調伏師 ~前編~
突き抜けるような蒼い空に一筋の飛行機雲が伸び、濃淡のはっきりした雲がゆっくりと流れていく。そんな、穏やかで気持ちの良い上空とは異なり、地上では黒山の人だかりが、何かに操られるように一方向へと進む。とりわけ、駅周辺では通勤通学の人でごった返し、さながら押し競饅頭の様相を呈していた。そんな中を、陸上選手並みの速さで走り抜ける三人の男女の姿があった。しかも、隙間を縫うよう走ながら、何かを言い争っていた。
「菊里! お前、朝の修行で俺を殺す気だっただろう!」
詰襟の学生服を着た甘いマスクの男子学生が、グレーと紺のチェック柄のジャンバースカートを着用した小柄で、ツインの団子ヘアーの女子高生にむかって抗議の声を上げる。
「殺す気でやらないと修行にならないじゃない!」
「そこまでするか普通――そう思うだろ水雉!」
八雲のやや後方を走る水雉は、豊かな黒髪のロングヘアーを緩く左サイドに捻り、縛り目を薄いブルーのシュシュで纏めた髪型に、菊里と同じ制服を着ていた。端正な顔立ちをしている水雉の顔には、二つの特徴があった。一つは、まるでダイヤモンドを埋め込んだような輝きを放つ右の瞳。そして左目には、白い眼帯が覆われていた。整った水雉の顔にはアンバランスなものであった。
「八雲、あなたの事は姉であるあたしが守ってみせるわ。さあ、きなさい菊里ちゃん!」
水雉は一気に加速すると、菊里の前に回り込み行く手を阻んだ。女子高生二人が大勢の行き交う歩道で睨み合う光景は、人々の注目を集めた。慌てた様子で八雲が割って入る。
「いつまでも姉さんぶるなよな! 俺達半一卵性双生児で、先にお前が出ただけの差だろう」
八雲と水雉は確かに似ていた。だが、双子だといわれても分からない程度でもあった。そもそも、半一卵性双生児とは排卵された一卵が受精前に分裂して二卵となり、それぞれが別の精子と受精して誕生することをいうのだから、似ていなくても当然といえば当然であった。
「何言ってるの、子供の頃からお姉ちゃんお姉ちゃんって慕っていたじゃない。あの頃の八雲も可愛かったわねぇ~~」
通勤通学でごった返す歩道の真ん中で、水雉がしまりのない笑みを浮かべる。それに対して、菊里は左足をゆっくりと上げ、「……水雉ちゃんの手料理が食べれなくなるのは辛いけど、押しかけ探題に鎮守の実力を見せてあげるわ。さぁ、かかってきなさい!」と歩道の真ん中で戦闘態勢に入る。それをみた水雉も、カンフー映画さながら鶴の構えで対抗してみせた。
「まてまてぇーーッ! 調伏師がケンカしたらどうなるか分かってるだろう、二人とも!?」
「大丈夫よ八雲。全て姉さんに任せて学校に行きなさい。その間に、なにもかも終わらせておくから……」
「瞳孔見開きながらナニを物騒なこと言ってんのーーーーーー!?」
「……べ、別に二人の人生終わらせることなんて……私平気なんだからね!!」
「お前は何言ってんのぉッ!?」
声を張り上げる八雲に、通行人たちの視線が刺さる。
「大声出すから……姉さんは恥ずかしいぞ」
水雉が憐れんだ瞳で双子の弟を見つめる。それに反論しようとした八雲より先に、菊里が口を開く。
「ちょっと離れなさいよ! 知り合いだと思われるじゃない、ハズ~……」
菊里の瞳には、軽蔑が宿っていた。
「ぜんんんんんぶ、お前らのせいな、これ!!」
声を荒げる八雲に、通行人たちは立ち止まり、怒気を孕んだ視線を一斉に向ける。居た堪れなくなった三人は、急いでその場を立ち去っていった。
やがて、駅前を抜け喧噪が遠くに聞こえるほど離れた川沿いの道を小走りで進む。最後尾を走る八雲は、先ほどの扱いに不平不満をこぼしていた。
「……ぐちぐちうるさいわよ居候男!!」と菊里が一喝する。
「居候って、俺たちは弾正台からの指令で来ているだけで、好き好んでお前の家に泊まっているわけじゃない!」
八雲は駅前での教訓を生かすよう、大人しめに対応した。
「なんでこんな奴らを……。私一人で十分なのに」
悔しさを滲ませた表情を浮かべ、菊里が吐露する。
「しかたな――」
「あれを見て!」
八雲の言葉を遮り、水雉が川を挟んだ反対側にいる小集団を指さす。そこには、詰襟の学生服を着た小柄な男の子と、軽くウエーブのかかった茶色のショートヘアに、首からは一眼レフのカメラをぶら下げた白地を基調とした紺の大きな花柄模様のラグジュアリーワンピースを着た女性が、見るからに「ザ・不良」の装いをした四人組の男たちに絡まれていた。
「ねえねえ、俺達お金無くて困ってんのよ~、貸してくんねぇ~かなぁ」
金髪をリーゼントにまとめた男が、にやけ顔で二人に詰め寄る。
「友恵、この人間たち困っているようだよ?」
男の子は、オドオドした様子で友恵を見つめた。その表情に、満面の笑みを浮かべた友恵は、男の子に向け一眼レフのカメラを構えた。
「イエッス! いいですよ~道雪様! もう少し目を潤ませてください」
角度を変え、何度もシャッターを切る。それに応えるよう道雪もポーズをとる。
「道雪様! その人間を叱るような表情もお願いしま~す」
不良たちには目もくれず、撮影会のように次々とシャッターを切る。道雪も慣れた様子で、友恵の注文にこたえポーズをとってみせる。呑気に写真撮影をしている道雪たちに不良たちは、「シカトしてんじゃねーー!」と怒号を張り上げカメラを払い飛ばした。
カメラは弧を描いてアスファルトに落ちると、断末魔のような音をたてて壊れた。その光景を目の当たりにした八雲たちは、確信したような表情をみせた。
「あの連中、俺たちが追っているグループのようだな」
「おそらくそうね。急ぎましょう」
「ふん。居候男に言われるまでもなく、私は気づいていたけどね!」
菊里が先頭を切って走り出す。そのあとを、苦笑いを浮かべた八雲と水雉が追う。
八雲たちが川を渡るため近くにある橋へと駆けだしたころ、不良たちは怒気をはらんだ目で、壊れたカメラと道雪たちを交互に見つめた。凍りつくような雰囲気のなか、金髪の男が眉間にしわを寄せ道雪に近づく。
「今ごろビビっても遅せーぞゴラァ! さっさと有り金全部だせよオラァ!」
「……と、友恵」
生まれたての小鹿のように道雪が震える。それを見た友恵の眼が光る。
「イエッス! イエッス! イエーーッス! その表情最高ですぅーーー!」
耳をつんざくような奇声を上げ喜び、懐からカメラを取り出し、怯え震える道雪を撮影する。
「状況わかってんのーー!?」と橋を渡って現れた八雲が、ツッコミをいれる。
「わたくしは、どんなシャッターチャンスも逃さない!」
突然現れた八雲に対して驚きもせず、友恵は決め台詞のように言い放った。
「カメラのコマーシャルのようなセリフだな……。って、そんな状況じゃねぇーーし!」
急いで来た自分たちの努力はなんだったのか、と問いたい状況に八雲は肩をすくめる。友恵と違い、不良たちは警戒しながら、「なんだお前ら?」とドスを利かせた声で八雲たちに詰め寄る。
「――この人たちは一旦置いといて……。お前たち、重永亮磨の仲間か?」
「あ~ん? 何、お前ら亮くんに何か用……ってか、お前らか、最近仲間をシメて回ってる奴らって!?」
不良たちがポケットからナイフを取り出した。
「やっぱり、重永亮磨の仲間か……」と八雲の目を光る。
そんな八雲に対して、菊里は腕を組み仁王立ちしながら、「言い当てるなんて、居候のくせに生意気よ!」とこき下ろす。
「褒めるなら、ちゃんと褒めてくれないか?」
「誰がそんなことで褒めるもんですか!!」
「…………まぁ、はじめっから期待してないけどな」
八雲は落胆した様子で息を吐く。その背後から、獲物を狙う蛇のように水雉が忍び寄る。
「大丈夫よ八雲、姉さんがご褒美に熱い抱擁をしてあげるわ」
「いや、間に合ってるから!?」
両手でバッテンを作り、水雉の抱擁から逃れる。
「……お前ら、何しに出てきたんだよ!?」
金髪の男にツッコまれ、八雲が申し訳なさそうに咳払いをする。
コントのようなことを八雲たちがしていたころ、友恵が道雪に耳打ちをする。それに頷くと、軽やかな歩みで八雲に近づき学生服の裾を引っ張る。
「キミ、助けにきてくれてありがとう」
「気にするな」
振り向いた八雲は道雪を見て、ハッっと息をのむ。そこには、頬を赤く染め上目づかいで八雲を見上げる少女のような可愛らしい仕草をする道雪の姿があった。八雲は、魅入られるように見つめる。自分の頬が熱くなっているのを感じた八雲は、慌てて顔を上げると、水雉と菊里の冷ややかな視線に気づく。急いで言い訳をしようとした八雲の声を遮るよう、黄色い歓声が上がる。
「ムハッ、BL最高ですうううううううううううううう!!」
友恵がカメラのシャッターを何度も切る。
「いい加減にしろ!」
「お前もなッ!」
茶色に染めた髪を短くまとめた不良が怒声をあげ、八雲に斬りかかった。それをしゃがんでかわすと、不良のみぞおちに一撃をくらわす。不良は低いうめき声をあげ倒れた。
「悪いな。お前ら相手だと本気なんて出せないは……」
倒れている不良を見下ろす。その隣でドザリ、と重い音が響く。
「居候がカッコつけてんじゃないわよ、キモい……」
苦虫をつぶしたような表情で、菊里が八雲を見る。その足元には、金髪の不良が倒れていた。残った二人の不良は、復讐にかられた表情で八雲たちを睨む。そんな視線を歯牙にもかけず、八雲と菊里は睨みあうよう相対していた。
「居候って、俺たちは弾正台から正式に命令を受け派遣された探題なんだぞ!」
「な、何!? お前ら調伏師だったのかッ!!」
不良たちの表情が、驚きと険しいものに変わる。
「俺たちの事を知ってるってことは、お前ら――妖厄仙だな」
先ほどまでの軽い表情とは変わり、鋭い眼光を放ち八雲が学生服を脱いだ。それを見た二人の不良もすぐに構えた。
「水雉!」
「ええ、準備はできているわ。いくわよ――『絶界陣』!」
水雉が右手を地面につける。すると、円を描くよう複数の文字が浮かぶ。それは大小四つの円として現れ、青白い光を放った。それを道雪が目を丸くして見つめていると、景色がセピア色へと一変する。
「な、なに? なになにこれーーー?」
周りの景色が突然変わったことに驚いた道雪が、友恵にしがみつく。そんな道雪を力強く抱きしめ、優しい笑みを浮かべながらも、しっかりとシャッターを切る。
遠くに聞こえていた喧噪や川のせせらぎが鳴り止み、セピア色の風景がどこまでも広がる。まるで写真の中に迷い込んだかのような光景のなか、動くものは八雲たちと道雪たちと八雲たちの正体に驚いた不良たちだけであった。八雲と菊里は、黒髪をオールバックにまとめた男とアシンメトリーの髪型に細身の長身の男と対峙していた。緊迫感を漂わせる八雲たちとは別に、水雉は道雪と友恵に対し警戒しながら接する。
「『絶界陣』からはじき出されないってことは、あなたたち人間じゃないわね」
「……はい。この方は、『まほろば』界にある六界の一つ兜卒界の第三王子です」
王子と聞かされ、全員が目を見開き驚く。
「……王子様がなぜこんなところに?」
「今は立花道雪様と名乗られ、講学の為にこの穢土――失礼、この地球にきました。それで、あなた方はやはり調伏師なのでしょうか?」
「あたしは高鉾水雉、弾正台所属の探題調伏師です。双子の弟の八雲もあたしと同じ探題調伏師で、もう一人は角杙菊里、この土地を守護する鎮守です」
「――気をつけろ水雉、こいつら正体を現すぞ!!」
自己紹介をしている最中、不良たちが獣のようなうめき声をあげだした。苦しむような、または威嚇するようなうめき声をあげる不良の背中が、こんもりと盛り上がる。小さなコブは、すぐに人の頭ほどの大きさとなり、一気に張り出すと昆虫の翅に形を変えた。オールバックの男は黄褐色の胴体に緑色の複眼、二本の脚は黒いがすねの部分が鮮やかな黄褐となり、胴体からも脚と同じ色の腕が四つ伸びたアオメアブの擬人化した形態へと変態した。もう一人細身の長身の男は、全身が黒く胸部と腹部第一節の背板に黄褐色か赤褐色の毛が密生し、頭は大きくハサミのような牙が特徴的なオオハキリバチへと形態変化をとげていた。
「シャシャシャー、もぐりの妖厄仙である無頼と調伏師が出会ったんだ、見逃してくれるわけないよな」
オオハキリバチが、その大きな牙で威嚇するよう音を鳴らししゃべった。
「人間の行方不明が続出している件でここに派遣され一か月――ようやく尻尾を掴んだぜ!」
八雲が一歩踏み出し大声で話す。大げささを感じさせる行為だが、それには理由があった。ことさら大きな声を出すことで妖厄仙の注意を自分に向け、まほろばの王子と名乗る道雪を守るのが目的であった。
「その尻尾を掴んだのが不運だったと、後悔して死んじまえ!」
二体の妖厄仙は空中へと飛び上がる。すると、羽音だけを残し消えた。
「雑魚の相手は、居候男がお似合いね」
一歩二歩と、菊里は後ろに下がる。
「……俺一人に押し付けるつもりかよ!?」
「ほらほら、よそ見してたらやられるわよ居候男!」
「舐めすぎだお前らぁーーー」
セピア色の街中に、羽音と妖厄仙の怒鳴り声が響く。
「これ貸しだからな菊里!」
怒鳴りながらカバンに手を突っ込む。そこから、四尺ほどの長さはあるであろう白鞘を取り出した。
「おかしいでしょ!? あんなのがカバンに収まってたなんて!?」
道雪の写真を撮りながら、友恵が指摘する。
「この『絶界陣』は、特殊な呪文を唱えることで一部の区間を亜空間に転移させる事が出来る術なのです。その応用が、先ほど八雲がカバンから取り出した白鞘なのです」
『絶界陣』に限らず、あらゆる術は弾正台の人たちが長い年月をかけ日本中に張り巡らせた特殊な注連縄の効果によって得られるもので、その目的は妖厄仙との戦いによって起こる被害を防ぐのと、調伏師の力を十分に発揮させるためのものであった。
「あたしたち調伏師は、身の回りに自分たちで作った呪式を持ち、そこにあらかじめ収納していた武器や防具を取り出し戦うのです」
「ご説明に感謝ですが……あのお方、大丈夫なのですか?」
二体の妖厄仙と戦う八雲を心配そうに指さす。。
「――ええ、あの程度の小物、八雲一人で十分です」
桜色の美しい唇に、微笑を浮かべ水雉が言い切る。
「ほんと舐めやがって! だったら、一人ずつ八つ裂きにしてやらぁーー!」
「シャシャシャー、男はさっさと終わらせて、女は弄んでから殺してやろうぜ相棒!」
水雉の言葉に挑発されたかたちで、二体の妖厄仙が八雲に襲い掛かる。
「後半は別として、男をさっさと終わらせるのは手伝おうかしら」
菊里は両の太ももに手を伸ばすと、そこから黒光りしたH&KP二〇〇〇の拳銃を二丁取り出し、それに頬ずりをする。
「手伝う気がないなら、水雉と一緒に護衛でもしててくれ!」
菊里の行動に意識をとられた八雲の隙を、妖厄仙たちは逃さなかった。オオハキリバチが、黒光りする牙を鳴らし八雲の背後から襲い掛かる。
――鼓膜をつんざくような金属音が響く。
「チッ、意表を突いたと思ったんだがな……」
上空でホバリングしながら、オオハキリバチが悔しそうに見下ろす。八雲の右手には、白鞘から抜かれた『一竿子忠綱』の刃が鈍く光っていた。それを両手でしっかり握ると、空中にいるオオハキリバチと対峙する。その背後から、アオメアブが地を這うような低空で猛然と突進してきた。羽音で察した八雲は、後ろを振り返ることなくバク転でアオメアブの攻撃をかわす。かわされたアオメアブは、そのままの勢いで、電柱に突撃した。轟音と共に電柱は真っ二つにへし折られ、濛々とした煙が立ち込めた。減速することなく電柱にぶつかったのだ、アオメアブはしばらく動けないだろうと思っていた八雲の期待は裏切られた。瓦礫の中から、アオメアブが無傷で姿を現した。その頑丈さに八雲は舌打ちする。アオメアブに気を取られていた八雲に、肉片のついた針が五本、高速で向かってきた。それに気づいた八雲は眉をひそめ、「グロいんだけどーー」と悲鳴に近い声をあげ飛んでよけた。針による攻撃をかわすことはできたが、着地の瞬間をアオメアブに狙われた。このままでは着地と同時にアオメアブと激突する。かわせないと悟った八雲は、刀で勢いを殺そうと『一竿子忠綱』を一閃させた。
――が、アオメアブは舌を出して、八雲の横を通り抜けた。
「しまった!」
アオメアブが囮だと気づいた時には、オオハキリハチが八雲の眼前まで近づいていた。
「まずはオス、撃破!」
オオハキリハチの腹から、針が撃ちだされた。それを、仰けに反りながらよける。だが、無理な態勢でよけたせいで、地面を二転三転とする。
「……い、今のは、やばかったぁ……」
ドロだらけとなった顔を拭う。
「そんなでたらめなことあるかあああああ!? ぜっていぶっ殺してやらぁああ!!」
仕留めたと思った攻撃をよけられ、オオキリバチは怒りに顔をゆがませ八雲に襲い掛かる。それに呼応して、アオメアブも襲い掛かる。崩れた態勢で妖厄仙の攻撃を防がなければならなず苦戦する。怒りに任せた攻撃のように思われた攻撃だが、妖厄仙たちはタイミングをずらし襲い掛かてきた。反撃のチャンスはおろか、防戦から抜け出す糸口すら見つけれない八雲の顔に焦りの色が浮かぶ。それは、はたから見ていても分かるほどで、先ほどまで余裕の表情を湛えていた水雉も、今は険しいものとなっていた。
