退職するのも一苦労
「本日決裁の必要な書類は以上です。それからこちらは改めまして私から」
上司である大臣に封書を手渡す。
「じ、辞表だと?!」
「はい、長らくお世話になりました。引継ぎ資料はすでに作成済ですし、後任も決めて指導も済んでおります。私が現在手がけているものは残りわずかですが、終わらせる目処はついておりますので予定通り今月末で辞めさせていただきます」
大臣が身を乗り出して大声を出す。
「予定通りとはどういうことだ?!私は認めた覚えなどないぞっ!」
「いいえ、ちゃんと認めていただいておりますよ」
私は自分自身の退職に関する大臣のサインが入った書類を広げて見せる。この書類が通ったのは数ヶ月前だ。
「王室に関わるもの以外はろくに目も通さずにサインすることくらい、長年の付き合いでよく存じ上げておりましたから簡単でしたよ」
無表情を貫き通すつもりだったが、うっかり口の端が上がりそうになった。
大臣が頭を抱えてうなりだした。
「君がいなくなってしまっては王宮の仕事が回らなくなってしまうではないか」
「そんなことはないでしょう。先日、連日の徹夜続きの後に書類の不備が見つかったら『お前の仕事などそこいらの子供でも出来るわ!』と怒鳴りつけられましたからね。お望みならそこいらの子供を適当に連れてまいりますが」
「・・・あれは、つい感情的になって言いすぎたと反省している。本当にすまなかった」
「許すも何もしょせん私はその程度の人間だったということですから、どうぞお気になさらず」
「そんなことはない!王宮で君ほど有能な男は他におらん。私に出来ることなら何でもする。今からでもいい、どうか考え直してくれないだろうか」
しばらくの沈黙の後、私は口を開いた。
「婚約者が出て行ってしまったんですよ」
「・・・は?」
「彼女は『貴方のことが嫌いになったわけではないけれど、ほとんど家に帰ってこない男と結婚しても幸せになれる気がしない』と言い残して出ていきました。私の屋敷で一緒に暮らし始めてまだ半年でした」
もちろん大臣はよく知っているはずだ。
今の私が王宮の仮眠室で生活しているも同然の状態であることを。
「君があまりに生真面目で有能であるがゆえに、仕事を任せすぎたことは本当に申し訳ないと思っている。仕事の分担の見直しは必ずするし、休みもきちんと確保できるようにするから、どうか思いとどまってはくれないか」
引き続き無表情を貫き通すつもりだったが、うっかりため息がこぼれ出た。
「私の時間を奪った原因は仕事以外にもございます」
「な、何だろうか?」
不思議そうな顔をする大臣はどうやら本当に知らないらしい。
「国王陛下ですよ。お忍びと称して市中の視察にさんざんつき合わされていたんです。それも貴重な休日に、何の予告もなしに突然ひっぱられていくんですよ」
「ああ・・・」
国王陛下と私は同い年で、幼い頃から友人として付き合ってきた。若さと気さくさで国民の人気は高いが、振りまわされる方はたまったものではない。
「陛下については私からも進言しよう。あちらも君がいなくなったら困るだろうからな。他に君の望みがあるなら遠慮なく言ってほしい」
「望みなんて決まっているではありませんか」
「何だ?」
私は今日初めて笑顔を作ってみせた。
「彼女を取り戻して二度と手離さずにすむこと、ただそれだけです」
「・・・」
「家族と話し合ってすぐ下の弟が家を継ぐことになりました。貴族籍を抜ける手続きも進めています。私はただの1人の男として彼女を取り戻しにいきます」
「これからどうするか考えているのか?」
さすがに家や男女のことにまでは口を挟めないと判断したのか、大臣は話を変えてきた。
「使う暇も皆無でしたから、当面暮らしていける蓄えは十分にあります。万が一、彼女とよりを戻せなかったとしたら、この国にいること自体つらくなりそうなので・・・そうですね、たとえば隣国の宰相閣下からの引き抜きに応じるのもありかと」
「な、何だと?!」
大臣が思わず立ち上がる。
「ああ、他からもお話はいくつかいただいていますから、あくまで一例ですよ」
力なく椅子に座り直す大臣。
「退職日まで日はまだある。こちらとしても出来る限りのことはする。だからどうか考え直して欲しい」
何度考え直せと言われても、こればかりは難しい。
