飴の蝶と、
幼馴染との甘酸っぱい恋愛は期待しないでください。
小さいころ、どこかで飴細工を買ってもらったことがある。
青い、綺麗な蝶々。
期待に胸を膨らませて、胸を高鳴らせて、美しい翅にそっと舌を這わせた。
どうして今そんなことを思い出しているのだろう、なんて疑問が浮かぶ。
簡単な答えだ。
その答えを口にしたら、彼女はどんな顔をするのだろう。
鼻がむずむずと違和感を訴えかけ、目が尋常でなく痒い。そう彼女に零せば
「花粉症だったっけ?」
とマスクを差し出された。
「いや、まだ花粉症じゃ……。去年は大丈夫だったし」
「じゃあ今年からデビューだね。ご愁傷様。ようこそ春の地獄へ」
「うぐぅ」
人の苦しみに対してからからと声をあげて笑う彼女は、当然のようにマスクをしている。
マスク越しでもわかるくらい、ここ最近で一番いい笑顔をしやがって。数年前に花粉症が発覚した際に、彼女の愚痴を適当に聞き流したことに対する仕返しとしか思えない。いつから人の不幸を笑うような奴になってしまったのか。
「失礼な奴ね。人の不幸を笑ってるんじゃないわよ、あんたの不幸しか笑ってないんだから」
「訂正しよう。僕の幼馴染はいつからこんなにひどい奴になってしまったんだ」
「あんたと関わってたら聖人君主だって皮肉を言うようになるわ」
「酷いことを言う」
彼女に渡されたマスクを着ける。なんとなく安心感があることが酷く虚しい。
自分は絶対に花粉症にはならないと何故か思っていたのだが、そんなわけなかった。蓄積されたスギ花粉が憎い。そう口に出しながら無意識に眼を擦っていた。
今度は無言で新品の目薬を手渡された。ついでにレシートも。用意の良さにもはや何も言う気になれず、無言で財布から小銭を取り出して彼女に押し付ける。
「花粉症の先輩に感謝なさい」
「はいはいありがとさん」
一滴の目薬が眼球に届き、そっと目を閉じれば全体に広がっていく。ビバ、目薬。昨今の製薬会社の技術に感謝した。
ふんぞり返る眼前の幼馴染にも感謝はしている。口と態度に出すつもりはないが。
「薬は自分で買いに行きなさいよ。あと病院にも行った方がいいわね」
「お前は僕の母親か」
「残念、幼馴染ちゃんでした」
「残念な幼馴染だ」
「安心しなさい、あんたの方が残念よ」
普段通りの他愛もない口論が続く。気を使わなくて済む、家族以外で一番時間を共有してきた相手が彼女だ。
幼馴染という関係は意外と脆い。それが男女間ともなればなおさらだろう。
しかし、僕と彼女は年月を重ねても疎遠にならなかった。そのことに安堵していると、口にしたことは無いが。多分彼女も同じように感じているのだと思う。きっと。
「早く春、終わんないかなぁ」
「まだ始まったばかりだぞ」
「あんたも今に同じことを言うようになるわ。絶対」
「言うもんか」
「絶対言う。いくらあんたが今まで春に沢山出てくる虫に歓喜していたとしても、今年からはにっくき花粉の印象に上塗りされるわ」
眉を顰め妙な顔をした彼女の予言に頭を抱える。虫好きの僕は今まで春が一番好きだった。多分、きっと、おそらく……数日後には自分も一言一句違わぬ台詞を口にするだろうと、隣で響いた特大のくしゃみがやけに耳に残った。
花粉症だと彼女に言われ数日後。病院で検査をうけたら案の上の結果だった。春は虫が多いので好きだったのだが、一気に好感度が下がった。
処方された目薬がなければ、今頃目玉を抉りだしたいと叫んでいたかもしれない。そう零せば、友人は箸を動かしていた手を止めて「そんなに辛いのかよ」と心配そうに僕の顔を覗き込んできた。
「辛い。すごく辛い」