「ちょっと~居候男さぁ~、殺られるか倒されるか早くしてよ~。学校に遅れるじゃない」
「俺がやられるの限定だな、それ!」
防戦一方の八雲だったが、徐々に妖厄仙の動きにも目が慣れ始め、菊里にツッコめる余裕が生まれていた。
「シャシャシャー、これがマックススピードだと思うなよ。これからが本番だーー!」
まさか!? と八雲が思った瞬間、羽音が変わった。さらに高音域の羽音を響かせ、四方八方に動き回り、八雲を翻弄しようとした。
「……マジかよ。……ようやく目が慣れてきたのに」
羽音だけで姿を捉えることのできない状況に、八雲は額に冷や汗をかく。
「……あらら、本当に私まで回ってきそうね? さようなら居候男」
「終わらせねーよ!」
菊里の冗談に気を取られた。その隙を、妖厄仙たちは見逃さなかった。右側からオオハキリバチの針が、左側からはアオメアブの体当たりが肉薄してきた。反射的に体を逸らしかわそうとした八雲だが、針は左わき腹をかすめ、アオメアブの体当たりは右のふくらはぎに当たる。なんとか直撃をかわすことはできたが、バランスを崩し顔から地面に向かっていく。手を出して受け身をとるには間に合わないと、体をひねらせ左肩から落ち、そのまま二度三度と地面を転がり前後不覚となる。急いで状況を確認しようと体を起こそうとしたが、左肩の辺りと腰に激痛が走った。痛みでうずくまる八雲に、二体の妖厄仙が容赦なく襲い掛かってきた。
「今度こそ一人目だーー!」
「――な、何やってんのよ!」
菊里は慌てた様子で銃口を向ける。だが、二体の妖厄仙は次の動作で八雲の命をとれる位置まできていた。
「――間に合わないいいい!」
菊里が悲鳴に近い叫び声を上げた。血の気の引いた表情の菊里の視界に、何かが飛び込んだ。それは、八雲の元にたどり着くと、まるで雛鳥を守るよう翼を広げる大鷲のようであった。そして、吸い込まれるよう、オオキリバチとアオメアブが翼に向かって飛び込んでいく。砕けるような重い音がセピア色の街に響く。二体の妖厄仙は、痙攣しながら地面に倒れていた。その様子はまるで、殺虫剤を浴びた昆虫さながらであった。
「あたしの弟を傷つけて、許さない!!」
大鷲の正体は、水雉であった。
「酷いケガ……さぁ、学校休んで病院へ行きましょう」
ケガをして倒れる八雲を、そっと抱きしめる。
「だ、大丈夫だよ水雉、これぐらい……」
「ダメよ。もしものことがあったらどうするの」
ベタベタと八雲の体を触り、ケガの確認をする。そんな水雉の姿に、菊里と道雪と友恵は共通した思いを抱く。それは――
『こいつは真正のブラコンだ!』
セピア色の空間に、二階分の広さの丸い渦状の穴が開く。穴の奥は、どろどろとした黒い液体のようなものが、無規則に動いていた。そこから、真っ青な牛と金色の模様で縁取られた黒い豪奢な監獄車が現れた。
「も~う、着いたぞ迦楼羅起きろ」
口をくちゃくちゃ動かしながらしゃべる真っ青な牛を、何度も見ている菊里でさえ眉をしかめてしまうほど、薄気味悪い生き物であった。
「……なんだぁ、もう穢土についただがや?」
監獄車の表面に、大きな二つの目が現れると眠そうにまたたく。
「……と、友恵、あ、あれはなに?」
「あれは、穢土……じゃなく、地球に無断で来た妖厄仙を『まほろば』に送り返す護送車で、迦楼羅というものですよ」
何者かわかると、好奇心の芽生えた道雪は迦楼羅に近づいてみる。
「あなたいつも眠そうだけど、ちゃんと無頼を送り届けているんでしょうね?」
菊里が心配そうに話しかける。
「相変わらず菊里殿は心配性だがや。ちゃんと『無頼』を『有涯』に収監しているがや」
「怪しいものだけど……。まぁいいわ。じゃ、この二体の妖厄仙をお願いね」
菊里が、二体の妖厄仙を迦楼羅の前に転がす。それを追うよう、目が側面へと移動する。
「今回はひどい有様だがや、生きているのだがや?」
犯罪者とはいえ、気の毒なほどののされっぷりに、迦楼羅は同情の言葉を漏らす。菊里は苦笑いを浮かべ、「生きてるわよ」と告げた。半信半疑な目つきをしながら、迦楼羅の後方面が口のように開く。そこから、青黒くネチャネチャした舌が伸びてきた。
それをみた菊里は、吐き気を催す。不気味な青黒い舌が、二体の妖厄仙に巻きつき、口の中に運んだ。半死半生の目にあったうえ、迦楼羅の青黒くネチャネチャの舌に巻かれ監獄車に押し込まれた妖厄仙に、菊里は憐憫さを感じ黙祷を捧げた。
「じゃあだがや、菊里殿とオマケの方々や」
「モブキャラにオマケ扱いされたくねーよ!」
八雲のツッコミに勝ち誇った笑みを浮かべ、迦楼羅は渦巻かれた穴の中に消えていった。
――渦巻く穴を塞ぎ、水雉が『絶界陣』を解くと、荒涼としたセピア色の街から、いつもの色とりどりに満ちた街にもどる。
「……オホン、世話になった」
道雪は王子としての威厳を整えつつ、八雲たちに礼を述べた。
「ご無事でなによりです」
型通りの返答をする八雲の手を友恵が取ると、道雪の手と重ねた。
「フラグが、フラグが立ったぁああああ!!」
嬉々として写真をとる。
「……あんた、そればっかりだな!」
八雲のツッコみに、友恵は親指を立てて答える。
「腐れ女が……」
水雉が、軽蔑した表情で友恵を睨みつける。
「……ブラコンの方がキモいですよ」
「なんですって?」
お互い、アイデンティティーをけなされ睨み合う。
「学校に遅れるから、私先に行くわよ」
菊里はカバンを拾い上げ、「どっちもキモい」とボソリ呟き、学校へ向かう。
「お、おれも行くよ。では王子、これで失礼します。さぁ、水雉も行くぞ」
走り去る八雲たちの背を、道雪は目を輝かせながら見つめる。
「……すごいね友恵! あれが地球を守る組織『弾正台』の調伏師なんだね」
嬉々とした様子の道雪に、友恵も嬉々とした様子で、「イエッス! イエッス! 最高ーーーですよ道雪様ーーー!」と写真を撮りまくる。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦
始業のチャイムが鳴り、喧噪に満ちていた校舎に静けさが戻る。誰もいない廊下に女性の怒号が響く。
「――不良に絡まれていた男の子を助けて遅刻したですって、もうちょっとマシな嘘をつけないのか、高鉾姉弟と角杙菊里!」
怒りをぶつけるよう出席簿で教壇を叩く。
「だから、あんたが寝坊したって正直に言ってればよかったのよ」
黒板の前に立たされている菊里が、隣に立つ八雲にささやきかけるよう耳打ちする。それはもちろん、菊里の罠であった。責任を擦り付けられてはかなわないと、八雲が言い訳しようとしたが、それより先に女教師が八雲の前に立ち威嚇してきた。
「ほほぉ~、高鉾弟よ、キミは教師を謀ろうとしたわけなんだ」
静まり返った教室に、担任が鳴らす指の音が響き渡る。数名の男子が、鉄拳制裁を期待して身を乗り出す。危険を感じた八雲が、慌てて言い訳をする。
「ち、違いますよ! こいつの出鱈目で――」
担任の右の拳が、八雲の顔の横を唸りをあげて通り過ぎる。風圧で窓ガラスが激しく揺れた。それはまるで、下手な言い訳をしようものなら鉄拳の制裁が下ると暗に示しているようであった。そのことに気づいた八雲の顔から血の気が失せる。
「……ったく、近頃の男は、甲斐性がなさすぎる」
八雲が委縮してしまい担任は嘆息する。女性をかばうぐらいの気概を見せてほしかったようだ。そんな教師の願望をかなえるために、自己を犠牲するほど八雲はお人よしではなかったが、理不尽な担任の対応に、「……そんなんだから行き遅れるんですよ」と思わず呟く。
「アルティメットシャイニングブロー!」
担任の右拳が一閃する。重く鈍い音が静まり返った教室に響く。八雲は体をくの字に曲げひざまずく。その光景に、一部の男子から歓声があがる。
「……バカ居候」
「……今のは八雲が悪い」
菊里と水雉から、厳しい視線が向けられる。
「先生だって、先生だって好きで独りで……。じゃない! キミたちの為に大事な授業時間をこれ以上使うわけにはいかない。明日から時間内に登校するよう、分かったか三人とも!!」
「は~い」と水雉と菊里が答え、足早に自分の席に戻る。
八雲は痛むお腹をさすりながら、のそのそと自分の席へと向かった。そんな八雲に学生服の袖をまくり、昭和の番長さながらの風貌をした男が、嬉しそうな顔で声をかける。
「地雷原に自ら飛び込むとは、勇者だな!」
「……喜んでんじゃねーよ新延」と八雲は不満顔で言い返す。
その反応に、新延は肩を揺らして笑う。人の気も知らないで、と不満を腹の痛みとともに抱え、席にたどり着く。そんな八雲に、ピアノの旋律のような優しい声がかけられた。
「災難だったね八雲くん」
ぱっちりとした二重が印象的な河瀬有希が、八雲に微笑かけた。その笑顔に、八雲の心は安らいだ。全員が席に着くと、担任が小さくため息を吐いてから、「今日は転校生を紹介するのだが、その転校生も遅刻してきたと、困ったものだ……。さぁ、入ってきなさい」
扉を開け入ってきたのは、詰襟の制服が似合わないほど小柄で、女の子と見まがうほどの可愛らしい道雪であった。
「――あああああ、あなたはさっきの!」
「ヤッホー八雲く~ん――いや……オ、オッス」
「なんだ高鉾弟、知り合いだったのか?」
「だから言ったじゃないですか、その……そいつを助けて遅れたんですよ」
「そうなのか立花?」
「うん……じゃなかった、おう!」
「……先生に対して、そのしゃべりかたは感心しないな」
持っていた出席簿で道雪の頭を軽くはたく。すると、目を潤ませ今にも泣きそうな表情で見上げた。その仕草に、担任は頬を赤らめ、「……そ、そんなにきつく叩いてないだろ」と少し声を上ずらせ言い訳をする。そんな担任の態度に、生徒たちから非難の声が上がった。
その声に混ざり、「二回りも下の男にトキメクな!」「いきおくれ乙ーー」「BBAーー!」など、日頃の鬱憤をぶちまけるよう八雲と新延が叫ぶ。さらに悪口を言おうとした刹那、担任の腕が閃いた。空気を切り裂き、二本のチョークがまっすぐ八雲と新延に向かっていく。乾いた音を響かせ、チョークが額に当たり砕け散る。二人は首がもげたよう後ろに倒れ、白目を剥いて気を失っていた。一瞬で、教室に静けさが戻る。
「……彼が転校生の立花道雪くんだ。みんな仲良くしてやってくれよ。さぁ、席に就いて授業を始めよう」
白目を剥いたままの八雲と新延は放置され、授業は粛々とすすんでいった。
一限目の終わりを告げるチャイムが校舎に響く。緊張から解放された生徒たちは、それぞれ思い思いに話しをはじめる。一限目の途中まで白目を剥いていた八雲たちも、息を吹き返した様子で席を立つ。
「今日の体育サッカーらしいぜ、楽しみだな八雲!」
新延はすでに、体操服へと着替え終えていた。どうやら、学生服の下に着こんでいたようだ。待ちきれない様子で八雲の着替えを急かす新延の子供っぽいところが、八雲は好きだった。幼い頃から修行に明け暮れ、学生生活に縁のなかった八雲たちにとって、同年代の友達なんて一人もいなかった。そんな中で出会った新延は、初めてできた同年代の友達であった。
「……や、八雲くん、ぼ……俺もついて行っていいかな?」
だぶっとした体操服の裾を握りながら、上目づかいで道雪が声をかけてきた。
「……お、う、いいけど……な、なんでそんなに体操服ブカブカなんだ?」
「え? これぐらいがいいって、友恵が渡してくれたんだけど……」
困った様子で体操服を見つめる道雪を、八雲は眺めながら、「趣味をもろ押しつけやがったな、あのド変態女」と友恵に対して毒づく。
「変かな……八雲くん?」
目を潤ませ上目遣いで八雲を見る道雪に、「こいつ、わざとやってんじゃないか?」と思うほどのあざとさを感じながらも、心臓が高鳴り頬が熱くなるのを八雲は自覚していた。
――ちょっと八雲、変な道に入らないでね。お姉ちゃん心配よ――
水雉の声が八雲の頭に響く。
――誰が変な道に進むかーー! ってか、勝手に俺の考え読むなよ!――
――しかたないでしょ。修行で偶然手に入れた、あたしたちだけの能力なんだから――
――離れていても会話ができるのは便利なんだけど、私生活では考えが読まれるっていうのが難点だな……――
――大丈夫よ。八雲がどんな変態さんになっても、お姉ちゃんが力ずくで修正して、正しい姉弟愛に導いてあげるから!――
「変態になんねーーよ!」と八雲が大声をあげる。
すると、教室にいた男子全員が驚く。それと同じく、教室の隅にいた一部の男子生徒が、慌てて道雪から視線を逸らした。
「……へ、変態なんて、ぼ、僕言ってないよぉ~」
道雪が泣き出しそうな顔をする。それを見た八雲は、「やってしまった」という表情を浮かべ、取り繕うと言葉を費やす。それでもメソメソとしている道雪の背中を、新延が思いっきり叩く。
「『雷斬りの道雪』と同じ名前してんだ、しっかりしろ!」
新延の言葉に、道雪が驚いた表情を浮かべる。
「……男らしい男になりたくてつけた名前なんだ。知っている人がいて嬉しいよ」
「当たり前だ! 俺と八雲は戦国武将の話で盛り上がってからダチになったんだぜ」
「そうなんだーー。八雲くんはどの武将が好きなの?」
「お、おれは『表裏比興の者』といわれた真田昌幸かな……」
「へぇ~、ちょっと意外だったなぁ。新延くんは?」
「俺はもちろん『独眼竜』こと、伊達正宗だな。十年早く生まれていれば時代は変わっていただろうぜ!」
自分の事のように得意げに話す。
「じゃぁ俺は、織田信長じゃん『鳴かぬなら殺してしまえホトトギス』ってな」
三人の会話に、別の男が割り込んできた。
「――あんた誰だ?」
入り口を塞ぐよう立っているのは、肩まで伸ばした髪と左の耳に十字架のピアスをつけ、胸元には金色のネックレスをつけたチャラい感じの男であった。その男を見た瞬間、調伏師としての本能が全身の細胞に警戒するよう伝達する。道雪は、反射的に八雲の背後に隠れた。
「お前は、重永一派の頭、重永亮磨……」
「新延、知っているのか?」
「もちろんだ。数ある不良グループで、一大勢力を誇る重永一派――その頭を張っているのが、この重永亮磨だ!」
肩書の割に重永亮磨の印象は、軽薄な感じしかしなかった。しかし、その背後にいる六人の子分は、高校生に見えないほどの迫力があった。
「その重永一派の棟梁が、俺たちに何かようか?」
敵の大将が、自ら赴いてくることを想像できなかった八雲は、この現状に焦りを覚える。もしここで戦闘になれば、道雪はおろか、教室にいる生徒まで巻き込み大量のけが人がでると予想できた。それだけは、何としてでも避けたい八雲は、重永たちを教室から遠ざけための算段をする。しかし、そんな時間を与えてくれないようで、仲間の一人が重永に耳打ちする。
「お前か、おれの島で派手に暴れているのはじゃん。調子に乗ってると――殺すぞ!」
ただの学生が発する殺気ではなかった。それは、死臭を感じさせる不気味さがあった。
さらに、後ろにいる男たちからも、朝に出会った妖厄仙とは数段違う殺気を感じた。こんな時、せめて水雉でもいたら何とかなるだろうと思った。
「上等だ!」と突然、新延が体操服を脱ぎ威勢よく啖呵を切った。新延の無謀な行動に八雲は動揺する。そしてすぐに、新延の前に出て安全を確保しようとした。
「さすが八雲だ! 道雪も男だったら一肌脱げ!」
ヒートアップした新延が、道雪の体操服を脱がそうとした。
「は、恥ずかしいよぉ~~!」
道雪は顔を赤らめ体操服の裾を握って抵抗したので、新延は意地でも脱がそうと、さらに強強引に体操服を引っ張る。二人が絡む光景は、まるで女子の服を無理やり脱がそうとしている破廉恥な絵図らとなっていた。そんなやりとりを、全員が顔を赤らめて魅いる。
「――ッンフ~ン、こんなところで女の子を襲うなんて、メッだわよ」
降って湧いたように現れた女性が、新延を合気道のような技で投げ飛ばした。その光景に、誰もが目を丸くする。
女性はゆるふわのウェーブヘアーをかきあげ、お色気をたっぷりと含ませた艶やかな唇を、三日月のように開き微笑む。
「……あんた誰だ?」
道雪と新延に気をとられていたとはいえ、ここまで接近されるまで気づかせなかった女に、八雲は警戒する。
「あらん。わたくしを知らないなんて――ッンフ~ン、先生ショックよ。高鉾くん」
ボディーラインに沿った赤紫のスーツに身を包み、ブラウスのボタンを飛ばしそうなほど豊かな胸を揺らしながらウインクしてみせる。教師には見えないその出立に、男子たちがエッチな話しで盛り上がっていたのを思い出した。その女教師の名前を、加夜奈留美といった。
「でしゃばってんじゃねぇじゃん……奈留美よう」
「ッンフ~ン、先生を呼び捨てにするいけない子は、あとで職員室でお説教ね」
奈留美は、ゆっくりと重永に近づき、しなやかな指で顎を撫でた。重永は眉を歪めて奈留美を睨んだ。危険を感じた八雲は、奈留美を守ろうと前に出ようとした。
「……チッ、いくじゃん」と重永が引き下がった。
手下たちも、大人しく重永の後についていく。あっけなく引き下がった重永たちに、八雲は拍子抜けした。
「ッンフ~ン、あなたたちも早く授業に向かいなさいね」
ゆるふわのウェーブヘアーを靡かせ、香水の甘い香りを残し奈留美も立ち去った。