「実は彼女から『少し冷却期間をおきましょう』と言われていて、お互い会わない約束になっています。その期間が終わり次第、私は彼女に再び愛を乞いに行きますが、その結果次第とお考えください」
そう言い残して大臣の執務室を出た。
大臣の大きなため息は聞こえなかったことにした。
翌日。
何か言いたげな大臣の様子は一切無視して、昨日のやりとりなどなかったかのように仕事の話を進めていると、ノックもなしに大臣の執務室に飛び込んできた男がいた。
「お前っ!辞めるというのは本当なのか?!」
「そうでございます、国王陛下」
今日は外国の大使が任期を終えて国に戻るため挨拶に来ていたので、きっちりと正装に身を包んでいる。
それなのに今はなんとも情けない顔をしている。
「・・・もしかして私のせいなのか?お前にはついいろいろとわがままを言ってしまい、迷惑をかけたという自覚はある。いまさらなかったことに出来ないことなど重々承知の上だが、どうか謝らせてほしい」
「それも一端ではありますが、すべてではございませんよ」
陛下のこんな泣き出しそうな顔を見るのは子供の時以来だろうか。
「職を辞して貴族籍も抜ければ、私はお前と会えなくなってしまうだろう」
「そうですね。それすらも覚悟の上で私は婚約者である彼女を選びたいと思っております」
うつむき気味だった陛下がわずかに顔を上げてこちらを見る。
「・・・お前、本当は知っていたんだろう?わざとお前の休日を狙ってお忍びと称して連れまわしていたことを」
「ええ、もちろん存じておりましたよ」
「一番親しい心許せる友を婚約者殿に取られてしまうような気がして、つい子供みたいに意地悪をしてしまった。どうか許して欲しい」
陛下は頭を下げた。
「国王たるもの、そう簡単に頭を下げてはなりません。それに過去のことですから、今はもう気にしてはおりませんよ」
ゆっくりと頭を上げる陛下。
「今は・・・ということは、以前は気にしていたんだろう?」
「もちろんですとも。はっきり申し上げて、恨んでいたといっても過言ではありませんね」
「す、すまなかった。だが、私に対してずけずけと物申せる者は本当に限られている。その数少ないお前に去られるのは私としてもつらい。どうか思いとどまってはもらえないか」
私は小さくため息をついた。
「陛下のお気持ちもわからなくはないのですが、すべては婚約者である彼女次第ですね」
「・・・そうか」
がっくりと肩を落として国王陛下は大臣の執務室を出て行った。
退職日の1週間前。そして彼女との冷却期間が終わった翌日。
すでに仕事もほとんど残っていないので休暇を申請し、彼女の職場へと向かう。
そこは王宮の職員通用門からほど近い大衆食堂。味とボリュームで人気の店で、王宮で働く者達もよく足を運んでいる。私もその1人だが。
まだ開店前の店の前で掃除をしている彼女を見つける。
向こうもこちらに気がついて駆け寄ってくる。ほうきを振り上げながら。
「アンタ、王宮でいったい何をやらかしたのよっ?!」
「何って・・・退職を申し出ただけなんだが」
ほうきを下ろし、ため息をつく彼女。
「ここで何があったか知らないでしょう?」
「何かあったのか?」
「店の前で国王陛下と大臣様が土下座して謝ってきたのよ!それぞれ別の日に。ただの大衆食堂の店員でしかないこの私によ?どうしたらいいのかホント困っちゃったわよ。店はそりゃもう大騒ぎだったんだからね」
ああ、私が婚約者次第と言ったからか。
平民である彼女の素性は明かしていなかったが、わざわざ調べたのだろう。
「お2人は何か言っていた?」
「どちらも今までの謝罪と、今後は仕事と家庭をちゃんと両立できるように配慮するから、どうか退職を思いとどまるように説得してほしいって」
「それで何て答えたの?」
彼女が真っ直ぐに私を見て言った。
「もちろん『2人で相談して決めます』って言ったわよ」
私は彼女に小さな花束を差し出す。
「それじゃ、これから2人の将来をしっかりと相談しようか」
彼女は花束を受け取りながら答えた。
「だーめ。私はこれから仕事だから終わってからにして。でも、今日はやり直し記念日ということで、私がおごってあげるわ。いつもの煮込みハンバーグの定食でいい?」
「ああ、もちろん。ここの煮込みハンバーグは王都で一番だからね」
思わず笑顔になる私に彼女が釘をさす。
「とりあえずこれからはこの店で会うより、家で一緒にいる時間が長くなるようにはしてよね」