「そっかぁ」
「お前もいつかこうなる」
「呪いみたいなこと言うなって」
大変だなぁ、と労わってくる友人は何も悪くない。悪くないのだが、自分がこんなにも痒くて辛くて堪らない時に呑気な顔でいるのがとても気に喰わない。
駄目だ、痒さは人をイライラさせる。友人相手にこんな八つ当たりの呪詛を吐くのも花粉のせいに違いない。杉の木が憎い。
「花粉症の奴は苦労してたんだな……。僕も今年からそっち側になるのか」
「大変そうだもんなぁ」
「花粉なんか滅びてしまえ」
「お前極端過ぎるよ」
友人は半笑いで僕の怒りを宥める。勧められた水を飲んで少し気分が落ち着いたところで、いつの間にか食事を食べ終えていた彼は呆れたようにまた口を開いた。
「去年はお前、紫藤さんの愚痴全然聞いてなかったもんな。罰が当たったんじゃねえの?」
「あいつと同じようなこと言うなって」
「いいよなぁ、紫藤さん。綺麗だし気遣いできるし」
「あいつ案外ガサツだぞ、外面がいいだけで」
「声も聴いててすげぇドキッとさせられるし、仕草もなんか大人っぽいし」
「話を聞け」
虚空にあいつの姿を思い浮かべているのか、友人はうっとりとした様子で言葉を重ねる。
「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花、って言うかさぁ」
「その喩え使いたいだけだろ」
「バレた? 紫藤さん、花に喩えるならもっと豪勢で華やかな感じだと思うわ。お前もそう思わねぇ?」
「……あいつを花に喩えたら、ねぇ。考えたこともないな。それでも何かに喩えるんなら、あいつ蜂だろ」
脳裏に浮かぶのは、春の花畑を飛び回る蜜蜂の姿だ。黄色と黒の鮮やかな警戒色を纏った、小さな働き蜂。鋭い針を持っているけれど、こちらから手を出さない限り向こうも態々攻撃してきたりはしないあの小さな虫。
僕にとってのあいつは、そんな存在だ。
「蜂? ああ、女王蜂みたいな堂々とした感じは確かにあるよな」
「そういうんじゃないけど……まあいいや、うまく説明できないし」
なんだよそれ、と笑う友人に適当に笑い返す。この感情を上手く説明するのは、多分難しい。曖昧に濁しながら、「まあ本当の蜂は今見たくないけど。絶対花粉まみれだし」「そうだった、花粉症は辛いな」と適当に話を繋いだ。
その後も取り留めのない話を続ける。やれ花粉症にはアレがいいらしい、コレは悪化するらしい、などなど。何の話をしていたのか忘れた頃合に、話はループするようにあいつの話題に移っていた。
「あーあ、それにしても紫藤さん、いいよなぁ……。俺がお前だったら絶対告白してるのに」
「おい」
またか。今日は彼女の話ばかりだと思ったが、よく考えてみるとこいつは頻繁に彼女への憧れを口にしているから今日に限った話でもなかった。
そんな話を僕に振られても困る。
「僕だったら、とかじゃなくて……普通に告白すればいいだろ」
心底呆れながらため息を吐けば、帰ってきたのは無言の視線。どうせいつものような軽口が返ってくると思っていたのだが、こちらをじっと見つめる友人の眼は真剣なものだった。
「なんだよ」
「……いいんだな」
「は?」
「お前、本当に紫藤さんと付き合ってないんだよな」
友人の顔は、見たことないくらいに真剣で。僕は思わず、呆けたようにこいつの問いを肯定することしかできなかった。
思えば、こういった話は初めてではなかった。
彼女は人当たりがいいし、話し上手だ。告白されたことだって何回かあったし、そのことについて彼女が真っ先に相談してきたのも僕だった。彼氏を紹介されたことだってあるし、僕が恋人を紹介したことだってある。