奈留美のことが気がかりだったが、とりあえず全員無事だったので八雲は安堵した。しかし、追っていた犯罪組織の一員であろう重永に、八雲のことは知られていた。そうなると、水雉や菊里のことも調べられているだろう。いよいよ敵も、本格的に八雲たちの排除に乗り出してきたのかもしれなかった。八雲としては、戦闘は望むところだが今回のように、知り合いが巻き込まれるかもしれない状態は避けたかった。その為にも先に仕掛けるべきなのか、とも考えた。だが、まずは水雉たちと相談して決めるべきだと思った。それと、加夜奈留美についても話しておかなければならないと感じた。八雲に気づかれることなく近づくことが、普通の教師にできるわけがない。もしかしたら、重永たちと関係があるかもしれなかった。
「八雲!? どうした行くぞ!」
体操服を着なおした新延が、廊下で待っていた。急いで廊下に出つつ、次の休み時間にでも水雉に話そうと考えていた。
「……あのさ、ぼ……俺も、戦国武将のフィギア欲しいんだけど、どうしたらいい?」
「道雪も武将フィギアに興味を持ったか! いいぜ、俺たちがアキバを案内してやるよ。なぁ八雲!」
「おれもかーーー?」
素っ頓狂な声を上げる。
「……ダ、ダメかな?」
道雪の上目遣いに、作為的なものを感じながらも八雲の心臓は高鳴る。
「ダメじゃないが……」
自分が同行すれば重永たちとの抗争に道雪たちを巻き込む危険性があった。それゆえ、当初は断るつもりだったが、すぐに考えを変える。一緒にいることで彼らを守れるのではないかと思ったのだ。重永の狙いがわかるまで、なるべく一緒にいたほうが良いと。
「分かった。俺も行くよ」
「やったーー!」
「放課後が楽しみだな!」
友達と寄り道をする。そんな他愛ないことでも、八雲にとっては二度と訪れないかもしれない貴重な体験で、不謹慎ながらも少し楽しみでもあった。
――学校に喧噪が満ちる下校時間。グランドでは運動部が活動し、校舎には帰宅を急ぐ者や放課後の雑談に花を咲かせる生徒たちであふれていた。その中に、八雲たちの姿もあった。無事に放課後を迎えることができて、ほっと胸を撫で下ろす。そして、予定通り道雪と新延の三人で秋葉原に向かう。その道中、新延が戦国武将、特に伊達正宗について道雪に熱く語っていた。それを熱心に聞く道雪を見つめながら、八雲は尾行の存在に気づいた。相手の出方を見ようと、静観することした。
校門を出ても尾行してきたので、これ以上黙っていることはできないと八雲が振り向く。
「なんでお前たちまでついてくるんだ?」
「私は八雲が心配でついていくだけで、けっしてグッズに興味があるわけじゃないわよ」
「わたしは水雉ちゃんに誘われて……。それに、秋葉原って行ったことがなくて」
水雉と河瀬がついてくることに問題はないのだが、もう一人いるイレギュラーな人物が、八雲にとって目の上のたん瘤であった。
「わたくしは、道雪様の護衛です。どこまでもお供します!」
毅然と言い放つところまではいいのだが、道雪の写真を撮りまくる友恵の姿に、下校する生徒たちから不審な視線を向けられているのが居た堪れなかった。八雲は深く溜息を吐いたところで、、もう一人の問題児がいないことに気づく。
「……菊里は?」
「菊里ちゃんは、用事があるって先に帰っちゃったよ」
河瀬が微笑を浮かべ答えた。
菊里の用事とは何か、八雲は気になったが、面倒ごとが減ったことを素直に喜ぶことにした。
右を見ても左を見ても人だかりの雑踏とした秋葉原には、平日にもかかわらず多種多様な人種が集まり、誰も彼も夢の詰まった荷物を抱え歩いていた。一人一人が個性的な秋葉原でも、八雲たちの小集団は異彩を放っていた。そんな彼らが最初に立ち寄ったのは、美少女系からアニメものなど、さまざまな種類のフィギアが豊富に揃う店舗であった。
「凄い! 凄いよ八雲くん!!」
道雪は、ショーケースに顔をくっつけるほど近づき興奮していた。その中にある戦国武将のフィギアを、新延は一つ一つ暑苦しいほどの詳しい説明をして聞かせる。それを横目に、水雉は近くにある同人誌コーナーへと足早に向かう。そこで、目を皿のようにして同人誌を見つめていると、目に留まった一冊を手に取り、目じりを下げ微笑んだ。水雉が手に取ったのは、姉弟もののエッチなものであった。荒い息遣いで同人誌を見つめる水雉を、友恵は軽蔑した眼で一瞥する。そのあと、店内をキョロキョロと見渡す。そんな友恵の行動に八雲が気づき、珍しく道雪の写真を撮っていないと思っていると、小走りで店内を移動しだした。その先にあるコーナーを見て、八雲は得心する。友恵が向かった先は、腐女子たち御用達のBLコーナーであった。そこにたどり着いてからの友恵は、鬼気迫る勢いで、周りの女子を押しのけ、同人誌を手にしては奇声をあげ喜ぶ。その姿はまさに、狂人の域に達していた。あまりの狂態ぶりに、店員が注意する始末であった。それでも友恵の狂態は収まらず、四苦八苦する店員の姿に、八雲は同情の視線を送った。
そんな中、所在なさそうに辺りを見渡す河瀬に気づいた。
「……河瀬は、何を見にきたんだ?」
「――あっ、うん。わたしは秋葉原ってどんなところかなぁって、見に来ただけだから……」
水雉が綺麗なタイプの美人なら、河瀬は可愛いタイプの美人で、守ってあげたくなるような雰囲気をしていた。そんなことを思いながら見つめていると、「……わ、わたしの顔に何かついてる?」と前髪をいじりながら目を逸らす。
「あ!? いや、退屈じゃないかと思って……」
「わたしは大丈夫だよ。……それより、八雲くんは何か見なくていいの?」
「今日は、俺も付き添いだから……」
「そうなんだ。……それじゃ、グッズコーナー付き合ってもらおうかな?」
「おう、いいぜ!」
二人は、所狭しとグッズやポスターが陳列されている店内を肩を並べ歩き、大手のアニメグッズが並ぶコーナーへとたどり着く。そこには、人気アニメのグッズが数多く並んでいた。
「あっ! このアニメ知ってる。かわいい~」
アニメのキーホルダーを手に取り八雲に見せては、河瀬が微笑む。その笑顔に、八雲の頬も自然と緩む。髪の毛をかき上げる仕草やグッズに話しかける河瀬の姿を見ていると、八雲は胸の奥がこそばゆいような感覚を覚え戸惑った。それでも、一緒にいることは嫌ではなく、むしろずっと話をしていたい、そんな気持ちになっていた。河瀬もまた、無邪気な笑顔を咲かせ、二人で並んでグッズを見る姿は、付き合って間のない恋人同士のような初々しさがあった。
「――調伏師が呑気にデートとは余裕じゃん」
背後から殺気に満ちた声が聞こえ、慌てて身構える。
そこには、派手な出立で薄ら笑いを浮かべる重永亮磨と二人の男が立っていた。
「なんでお前がこんなところにッ!?」
八雲は、重永から河瀬を遠ざけるよう立ちはだかる。
「昼間邪魔が入ったんで、わざわざ出直してきたんじゃん」
また、タイミングの悪い時に現れたと、苦虫をつぶした表情を浮かべる。
「お前らのせいで、舎弟が次々と『まほろば』の監獄『有涯』に送り込まれて、こっちは人手不足のうえ、上納金が減って上から俺たちが消されるかもしれないしゃん。そろそろ邪魔な調伏師には退場してもらおうと思ってきたじゃん」
重永の目が鈍く光る。その異常な光景に怯えた河瀬が、八雲に寄り添った。河瀬の身を案じた八雲は、『絶界陣』を張るチャンスを窺う。
「おい、女調伏師はどこにいるんだ?」
重永の後ろにいた男が前に出てきた。その男は細身の長身で、頭はスキンヘッドに刈り派手なヒョウ柄のスーツを身にまとい、長い舌で舌なめずりしながら辺りを見渡す。
やはり、水雉のこと知っていると、スキンヘッドの男の言葉で八雲は確信する。
「そう急かすなじゃん。この男を半殺しにしてから人質とし、女調伏師に何でも言うことをきかせるって寸法じゃん」
「そいつあ、良いな。ケケケ」
男たちは下卑た笑い声をあげる。
水雉に対して穢れた妄想をする男たちに、八雲は怒りを覚えた。
「それじゃ、さっさとはじめるか」
スキンヘッドの男が一歩前に出る。それに合わせ、建物内の風景がセピア色に変わった。八雲の隣にいた河瀬の姿もなくなり、さきほどまで痛いほど響いていた音楽も聞こえなくなった。どうやら、水雉が『絶界陣』を張ったのだと分かった。
「そっちにもせっかちな奴がいるみたいじゃんかよー。いいぜ、さっさと始めるじゃん!」
重永の体が、いびつな動きをはじめる。それに呼応するようスキンヘッドの男と、先ほどから黙っていた黒いスーツの上からでも筋骨隆々だと分かるほどの男も変態をはじめた。
「お前ら、絶対に『有涯』へぶち込んでやるからな、覚悟しろ!!」
水雉を妄想で汚したことの怒りのまま、八雲はカバンの内側に張った呪式に触れ、愛刀の『一竿子忠綱』を取り出す。
「おいおい、一人で俺たち三体を相手にするつもりかじゃん」
重永の顔は半分以上を複眼が占め、背中には広げると全長三メートルほどありそうな薄い翅が四枚あるシオカラトンボの擬人化へと変態していた。
「おい重永、本当に女がいるんだろうな!?」
「心配するな、とびっきりの美人がどこかに潜んでるはずじゃん」
「これでいなかったらおまぁ、ただじゃーおかねぇからな!」
女に固執するスキンヘッドの男は、緑色の全身に長い舌をチョロチョロと出し入れする二足歩行のトカゲへと擬人化していた。そして、筋骨隆々の男は頭に大人の男の太ももはありそうな巨大な二本の角を生やし、上半身は分厚い筋肉が鎧のよう覆われ、それとは対照的に下半身は小さく短めの二本の足で立つ水牛の擬人化へと変態していた。
「ふ、二人とも、ケ、ケンカしている、ば、場合じゃないぞ」
重永とトカゲ妖厄仙が言い争っている隙に、八雲が間合いを詰める。一瞬で重永の懐に入り、『一竿子忠綱』を一閃させた――甲高い金属音がセピア色の店内にこだます。
八雲の刃は重永に届く前に、水牛妖厄仙の角で防がれていた。
「い、今のは、か、貸しだぞ」
水牛妖厄仙の角にひびが入る。
「斬り落としたと思ったが、硬えな!」
八雲はすぐに態勢を立て直すと、すぐに斬りかかった。三対一の戦闘で、相手の出方を待つのは愚策である。そのことを識る八雲は、果敢に攻め立てた。
「稲妻!」
数メートルは離れているトカゲ妖厄仙の懐に一瞬で潜り込む。
『稲妻』とは、姿勢を下げ地面を蹴って跳ねるよう移動する調伏師の技の一つでる。
刀の間合いに入った八雲は、刃を滑らせ斬りこむ。トカゲ妖厄仙の柔らかそうな腹部に刃が吸い込まれるよう近づく寸前、トカゲ妖厄仙は黒光りする爪で刀の軌道を逸らした。八雲の攻撃はかわせたが、衝撃までは流すことができずバランスを崩す。隙のできたトカゲ妖厄仙の腹に八雲は左の掌を当て、「はぁアッ!」と気合を吐き力強い一撃を放った。
重い衝撃音が響き、トカゲ妖厄仙は身体をくの字に折り、勢いよく飛ばされ柱に激突した。
今の技は、『六種拳』といわれる発勁の一種で、足首、膝、腰、肩、肘、手首を連動させ、相手に密着させた掌へと、そのパワーを一気に集約させてから爆発的に相手へと叩きこむ調伏師の技の一つであった。だが、この『六種拳』には弱点があった。発勁を放ったあと無防備となるのだ。そこを、空気を切り裂く爆音をあげ水牛妖厄仙が突進してきた。八雲は、それを正面から受けず、独楽のように回って流した。八雲にかわされた水牛妖厄仙は、そのまま壁へと激突する。二体の妖厄仙を退けた八雲は、『稲妻』を使い重永の背後に回り居合を放った。
決まった! ――と、思った八雲をあざ笑うよう閃光が空を切る。
「残念だったじゃん。俺の目は複眼で視野は二百七十度もあるじゃん」
重永は得意げに自分の目を指さす。
「――だから、そんなところに隠れていても分かるじゃんかよ。でてきな女!」
「……厄介な眼ね」
柱の陰からゆらりと姿を現したのは、水雉であった。
「おうおう、期待以上のいい女じゃねぇか重永!」
腹をさすりながら立ち上がったトカゲ妖厄仙が、長い舌を嬉しそうに揺らす。
「……あなたたち、黄色い目をした妖厄仙を知っている?」
「なんだそれ、知るかよ」
トカゲ妖厄仙の反応に、水雉は失望の色を浮かべる。だが、すぐに左目の眼帯に触れ、そこから黒光りする大鎌を取り出した。それは水雉の身長より少し大きく、三日月のような弧を描いた刃は、禍々しい光を放っていた。
「さっさとあなたたちを『有涯』へ送って、同人誌選びにもどるわ」
「いいねぇ……。気の強い女の苦痛に歪む顔を見るのが、わしは好きだ」
トカゲ妖厄仙は、涎をたらしながら水雉を見つめる。
「俺も、相手をするなら美人のほうがいいじゃんかよ」
重永も水雉を指名する。
「だ、だったら、お、おれも、女が、いい」
水牛妖厄仙も、二人に倣うように水雉を指名する。
「……しょうがない。三人でいくか!」
三体の妖厄仙は八雲に背を向け水雉と対峙する。
「バカだろお前らーー!」
「四Pまでなら大丈夫よ!」
「誤解を生む言い方止めような!」
「よろしくお願いしま~す」と三体の妖厄仙が水雉に頭を下げる。
「わざとだろ? いや、わざとやってるよな!」
「半分本気じゃん!」
重永の言葉を合図に、水牛妖厄仙が口から『水礫』を八雲に向け放つ。トカゲ妖厄仙は床をうねるよう這い、重永は空中から水雉に襲い掛かった。
意表を突いた攻撃だったが、八雲は拳大の『水礫』をしゃがんでかわした。かわされた『水礫』は、壁に掛けてあったモニターを破壊し壁に穴を空けた。その破壊力に八雲が感心していると、地響きを鳴らし水牛妖厄仙が突進してきた。八雲は正面からぶつかる愚を避け、水牛妖厄仙の角に手を置き体を浮かせ上へと逃れた。勢いあまった水牛妖厄仙は、そのまま『水礫』で空けた穴に突っ込む。爆音と共に壁は粉々に砕け、砂埃の向こうに外の景色が覗いた。
「……丈夫な奴だな」
八雲が感心したのは、砂埃の向こうで悠然と立つ水牛妖厄仙の姿を捉えたからだ。
一方、足元の床を這いながら近づくトカゲ妖厄仙と、空中から襲いくる重永の二体の妖厄仙を相手にしている水雉は、慌てた様子もなく大鎌を構え、トカゲ妖厄仙の動きを見つめる。大鎌の射程範囲に入ると、床を蹴り体を地面と平行にする。そして、大鎌を垂直に立て高速で回転する。それにより、地面から近づくトカゲ妖厄仙は刃をかわすため横に避け、空中の重永もよけざるおえなかった。二体の妖厄仙を撃退した水雉は、回転を止め地面に立つと、「その穴から外に出て戦うわよ八雲!」と駆け出す。
「そこには、牛の妖厄仙がいるぞ!?」
水雉がそれに気づいていないはずはないと思ったが、一応注意を喚起した。それでも走り続ける水雉に、何か考えがあるんだと思い、八雲も後を追った。
穴の入り口では、水牛妖厄仙が足を何度か空蹴りして突進の構えを見せていた。
――あいつの突進力は、俺の『刹那』をはじくほどだぞ――
読心で、八雲が水雉に説明する。
――あたしが隙を作るから、八雲が仕留めなさい!――
水雉は大鎌を左斜め下に構えながら走る。それに怯むことなく、水牛妖厄仙も真正面から角で貫くつもりで向かっていく。水雉は水牛妖厄仙の動きに合わせ、右斜め上へと回転して大鎌を角に当てた。鼓膜をつんざくほどの金属音が響く。水雉の大鎌は大きく弾き返され体勢も崩す。八雲は、慌てて水雉のフォローに回ろうとしたが、「今よ!」とたたらを踏みながら堪えつつ叫ぶ。視線を正面に戻した八雲の前で、動きを止め上体を無防備にさらしている水牛妖厄仙の姿があった。水雉はこれを狙っていたのだと分かり、ガラ空きとなった水牛妖厄仙の懐めがけ居合斬りを放つ。確かな手ごたえを感じる。
大きく裂かれた水牛妖厄仙の腹部から、青い霧のようなものが勢いよく吹き出す。虚ろな瞳でガタガタと震える。腹部から出ている青い霧は、『霊仙』という妖厄仙にとって力の源であり、それがなくなると妖厄仙としての姿が保てなくなるのだ。
大量の『霊仙』を失った水牛妖厄仙は、子牛へと姿を変えた。
「今だ水雉、『鎮魂』で封じろ!」
倒れている子牛に護符を張る。そこから、四角錐の木が複数伸び檻の形状となる。それは、子牛を囲い閉じ込めると青白く光りだした。
「友恵、アレは何?」
高鉾姉弟の戦いを、商品棚の後ろから窺っていた道雪が護符に興味を持つ。
「あれは妖厄仙の力の源である『霊仙』を吸収して檻を形成する護符でして、元の姿を保てなくなった妖厄仙にとっては少なくなった自分の『霊仙』を吸われ形成される檻なので、壊して脱出することはほぼ不可能な妖厄仙を封じる調伏師の道具です」
「あれがそうなんだ……。それにしても、凄く息の合った連係だったね」
「近親相姦なんて気持ち悪い! やはりBLでしょ!」
友恵の偏った知識に、「どっちもダメだけどな!」と八雲が聞いていたらツッコミそうな意見を、「BLってもっと強いの?」と素直に問い返す。
「もちろんBLは最強です。いえ、至高なものです!」
「だったら、僕と八雲くんがコンビを組んだらすごいことになるね!」
「道雪様…………最高です!」
二人して目を輝かせ、不毛な会話を繰り広げていた。
その頃、八雲と水雉はビルの外で二体の妖厄仙を待ち構えていた。
「……ところで水雉、飛行できる敵がいるのにわざわざ外で戦う理由ってなんだ?」
「理由なんて明白でしょ……」
そんなことも分からないの呆れた弟ね、という表情を浮かべ――
「もちろん大切な同人誌を守るためよ!」と決め顔で答えた。
「なんだその理由ーーー!?」
