと、気づかれちゃうよ。それとも私が知らないだけ閉所恐怖症だったの? それだったらごめん。ちょっと考え直すから―――」
「わー! 俺が悪かった。違う違う違う。全然そんな事はないんだ。ただちょっと心の準備が……肝試しだからな。あは。あははは……」
「―――変な狩也君」
これ以上ぐだぐだと先延ばしにしていても仕方がないだろう。意を決してロッカーの中に入ると、碧花が隙間に身体をねじ込もうと入ってきた。
「ん……ちょっと、キツイかな……」
「あ、あ、碧花! その……」
「何? 息苦しいのはお互い様だよ。文句は言わない方が君の為だ。夜までここで何時間も隠れなくちゃいけないんだから……さっ」
―――や、やわらかい。
胸が当たるとかそういう次元ではない。お互い身体の前面が密着しておかしくなりそうだ。服越しでも体全体の柔らかさとか、特に胸部分のふにふにした感覚が非常によく伝わってくる。多少固い感触は下着だろう。ただでさえ狭いのに興奮なんて、碧花に気づいてくれと言っている様なものだ。だから俺は隠れたくなかったのに!
身長差的には、彼女を見下ろす事になる。碧花は至近距離で俺の眼を見つめて、困ったように目を細めた。
「狩也君、息荒いよ」
「う……すまん」
「まあ……私は気にしないけど。先生が近くに来た時なんかは静かに頼むよ。それじゃ、扉を閉めるから」
この暗所で何時間を過ごす事になろうとも、俺が最低な奴である事に変わりはない。自分だけいい思いをしようとしている。これから彼女を泣かせる奴が、どうしてこんなに得をしなきゃいけない。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
碧花の早い心拍が、伝わってくる。息苦しいのはお互い様かもしれないが、それでもこれをラッキーと捉える自分が居る。どうしようもない。
「ね、狩也君。手…………繋いでもいいかな」
「!? な、何でまた……」
「驚いた時に手が引っ込んで物音がするとか、不測の事態に備える為だ」
「――――――じゃ、じゃあ」
碧花に先に触られると罪悪感で死にたくなるので、俺の方から手を繋ぐ。
「……!! か、かりやくん。こ、これはちょっと……」
「………………こ、この方が………………だ、だ、だめ……か?」
恋人繋ぎのように指を組ませる。これは仕方ない事だ。お互いの手が物音を立てない為に、必要な行為。
「…………は、破廉恥だよ……………………君って奴は、本当に…………」
それからの時間感覚は曖昧だ。時々外から物音が聞こえる事はあったが、そんな物は気にならないし、何かが近づいてきたら碧花が教えてくれるので俺達の存在が明るみに出る事はなかった。狭苦しい空間に何時間も閉じ込められるのは正気ではいられなかったが、時々話しかけてくれるお陰で何とか正気を保てた。
「……そろそろ、いいんじゃないか?」
「私が言うのもあれだけど。八時間以上閉じ込められるのはちょっと辛かったね」
「それは…………そうだな」
一応語弊はある。見回りと思わしき足音が遠ざかった後、一時的に外へ出た。単純に身体が凝って精神論ではどうにもならなくなったのだ。まあそれでもこの部屋からは出ていないので閉じ込められていた事には変わりない。
外はすっかり暗くなっていた。十二時なので当たり前か。出る時は碧花が先に出て、俺が最後。これであの二人に騙されたなら碧花にもネタバラシせずに済むのだが、どうだろうか。窮屈な時間を過ごした俺達と違ってあの二人は一度家に帰っているだろうし。
「~ん。身体が凝って来ちゃった。ねえ狩也君。マッサージしてくれる?」
「え!?」
「そんなに驚かなくても。ちょっと肝試しどころじゃないよこれは。君だって痛そうにしてるじゃないか」
「ま、まあそうだけど……」