だから、別にどうとも思わなかった。
「敷島くん? ああ、振ったわよ」
「あ、そう」
やけに鮮やかな色合いのなんちゃらフラペチーノの写真を熱心に撮っていた彼女は、僕の質問に対して軽く答えた。
哀れ友人。あっさり振られたらしい。
「友達にはいいけど、正直タイプじゃないのよね。友達にはいいけど」
「二度も言うな、可哀そうだろ」
「タイプじゃない」
「やめて差し上げろ」
からからと笑い声をあげる彼女を見ていると、あの日の焦りが何だったのか更にわからなくなってくる。
「振ったことを笑いながら話すなよ」
「いや、だって最初に何言ってきたと思うあの人? 『三崎と付き合ってないなら男と付き合う気ないのかと思ってたんだけど、チャンスがあるなら付き合ってください』って言ってきたのよ」
言うまでもないことかもしれないが。三崎、というのは僕の苗字だ。
「は?」
「おっかしい。昔っからよく勘違いされるわよねぇ」
男女の幼馴染が仲いいと邪推されるのかしら、と言葉が続く。
確かにその手の勘違いは昔から多かったし、思春期にはそれで同級生に揶揄われた記憶もある。二人揃って真顔で「ないな」「ありえないわね」と言い続けていたらいつの間にか収まっていたが、煩わしかったことに変わりはない。
「っていうか、あんたと付き合ってないなら付き合ってって前提条件がおかしいわよね。彼氏いないからって自分が付き合えるってイコールで結びつけないでほしいわ」
「まあ、そりゃそうだよな」
「タイプの男が居ればちゃんと自分で狩りに行くっての」
「成功したことないけどな」
「うっさい」
結局いつも通りの会話が続く。彼女は友人とは付き合わないし、今のところ彼氏ができる兆候もないし、長話のせいでなんちゃらフラペチーノのクリームは徐々に溶け始めていた。カラフルなクリームがでろりと形を崩し、色が混ざってグロテスクに変化する一歩手前だ。慌ててクリームに向き合う彼女を笑いながら、店内の程よい雑音に意識は吸い込まれていく。
「今後はどうすんの?」
「何が?」
「あいつ……敷島のこと」
「別に今まで通りよ」
「気まずくないか?」
「大丈夫でしょ。まああいつ、チャンスがあるなら諦めたわけじゃないって言ってたけど」
「根性あるなぁ」
「根性のある人は嫌いじゃないわ、ストーカーとかにならない限りは」
「タイプじゃないって言ってただろ」
「タイプではないわ。嫌いではないだけ」
悪戯っぽくウィンクをした彼女に対して抱くのは、器用だなぁという感想だけ。
友人の誤解も周りの噂も、まったくもって見当違いだ。僕らの内実を無視しているその勘違いが、ここまでくるともはや面白いとすら思った。
春の訪れを痛感してから早数週間。新学期は滞りなく進行し、痒み止めの薬が常備薬になった。
淡々と過ぎ去る日常は、退屈だけれど平穏だ。
「最近どう」
「普通」
「彼女できた?」
「お前それ嫌がらせか? 知ってて言ってんだろ」
先日あいつに振られた友人に話を振れば、怨霊のような悲惨な顔で怒られる。
「嫌がらせじゃないよ」
「じゃあなんだよ」
「僕は彼女できた」
「…………は?」
ぽかん、と口を開ける友人の姿が滑稽で少し笑えてきた。くすりと堪えきれぬ笑いが零れる。
綺麗に一時停止していた友人は、僕の笑い声にびくりと反応して目を見開いた。
「……やっぱり付き合うのか、お前と」
「ん?」
「どうでもいいって顔しといて畜生……やっぱりお前と付き合うのかよぉ」
「……一応断っておくけど、彼女ってあいつじゃないからな」
「え」