八雲は、全力で呆れてみせた。それに対して水雉は目を見開き、「解せぬ」といった表情で見返す。
「いやいやいや、解さないのはこっちだは、『絶界陣』内で起こったことは現実世界に影響を与えないってことぐらい知っているだろ!?」
真顔でいう八雲に、「分かってないわねぇ」と言いたそうに肩をすくめ首を左右に振る。
「なんだろう、さっきから一言もしゃべってないのに、ムカつく……」
水雉は最高の決め顔で、「亜空間だろうと同人誌はあたしが守る!」と結んだ。
「カッコイイこと言ってるつもりだろうけど、変だからな!」
呆れ顔を浮かべる八雲に向かって、六つの瓦礫が空気を裂き襲い掛かる。注意が逸れていた八雲だが、飛来する瓦礫を造作もなく払い落とす。水雉も半分払い落とした。
「……口数少なくて無愛想なやつだったが、一緒に『暗穴道』を通ってこの『穢土』に来た仲間だったらかな。あいつの仇に、女をひん剥いていただきま~す!」
「仇討ちとか言いながら、水雉を襲うのが目的か!」
鼻息を荒くしてトカゲ妖厄仙が走ってくる。それを迎え撃つべく八雲と水雉は散開した。トカゲ妖厄仙は水雉に狙いを定め向かっていく。そこで水雉は立ち止まり迎撃態勢をとる。トカゲ妖厄仙は、両手の爪を前後左右に振りながら斬りつけてきた。それを大鎌の柄で防ぐ。
しばらく激しい攻防が続いたが、このままでは埒が明かないと、トカゲ妖厄仙は大鎌の柄を握り水雉の動きを止めた。そして、そのまま押し倒そうと力を入れる。
「近くで見ると、ますますいい女だぜ」
水雉の頬を舐めようと舌を伸ばす。が、わずかに届かなかった。意地でも舐めてやろうと、さらに力を込める。
「俺のこと忘れんな無頼!」
トカゲ妖厄仙の背後から八雲が斬り込む。その瞬間を狙っていたかのように、トカゲ妖厄仙は振り向き口から槍の矛先を吐き出し攻撃してきた。思わぬところから出現した槍に、八雲は無防備な状態で突っ込む。しかし、槍が八雲の顔を正確に狙っていたことが幸いした。八雲は頭を動かすことで、矛先をかろうじてかわすことができた。だが、切っ先は八雲の頬をかすめ、わずかに鮮血が舞う。
「八雲!」
水雉は血の気が引いた顔で駆け寄ろうとした。だが、トカゲ妖厄仙に大鎌を握られ、動けなかった。
「グゴ、ゴクン……逃がさないぜ」
槍をまた飲み込むと、下卑た笑みを浮かべる。それを、怒りの表情で睨み返す。
「離しなさいこの爬虫類! 大丈夫八雲!?」
「……ああ、かすり傷だ」
一旦、間合いを取ろうと離れた。そして、なぜ背後にいた八雲の場所を、トカゲ妖厄仙が正確に捉えていたのか考えた。そしてすぐに思い当り、空を見上げた。
そこには、悠然と旋回する重永の姿があった。
「人間の良いところは、機械の発展じゃん」
重永の顔には、ワイヤレスインカムがついていた。それで、トカゲ妖厄仙と連絡を取っていたのだ。八雲は苦々しい表情を浮かべ、上空を旋回する重永を睨む。
「だったら、先にお前を始末するだけだ!」
懐から護符を取り出すと、そこからクナイを三本取り出し重永に投げた。しかし、距離があるせいで、クナイは簡単によけられた。
「そんなもの、当たるわけないじゃんかよ」
高笑いを上げる重永に、顔を真っ赤にして怒る。そして、大きく息を吸うと、八雲は空中を駆け上がりだした。それはまるで、見えない階段を上るかのようであった。
「――バ、バカなじゃん!?」
空中を駆け上がってくる八雲に、重永は口を開け呆然と留まる。
――落ち着きなさい八雲! そんな消耗の激しい『烈風』を今使うなんて無策よ!――
――これで決めればいいんだろ!――
怒りに任せ空中を駆け上がる。
「――しまった!?」
重永が気づいた時には、八雲は間合いに入っていた。
「三度目の正直だぁぁ『刹那』!」
鞘から閃光がほとばしり、重永を両断した――
ように見えたが、それは重永の残像であった。本体は何かに引っ張られるよう、地面へと落ちていく。三度目の正直だと思って放った『刹那』を避けられ、八雲の目から生気が失われた。そして、地面に降りた時には肩で息をするほど体力を消耗していた。
「ッンフ~ン、そんなに疲れちゃって、ナニの邪魔してごめんなさいね」
信号機の上で足を組み座る女性は、色っぽい表情をうかべ、紅いマニキュアの塗られた指先から、濡れたように光る細い糸が数本伸び、重永へと繋がっていた。
「侵入不可能な『絶界陣』にいるってことは、俺のストーキングですか?……加夜先生」
出会った時から、重永と何か繋がりがありそうな雰囲気を感じていたが、それは間違いではなかったと証明された。しかも、最悪の形で。
「ったく、自由に現れたり消えたり、勝手な奴じゃん」
「あらぁん? わたくしの糸で助けてあげたのに、随分ないいかたねぇん」
「おい加夜! その男をやるのは勝手だが、女に手だしたらおまーでも許さねーぞ」
奈留美の登場で、勝負の流れは妖厄仙に向いた。
「ッンフ~ン、あたくしはどっちでも構わないんだけどねン。ただ、あたくしも上納金が減って百目鬼組長に怒鳴られてるから、この子らを殺して機嫌をとっておかなくちゃいけないのよねぇん」
「好きにしろ!」
吐き捨てるように言うと、水雉を押し倒そうと力を込めた。
「その百目鬼ってのが、誘拐や恐喝で金儲けしている組織の親玉か?」
「ッンフ~ン、八雲くんにはハナマルあげなくちゃね。でも、あなたたち下っ端の調伏師では対抗できないから、出直してらっしゃ~い」
奈留美は口元に笑みを浮かべていたが、目には殺気を宿し八雲を見つめていた。
空中にいる重永と奈留美を相手にするのは不利だと判断した八雲は、水雉と連携して先にトカゲ妖厄仙を倒そうと背後に回った。だが、背後からの攻撃に利点がないことは、先ほど実証済みだったので、それを踏まえ斬りかかる。
トカゲ妖厄仙は、しぶしぶ水雉から離れ八雲の攻撃をかわした。
「おい加夜、この小僧なんとかしろ!」
「そんなに叫んじゃ~、こ~そり近づく予定がぁバレちゃたじゃないのん」
地上に降りていた奈留美に、水雉が襲い掛かる。それを、軽やかなステップで後方に飛び退きかわす。
「――ッンフ~ン、怖くって近づけないわぁ」
奈留美は変態する気はないようで、ガードレールに腰掛け高みの見物を装う。八雲と水雉は奈留美の心理を計りかねていた。そこで、奈留美を一旦放置して、まずは地上にいるトカゲ妖厄仙を倒すことに集中することにした。
二人は怒涛の如く攻めたてた。トカゲ妖厄仙は重永の指示で、なんとか高鉾姉弟の攻撃を防げている状態であった。
「ボサっとするな加夜ああああ! 男の相手しやがれ!」
追い込まれたトカゲ妖厄仙は、傍観者気取りの奈留美に苛立ちをぶつける。
「…ゥンッモ~、邪魔するなだの、助けろだの、オスなんて勝手よねぇ~ん」
奈留美は、追い詰められ苦しい表情を浮かべるトカゲ妖厄仙を悦に入った表情で見つめていた。参戦する気はなさそうだが、警戒は怠らず、お互いの死角をフォローしながら高鉾姉弟は攻め続けた。
「ねぇねぇ、助けてほしかったらぁ、加夜様助けてください、って言ってごらんなさい」
奈留美は嬉々として言う。
それを横目で見つつ、この女が敵で良かった、と八雲はしみじみと思う。そして、味方にも似た女がいたことを思い出し、今いなくてよかった、と心から安堵する。
「――危ない!」
水雉の声で慌てて頭をすくめる。その頭上をナイフを握った重永が通り過ぎた。その隙に、トカゲ妖厄仙が大きく間合いを取る。それにより、仕切り直しとなった。
「……すまなかった」
「お詫びに接吻してくれたら赦してあげる」と水雉は頬を突き出した。
「できるかよーー」
「じゃあ、赦してあげないからね」
ふてくされる水雉に、ここにも面倒な女がいたとため息をつく。
「……じゃあ、好きな同人誌一つ買ってやるよ」
「二つね!」と指を二本立てる。
「わかったよ……。しかし、どう攻める? 今のところ加夜先生がこないからいいが、あの女も気まぐれそうだからな、いつ攻めに転じるかわからないぞ」
「……ねぇ八雲、あの女ものもって、誰の事指してるの?」
「…………別に誰かを指してるわけじゃないよ。一般的な意見さ」
知ってる女全員だとは、口が裂けても、ましてや心で考えてもいけなかったので、八雲は笑顔で乗り切ろうとした。
「ふ~ん……。そうしといてあげるわ」
疑うよう右目を細め八雲を見ていたが、何か思いついたようにトカゲ妖厄仙を睨む。
「八雲はトカゲ妖厄仙と先生の相手をしてくれる」
水雉の瞳が、いつも以上に輝きを増す。それは、自信のある時に見せるものだと八雲は知っていた。
「引き付けておく時間はどれぐらいだ?」
「三分程でいいわ」
「了解だ!」とトカゲ妖厄仙に向け突撃をする。
「男はいらねんだよーー」
向かって来る八雲を避けて、水雉に襲い掛かろうとした。
「そういわず、ちょっとだけ相手してくれよ爬虫類!」
トカゲ妖厄仙の行く手を阻む。その間に、水雉は『烈風』で空中へと駆け上がった。
「その技は、長時間できないのは分かってるじゃん」
重永は口角を上げて笑い、水雉から一定の距離を取る。読まれているにもかかわらず、水雉は慌てることなく駆け上がる。その途中、突然ブラウスを脱ぎ捨てた。薄いピンクのブラジャーが現れ、そこに収まっている二つの魅惑の果実が激しく上下に揺れた。重永はもちろん女の奈留美でさえ驚き胸に注目する。陶磁器のような白い肌に、薄いピンクのブラジャーが温かみを持たせ、その溢れんばかりの谷間をより魅惑的に魅せた。重永は複眼すべてを駆使して胸を見つめる。視線を釘付けにしたと確信した水雉は、円を描くよう胸を揺する。すると、重永の複眼も一緒に円を描くよう動いた。それを確認して、円を描くスピードを速める。
「……友恵、アレは何をしているの?」
水牛妖厄仙が空けた穴から覗き見る道雪が問う。
「道雪様は、あんな汚らわしいモノを見てはいけません。まったく、下品な女は下品で浅いことを考え付きますね」
「友恵分かるの? 教えてよ、ねぇねぇ」
「すぐにわかりますよ」と道雪には優しい表情を浮かべる。
水雉は、たわわに実った果実で描く円の速さを増していく。重永はその一つ一つの動きを見逃さないよう目を凝らし見つめ、口元はだらしなく緩んでいた。やがて、重永の身体が大きく揺れだす。それはまるで、酔っぱらったように前後左右に揺れ不安定となる。それを確認した水雉は、重永との間合いを一気に詰め大鎌を一閃させた。重永はニヤついた表情のまま、上半身と下半身の二つに別れた。その斬り口から、『霊仙』を放出させ地上へと落ちていく。間髪入れず、大鎌をトカゲ妖厄仙へと投げた。
「――さあ来い『一竿子忠綱』の錆にしてやる!」
八雲は大鎌の軌道を隠すようトカゲ妖厄仙の前に立ち挑発してみせた。
「ガキが調子乗りやがって、八つ裂きにしてやらーーーー!!」
怒りに任せて、爪で八雲を引き裂こうと振りかぶる。
――今よ八雲!――
その声に合わせ身体をずらす。八雲の背後から現れた大鎌が、トカゲ妖厄仙の頭部から突き刺さる。勢いのままトカゲ妖厄仙の頭部を引っ張り、地面に頭を縫い付けられる。
「どうだ! これが俺たち高鉾姉弟の戦いだ!」
愛刀『一竿子忠綱』の切っ先をトカゲ妖厄仙に向け、八雲が啖呵を切った。
「…………これへ、お前らは、逃へれなく、なったそ……」
わずかに開く口の隙間から、漏れるように捨て台詞を吐く。やがて、姿が保てなくなったトカゲ妖厄仙は、小さなトカゲへと姿を変えた。『鎮魂』の護符を取り出しでトカゲ妖厄仙の慣れの果てを封じ込めた。すでに水雉も重永を封じ終えていた。
「――ッンフ~ン、意外にやるわねぇん」
瞬く間に二人がやられたのにもかかわらず、奈留美は動揺するどころか腰をくねらせ胸を強調するように立ち、まるで八雲を誘惑しているようであった。その色っぽさに、八雲は目のやり場に困り狼狽える。それに気づいた水雉が、嫉妬の眼差しを向ける。
「こうみえて、着痩せするタイプなのよ」
ブラジャー姿のまま八雲に胸を突出してみせた。胸の大きさでは奈留美に負けていたが、美しい胸のラインと陶磁器のような白い肌が女としての魅力を十二分に見せつけていた。
「いや、そっちの競い合いじゃないだろ……」
水雉の胸を見ないよう視線を下げて叫ぶ。
「八雲くんの言う通りよん、女の武器は胸だけじゃないわよ小娘ちゃん」
奈留美は、さまざまな悩殺ポーズでアピールして魅せる。負けじと、水雉も悩殺ポーズをとる。――が、もぞもぞ動いているだけで、完全に奈留美に負けていた。
「ッンフ~ン、どう小娘ちゃん、八雲くんはわたくしの悩殺ポーズにやられ、前屈みになっているでしょん」
「あら、八雲は姉に欲情して前屈みでいるのよ。時々、あたしの下着が八雲の部屋にあるのを知ってるんだから」
「ウソウソウソウソウソ! 何デタラメ言ってんだ水雉ーーーーー!」
「……それはさすがに、先生も引くわん」
奈留美は、まるで汚いものを見るような目で八雲をみた。
「非常識なあんたに、そんな目で見られるのは屈辱なんですけどーーーー」
「……八雲、下着も高いから月に一度にしてね」
「さらに誤解を招くようなウソをつくなーーーー!!」
「ッンフ~ン、そんなに下着が好きなら、八雲くん宛に使用済みを送っておくわねん」
「今度なんてないわよ!」と水雉が大鎌を投げつけた。奈留美の挑発合戦に乗ったのは、隙を窺うためであった。唸りを上げて大鎌が襲う。それを、奈留美は後ろに飛んでかわそうとした。それを計算していたかのように、大鎌は軌道を変え奈留美を追った。どこまでも追ってくるよう迫る大鎌に、奈留美は涼やかな表情で見つめていた。ついに大鎌の刃が奈留美を捉えたと思った瞬間、空中で動きを止めた。
「ッンフ~ン、じゃあね八雲く~ん……」
甘ったるい声だけ残し、セピア色の風景に溶け込むよう奈留美は姿を消した。
「変なものマジで送ってくんなよーーー!」
緊張の解けた八雲は、その場に跪いた。
「あたしの下着で間に合っているものね」
「そのネタは、もういいから……」
軽口を叩く水雉も『烈風』の影響で、前髪が顔に張り付くほど汗をかき肩で息をしていた。こんな状態で、どこかにいる奈留美を追うのは危険だと判断し諦めた。
水雉は大鎌の回収をしようと、疲れた体を引きずるように歩き近づく。大鎌がなぜ、空中で停止したか分かった。無数の細い糸が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、それに絡まり捕まっていたのであった。
「さっさと服を着ろ」
下着姿のままでいる水雉に、ブラウスを差し出す。八雲が照れていることに気づいた水雉は、前に回り込むと下着姿を見せつけた。
「もういいから!」
「遠慮しなくていいのよ」
セピア色の空間で、じゃれ合う二人であった。
『絶界陣』の空間に迦楼羅が現れ、捕らえた妖厄仙たちを乗せ『有涯』へと戻っていった。その間、八雲たちは奈留美が仲間を奪還しようと襲ってこないか警戒していたが、杞憂に終わり胸を撫で下ろした。
水雉が『絶界陣』を解いた。セピア色の風景に色彩が戻り、喧騒が鼓膜を心地よく叩いた。それにより、日常に戻ったことをかみしめる。特に思い入れがあるわけでもなかったが、それでもここが、自分たちのいる場所なんだと実感する。
「――こんなとこにいやがった! 河瀬こっちだ!」
新延の怒鳴り声が聞こえ、八雲は我に返る。『絶界陣』は、現実世界と切り離せても時間の流れまでは切り離せないため、居なくなった言い訳を、毎回考えなければならなかった。
「……お帰り八雲くん」
根掘り葉掘り質問してくる新延とは対照的に、河瀬は安堵の笑みを浮かべていた。
「……そうか、河瀬は菊里と幼馴染だから、事情は知ってるんだったな」
八雲の問いに、コクリと頷く。そんな河瀬を見て、ふと先ほどまで良い雰囲気だったことを思い出し、八雲は赤面する。
――浮気の途中で悪いんだけど、これまでのこと弾正台に報告しておくわよ――
――へ、変な誤解してんじゃないぞ!――
八雲は狼狽えている自分に気づき驚く。そんな八雲を見て、水雉は不機嫌な表情を浮かべ、カバンから手帳を取り出し、素早く事情を記した。書き終えると、またカバンに手を入れた。
「お呼びですかにゃー水雉様」
鞄から手のひらサイズのイタチが顔を出す。
「これを、至急弾正台に届けてちょうだい」
「超特急でいくだにゃー」
こっそり鞄から飛び出したイタチは、人混みを縫うように走って行った。それを見送った水雉は、楽しそうに会話している輪の中に戻る。
「そうだ八雲、約束通り同人誌三冊買ってよね!」
「地味に一冊増やしてんじゃねぇ」
「水雉ちゃんはどんな同人誌が欲しいの? 俺が買ってあげるよ」
照れくさそうに新延が聞く。
「汗臭い男の買った同人誌なんていらないわ。それとも店ごと買うっていうなら、もらってあげてもいいけど」
水雉は死んだ魚のような目で、新延を見下す。
「店ごと買う甲斐性がなくてスイマセンでしたーーー」
体育会系のノリで、新延が深々と頭を下げる。それを、みんなで大笑いした。和やかな雰囲気で、店舗回りを再開した。
――黄昏ゆく陽の光が影を長く伸ばし、真っ赤なとばりが街を覆う。秋葉原を堪能した八雲たちは、駅前で別れるとそれぞれの帰路についた。
右手に同人誌の入った紙袋を持ち、左手には戦国武将フィギアの入った紙袋を持ち、幸せそうな顔で道雪が歩く。