女子の身体に触るのはどうなのだろうか。それとも俺が気にし過ぎているだけ? いやいや、仮にそうだとしても水鏡碧花は男子の注目の的であり、俺からすれば好きな人だ。ただ触るだけでも、ドキドキするのは自然な筈。
ベンチに寝転がる彼女の隣に座ると、恐る恐る肩の方を触って、掴んでみた。
「ん……」
「い、痛いか?」
「痛いけど、気持ちいい……かも。ただ撫でられるだけだとくすぐったいかな。もっとこう、ちゃんと掴んでよ」
「お、俺心得とかないぞ!」
「いいんだよ適当で。揉み返しはあるけど、一時しのぎが出来るならそれでいいんだ。ほら、早く」
「うう…………」
心臓が飛び出しそうな興奮を感じながら、彼女の肩を素人なりに揉んでみる。時々漏れる気持ちよさそうな声に心の奥がぞわぞわしてしまう。
「…………ふう。じゃ、交代しよっか」
「いや、俺は別に凝って―――」
「意味もなく嘘を吐くんだね、君は」
「うぐ―――!」
嘘を吐いている。今の俺にはクリティカルな言葉だ。碧花が肩について言っているのは分かっているが、こんな些細な事以上に、とんでもない嘘を吐いている。不気味なくらい素直に言う事を聞いた俺に碧花は機嫌よく口元を緩めた。
「おや、今回は粘らなかったね。素直なのはいいと思うよ」
「―――でもお前だって心得ないだろ。どうせ下手ああああああああああ! いたいいたいいたいたあああああああかあだかあああああああああ!」
「ちょっと、声が大きすぎるよ。静かにしてくれないとバレちゃうってば」
「いやお前が力つよあああああああああああああ!」
ともすれば死を錯覚する激痛。しかし終わってみれば、不思議と身体が軽くなっていた。その効果を実感すればどうだ。彼女に募っていた恨みが途端に恩へと変わり、この程度の事で恨もうとしていた自分がどんな浅い人間だったかを自覚する。
「……めっちゃ気持ちよかった、です」
「何で敬語? ふふ、まあいいよ。さあ、身体の凝りも解れた所で肝試しと行こうか」
「…………あ、ああ」
碧花の手が暫くこちらに向かって泳ぐように動いていたが、気のせいだろう。ああもう、ここまで来たら最後まで騙すしかないのか。こんなに美人で優しいトモダチを騙すなんてどうかしてる。俺はどうかしていた。でも、やるしかないのだ。
だってもう、ここで自白した所で許されない。
俺は彼女の八時間を無駄にしている。ここで台無しにすれば茂流達も含めて、絶交されるだろう。そしてまた一人になるのだ。壮一は喜ぶかもしれないが、そんなのは嫌だ。
―――ごめん、碧花。
後で幾らでも謝るから、今だけは泣いてくれないか。
更衣室から外へ出ると、夜はすっかり更けて、人の気配がしなくなった。当然と言えば当然だが、今は紛れもなく深夜。良い子は寝る時間であり本来なら俺も碧花も眠っている。こんな時間にまで学校に居るなんて、バレたら一発で補導だ。
「そういやアイツ等、俺の家に連絡とかしたのかな……」
碧花を騙す事に気が引けて全く家の事を考えていなかったが、小学生がいつまでも家に帰らないのは不自然だ。これはどんなに取り繕っても家族は誤魔化せない。だからひとりかくれんぼの時も一度は家に帰っているのだが。アイツ等が何かしら理由を用意してくれないと引くに引けない嘘が更に大事になってどうしようもなくなってしまう。『俺の家で泊まるんで』くらいは言っていると思うが……不安だ。
「ん?」
「ああ、いや! えっと……今回、ずっと学校に留まって、帰ってないじゃんか。心配されるの嫌だろ」
「ああ、そういう事ね。……え、連絡してないの?」
「…………いや、したと。思うけど。見てない可能性が…………あはは」
だから嘘なんて吐けない。問い詰められれば問い詰められる程無理が生じている。言わんこっちゃない。外に出て、肝試しの為に校内に入らないといけないが、不思議な事に鍵は開いていた…………
雑か!