「流石にお前に告白を推奨しておいて、やっぱり好きだったので僕が付き合いますなんて報告をするほど性格悪くない」
ペットボトルに口を付け口内を湿らす。
昏い表情をしていた友人から、徐々に靄が晴れていった。
「授業が一緒の子なんだけど、趣味とか……あと、考え方が合ってさ。告白されたから、まあいいかなって」
「……マジで?」
「嘘吐くメリットないだろ」
深いため息を吐くと、友人は形容しがたい顔をして頭を掻きむしった。呆れと安堵と、ほんの少しの苛立ち。それ以外にも綯交ぜになった表情で、困ったような呆れたような呻き声を発した。
一応、恋人ができたら周りにはきちんと言っておくべきだとは思っていた。
こいつのような勘違いをする奴は未だに多い。僕とあいつの幼馴染という間柄に、皆がそれ以上の付加価値を付けたがるようなのだ。
幼い頃から一緒に過ごして、気づけ二人は互いを意識し合い……という筋書きを当て嵌めたいらしい。
そういった憧れを否定するつもりはないが、僕と彼女はその対象外だとそろそろ諦めてもらいたい。
「あいつと付き合ってるとか周りに思われてると、彼女に申し訳ない」
「まあ……そうだよなぁ」
「大事にしたいんだよ、一応」
「そうかぁ……。俺、紫藤さんと付き合わないならてっきり女の子には興味がないのかとばかり」
「だから違うって。あいつは……家族の次に親しい他人だよ。昔から当たり前に傍に居るんだ、恋愛の対象にはできないくらいには身内だよ」
「そうかそうかぁ」
友人の眼にあるのは、安堵か期待か。自分にもまだチャンスはあるという前向きな気持ちを抱いているのかもしれない。
「まあ、おめでとさん」
「おう」
男女間の友情が成立するかと問われたら、目の前の友人はきっと「する」と答えるのだと思う。答えた上で、無意識に友情の上に恋愛を置いているのだろう。
多分、そういう人は結構多い。だから僕と彼女の関係は誤解され続けてきたし、彼女と付き合わないことが女性に興味があまりないのではないかという誤解を生んでしまったのだと思う。
でも、僕にとっては彼女は家族の次に身近な人間で。そこに、恋愛感情が伴うことは必然ではないのだ、きっと。
そういったことを説明しても、彼はあまり共感しないと思う。僕だって別に共感を求めているわけではないので構わないが。
「三崎に彼女かぁ……。今度紹介しろよ」
「えー」
「嫌がるな傷つくだろ」
「冗談冗談。でも忙しい子だから、都合が合えばな」
友達でいるために本音を全てぶつけ合う必要なんてない。こいつだってきっと、僕が理解できない思想を抱いている。
そのくらいの距離感の方が、生きるのは楽だ。
朝、誰かと待ち合わせをするなんて久しぶりだ。腕時計を確認すれば、待ち合わせの十分前。少し早く着いたので一応連絡しようとスマホを取り出した所で、改札を出たばかりの待ち合わせ相手と目が合った。
「三崎くん、おはよう!」
息を切らして駆け寄ってきたのは、つい最近付き合い始めた例の彼女だ。緩いパーマの掛かった髪が、走ってきたせいで少し乱れている。
「おはよう、湯島。……別に、そんなに焦ってくる必要ないのに」
「あはは、ちょっと浮かれちゃって」
彼女───湯島咲は、頬を掻きながら恥ずかしそうにそう言った。背筋が浮つくような感覚が、慣れない。
「ごめんね、三崎くんに予定合わせてもらっちゃって」
「大丈夫。今日、弟くんは?」
「久しぶりにおばさんが来てくれてるから、お願いしちゃった」
今日は一応、初デートというものだ。年の離れた弟の世話で忙しい彼女との、初デート。レポートの為に博物館に行くことをデートと称せるのなら、そういうことになる。