「……お父様が言ってたほど、人間世界って悪いところじゃないねぇ」
「そうですねぇ、特に秋葉原は楽園でした!」
「うん! 友恵の仲間があんなにたくさんいるなんて、ビックリだよ」
BLの同人誌を両手の紙袋とリュックにはちきれんばかりに詰め込み、その重みで中腰で歩きながらも友恵は満面の笑顔を浮かべていた。
「もっともっと、人間世界について知りたくなったよ!」
「……道雪様、目的をお忘れなきように……」
真剣な表情を浮かべる友恵。だが、この場に八雲がいたら、「あんたが一番目的を忘れていそうだな!」とツッコまれそうな格好をしていた。
それでも、友恵の言葉に道雪は辛そうな表情を浮かべ空を見上げた。
「僕はどうしたらいいの……」
その声は、闇に飲み込まれるように静かに消えていった。
――街灯の少ない寂しげな田舎道を八雲と水雉が並んで歩いていた。水雉の手には、八雲に買わせた同人誌三冊と、自分で買った五冊と、さらに新延からも二冊買わせた同人誌の計十冊の入った紙袋を大事そうに持っていた。
ほどなくして、目を見張るような豪邸が姿を現した。
「いつみても気後れするな、この家は……」
八雲は門の前で立ち尽くす。
「角杙家は、古くから弾正台で重要な役職に就いてきた名門だからね」
悠然と建つ角杙邸から、歴史の匂いが感じられた。
「菊里のオヤジさん……確か、三部衆の一つ、諜報担当の夜叉部の副部長だったよな?」
「なんで疑問形なのよ。そんな八雲もかわいいんだから」
「いや、確認だよ。ここに来てから一か月経つけど、一度も親子で会ってるとこ見たことないなぁと思って」
水雉は同人誌の入った紙袋を地面に置き、自分より少し背の高い八雲に抱きついた。
「……大丈夫よ八雲、お父さんやお母さんがいなくても、姉さんがいつまでもいるから」
「分かってるよ。……あれからずっと二人で生きてきたんだからな」
八雲も水雉を抱きしめた。十年前の傷を慰めるように、二人は抱きしめあう。
「……あの~、水雉さん……そろそろ離れてもよくないですか?」
「恥ずかしがらないで、遠慮なく姉さんに甘えなさい!」
八雲の胸に頬ずりする。
「もう大丈夫だからさ!」
無理やり引き離そうとしたが、水雉は力一杯抵抗する。
玄関前で、しばらくバカップルのようなやりとりをしていたが、八雲が異変に気付く。
「なにかおかしくないか?」
「姉と弟でイチャつくのは変じゃないから、むしろ普通なぐらいよ」
「それ、お前の買った同人誌の世界だけ! そうじゃなくて、菊里がいるはずなのに家の電気がついてないんだ。おかしいだろ!」
さすがに、水雉も異変を感じ八雲から離れた。二人は警戒しながら屋敷の門をくぐった。
角杙邸の庭は和風の装いで造園され、家が建ちそうなほど大きな池があった。正門からやや左に弧を描くよう道が伸び、百メートルほど進むと正面玄関にたどり着く。いつもなら、この時間玄関の外灯は点いていた。だが、今日は消えていた。ここにきて、二人は戦闘態勢に入る。しかし、敵の気配はおろか人の気配すら感じられなかった。どうしたものかと、少し思案してから二手に分かれることにした。八雲は正面玄関から、水雉は勝手口から同時に侵入する。
水雉は日本庭園を通って縁側沿い進む。庭には争った形跡はなかった。それでも、油断せず慎重に進む。
五分ほどかけ、水雉は勝手口に着いた。そのことを読心で八雲に知らせる。二人はタイミングを合わせ扉に手をかけた。どちらの扉にもカギはかかっていた。持っていたカギで開け、用心しながら中に入る。暗がりのなか人の気配を探るが、なかった。それでも慎重に進み、水雉は一階を、八雲は二階を調べる。水雉が担当する一階部分は部屋が六つあり、どれも二十畳ほどある大きな部屋であった。居間は一学年の生徒全員が食事できそうな程の広さがあり、真ん中には一枚ものの欅の木で作られたテーブルが置かれていた。どこにも争った形跡や人の気配がなかった。
そのころ八雲は、二階にある自分の部屋を覗いてみたが、特に変わった様子はなかった。次に水雉の部屋をのぞく。なかは殺風景なほど何もなく、着替えの入ったカバンが部屋の隅に置かれているだけであった。仮住まいなので、そんなものかと思い部屋を出た。次に菊里の部屋へと向かった。軽くノックをしてみたが、返事はなかった。状況確認とはいえ、女性の部屋に勝手に入ることの罪悪感はあった。だが、菊里の安否を確認するためと、ふすまを開けた。部屋の中を見て、八雲は息を飲んだ。部屋のいたるところに、ぬいぐるみが飾られているのだ。菊里とぬいぐるみという組み合わせは不似合いで、違和感しか覚えなかった。しばらく呆然と見つめていた八雲だが、このことは黙っておくほうが身のためだと思いふすまを閉めた。
――八雲、居間に来て!――
水雉の声のトーンから、緊急事態でないことは読み取れたが、急いで居間へと向かう。
居間に着くと、欅のテーブルの前に水雉の姿があった。
「どうした?」
「……菊里ちゃん、これを読んで行ったみたい……」
差し出されたものは、弾正台からの手紙だった。書かれていたのは百目鬼組についての詳細と所在地についてであった。最後に菊里の父親である夜叉部衆副部長の印字が入っていた。
「……ったくあのバカ、一人で乗り込むなんて無茶なことをする」
二人は急いで菊里の後を追った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦
夜空に煌々とした星が点在し、幹線道路には赤いテールランプが川のように流れていた。そこからはずれた山の裾野に、角杙邸に負けないほどの大きな日本家屋が建っていた。その豪邸を、大木の上から覗き見る黒々とした小さな塊があった。
「角杙家の守護範囲内に、こんなに大きな巣をつくってくれちゃって、ゆるさない!」
苦々しい表情を浮かべ菊里が屋敷を睨む。
藪蚊と戦いながら身を潜め見張っていると、屋敷から四人の人影が出てきた。菊里は気づかれないよう息を殺しながら様子を窺う。四人組は山の中を異常な速さで走っていく。明らかに、普通の人ではない身体能力を発揮していた。間違いなく妖厄仙だと菊里は確信した。そして、四人組の向かう場所は、おそらく角杙邸だろうとも確信する。八雲たちが百目鬼の存在を知ったのと同じく、百目鬼のほうも八雲たちの所在を知ったに違いない。おそらく、目障りとなった調伏師を奇襲で襲い殲滅するつもりなのだろう。そうとは知らず、屋敷にいる八雲たちは妖厄仙たちの夜襲を受けることになる。もしかしたら、二人は殺されるかもしれない。だが、教えに戻る時間も必要もないと菊里は思った。むしろ、八雲たちと四人の妖厄仙が戦っているうちに、手薄となった妖厄仙の巣窟を破壊できると考えていた。
「……ふふ」と、自分の性根の悪さに微笑を浮かべる。その時、山間を疾走する四人の中で唯一の女が、菊里の方を見た。慌てて身を隠したが、気づかれたと思い身構える。
だが、女はそのまま仲間とともに山を降りて行った。それでも用心して、しばらく身を隠すことにした。
――十分ほど待ったが、戻ってくる気配はなかった。菊里は安堵の吐息を漏らすと、人手の減った屋敷に近づいた。
屋敷は塀で囲われ、その高さは三メートルほどあった。塀の上には、忍び返しの鉄状網がびっしりと張られていて、敷地内には屋敷を照らす照明が無数たかれていた。屋敷の守衛は、外に四人と屋根の上に作られた見張り台に二人いた。
「悪い奴ほど、警備を仰々しくするものね」
憎まれ口をたたいてみたが、それで侵入がしやすくなるわけでもなく、菊里は手をこまねいていた。その背後から忍び寄る人影に肩を掴まれる。
――無言で振り向き、銃の引き金を引きそうになった。
「待て待て俺だ!」と両手を上げたのは八雲と水雉だった。
「……チッ、撃ってたらよかった」
悔しそうな顔をして銃を下ろす。
「冗談でも笑えんぞ……」
「あんたたち、何しに来たのよ!?」
ケンカ腰の物言いをする菊里に、助けに来たといえば反発されるだろうと思った八雲は、言葉を選んでいた。そして――
「……月が綺麗だったんで……その……散歩だよ」
気まずい空気が覆う。
「はぁ~、ウソが下手すぎるわねぇ。姉さん悲しすぎる……」
「まさか、身内からダメだしーーー?」
「下手なうえにキモいときたら最悪よ。お月見なら他でやってなさいバカ姉弟!」
「もういい! 俺たちも任務で来ているんだ同行するぜ!」
「ここは私が、私たち一族が守護してきた土地なのよ! よそ者にずかずか入ってきてほしくないの! わかった!!」
声を荒げる。少し落ち着くと気まずそうに視線を逸らした。沈黙が三人の間に漂う。
「……だけど、手をこまねいているのも確かのようだけど?」
水雉の口調や態度に、暖かさは感じられなかった。
その言葉に菊里は眉を跳ね上げ――
「わたしが、手をこまねいているですって? バカなこと言わないで、しっかりとした侵入作戦はあるわよ!」
と威勢よく言い放った。
「――本当に、やるのか?」
八雲のひきつった顔に、生暖かい風が吹き付ける。
「良いアイデアでしょ! 私って凄い!!」
妖厄仙のアジトである豪邸を見下ろせる場所に三人は立っていた。
「……このまま飛び降りるつもり?」
屋敷に電力を送るため建てられたであろう二十メートルはある鉄塔のてっぺんから、水雉は呆れた顔で眼下の屋敷と菊里を交互に見渡す。八雲も鉄塔に上る前に止めればよかったと、後悔を滲ませる。
「こんなこともあろうかと、予備の風呂敷を持ってきているから、貸してあげるわよ」
「ふ、風呂敷……?」
八雲と水雉は見つめ合い答えを求めあったが、分かるはずはなかった。首をかしげる二人に風呂敷を渡す。それは、広げれば二メートル四方ほどありそうな大きな物で、二人はそれを、呆然と見つめる。すると、分からないの? と言わんばかりの表情を浮かべた菊里が、得意満面の顔で話し始めた。
「まずは、風呂敷の端を足首にしっかり結び、その対角線の両端を持って準備完了よ」
風呂敷を背負うような形で、菊里が決め顔をする。
「……ま、まさか……これで、飛べと?」
「そだよー」と菊里は無邪気に笑いながら、水雉の準備を手伝う。
その勢いに流されるかたちで八雲も準備を進める。
鉄塔の最上部に、風呂敷を背負う男女の滑稽な絵図らが闇夜に浮かぶ。
「さぁ、乗り込むわよバカ姉弟!」
腰を落として、飛び降りる構えをとる。
「――え? えッ!? ええぇ?」
狼狽える八雲と水雉をしり目に、菊里が飛んだ。その光景に肝を冷やした八雲の目の前で、風呂敷が綺麗に広がる。それはまるで、ムササビのように滑空していく。我に返った八雲は、このまま菊里だけを行かせるわけにはいかないと、覚悟を決め飛んだ。激しい空気抵抗にバランスを崩しそうになったが、四肢を伸ばすことで風呂敷が広がり、空気の抵抗を減らしてくれたので態勢を立て直すことができた。思っていたより落下速度が抑えられ、これなら十分衝撃に耐え着地できると安堵した時だった。八雲の目の前を、風呂敷が飛んでいくのが見えた。
「ぎゃあああああああぁぁぁーー」
菊里が悲鳴と共に手足をばたつかせ落ちていく。
「なにやってんだあのバカ!?」
八雲は咄嗟に風呂敷を離し、落下する菊里を追いかけた。先に落ちた菊里に追いつくこうと、手足を閉じ空気抵抗を減らし落下速度を上げた。その逆に、菊里は少しでも落下速度を落とそうと四肢を伸ばす。その差が二人の距離を縮めた。追いついた八雲が手を差し伸べる。
「掴め菊里!」
八雲が追ってきたことに菊里は驚く。何か言おうとしたが、言葉がみつからず、呆然と見める。それが八雲には、気が動転していると思わせ、自ら菊里の手を掴み引き寄せた。ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間で、屋敷の見張り台が目前まで迫っていた。激突は免れないと判断した八雲は、菊里の頭を自分の胸に押し付け抱きしめた。
「歯を食いしばれ!」
それと同時に、見張り台の屋根を突き破る轟音が夜空に響いた。八雲の背中を、重厚な衝撃が襲い、臓器をすべてぶちまけそうなほどの激痛と、全身の骨が全て砕けたような激しい痛みに呼吸が出来ず、意識が飛びそうになった。
「――ちょっと、大丈夫!?」
胸の辺りで菊里の声が聞こえた。そのおかげで意識を保つことができた。そして、菊里が無事な事に安堵する。それも束の間、複数の足音が近づくのを悟る。
「なんだてめぇら!」
「こんなことして、殺すぞ」
「なにさらしてんじゃー」
男たちは、怒鳴りながら菊里の背中を蹴った。「ぐっ」と小さな呻き声をあげる。さらに二度三度と菊里が蹴られる衝撃を感じた八雲は、痛む体を捻り菊里に覆いかぶさりかばった。それでも、男たちは容赦なく蹴り続けた。
「ど、どきなよ! 居候男だけがやられなくても……」
「女を、グッ!? 守るの、ガハッ!? 男って、グッ!? もん、だ」
蹴りが入るたび、ナイフで抉られるような激痛が全身を駆け巡る。そのせいで、八雲の意識は飛びそうになった。
「何だ!? どうした!」
二階の騒ぎを聞きつけ、黒服の男たちが次々と現れた。
「侵入しようとして、失敗したドジな奴らだ!」
男たちは、四人がかりで八雲と菊里を引き離した。八雲に抵抗する余力はなく、大人しく床に押さえつけられた。菊里は足をばたつかせ抵抗する。
「キミらよくもーー!」
さらに激しく抵抗する菊里に、男たちが手を焼く。見かねた一人の男が、八雲の首筋にナイフを押し当て、「それ以上抵抗するな!」と菊里に警告する。
苦虫をつぶしたような表情を浮かべ抵抗を止めた。
「こいつらを地下室にぶち込んでおけ! それと、他に賊が潜んでないか調べろ!」
年長者らしい黒服の男の指示に従い、男たちが散っていく。壊れた見張り台には、八雲と菊里を取り押さえる四人と年長者の二人が残っていた。
――まぁ……とりあえず、潜入は成功だ。……あとは頼んだ水雉――
――ほんと無茶して、必ず姉さんが助けに行くから大人しくしてなさいよ――
水雉は、壊れずに残った見張り台の屋根に着地し、様子を窺っていた。
闇の深い夜のなかを閃光が忙しく動き、男の怒鳴り声が屋敷内に響き渡る。妖厄仙のアジトは、まるでハチの巣をつついたような騒ぎとなっていた。そのなかを、八雲は足を持たれ廊下を引きずられながら移動していた。
「もっと丁寧に運びなさいよ!」
その扱いに、菊里が抗議の声を上げる。
「この程度で怒るな。これからお前たちがどこの手の者か、拷問をして聞き出すんだからな」
ナイフで脅している男が、ニヤついた顔で話す。
「――その女に手を出したら、殺すぞお前ら」
八雲は引きずられながらも精一杯凄んで見せた。
「女は、別の使い方があるからな」
男たちから、一斉に下卑た笑い声があがった。
「サイテー、ヘンタイ、キモー」
廊下に菊里の罵詈雑言が響く。強がっていられるのも今のうち、と言わんばかりの笑みを浮かべ男たちは廊下を歩く。
しばらく廊下を歩いていくと、三方を白い壁に囲まれた突き当りにたどり着いた。菊里は辺りを見渡してみたが、地下に降りる階段はおろか、扉らしいものもなかった。
「……地下室に連れて行くんじゃなかったの?」
その言葉を無視して、男が右横の壁を押す。すると、大きな音が響き、前の壁にぽっかりと穴が現れた。
「忍者屋敷かここは……」
「面白いだろ、組長の趣味だ」
菊里のつぶやきに、笑みを浮かべて男が答えた。穴をくぐると、中は豆電球が一つ、ぼんやりと灯り地下に伸びる木造の階段を浮かび上がらせていた。
「いけ」
菊里を先頭に階段を降りていく。感覚的に一階分降りきった所で、階段は終わった。地下室は湿気と誇りの匂いが充満して、その不快感に菊里は眉をひそめた。なかは思ったよりも広く、二十畳ほどありそうであった。階段を降りて左手に、時代劇を思わせる木の格子で作られた牢屋のようなものがあることに気づく。男が錠前を外し菊里に中に入るよう急かす。しぶしぶ入る。そのあとから八雲を手荒く牢屋に投げ入れた。
「ちょっと、乱暴に扱わないでよ!」
菊里が八雲に近寄り介抱する。
その姿に意外さを感じた八雲は軽く驚いた。
「死ぬまでの間、彼氏に優しくしてやりな」
「か、彼氏じゃないわよバカ!」
男は入口を施錠しながら、「ツンデレ、ツンデレ」とからかうように笑う。
男たちがいなくなり出入り口の扉が閉まると、闇が深まったように感じた。豆電球の光だけが、心のよりどころとなる。
「格好つけて、私を庇うからこんな目に遇うのよ、居候男のくせに……」
菊里は自分の服の袖口を破り、それで八雲の血を拭おうとしたとき、奥から布のこすれる音が聞こえた。
「――誰!?」と八雲を守るように構える。
「……あの~、大丈夫ですか?」
それは、震えた女性の声だった。その声色からして若い女性のように思われたが、薄暗くて人相までは分からなかった。
「キミたちも、百目鬼に捕まってるの?」
「はい……」と弱々しい声で答えた。
「何人いるの?」
「今は五人ですが、少し前まで八人いました」
「その三人はどこに?」
「……わかりません」
涙まじりの声へと変わり、奥からもすすり泣く声が聞こえた。
「……うちに帰りたいよ~」
一人の女性が吐露すると、他の女性たちも泣き出した。連鎖するよう全員が泣き出した。