「…………か、鍵が開いてるみたいだな」
「……普通は事前に窓を開けてあるとか、私みたいにピッキングするんだけど、珍しいね。こんなあからさまな入り口が開いてるなんて」
「や、やばいお化けが居るんだろうな。なんかちょっと……寒くなってきたかもしれない」
「じゃあ早く中に入ろうか。肝試しはとっとと終わらせて帰るに限るよ」
次の俺の役目は、あの二人が起こす嘘の怪現象に対して情けなくビビる事だ。別に本物でも俺はビビるが、情けなく在れという事だろう。校舎に入ると夏にしては冷たい空気が俺達の頬を撫でるが、あの時の様な不穏な気配は感じない。
「それで、どんな怪異を確かめるんだい?」
「え?」
「七不思議的な奴の詳細だよ。トイレの花子さんだってトイレに行かなきゃ遭遇出来ないだろ。何処に行くの?」
「えー………」
何処に行けばいいのか、全く連絡を取れていない。何だこの計画は。小学生が考えたみたいにガバガバじゃないか。声を伸ばして誤魔化しているつもりだが、誤魔化せているのだろうか。碧花の目線が心なしか怪訝なものへと変わっている。
「…………ねえ。本当に歯切れが悪いよ。どうしたの?」
「い、いやあ! 何でもないって! ああそうだ。適当に歩けば遭遇するんじゃないかな! 廊下に出るお化けっているだろ!」
「………………ふーん。そうなんだ」
自分でも無理がある言い訳その二。だが今回の碧花は気にも留めず、一人で歩き出してしまった。その背中には物寂しい雰囲気を感じる。もしかして俺の嘘が……バレているのだろうか。俺が自白するのを待っていて、いつまでも自白してくれないから悲しいとか?
―――そんな事、考えるかな。
「ま、待てって。一人で歩いたら危な―――っ!」
彼女を追って階段に差し掛かった瞬間、俺の身体を引っ張る手に引きずり込まれた。防衛本能から声を上げそうになったが、それも抑え込まれて階段裏へ。
「静かに。静かに」
「マジで学校に残れたんだ。すげーなおい」
茂流と李久だった。二人は人差し指を口に当てて俺に沈黙を求めている。黙って言う通りにしていると、碧花が慌てた様子で階段まで戻ってきた。
「狩也君っ?」
聞くからに慌てた様子の彼女に、二人は笑いを必死に堪えている。その反応は紛れもなく、買い物に来たら迷子になってしまった子供そのものだ。普通の女の子なら、もう泣く寸前まである。俺だってそう思う。
「…………はあ。そう。そうなんだ」
碧花が違うのは、焦ったかと思うと冷静になって、そのまま階段を上っていった所だ。俺達は三人で顔を見合わせて首を傾げた。
「……泣かなかったな」
「やっぱ脅かす?」
「なあこれ……何で俺が襲われたんだ?」
「分かってねーなー狩也。二人と一人じゃ寂しさが違うだろ。あ、お前は何もしなくていいからな。どんくさいし、演技も下手だったし」
「俺達だけでやるからよー……一応帰るなよ。帰ったらマジでお前。後で覚えてろ?」
「うう…………分かったよ。俺は何処で待ってればいいんだ?」
「そこでいーだろ」
そういって李久が指さしたのは、階段裏の……つまり俺達が背中にしている扉だ。この学校はやたらと設備が古臭いのもあって、ストーブも灯油だったりする。この部屋は冬に備えて灯油を貯めてある部屋であり、基本的には立ち入り禁止だ。そして禁止されなくても、暗くて汚いので誰も入りたがらない。
「こ、ここか? 他の場所とか」
「うるせえぞ狩也。いいから黙って待ってろよ」
「…………こうなったら早く泣かせてくれないか。怖いんだよ」
「マジで泣き虫すぎだろ」
「お前みたいな奴が碧花ちゃんと仲良しなのが信じられねーわ」
それは俺もそう思うが、それでも俺達はトモダチだ。ぶん殴られる方が嫌だったので、大人しく中に入った。すると何故か、鍵を掛けられてしまった。
「おい! なんで鍵掛けるんだよ!」
「帰らねえようにだよ」
「お前は神隠しにあったんだから動いてちゃ駄目だろ。少しは考えろってー」
そう言って二人はその場を離れ、階段を上って行った。後に残されたのは暗闇の閉所に閉じ込められた俺と、大量の灯油。埃っぽい空間に何時間も居るのは気分が悪くなりそうだ。碧花には早く泣いてもらいたい。それで俺が解放される保障もないが、泣かない事には可能性すらないのである。
――――――寂しいなあ。
これなら碧花と閉じ込められていた方がマシだった。俺が泣いても泣かなくても別にどうでもいいのかもしれないが、一人ぼっちでこんな部屋に閉じ込められていると急に不安になって、思考回路も自分勝手な物へと変化していく。
「…………」
頼むから、泣いてほしい。後で謝るし、慰めるし、色々するからとにかく泣いてほしい。俺は早い所ここから出たい。
怖さを紛らわせる為に目を瞑って、貧乏ゆすりをしながら三十分。
「ふざけんなよ……」
全然、誰も来ない。
碧花を泣かせるばかりか、足音も聞こえないのはどういう事だ。俺の耳がおかしくなっただけ? それとも三人仲良く帰ってしまった? 俺は置き去り?