どうせならもっと違う機会に誘えばよかったと思わないこともないのだが、僕も彼女もあまり外出が多いタイプではないので誘う口実が思いつかない。彼女の暇な日を有効に活用するためなら、デートと実利を兼ねた方がいいだろう。僕とのデートの為だけに多忙な彼女に予定を空けてもらうのは、少し心苦しいし。
「じゃあ、行こうか」
「うんっ」
少しためらいながら差し出した手に、そっと彼女は自身の手を重ねてくれる。髪の隙間から見え隠れする耳が真っ赤に染まっていた。
彼女とは色々な話をした。その中で、蝶の話をしたことがある。
「私、虫は詳しくないけど、蝶々ならモンシロチョウが好きだなぁ」
ちょうど目の前を飛んで行った蝶が、近くのベンチに降り立った。モンシロチョウではなく、もっと大きくて柄の派手な種類だった。
「おっきい蝶々は綺麗だけど、翅が重そうに思えちゃうんだよね。だから飛んでるのをみても、綺麗だなって思う前に大変そうだなって思っちゃう」
彼女の心は、多分近くにいる蝶には向いていない。目線は確かに蝶を捉えているけれど、ぼんやりとそれを眺める彼女は蝶を通して何処か違う所を見つめているような気がする。こちらを向いていても、僕を見ているわけでもなさそうだった。
「身軽な方が、私は好きだな。翅が大きいとその分身動きがとれなさそうだし、障害物にもいっぱい当たっちゃいそう」
遠くを見つめていたのかもしれないし、何も見つめていないのかもしれない。
青空を雲がゆっくり進んでいく。ひらひらと、彼女が重そうだと言った翅で飛び立つ蝶が雲と被った。そう言われてから見ると、あの大きな翅に描かれた模様が何か柵のように思えてくる。
「湯島は、結構怖がりだな」
「どういうこと?」
「いや、怖がりっていうか……心配性?」
「うぅん、そうなのかな」
「多分」
突然そんな風に言い出した僕に対し、彼女は特に反論もせずに考え込んだ。あまり脈絡のないことを言ってしまったと若干後悔する。
しかし彼女は何かしら自分で納得したようで、僕が投げかけた話をそのまま拾い上げて言葉を重ねた。
「私は自分のこと、心配性というか、面倒くさがりなんだと思うよ」
にこりと笑って、彼女はそう言った。
「三崎くんもおんなじなんじゃないかな?」
その笑みはきっと、僕が良く浮かべるのと同じ温度のものだった。
自分を見て嬉しそうな顔をする彼女は、それなりに可愛いし愛おしいとも思う。
「恋すると人は変わるっていうけど、あんたはそんなに変わんないわよね」
「まあ変わったとしても、お前相手に惚気るとか絶対ないな」
「私もあんたにだけは惚気ない気がする」
「惚気る対象居ないだろ」
「はったおすわよ」
しかしながら、僕とこいつの関係はまあ変わらない。彼女に誤解されるかもしれない、と考えないこともないのだが。それはそれ、これはこれ。
「早く紹介しないさいよ」
「うん、まあそのうちな」
「誤解される前に私に紹介しておいた方があんたのためよ」
「ぐうの音も出ない」
正論だ。ただどうにも、彼女にこいつを紹介することに前向きになれない。
「何が嫌なのよ」
「嫌というか、何というか……」
以前、湯島本人から訊かれたのだ。「幼馴染のことを好きになったことはないの」かと。
その時僕は、昔買ってもらった飴細工の蝶について思い出した。青い色の、細やかな細工が施された蝶は芸術品のようで、今も鮮明にその姿を思い描ける。
本物の蝶とは違った人工の美しさに、そのことから虫が好きだった僕は大はしゃぎしたものだ。すごいすごい、と何度も口に出して、青い蝶をうっとりと見つめた。