暗くじめっとした狭い空間に閉じ込められ、どうなるか分からず、不安で不安で心細かったであろう女性たちの心情を思うと八雲の胸は苦しさを覚えた。
「大丈夫、俺たちが助けてやるから!」
少しでも元気になってもらおうと、元気よく声をかけた。泣いていた女性たちは、一斉に八雲を見た。その姿は傷だらけで、満身創痍な状態で横になっていた。彼女たちから一斉にため息が漏れた。そしてまた泣き出した。
「露骨だな!」
彼女たちの分かりすぎる態度に、八雲は苦笑いを浮かべる。
「私たちに任せて、こんな檻すぐに壊してあげる!」
勢い良く立ち上がると、菊理は印を結ぶ。
「待て! ここで騒ぎを起こしたら、この人たちにも被害が及ぶ!」
「……なんで?」
「あ~、もう~、いいか。騒ぎを聞きつけたら妖厄仙たちが一杯くるだろ、そうしたらこの狭い部屋で戦いとなる。その戦いに彼女たちが巻き込まれるわけだ」
「……ああ~、最初からそう言ってくれればいいのに」
「はじめっから……もういい。仲間が助けに来てくれるから、もう少し待っていてくれ」
八雲たちに仲間がいると知った女性たちは、希望が見いだせたのかお互いの手を取り喜びあった。陰気な牢屋のなかが、少し華やいだ雰囲気となる。菊里も落ち着きを取り戻したので、あとは水雉が来るまで回復に専念しようと八雲は目を閉じた。
「……あ、あのさぁ~、やっくん……」
「――ん? やっくん!?」
八雲に対する呼び方が変わったことに、目を丸くして驚く。
「あのさぁ、いいそびれたけど、あのう……、さっきは庇ってくれて……ありがとう」
八雲の血を拭いながら、菊里は照れくさそうにしていた。
「ああ、気にすんな。女を守るのは男の役目だからな」
「もう~、何恰好つけてんのよ!」
「いたいいたいいたい! グーで叩くな!」
菊里の変貌に戸惑い、まったく回復に専念できなかった。
――はいはい、お邪魔だったかしら?――
外に通じる出入り口の壁が、ゆっくりと開く。光とともに希望も差し込んだ。一斉に歓声があがりそうになったのを八雲が止める。ここで見つかっては。元も子もなかった。
軽やかなリズムを奏で、階段を降りてくる足音が地下牢に響く。
「なんだか時代劇みたいな檻ね。それに凄い錠前……」
「早く水雉ちゃん、そのカギ壊して!」
「待って、壊した音で気づかれるかもしれないから、鍵を開けるわ。あたし得意だから」
水雉にそんな特技があったなんて初耳だった。
カチャカチャと、錠前をいじる音が暗がりの中でうるさいほど響く。八雲以外、全員が期待に胸を膨らませ見つめていた。だが、いっこうに開く気配を感じない。じれったさを覚えた女性たちの視線が厳しく、それに耐えながら水雉は額に汗を浮かべ錠前を外そうと頑張る。
「あと、……もう、ちょっとな、はず……」
「――鍵をお貸ししましょうか、御嬢さん」
男の声が光とともに八雲たちのいる場所へと届いた。全員に緊張が走る。
「水雉壊せ!」
「あと少しだったのに!」
発勁で、錠前を壊す。牢屋から出ることは出来たが、出入り口は一つだけ。そこには、男が立って塞いでいた。八雲たちは二者択一の選択に迫られた。一つは、目の前の敵を倒し逃げ道をつくるか、もう一つは、『絶界陣』を張り妖厄仙を倒すか、であった。しかし、『絶界陣』を張れば、女性たちを守ることは出来ず、騒ぎを聞きつけた一般人? のヤクザに捕まり違う場所に連れてしまう可能性があった。しかし、この場で戦えば彼女たちに危険が及ぶ。どちらを選んでも、彼女たちに危険が及ぶことに八雲は逡巡する。
「やっくん『絶界陣』を張って、女の人たちはあとで助ければいい!」
菊里の言葉に背中を押された八雲は、『絶界陣』を張ろうと印を結んだ。
――だが、術は発動しなかった。失敗したかと思い、もう一度『絶界陣』を張ろうとしたが、やはり反応はなかった。
「無駄ですよ。屋敷を囲う塀には、注連縄の効果を無効にする護符が貼られているのです」
勝ち誇ったような声で男が話す。
「注連縄は調伏師により複雑な術式で組まれているんだ、それを理解できるわけがない!」
「我々のバックには、お前たちの遠く及ばないお方がおられるのだよ」
「誰だその調伏師は!?」
妖厄仙では注連縄を無効化する術式は組めない。そうなると、調伏師のなかに裏切り者がいるとしか考えられなかった。
「おしゃべりがすぎたようですね。お早目に、亡き者になっていただきましょうか」
男の肩の筋肉が異常なほど盛り上がる。やがて頭の半分が肉に埋もれ、右のわきが腫れ体をくの字に曲げる。左腕がプルプルと激しく痙攣をはじめた。男が変態をはじめたのだ。
「きゃああああああああ!?」
男の姿が不気味な形に変わる。その光景を目撃した女性たちから奇声のような悲鳴が上がる。
「鎮守角杙菊里参る!」
男が変態を終わらせる前に、脱出路を確保しようと階段を駆け上る。
「八雲は、彼女たちを安全なところに誘導して」
「それは俺の役目だ! 水雉が彼女たちを誘導しろ!」
「五体満足なら八雲に任せるけど、今は姉さんの言う通りにしなさい」
水雉も駆け出していった。残された八雲は、悔しさをにじませた表情を浮かべる。
「……俺についてきて!」
不安がる彼女たちを落ち着かせるため、八雲は精いっぱいの笑顔を取り繕う。それに、少し心を落ち着かせた女性たちは、お互いの手を握り八雲の指示に従う。
男の懐まで一気に上り詰めた菊里が、『六種拳』を打ち込む。鈍い轟音をあげ、男は何かで『六種拳』を防いだ。
「菊里ちゃんしゃがんで! 『十二合掌』」
階下から水雉が両手突き出す。そこから空気を圧縮したものが、轟音を響かせ飛び出した。菊里がいたことで、男にはその空気砲が突然現れたように見え、まともにくらう。男は廊下の反対の壁まで吹き飛ばされた。その隙に、出入り口へ辿り着いた菊里が場所を確保する。
「今のうちよ!」と水雉が八雲に合図する。
八雲は怯える女性たちを励ましながら出口まで引率する。外の空気を吸えた喜びからか、女性たちの表情に笑みが戻る。これなら大丈夫だと確信した。
「きたわよ水雉ちゃん!」
袋小路の廊下を抜けた先から、黒服の集団が現れた。
「八雲行って!」
水雉と菊里が迎撃態勢をとって、女性たちの脱出路を確保する。
後ろ髪引かれる思いで、八雲は女性たちとともに反対の廊下を走っていく。
「――女が逃げ出したぞ!」
男たちは、菊里たちも地下牢から逃げだした女だと勘違いして捕えようと近づいた。その不用心さが、彼らに悲劇を招くとは知らずに。
「こんな最低な連中に、手加減はいらないよね水雉ちゃん!?」
「ええ! 自分たちのやってきたことの罪深さを、思い知りらせてやりましょう!」
人生を理不尽に売られた女性たちの恨みを込め殴りかかる。鍛えられた水雉と菊里の拳は、いつも以上に重く、激しかった。嵐のように、男たちを次々倒していく。
「こんなんじゃ、気が済まないわ!」
折ったアバラを踏みつけ、苦痛の悲鳴をあげる男を菊里は見下す。そして、次の獲物を探していると、背後から忍び寄る大きな影に気づく。
「じゃじゃ馬な女たちですが、こういうのも好きなマニアもいますからね」
それは最初に倒した男で、その変態した姿に菊里は目を丸くする。
「……ねぇ水雉ちゃん。私あんなキャラクター見たことあるよ……なんだっけ~?」
その妖厄仙は二本足で立ち、手には巨大な甲羅型の盾を持っていた。その姿はまさに、アメコミのカメのヒーローのようであった。
「カメじゃなくスッポンなら精力つくから使い道もあるんだけど、ただのカメじゃ……」
水雉がカメ妖厄仙を挑発する。
「あなたたちじゃ、精力をつけた男でも相手にしないでしょうがね。特にそちらの御嬢さんのお胸は、至極残念ですからねぇ……」
「生まれてきたことを後悔するぐらいボコボコにしてやるうううう」
カメ妖厄仙の挑発に、顔を真っ赤にした菊里は、怒りを拳に宿し『六種拳』をカメ妖厄仙に叩きこむ。それを甲羅型の盾で防ぐ。菊里の渾身の一撃でも、盾には傷一つついていなかった。
「こっちだ野郎ども!」
さらに黒服の男たちが集まってきた。
「な、なんだあれ!?」とカメ妖厄仙の姿に全員が驚き、「化け物だ!」と逃げ出す。
「あらら、仲間に逃げられて、まるで孤独なロンサムジョージのようね百目鬼さん」
「残念ですが、私は孤独でもなければ百目鬼組長でもないのですよ」
カマを賭けてみたが、予想通りカメ妖厄仙は百目鬼ではなかった。どこかにいる百目鬼に注意を払いながら、カメ妖厄仙と対峙する。その瞬間、何かが折れる轟音が響く。
「――上から!?」
天井を突き破り巨大なものが振り下ろされてきた。水雉と菊里とカメ妖厄仙は、その攻撃から逃れた。大砲でも撃ち込まれたように天井や壁は壊れ、巨大な穴が煙越しに窺えた。破壊の残響が、屋敷内に余韻として残る。埃と瓦礫の間から、巨大なものが動くのが見えた。
「ブツが逃げたじゃねーか、ぁーん、さっさと回収してこいや!」
五メートルはありそうな、二足歩行のオオカミが荒ぶるように叫ぶ。
「……まるで、赤ずきんちゃんを食べた童話のオオカミみたいね」
水雉がポツリと感想を述べる。しかし、童話のような可愛いオオカミではなく、その牙は大人の太ももはありそうで、爪は腕ほどの太さがあった。そして、全身を覆う銀色に輝く毛皮は、まるで鋼のように鋭く硬そうだった。
「なんか、童話やマンガって妖厄仙を参考に創られたんじゃないかって、思うよ」
菊里の感想に、水雉がクスリと笑う。
「こ、この女たちはどうしましょう組長……」
カメ妖厄仙が後ずさりながら問う。
「見てわかんねーのか? ぁーん、いちいちいわせんな!」
「わ、わかります。では、私は逃げたブツを回収してきます」
カメ妖厄仙は百目鬼から逃げるよう廊下を走ろうとした。それを阻もうと、水雉は百目鬼の横をすり抜け、走り出したカメ妖厄仙の足を払う。半回転してこけたカメ妖厄仙は、甲羅が廊下との摩擦を軽減させ滑っていった。水雉は眼帯に手を重ねる。
「『絶界陣』を封じられるなんて。でも、個別の結界までは干渉できないはず!」
印を結び、祈るというより命じた。――月光を刃で滑らせ、大鎌が現れた。
「よかったぁ~、『千早』と『千鳥』は使えるんだーーー」
菊里はスカートのポケットから愛銃を取り出した。
二人は愛用の武器の感触を喜ぶように操る。
「水雉ちゃんは露払いをお願い。私が親玉を討ち取る!」
水雉としても、八雲の後を追おうとしているカメ妖厄仙を倒しておかないと心配であった。
「すぐ戻るから、それまで死なないように」
「こっちのセリフよ。油断して、カメに抜かれないでね」
どっちも負けず嫌いな性格が露骨がでていた。
――その頃、八雲は傷ついた体で黒服の男たちを撃退し、女性たちを誰一人傷つけらることなく屋敷から脱出していた。山のなかは暗がりが広がっていたが、月光が足元を照らしてくれたので進むことができた。追手の気配がなかったので、一安心した八雲は水雉たちのことが気になり振り向いた。すると、何かが動くのが見えた。女性たちに隠れるよう指示してから、追手と対峙する。
「いるのは分かっているんだ。出て来いよ」
「……お、女どもを連れ戻したら、組長に褒められるてよ」
戦国時代の足軽さながらの甲冑や小具足を着込み、右手には拳銃を持ったアライグマの妖厄仙が姿を現した。
「――なに、あれ!?」
妖厄仙の姿に驚いた女性たちが悲鳴をあげる。すると、一人の女性が走り出した。その後を追って、他の女性たちも逃げ出した。それに慌てたのは、八雲よりアライグマ妖厄仙だった。
「おい、女どもが逃げたぞ、どうするてよ?」
「見ればわかるし! なんで俺に指示を仰いでんだ!?」
「お、お前も、見失ったら困るだろうと思ってよ」
「お前を倒してからでも追い付く」
八雲は上着に仕込んでいた呪式から、愛刀『一竿子忠綱』を取り出す。
「や、やるのかよ手負いのくせに!」
震えた手で銃を構える。
「……お前さ、なんで『まほろば』から逃げて、地球にきたんだよ?」
「そ、それは、一攫千金しようぜってよ、友達に誘われて……お前には関係ないてよ!」
軽い気持ちで犯罪に加担しただけだと分かり、気弱そうなアライグマ妖厄仙に憐憫さを感じた。だが、情けで見逃すわけにもいない。それに、早く女性たちを追わなければならなかった。
「『有涯』で反省して、今度こそまっとうに『まほろば』で生きるんだな」
『稲妻』を使い、アライグマ妖厄仙の懐に入る。殺さないよう手加減をして『刹那』を繰り出す。――が、全身に痛みが走り、アライグマ妖厄仙の腕を浅く切っただけだった。
「ぐわーーーてよ。き、斬られたあああてよ」
アライグマ妖厄仙は大袈裟に騒ぐと、屋敷の方へ逃げていった。
「……なんだったんだ……?」と呆然と見送る。――我に返った八雲は、急いで女性たちの後を追った。しばらく行くと、うずくまり一か所に固まっている女性たちを発見する。
「もう大丈夫だよ。さぁ、行こう」
八雲は笑顔を浮かべ、女性たちに安心感を与えるよう努めた。
怯え震えていた女性たちも、徐々に落ち着きを取り戻し、また歩きはじめた。
月の光を反射するほど輝く廊下を、水雉は用心しながらカメ妖厄仙を探す。廊下は思ったよりも長く、障子で区切られた部屋が数多く並んでいた。どこかに潜んでいる可能もあり、油断できなかった。廊下をきしませず気をつけながら歩いていると、水雉の背後から巨大な影が浮かび上がる。
「――さようなら御嬢さん」
口角をあげ、声を出さず笑いながら盾を振り下ろす。砕ける鈍い音を立て廊下が壊れる。水雉をやったと思ったが、その手の感触は軽いもので不審に思い盾を持ち上げる。
そこに、水雉の姿はなかった。
「調伏師の技の一つ『幻影』よ。のろまなカメさん」
今度は水雉がカメ妖厄仙の背後に立っていた。
「バ、バカな!?」
「相手に残像を見せる高速移動の技。あなたじゃ、一生かかっても不可能な技よ」
草を刈るよう大鎌を横に払う。
――キィィーーン、と鼓膜をつんざく金属が響き、大鎌が弾き返された。バランスを崩しながらも、水雉は後ろに飛び退いた。
「……カメは背中が最強の防御だとお忘れですか?」
カメ妖厄仙が、薄ら笑いを浮かべ振り向く。
「……そんな安い挑発には乗らないわよ。柔らかい場所を狙えばいいだけのこと」
「ふふふ、御嬢さんの生白い細腕では、この鋼鉄の鎧は破れないでしょうから」
「勝つためには冷静な分析力と的確な攻撃。プライドを揺さぶって硬い甲羅を攻撃させ疲れさせるつもりだったんでしょうけど、私は現実主義なの。うすのろでおバカなカメさん」
「……やれやれ、私と同じリアリズムですかぁ……これはやりにくいですねぇ」
「それは、見解の相違ね。私とあなたでは全然違うわ」
水雉は口の端を微かに上げ、カメ妖厄仙を見下すような態度をとる。
「あなたは甲羅を被った臆病なカメさんで、あたしは棘で覆われた華!」
バレエダンサーのように舞いながら、カメ妖厄仙に斬りかかる。断続的に繰り出される水雉の攻撃を、カメ妖厄仙は盾の裏に隠れ防ぐ。
「無駄だと言ってるでしょ御嬢さん、バカなのですか?」
盾に隠れながら挑発を繰り返す。カメ妖厄仙に言われなくても、パワーが足りないことを水雉は承知していた。それを手数で補おうと連続攻撃を繰り返す。
――が、カメ妖厄仙の盾はびくともしなかった。
「どうしました御嬢さん、スピードが落ちましたよ」
攻撃のリズムをつかんだカメ妖厄仙が、盾で大鎌を弾き返えした。その衝撃で水雉はバランスを崩す。急いで立て直そうとした瞬間、左のわき腹に激痛が走った。それでも、なんとか倒れないよう態勢を整える。そっと脇腹に手を添えると、血が出ていた。しかし、かすり傷程度だったので、ほっと胸を撫で下ろした。だが、一体何で攻撃されたのか分からず、少しパニック状態となる。
「女性をいたぶるのは趣味じゃないので、今の一撃で倒れてほしかったです」
余裕の笑みを浮かべる。その挑発に乗らないよう怒りを抑え、カメ妖厄仙の攻撃を警戒する。
「おやおや、先ほどまでの威勢はどうしたんですか? 御嬢さんこそカメのように縮こまって、それでは私には勝てませんよ」
安い挑発だが、技の正体を掴めなかった水雉には、十分効果のある挑発だった。
「……私は逃げた女どもを追わなければならないので、終わりにさせてもらいます」
盾を振り回し迫ってきた。その迫力はまるで、ダンプカーが近くを通るような重圧感があった。当たれば一撃で骨が粉砕されそうな威力はありそうであった。だが、重量のせいか動き自体は早くなかった。水雉は盾よりも、わき腹を攻撃してきた技のほうを警戒しながらよける。だが、注意が上半身に集中しすぎたせいで、倒れているふすまに気がつかず足を取られバランスを崩す。その隙を逃さず、カメ妖厄仙は口から水の礫を撃ちだした。それをよけようとしたが、脇腹の痛みで反応が鈍かった。
「――やられた」と思った瞬間、大鎌の刃が水礫を偶然に弾いた。直撃は避けれたが、その衝撃はまるで鉄槌で殴られたような重いものであった。大鎌が弾き飛ばされそうになったが、指二本だけでなんとか堪えることができた。とはいえ、倒れた時に背中を打ち、呼吸困難となった。
「これで、終わりです!」
倒れた水雉めがけ盾を振り下す。水雉は無我夢中でよけた。廊下が波打つほどの衝撃が起こる。その威力に、もし直撃していたら体は真っ二つになっていたと思うと、身の毛がよだった。