あり得ないと分かっていても、あり得ないなりに不安は残る。何でもいいから早くしてくれ。俺をこの苦痛から解放してくれ。
コツ。コツ。コツ。コツ。
「…………」
碧花かと思ったが、足音は順調に俺の閉じ込められた部屋の前まで近づいている。扉の前で止まると―――鍵が開いて、暗所に光が差し込んだ。
「あ……!」
「…………」
碧花。
何故俺の居場所が。
いや、そんな事よりもだ。
「あ、アイツらは―――」
「ちょっと、話を聞かせてもらおうか」
「え?」
呆気に取られている俺の襟首を掴み、強引に引っ張り出されていく。女の子とは思えないくらい強い力に、俺は必死に抗おうとしたが、歯が立たない!
「ちょ、待って。待って待って待って! 何! なあちょっと」
「煩いな。ちょっと静かにしろよ」
「待てって! ごめん! 悪かったから! 離してくれ!」
「だまれ」
「やだ! ちょっと待って! 助けて! 李久! 茂流! やだああああああ!」
ずるずると廊下を引きずられて辿り着いたのは、実質的に物置と化した多目的教室だ。バザーや運動会の残骸はこの部屋に押し込まれるので、教室としてはまあ機能していない。彼女は俺を引きずったまま部屋に入ると、奥に俺を拉致して部屋の扉を閉めた。内側から施錠したのでいつでも脱出は可能だが、そんな甘い考えはお見通しとばかりに椅子を置いて、扉の前に着席。
この部屋を出るには彼女を説得しないといけないようだ。床に尻餅をついたままの俺に用意される椅子はない。碧花はいつになく冷たい目線で、俺の事を見つめていた。
「ご、ごめん! ごめんって! 悪かったよ!」
「何に対して」
「―――へ?」
「何に対して謝っているのか分からない。謝るだけなら誰でも出来る。お前の何が悪かったのかを理解しているのか、言って」
「―――――――――!」
冷たい。
話しているだけで分かる。俺が言い訳を発する度に、彼女の心が離れていく。たった数メートルの距離も、今の俺には遠すぎた。更衣室でわちゃわちゃしてくれたアイツはもう何処にもいない。ここに居るのは高根の花。俺はそれを摘むに値しない身の程知らずの男。
「う、嘘吐いた。お前を騙そうとした。ごめん。なあ所でアイツ等は」
「アイツ等アイツ等アイツ等。そんなに大切か」
「………………ご、ごめん!」
「騙そうとした、じゃなくて騙した、な。それともっと具体的に」
「え、え、ぐ、具体的にって」
「嘘を吐いて騙したのが悪い。客観的にも言えるだろ。だからお前は何が一番悪いと思ってるのか聞かせてよ」
「…………な、何が悪いって……」
追い詰められている。感情が剥き出しになっていないだけで今の碧花は間違いなく、本気で怒っている。いつもは『狩也君』と呼んでくれるのに、決して呼ぼうとしないのがその証拠だ。俺は、どうすれば許されるのだろう。ただ謝るだけでは駄目で、具体的な説明とやらも少し違えば余計に機嫌を損ねそうだ。
もう何が良くて何が悪いのかなんて分からない。段々、頭が真っ白になっていく。
「あ、あ、あ。えっと……えっと。いつでも嘘だって言えたのに! じ、時間をかけた事! くだらない嘘を吐いた! ごめん! 本当に! ごめんなさい!」
「あの二人はトモダチなのか」
「と、友達……友達だけど。その、別に俺は乗り気だった訳じゃ」
「どうして友達になった」
「え……ええ? ど、どうしてって……な、なあもう許してくれよ。俺謝っただろ! 謝ったじゃん! 何でそんなに怒ってるんだよ!