それを買い与えられて、どんなに嬉しかったことか。食べ物とは思えない、芸術品のようなそれにすっかり舞い上がってしまっていた。
だから、僕が過剰な期待を抱いたのも仕方がない。
この蝶はどんな味がするのだろう。
きっと、夢のような味だ。
そう考え、胸を高鳴らせながらその美しい翅に舌を這わせた。
そこまで思い出して、僕は苦笑しながら彼女に「ないよ」と告げたのだ。
「そっか」と特に気にした風でもなく笑った彼女は、多分嘘偽りのない笑顔だった。まだ短い付き合いだけど、彼女は僕と似たところがあるとわかっている。
彼女の言った通り。面倒くさがりなのだ、僕たちは。
人との関わりですべてをさらけ出す必要はない。互いに口に出したことはないけれど、多分僕たちはそういう思想が共通しているんだろ思う。
だからこそ口に出したことはないし、口に出しても彼女は怒らないと思う。
「僕は多分さ」
「ん?」
「彼女のことはちゃんと好きだし大事に思ってるけど、優先順位的にはまだお前の方が上に居るんだよ」
それでも、言うべきことと言わない方がいいことはある。
僕の言葉を聞いた幼馴染は少し驚いたような顔をして、その後に苦虫を嚙み潰したような表情で水を飲み、最後には納得したように頷いた。
「だからかぁ」
「何が」
「私が彼氏できても長続きしない理由と、あんたが彼女できても私に中々紹介しない理由」
「まあ、そうなんじゃないの」
僕たちは、一番身近にいる他人だ。多分、一番近くで悩みを見てきたし、一番近くで笑顔を見てきた相手だ。
だから、家族とはまた違った意味で僕たちは身内で仲間だった。そんな相手が、できたばかりの恋人よりも優先順位が高いのは仕方がない。少なくとも僕たちはそう考える人間で、だからこそ恋人と長続きした試しがなかった。
「それ、彼女には言うんじゃないわよ」
「言わないよ。言うわけないだろ。……でも、それでもいいって考えてくれる相手じゃないとどうせうまくいかないんだ」
青い蝶は、舐めると甘い味がした。砂糖の甘さだ。ただの、普通の、飴の味。
美しい蝶は、結局ただの飴だった。きっとこの世で一番おいしいだろうと、そんな幼く拙い夢を乗せた蝶は、ただただ普通に美味しい飴でしかなかった。
一言で感想を言い表せば、拍子抜け。露骨にがっかりはしなかったけれど、なんだこんなものかと思ってしまったことは否めない。けれど美味しいのは確かだったし、僕は過剰に抱いていた自分の期待を静かに正した。
僕にとって、彼女は甘くて愛おしい飴細工を連想させる。あれは確かに素晴らしいものだけれど、幻想を抱くには荷が重い。
だからあの時、僕はあの青い蝶を思い出したのだと思う。
「あんたに恋できれば楽だったのにね」
「でも、お前は僕に惚れないし、僕だってお前に恋はできないよ」
「知ってる」
僕たちの間にあるのはきっとごくごくありふれた親愛と友情だけど。それはきっと、そんじょそこらの恋よりも、もっとずっと重いのだ。
「僕と彼女は案外似た者同士だったから、きっとお前ともうまくやれるよ」
「あんたみたいなのが増えるのは嫌ね」
「おい」
「冗談よ」
僕も彼女も、きっと恋にあまり期待ができない人間だ。青い蝶の現実を知っている。花粉を運び受粉させることも無ければ、夢の様な味わいをもたらすわけではないと知っている。
だからきっと、彼女にも居るのだろう。僕と同じように。僕に、幼馴染という蜜蜂がいるように。
あの日、大きく美しい蝶を見ていた彼女の目を思い出す。
僕と彼女は、似た者同士だ。
男女間の重い友情が好きです。
過去に部誌に寄稿した作品の加筆修正版。