「往生際の悪い。私は早く逃げた女たちを追わなくてはならないのです」
「……あなたじゃ追いつけないし、あたしがここで倒す!」
まだ背中に痛みはあったが、戦えないほどではなかった。それに、水雉はカメ妖厄仙の攻略法を見つけていた。
「どこに、あなたが私を倒す要素があるのですか? まぁ、下手に逃げ回られるよりはいいですがね」
「追いかけっこは、苦手だもんねカメさんは――『鬼哭』!」
水雉が大鎌を振るう。そこから空気砲が放たれた。
「そんなもの、通じるわけないでしょう!」
『鬼哭』を盾で防がれたが、そんなことは想定済みの水雉は、間髪いれずに斬りかかる。
「……本当に、しつこいですね!」
カメ妖厄仙は、面倒くさそうに盾で大鎌を弾く。その時を、水雉は待っていた。盾が正面からはずれガラ空きとなった腹部に向け『六種拳』を叩き込んだ。カメ妖厄仙は低い呻き声をあげ、隣の部屋へとふすまを壊し吹っ飛ぶ。
「――痛い……」
今の動きのせいで、水雉は傷ついた左わき腹をさらに痛めた。それでも、痛みに耐えながら追撃を掛けた。――そこで、水雉は気の抜ける光景を見た。そう、亀が仰向けになると、四肢をばたつかせもがく生き物だとは知ってはいたが、まさか。妖厄仙もそうだとは、今の今まで知らなかった――知る由もなかった。
「……ちょっと、待ってくださいお嬢さん……」
「……いや、待ってあげてもいいけど、大丈夫なの?」
「大丈夫か、大丈夫じゃないか、と言われたら……。大丈夫じゃないですが……」
「……あたしも動けない敵を倒しても後味悪いから――ほら、起こしてあげる」
カメ妖厄仙に同情して手を差し伸べる。
「――ひっかかりましたねお嬢さん!」
差しのべられた水雉の手をとらず、盾を反動にして起き上がる。得意げな顔をするカメ妖厄仙の起き際を狙って、大鎌の柄で打ち込んだ。形容し難い呻き声を発しうずくまる。
「まったく、そんなつまんない手にひっかかるわけないでしょう!」
呆れ顔で妖厄仙を見下ろす。
「……な、なんて、疑り深いお嬢さんなんでしょう。それじゃ、男も寄ってこないでしょね」
「余計なお世話よ!!」
立ち上がろうとしたカメ妖厄仙に斬りかかる。それを甲羅型の盾で防ぐ。何度も斬りつけるが、カメ妖厄仙は盾の後ろに隠れ動かなくなった。
「それは降参のポーズかしら?」
「……反撃のチャンスを窺っているまでです」
体力回復の時間稼ぎに決まっていた。水雉は一気呵成に斬りかかる。水雉は、あと一撃でカメ妖厄仙は姿が保てなくなるとみていた。だからこそ、正面からではなく側面を狙って攻撃を仕掛けた。フェイントを織り交ぜた素早い攻撃に、カメ妖厄仙は水礫を放つタイミングをつめずにいた。しかしそれは、フェイクだと見抜いていた。こちらの動きが鈍るタイミングを見計らって水礫を放つ算段だと。それならば、こちらがわざと隙を作ってカメ妖厄仙に狙わせようとした。
見事にカメ妖厄仙は水雉の術中にはまり水礫を放った。それをかわし大鎌を振り上げた。
「切り札は最後まで出さないものですよ」
カメ妖厄仙が盾を離すと、その手にはナイフが握られていた。どうやら、相打ち狙いの捨て身の攻撃だったようだ。水雉は死を覚悟せざるおえなかった。心臓めがけ迫りくるナイフが、突然止まったのだ。死の瞬間、時間の流れが遅くなると聞いたことがあった水雉は、その現象は実際にあるのだとこの時はじめて知った。そして、走馬灯のように八雲のことを思う。両親から八雲のことを託されていたのに、その願いを最後まで果たすことができず、そのことが心残りであった。あの世で両親に会えたなら、謝らなくちゃいけないな、とも考えていた。
それにしても、いつまでもナイフが迫ってこない。さすがに違和感を覚えたときだった。カメ妖厄仙の口が、パクパクと動いていることに気づいた。視線を下ろすと、カメ妖厄仙の胸部は大鎌によってパックリと切り裂かれ、『霊仙』を垂れ流しているのだ。現状が理解できず、水雉は少し前の記憶を辿ろうとした。カメ妖厄仙の動きが止まったるのを確認はできたが、ではなぜそうなったのか、までは解らなかった。
重いものが倒れる音で、水雉は我に返る。目の前には、『霊仙』を放出しているカメ妖厄仙が仰向けに倒れていた。慌ててカメ妖厄仙に近づく。
「黄色い、黄色い目をした妖厄仙を知らない!?」
口をパクつかせながら、カメ妖厄仙が何かを言おうとしていた。水雉は顔を近づける。
「……私も紳士を自認して……いる者としては……御嬢さんの……ご希望に……お答えしなく……ては……それは……それ……は――」
言葉はそこで途切れた。カメ妖厄仙は姿を保てなくなり、普通の亀となった。
「……もぉう! 紳士ぶったセリフがなかったら、話せてたんじゃないのよーーー」
十年以上追い求め、名前すら掴めていなかった黄色い目の妖厄仙の情報が手に入るチャンスを失い、思わず目の前の亀を叩き潰しそうになった。――が、思いとどまり、悔しそうに唇をかんだ。
のそのそと動く亀の上に銀色に光る細い糸がまとわりついていた。それは、日の光の下でも分かりにくいものであったが、水雉がいつもの精神状態であったら気づいていたであろう。そして、もう一体妖厄仙がいることに。
呆然と亀を見つめていた水雉の鼓膜に、ダンプカーが壁に激突したような激しい轟音が響く。
――そうだ、菊里ちゃんが戦っていた。
顔を上げ大鎌を握る。走り出そうとした水雉は、何かに気づいたように振り向く。のそのそと歩く亀を見て、ニコリとほほ笑むと、ひっくり返してから菊里の元へ向かった。
――屋敷を照らす照明が、今は無規則な方向を照らし、大勢いた黒服の男たちは、誰一人もいなくなっていた。大半が妖厄仙の姿を見て逃げ出した。無人と化した屋敷の塀近くで歩く一つの影があった。
「……まるで、戦争でもあったみたいてよ」
八雲との戦闘からすぐに逃げ出したアライグマ妖厄仙が、仲間の指示を仰ごうと戻ってきたのだが、屋敷は砲撃されたように屋根や廊下といたるところが崩れ瓦礫が散乱していた。怯えた様子で仲間を探し彷徨っていたところ爆音が轟いた。アライグマ妖厄仙は、ケツを蹴られたように飛び上がって驚く。何事かと身を屈めて様子を窺う。その視線の先に、巨大なオオカミの妖厄仙を見とめる。
「あれは組長てよ。誰と戦っているてよ?」
そこには、二丁拳銃を巧みに操りって戦う菊里の姿があった。
「あんなおっかねえ組長と若い娘が互角に戦うなんて、やっぱ穢土はこえーてよ……とにかく、組長が勝つまで隠れて様子をみているてよ」
アライグマ妖厄仙は息を殺し戦いを見守る。
――カメ妖厄仙を倒した水雉が、爆発音に導かれるよう中庭へ出てきた。その光景に驚く。まるで、大型の台風が庭を何往復もしたかのように荒れているのだ。その惨状だけでも、菊里と百目鬼の戦いがいかに壮絶であるのか窺えた。
「ウォオオオオオオオオン」
オオカミの遠吠えが夜空に響き、水雉の鼓膜を叩く。辺りを見渡すと、対峙する菊里と百目鬼を見つける。水雉から見て、菊里はそれほど傷を負っているようには見なかった。それに対して百目鬼は、左側の巨大な牙が折れ、全身のいたるところに弾痕による焼け焦げた傷がついていた。しかし、どれも深手ではなさそうだ。
「確か菊里ちゃんの銃の弾は、体内を巡る『霊験』で作られていたはず、見た目では消耗度はわからないか……とにかく――」
菊里の援護に回ろうと駆け出した。――ダァーーーン、と水雉の足元に弾丸が撃ち込まれた。
「……な、何をするの菊里ちゃん?」
「こいつは私が一人で倒す! 邪魔をしないで」
「じゃ、邪魔って、一人じゃ大変でしょ?」
菊里の態度に水雉は憤る。
「この土地は角杙家が代々守ってきた。それを私は父様から任されているの――よそ者は引っ込んでいて!」
この土地や父親に対する気持ちは分からなくもないが、一人で戦う意味があるのだろうか? と水雉ははなはだ疑問に感じた。
「……お前の親父も今頃後悔してんじゃないか、出来の悪い娘だとよ」
「だまれだまれだまれだまれーーーー!」
百目鬼の安い挑発に、菊里が異常に取り乱す。
「――後悔するのはお前の方だ!」
百目鬼の背中で爆音が響き、膝から崩れる。
「――誰だ!?」
痛みに顔を歪めながら背後から攻撃してきた者を探す。
そこには、月をバックに塀の上に立つ男の姿があった。
「――八雲!」
「遅れてすまない。幹線道路に出るまで時間がかかったが、走っている車を呼び止め、警察と救急車を呼んでもらった。あとは親切なドライバーに託して駆け付けてきた。途中でサイレンの音が聞こえたから大丈夫だろう」
女性たちの安否が気になっているだろうと思い、一気に説明する。
「ご苦労様――」
八雲の無事な姿を見れて、水雉はほっと胸を撫で下ろしていた。
「あとは、このオオカミ野郎だけか?」
「ええ、そうなんだけど……」
水雉の返答に、八雲は違和感を覚えた。
「誰も私の邪魔しないでよ!」
「どうしたんだ菊里のやつ……?」
八雲の疑問に水雉が答えようとした時――
「人間風情がああああああああ!!」
百目鬼の咆哮が、脆くなっていた屋敷の一部を崩す。その圧力に、八雲と水雉はなんとか踏ん張れたが、菊里は耐えきれず片膝をつく。それを見逃さず、百目鬼が襲い掛かってきた。
「菊里ちゃん逃げてーーーーー」
八雲と水雉の位置からでは、菊里の援護に間に合わなかった。菊里との間合いを一瞬で詰めた百目鬼は、鈍く光る爪を振り下ろした。
――ガッ! と鈍い音が響き、菊里は十メートほど飛ばされ地面を弾けるよう転がる。
菊里は横たわったまま動かなかった。その姿に、八雲たちは肝を冷やす。
「ぐわあああああ、小癪な小娘があああぁぁ……」
百目鬼の右前足から血が出ていた。どうやら、避けられないと悟った菊里が、相打ち覚悟で右前足を撃ち抜いていたのだ。その凄まじい執念に、八雲と水雉は恐ろしさを感じた。
執念といえば、百目鬼も右前足の痛みに堪えながら、倒れている菊里に向かっていく。その姿は、鬼気迫るものがあった。さらに、傷ついた右前足でトドメを刺そうと振り下ろす。
金属がぶつかる音が、屋敷全体に響く。
「……凄いなお前、並みの調伏師だったら勝てないぜ」
百目鬼の爪と八雲の愛刀『一竿子忠綱』の刃が嫌な音を上げながらこすれる。
「自分なら勝てるような言い方だな……このまま潰してやる」
八雲を押しつぶそうと全体重をかける。
「……ぐぅ」
百目鬼の巨体が、八雲の両腕にかかる。その重みに片膝をつく。普段なら八雲のピンチに駆けつける水雉だが、菊里をかかえ大きく間合いをとっていた。
「ここなら安心よ。すぐに終わらせてくるから、ちょっと待っててね菊里ちゃん」
八雲の援護に回ろうとした時、菊里が水雉の袖を掴んだ。
「……お、お願いだから、私の役目をとらないで……」
水雉の腕に掴まり、菊里は起き上がろうとした。
「大丈夫だから、あたしたちに任せて菊里ちゃんは休んでいなさい」
「大丈夫じゃない……これ以上父様を失望させたくない……」
「失望させたくないって、どういうこと?」
「それは、私が女だから……父様は跡を継げる男の子が欲しかったの、なのに私が生まれてきたから、失望して……」
苦痛に満ちた顔をする菊里に、いつもの元気な面影はなかった。
「でも、それは菊里ちゃんの思い込みじゃ?」
「ううん、間違いない。私が十歳の時、父様が乳母に話していたのを聞いたから……」
「なんて非道い父親なの!」と水雉は声を荒げる。
「――非道いのは私のほう……私は生まれた時、母様を殺したんだから……」
「――えっ!?」
菊里の言葉に驚く。
「……私は母様の命と父様の夢を同時に奪って産まれてきた……だから、私は……」
肩を震わせ怯えた眼差しを浮かべる菊里を、水雉はそっと抱きしめた。
「――そんなことない。そんなことないよ。菊里ちゃんは何も悪くない」
水雉は、菊里の心情に共感でができた。
「ううん、私が全部悪いのぉ!」
心に溜まっていた黒い感情を吐き出すよう大声で叫ぶ。
「私だって、父様に認めてもらおうと一生懸命頑張ったよ。必死に、必死に、しがみつくよう努力してきた! 父様が弾正台の夜叉部副部長に就任したとき、私にこの土地を任せるって言ってくれたの……父様はダメな私にチャンスをくれた……だから、私は命懸けでこの土地を守ってきた……それなのに……それなのに……私のミスで、私をずっと育ててくれた乳母を……私は――死なせてしまった……」
大粒の涙が、傷ついた菊里の頬をとめどなく流れる。
「乳母の葬儀の時、父様は私に一言も話しかけてくれなかった……私に失望ばかりさせられている父様は、その日を境に私を見限った――もう私には家族と呼べる人は父様しかいないの! その父様に見捨てられたら、私は独りになってしまう! 独りはイヤだイヤだイヤだイヤだ――だから、私は父様から任されたこの土地を死んでも守る! 守らなくちゃいけないの! そうじゃないと私は……私は……」
身を切られるような菊里の言葉に、水雉も乗り越えなければならない過去を思い出し、拳を強く握りしめた。
「あなたの気持ち分かるわ……でもね、あたし思うんだけど――」
「だったらお前がこの土地を護って、親父さんにもう一度認めさせてやれ!」
八雲の声が轟く。
「ちょっと八雲! 傷だらけの菊里ちゃんに無茶言わないの!」
「ただし――ただしだ。俺たちがしっかりお前のサポートしてやる! それぐらい、親父さんも何も言わないだろう!」
「……やっくん」
八雲の言葉は、乾いた砂に水がしみ込むよう菊里の心にすぅとしみ込んだ。
「吐き気がするぞ人間のガキ共があああああ」
日本中に響き渡っているのではないかと思うほどの百目鬼の遠吠えを、八雲は正面から受け止めた。それが止むと同時に、八雲と百目鬼は嵐のようにぶつかりあった。
「菊里ちゃんはしばらく休んでいて、あたしたちであいつを弱らせてくるから」
「私、私……」言葉がのどに詰まる。大粒の涙を流す菊里を見ながら、いつも元気に振舞っていたのは、自分の心の弱さを隠すためだったのだと知った。
「涙は弱さの象徴じゃない。雨のようにすべてを洗い流す自浄作用なものだから、思いっきり泣いていいのよ」
「……ありがとう、水雉ちゃん……でも、もう、大丈夫だから」
菊里は立ち上がろうとした。だが、まだフラつく様子だったので、水雉が手を差し伸べる。菊里は微笑みを浮かべ、今度は水雉の手をしっかり握り立ち上がった。
「――女の底力をみせてやろう水雉ちゃん!」
「もちろんよ菊里ちゃん!」
合わせた手を強く握りあう。菊里は二丁拳銃『千早』と『千鳥』を構え、水雉は大鎌を一閃させ、八雲と百目鬼の戦いに割って入る。
三人がかりの攻撃に、さすがの大妖厄仙も防戦一方に追い込まれる。だが、八雲たちも満身創痍な状態で、油断すればやられそうな瀬戸際の戦いでもあった。しかし、戦いが進むにつれ、バラバラだった三人の息も徐々に合ってきた。このまま押せば勝てる、と八雲は感じた。
「もう、あなたに勝機はないわ。大人しく『まほろば』にもどるならよし、さもなくば、『有涯』で残りの人生を過ごすことになるわよ」
水雉の言葉に、八雲と菊里が驚く。
「こんなやつ、助けてやる必要なんかないぜ」
菊里も八雲の意見に同意するよう頷く。
息巻く二人だが、気力だけで戦っているのは、そのボロボロの姿を見ればわかる。まさに、薄氷での戦いであった。もし、百目鬼が捨て身の攻撃を仕掛けてくれば、誰かが死ぬ可能性があった。それを避けるためにも、百目鬼と交渉するという選択を水雉は選んだ。
百目鬼も動きを止め、水雉の提案を思案しているようだった。犯罪者を見逃す悔しさはあったが、撤退を選んでくれることを期待し水雉は待った。
百目鬼が人へと変態する。堀の深い顔立ちに無精ひげを顔中に生やし、細身だが筋骨隆々な逆三角形の体形をしていた。人となったことで百目鬼が降伏するのだと思い、水雉は安堵する。
「ハァ、ハァ、小僧どもにここまで苦戦するとは……いでよ『焔天錫杖』」
百目鬼が右手を天に向けた。すると、空間から一メートルほどある錫杖が現れた。その先端には、小さな炎が赤々と燃えていた。
「――まさか『まほろば』の宝具!?」
深紅の錫杖から溢れだす『霊仙』に、水雉は狼狽えた。
「王族だけが持つ、そんな貴重な武器を、こんなチンピラ風情が持っている訳ないだろ!」
八雲は、抵抗を示した百目鬼に斬りかかった。
「待ちなさい八雲ーー!」
「さぁ、焼き尽くせ『焔天錫杖』よ!」
真紅の錫杖がむけられた。八雲は咄嗟に防御態勢に入る。――が、何も起きなかった。
不発!? と思った瞬間、八雲は胸をかきむしる。それはまるで、息ができないようであった。心配した水雉が駆け寄ると、同じように苦しみだす。
――俺から早く離れろ!――
――どういうこと!?――
――いいから、早く離れろ水雉!!――
八雲に強く言われ、とにかく離れることにした。すると、身体が楽になった。
「そういうこと!」
水雉は術の正体が分かった。
「菊里ちゃん、あの『焔天錫杖』は空気を燃やし、その範囲内を真空状態にする術よ!」
「やっぱり、神が作りし『まほろば』の王族が所有すると言われている神話級の武器なんだ! でも、なんで一介の無頼が、そんな武器持ってるの?」
「その詮索は後よ、あの錫杖を八雲から逸らさせないと窒息死しちゃう」
「――だね! やっくんは私が助ける」
「やっくん!?」