「謝って済むなら反省出来ない。自分の何が悪かったのかを自覚して初めて反省出来るんだ。質問に答えろよ」
「…………お、面白い奴らだったからだよ。それに話も合ったし。でも俺だって脅されてたんだ! なあ被害者なんだよ俺だって! お前にこんな事するつもりは―――!」
「なのに言う事には従ったのか」
「…………ッ」
「いつでも言うタイミングはあったろうに、私に言わなかったな」
「…………」
「どうして言わなかった」
「―――あああああ! もう! 質問ばっかりだ! もう謝ったんだから良いだろ! 帰らせてくれよ! 先生だってもっと優しかったぞ!?」
碧花の視線からは感情が読み取れない。俺も頭に血がのぼってしまって、自分でも本音と衝動に見分けがついていない。彼女はそっと椅子から立ち上がると、椅子をどかして、座り直した。
「帰りたいなら、帰れば」
「………………ッ。お、お前は?」
「…………」
ああ、心が離れていく。ここで帰れば、明日から彼女とは他人だ。その確信がある。それを感じた瞬間、俺は自分が追い詰められていたから気が動転していただけだと悟った。
ここで帰ったら碧花との関係は白紙になるなんて、嫌だ。彼女はどういう説明をすれば許してくれるのだろう。
「ご、ごめん! 俺が悪かった! なあ戻ってくれよ元のお前に! 怖い! やめてくれよ。そんな目で……見ないでくれ……よ!」
「何が悪かったのか」
「だ、だからそれは」
「騙したはもう聞いた。他にも悪いと思ってる事があるのかだ」
「え、え、ええ……? 悪い事って……悪い事、悪い事」
視野が狭まっている事にも気づかない。思考がドツボに嵌まっている事も分からない。碧花の事が何も分からない! 俺は何を謝罪すれば許してもらえるんだ! 何がそこまで気に障る! 分からない分からない分からない!
「うう…………ぐす…………わるい……ひぐ……ううううう」
分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない! なにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがなにがだめなんだ!
俺が泣いても、碧花は絶対に許す素振りを見せない。情けなく、間抜けにも泣き続ける俺を冷ややかな目で見つめてくるばかり。痛い。その目線が痛い。何を思う、幻滅している? 男らしくないと思っている? いやだ。嫌われたくない。碧花にだけは嫌われたくない。
「ごめ……ん。ごめん…………ゆる、ふぐううあああえええええええ! うえええええええ! ゆる、じて。おね、ひぐ。はい!」
「謝るだけなら誰でも出来る。さっき言った」
「おし……ひっ。おしえて……おしえ、ください。わから、わからな……おねが…………お願い…………!」
「言われなきゃ悪いと思えないのは、語るに落ちてるな。本当に分からないんだ」
「わからない……わかんないよぉ……ぐす。うえええええ! あお、かあ! ゆるして……ごめん…………ごめん……」
「なら言う事はもう何もない」
席を立とうとする彼女の足を掴んで、引き留める。頭の中がぐちゃぐちゃで良く分からないが、とにかく俺には、謝る事しか出来ない。本音も衝動もあやふやで、自分がなんと発言しているかも正直分からないが―――それでも分からない物は分からないから。俺には謝罪しか出来ない。
「離してよ」
「ごめん……ごめんなさい……ごめんなさいひひいいいいいいいい! いかないで……ごめん、ごめん……」
「離せって」
「おねがい。しますかぁぁぁぁらあああ! ゆるぢ……ううひいいああああああああ! あお、か」
「離せよ。もういいから」
「ごめん……ごめん……ごめえええええええええん。俺、お、お、おれ、僕が。悪かったで、す」
「離せ!」
「き、嫌……わないで。あお、か……ごめん………………おれ、わるかっぐす! から! きら、わない…………ふぐうううううう」
「………………」
碧花は踵を返すと。
その場で膝を曲げて、縋りつこうとする俺を優しく受け止めた。
「…………………………もう、分かったよ。分かったから」
「ぐす……ごめ…………ごめ……ん! お、おれ、おれがわるか……」
「君の反省の気持ちは良く伝わった。大丈夫。もう怒ってないから。だからほら。大丈夫。帰ったりしない。気持ちが落ち着くまではとりあえず一緒にいるよ、狩也君」
「う、うううう。ううううううううううう!」
そんな風に自分を呼んでくれた事が嬉しくて。俺の謝罪の、一体何がそこまで彼女の機嫌を直させたのかは分からないが。とにかく碧花が戻ってきてくれた。俺の初恋。大好きな水鏡碧花という女の子が。
「―――君の事情は聞きだした。ねえ、私はね。君が頼ってくれなかった事が不愉快だったんだよ」
「………………ぐす」
「トモダチじゃないか、私達。困った時は助け合わないと。あの二人は君を脅したそうだね。そんな奴らは友達であるべきじゃない。君だってそう思った筈だ。正直、嘘を吐いてるのは知っていたけどここまで頼ってくれないなんて思わなかった。どうして私に頼らなかったの?」
「………………おんなのこにたよるの、なさけない」
「ああ、そうかい。プライド、ね。君はそういうけどさ。ひとりかくれんぼの時、私は君だから一緒に居たんだよ。私達はまだ子供かもしれないけど、これだけは言える。断言したっていい。私は君程頼りになる男の子はいないと思ってる。情けないなんて思わないよ。他の子はどう思うか分からないけど、私は君が頼りになるのを知っている。私だけが君をかっこいいと思っている。それでいいじゃないか。だってトモダチなんだから」
「………………ありが、とう」
碧花の身体、暖かい。
布団の中にいるみたいで心が安らぐ。心臓の鼓動も、気持ちを擽って解してくれる。赤ちゃんの頃も、こんな音を聞いていたのだろうか。
「…………あおか」
「ん?」
「……………………だいすきだぞ」
「……ふふふ。それは、私もだよ」
一層力強く抱きしめられ、俺はますます呼吸が苦しくなる。それでも幸せだった。彼女が俺を嫌わないでくれるなら、まだトモダチでいいと言ってくれるなら、それ以上の何も要らない。
………………碧花からの、信頼を感じる。
五分ばかり抱き合って、彼女の服は俺の鼻水と涙でぐちょぐちょになった。それだけでまた申し訳なくなったが、大して気にも留めていない様だ。
「そろそろ泣き止んだなら、帰ろうか。友達の家に泊まるって言い訳の為にも、今日は私の家に来なよ」
「な、なあ。アイツ等は……」
「そんなに行方が気になる、大切な友達かい?」
「え、あ。いや……」
睨まれた気がしたが、その声音は柔らかい。でも、二度と怒らせてはいけないと思った。きっと中学に上がっても高校に上がっても、この日の出来事を忘れる事はないだろう。教室を出てプール方面から外に出ると、更衣室からランドセルを回収して、街灯だけが頼りな薄暗い帰路につく。碧花とはエスコートも兼ねて、手を繋いでしまった。
「ねえ、狩也君。君ってば、友達を作るのが下手なんじゃないか?」
「な、何だよ急に」
「あんな二人が友達なんてどうかしてる。毒親じゃないけど、流石に友達は選んだ方がいいよ」
「…………ご、ごめん。でも明日……どうしよう。こんな事になったら、何かやられそうだよな」
「大丈夫」
家の前までやってきた碧花はきょろきょろと周囲を見回すと、不意に俺を抱きしめた。
「大丈夫だよ」
「な、何が?」
「君は何も不安がらなくていいんだ。だって君は優しい。幸せになるべき人。だから、大丈夫。安心して? 安心していいんだ。明日だってそのまたいつかの日だって。不安に思う必要はないんだよ」
「私が、守ってあげるからね――――――」