呼び方が変わったことに気づき驚いたが、今は八雲を救うことが先決だった。
水雉はこの術をその身で受けたことで、その特性を理解していた。この術は、錫杖の先を対象者に向けていなければ発動しないはず。もし永続的に空間を燃や続けることができるのなら、水雉たちはすでに全滅させられているだろう。それをしないということは、予想通りの術なんだと水雉は分析していた。ならば、一瞬でも矛先を逸らせれば、その空間に空気が流れ込み、八雲を助けれる。そう信じて、水雉と菊里は百目鬼を挟撃するかたちで動いた。水雉たちの動きに気づいた百目鬼は後方へと退き、錫杖の先を八雲から逸らした。とりあえず、目的は達成できたと安堵した水雉が、今度は苦しみだした。
「この『焔天錫杖』の威力は絶大だが……地味すぎる」
百目鬼の言葉は水雉には聞こえていなかった。周りの空気が燃焼しているせいで、音が伝播しないのだ。息苦しさを感じてはいたが、術の正体がわかってしまえば狼狽えるほどでもなかった。錫杖から逃れれば、術は解かれるのだから。そう思い動こうとした水雉の体が、鉛のように重く感じられた。しかも、異常なほどの息苦しさを感じる。普段なら二十分ぐらい素潜りが出来るほどの肺活量だが、短時間でこれほど息苦しさを感じ水雉は狼狽えた。
しかしすぐに、この急激な苦しさの原因に思い当る。激しい戦いで呼吸も乱れた状態で呼吸を止められたのだから、すぐに酸欠状態になったのだと。落ち着いて錫杖から逃れようと立ち上がるが、酸素量が足らず朦朧とする。あまりの息苦しさに、激しく服を握りしめる。
――もうだめかと思った瞬間、水雉の頬を風が叩く。大きく口を開け、貪欲に新鮮な空気を吸い込む。全身に酸素が行き渡るのを感じ喜び安堵する。
「――誰が!?」
水雉はすぐに、標的が自分から違う人へと変わったことに気づいた。視線をせわしなく動かし探すと、膝をつき苦しそうにしている菊里を見つけた。急いで助けに行こうとしたが、酸欠状態だった体がすぐに反応してくれなかった。
「せこい戦い方してんじゃねぇ、このオオカミ野郎がぁ!」
八雲が苛立ちを『鬼哭』に乗せ放つ。
「地味だが有効的なやり方なんで、切り札として使ってんだ!」
『鬼哭』をかわしながら、勝ち誇った表情を浮かべる。百目鬼の言うとおり、このまま消耗を強いられれば、八雲たちに勝ち目はなかった。
「水雉、頼んだ!」
八雲が突っ込んでいく。水雉が対抗策を考える時間を稼ぐために。その期待に応えようと、水雉は頭をフル回転させ考えた。
「そんだけ暴れてたら、息がもたないぜ小僧!」
百目鬼は八雲に向け錫杖をかざす。八雲の周りの空気が一瞬で燃焼された。それにもかかわらず八雲は百目鬼めがけ向かっていく。そう、分かっていれば肺に酸素を溜め、潜るようにすればいいのだ。多少の息苦しさを感じながらも、刀の間合いに百目鬼を捉えた。怒りをその刀に乗せ一閃させた。だが、思ったより動きが鈍くなっていて、百目鬼にかわされる。たった一撃繰り出しただけで限界を迎えた八雲はその場に跪いた。
「頑張った方だぜ、小僧」
嘲るよう八雲を見下す。
「させないわ!」
水雉は八雲を助けるため、対抗策が浮かばないまま百目鬼に向かっていく。
――百目鬼が、笑うのが見えた。その瞬間、水雉は自分の迂闊さを呪った。百目鬼は右手を巨大なオオカミの前足に変えると、高い位置から振り下ろした。水雉の背中が露わとなり、服の破片が夜空を宙を舞う。白皙の肌に深紅の鮮血が鮮やかにほとばしる。水雉は地面に激突すると、その衝撃で骨が軋み、酸素と胃液をぶちまけ、意識が飛びそうになった。
「バカがひかかってくれたぜ。――ん? 何だぁ~……」
水雉の背中に模様があることに気づき右手をどける。破れた服の隙間から見えたのは、左肩から首の付け根付近に、直径二十センチ程の丸い赤紫色で彫られた呪印であった。
「――この女、予約済みかよ。しかも〝六師外道〟の『饕餮』だとはな――あいつの獲物を奪ったんじゃ、あとが面倒だ。お前だけは見逃してやるよ」
朦朧とする意識の中、十年間探し続けた妖厄仙の手がかりを知る者を見つけた。それなのに、こんなところで負けるわけにはいかないと、水雉は意識を必死に繋ぎ止めた。
「――この女は放っておいて、この小僧から殺るか……ん?」
八雲がゆるりと立ち上がると、何かを呟きながら走り出した。
「バカがやけくそになりやがって、この爪で八つ裂きにしてやらあああ!」
水雉を倒した右の爪で八雲に襲い掛かる。獰猛な爪が八雲を捉えたと思った瞬間、姿が消えた。狼狽える百目鬼の懐深くに、八雲が姿を現した。疲労困憊の体で『稲妻』を駆使した捨て身の一手であった。
「――よくも水雉をおおおおお!」
渾身の居合斬りが一閃する。それを『焔天錫杖』で受けようとした百目鬼の身体を、銀色の細い糸が幾重にも絡まり動きを封じた。
――乾いた音が庭園に鳴り響く。
『焔天錫杖』を真っ二つに割り、百目鬼の額も切り裂いた。血飛沫と呻き声が夜空に響く。宝器『焔天錫杖』を破壊した八雲だが、限界を超えた動きに身体が悲鳴をあげ倒れる。
百目鬼は額から血を流しながらも、仁王立ちし空を睨む。
「……ハァハァ、まさか、この場面で裏切られるとはな――どういうつもりだ加夜奈留美!?」
闇夜に向かって咆哮する。
百目鬼を縛る銀色の細い糸は屋敷の屋根へと続き、その先には深いスリットの入ったタイトなスカートに、胸の谷間が見えるほどシャツのボタンを開けた奈留美が立っていた。
「ッンフ~ン、裏切るもなにも、わたくしは初めっからあなたの敵でしかないわよ」
「……どういうことだぁ?」
「あなたはわたくしの大切なものを奪った。その復讐を果たすため、機会を待っていたの」
「……そうか、そういうことか……。どうだ奈瑠美……今回の事は大目に見てやるから、これでお互い水に流し、手を組み直さないか?」
「――冗談はやめてよね、わたくしは、あんたが死んでも許さないわ!」
「……そうか……だったら交渉は決裂だぁ! 俺に逆らったことを悔やんで死ね!」
百目鬼は、自分を縛る銀色の糸を引っ張った。不意をつかれた奈留美は、弧を描くよう夜空を舞う。百目鬼は妖厄仙の姿に戻り、巨大な爪で奈留美に斬りかかった。
――その爪は、奈留美に届かなかった。いや、届かせなかった。八雲たち三人がかりで、百目鬼の爪を防いでいた。
「死にぞこないどもがあああああ!」
怒り狂うよう吼える。右のわきががら空きとなった百目鬼の隙を見逃さず、菊里の銃が咆哮を上げた。百目鬼は後ろに飛び退きかわす。
「……きみたち、何故わたくしを助けたの?」
「例え妖厄仙だろうと、女に手を上げる奴は許さね」
「……先生を助けたんじゃなくて、あいつを倒そうと切り込んだだけ」
「さっきは加夜先生に助けられたから、これで貸し借りなしにしましょう……」
三者三様の言い分に、奈留美ははにかんだ笑みを浮かべた。
「――それじゃ、頑張って百目鬼を倒してね」
奈留美は俊敏な動きで後ろに下がる。
「復讐するんじゃなかったのかい!」
戦闘範囲から離脱する奈留美に、八雲の鋭いツッコミが飛ぶ。
「ッンフ~ン、わたくしは百目鬼の死にゆく様を、この目で見届けられればいいの……後ろはわたしくし任せて、三人とも頑張って!」
三人は呆れ顔を浮かべる。
「……まあいい、戦う気のない奴は邪魔だからな。それと、水雉も下がっていろ」
「――えっ? あたしは戦う気があるわよ!」
「だが、体はボロボロだろう。あとは俺と菊里に任せて、後ろで解説でもしてろ」
「ちょっと、人を格闘マンガの外野みたいに扱わないでよね」
自由に動かせる箇所も少なく、全身に痛みはある。だがそれは、二人も同じはず。それなのに、自分だけ外されることに水雉は釈然としなかった。
「加夜先生の警戒を頼む」と八雲が囁く。
確かに、奈留美の存在を無視することはできない。百目鬼を裏切ったのはフェイクで、後ろから八雲たちを襲うつもりなのかもしれなかった。
「……分かったは、くれぐれも無理をしないで二人とも」
水雉が後方を担当してくれるので、八雲と菊里は心置きなく戦いに集中することができた。
「――八つ裂きにされる順番は決まったか、ガキ共!」
「さぁ、決着をつけようぜオオカミ野郎!」
八雲が先に仕掛けた。走りながら、連続して『鬼哭』を放つ技『三連鬼哭』を撃つ。百目鬼は、それを大きく右に避けた。そこに、菊里がドーナッツ状の鉄製の刃物無上法輪を花弁が乱舞するように投げた。しかし、それは囮だった。百目鬼をある場所に誘導するためのもので、そこには八雲が居合の構えで待っていた。途中まで計画通りだったが、予定とは違い百目鬼は無数の無上法輪の中に飛び込んでいった。次々と無上法輪を叩き落とし、無防備な菊里に近づく。完全に意表を突かれた菊里は、百目鬼の攻撃がよけれないと判断し衝撃に備えた。獰猛な牙を剥きだし、菊里をかみ砕こうとした百目鬼の体に銀色の糸が絡みつく。
「何度も同じ手に引っかかるか!」と糸を引っ張った。
しかし、糸はもう奈留美と繋がっていなかった。
「わたくしも同じ失敗はしなくてよ」
「目障りな女だ」
百目鬼は、標的を奈留美に変えた。
「千条縛陣」
奈留美は銀色の糸を網状に広げ、百目鬼を包もうとした。しかしそれを、獰猛な爪で引き裂き突き破ると、奈留美の前に躍り出た。
「死ねええええ!!」
百目鬼の爪が獲物を捉え、鮮血が舞う。
「や、八雲おおおおおお!!」
水雉の悲鳴が、澄んだ夜空に響き渡る。奈留美を助けにはいった八雲の左肩が、深々と抉られていた。
「なんで、何度もわたくしを助けるの?」
「……男ってのは、女を護るものなんだよ――ぐっ……」
痛みで苦しむ八雲に、とどめを刺そうと百目鬼が爪を振り上げる。水雉が助けに動こうとしたが、身体が動かず焦る。そんな水雉に代わり、菊里が銃で牽制しながら助けに向かう。八雲も戦いに参加しようとしたが、出血がひどかった。
「アァン、動かないで。止血のための包帯がないから、わたくしの糸で……」
銀色の糸で、八雲の傷ついた左肩を覆うよう巻き付けた。
「――サンキュー先生。あんたの気持ち、菊里の思い、この『一竿子忠綱』に宿し、あの野郎に叩き込んでやるぜ」
刀を杖代わりにして立ち上がる。
「待ちなさい八雲、あなたは休んで姉さんに任せなさい!」
水雉の制止を無視して、八雲は百目鬼に向かっていく。
「あなたの弟さん、育てがいがありそうね……」
猛々しく戦う八雲の背中を、奈留美は舌なめずりしながら見つめる。
「あたしの弟に手出したら、殺すわよ無頼……」
今までで一番恐ろしい形相を見せた。その姿に驚きつつも肩をすくめる。
水雉と奈留美が小さなもめ事を起こしているとき、下腹部に重い振動が伝わるほどの咆哮を百目鬼があげた。それを受け、八雲たちに緊張が走る。
「気をつけて八雲に菊里ちゃん!」
「ああ……オオカミ野郎の『霊仙』が上がった」
「わぉう! まだこんな力残してたの、このオオカミ……」
全員が百目鬼の異変に気付いた。妖厄仙の姿から、四足歩行の狼の姿に変態したのだ。
「……ふぅ、動物になったみたいで、嫌いだが……これで全員、肉片にしてやる」
「元々動物だったじゃない。どこがどう変わったのか分からないぐらいよ」
菊里が憎まれ口を叩く。
「俺の動きをみてからも、そんなことがいえるか」
大地を蹴る地響きだけ残し、百目鬼の姿が消えた。調伏師の目をもってしても捉えることができないほどであった。
「きゃっ!」
菊里の左肩の服が破られ、軽く出血する。その後方で、百目鬼が菊里の服の端布を吐き捨て、また姿を消した。次はだれが襲われるのか警戒していると、また菊里がやられる。今度は右の脇腹の服が破られ鮮血が舞う。どうやら、百目鬼は菊里に狙いを定め攻撃しているようだ。
「助けないと!」
駆け寄った水雉の右肩の服が引き裂かれ鮮血が飛ぶ。誰にも百目鬼の動きを捉えきれず、次々と襲われ、被害が増すばかりであった。黙っていてもやられるのなら、抵抗をしようと闇雲に武器をふるい百目鬼の動きを牽制した。
そんな動きを嘲笑うかのように、百目鬼の攻撃は容赦なく水雉の足元を切り、菊里の背中を裂き、奈留美の右肩を切り裂いていった。手も足も出ない状態に、水雉たちの心に諦めの文字が浮かぶ。そんな中、水雉たちから少し離れたところで、気を高めていた八雲が動いた。
「――おいオオカミ野郎、こいよ……真っ二つにしてやる!」
居合の構えで口元に薄ら笑いを浮かべて、百目鬼を挑発する。
「笑わせる。俺の動きが見えてないお前に、斬れると思っているのか?」
百目鬼は動きを止め八雲と対峙した。その挑発に乗るように。
「見えてるよ。お前より、俺の『刹那』は、何十倍も速いからな」
確かに八雲の『刹那』は速い。だが、動きを捉えるのとは別物で、捉えれないものは斬れない。それとも本当に百目鬼の動きを捉えられているのか。そう思わせるほど、八雲の表情は自信に満ちていた。
「……ビビったか、犬っころ?」
「――いいぜ……お前が剣を抜く前に、その細い首を刈り落としてやる!」
鋼鉄を思わせる銀色の毛を逆立て、百目鬼が消えた。地面を蹴る音だけが、静まりかえった夜の闇に響く。徐々に、地面を蹴る音が速くなる。そんな中、八雲は居合の構えのまま、身じろぎ一つせず待っていた。そして、勝負は刹那のうちだった。
百目鬼の前脚の爪が、八雲の服に触れた瞬間――全神経をその瞬間に集中していた八雲は、百目鬼の居場所を捉えた。
次の瞬間水雉たちが見たのは、八雲の背中から血が舞うところだった。
「やっっくぅもぉぉーー!」
絶望に満ちた水雉の悲鳴が、闇夜を裂くように響く。八雲は膝から落ちると、まるで糸の切れた人形のように地面に倒れた。
「……相打ち狙いだったんだろうが、残念だったな小僧!」
百目鬼も銀色の毛を赤く染めるほど出血していたが、致命傷まではいたらなかった。勝ち誇った顔で、八雲にトドメを刺そうと近づく。
「――く、くたばり、やがれ……」
八雲は右手の親指を下に向けた。その行動が負け惜しみだと思い、微笑を浮かべた。だが、すぐにそれが、強がりでないことに気づく。上空からとてつもない殺気を感じ見上げると、そこには、両手に銃を構え落下してくる菊里の姿があった。すべては八雲が考えたことだった。
百目鬼が八雲に集中している間に、奈留美の糸で菊里を空高く投げ、頭上から百目鬼を狙う作戦を立案し、それを読心で水雉に告げ、二人に指示を出していた。もちろん、水雉は八雲の身を犠牲にするこの作戦は反対だった。しかし、他に手立てがなく、しぶしぶ作戦を了承したのだった。
だが、八雲の捨て身の作戦も、百目鬼に気づかれてしまった。
「高く上げすぎだ。気づかないと思った――がっ!」
空中の菊里に気をとられていた百目鬼の尻尾を、水雉の投げた大鎌が地面に縫い付ける。
「くそがああああ」
口で大鎌を抜こうとした百目鬼の身体を、銀色の糸が幾重にも重なり動きを封じた。動けなくなった百目鬼は、怒りの咆哮を上げ迫りくる菊里を威嚇する。
「百折不撓!!」
銃から『霊験』の弾が、まるでマジンガンのように撃ち出された。その勢いは、自由落下していた菊里の身体を空中で静止させるほどで、一発一発に思いが込められていた。雨あられのように降り注ぐ『霊験』の弾が、百目鬼の身体を撃ち抜いていく。
――やがて、夜の闇に轟いていた銃声が止むと、力尽きた菊里が落下してきた。それを、地面に激突する寸前で水雉が抱き止めた。
「……ありがとう水雉ちゃん」
「ご苦労様菊里ちゃん」
これで終わった。と、二人は安堵の笑みを浮かべる。
「――こ、こんな、ガキ共に、お、俺が、やられるなんて……」
砂煙の隙間から、ボロボロとなったオオカミが小刻みに震えながらも立っていた。しかも、水雉たちを見つめる眼光は衰えていなかった。百目鬼の執念に、水雉と菊里は戦慄する。
「このままで、す、済むと、思うなよ、ガ、ガキ、どもぉ……」
その言葉を最後に、百目鬼の姿は霧のように霧散した。
「……凄い執念ね。残りの生涯を小動物のまま生きるぐらいなら、死を選ぶなんて……」
それほどの覚悟を持った強敵に、誰一人欠けることなく勝利できたことに、水雉は胸を撫で下ろした。だが、深手を負い消耗しきっている八雲と菊里を見て、もっと上手く立ち回れたのではないかと、自分の至らなさに深く反省をする。そして、百目鬼ですら一目置く〝六師外道〟とは、一体どんな敵なのだろうか。一度弾正台の師匠の元に行き、話を聞こうと考えていた。
「――やっくん大丈夫?」
よろめきながらも、倒れたままの八雲に菊里が近づく。
「ッンフウ~ン、八雲くんは、わたくしが手当してあげるわ」
奈留美が八雲を抱え膝枕をする。
「やっくんは私の仲間だから、私が手当するの!」
八雲の足を持ち、奈留美から引き離そうとした。
「あらん、八雲くんは、わたくしを庇って怪我したのだから、わたくしが責任もって手当しますぅ。キミも怪我だらけで大変そうだけど、ツバでもつければ治るかしらね、ペペペ」
「あんたこそ、自分の糸でぐるぐる巻きになって回復してればいいじゃない、ペペペ」
八雲の取り合いで、唾迫り合いを繰り広げる。
「――はいはい、八雲はあたしの弟だから、二人には悪いけどあたしが面倒みるわね」
八雲の体を水雉が両手で引っ張り、慣れた手つきで背負う。血の繋がりを出されては、菊里と奈留美は引き下がるしかなかった。それでも、帰る道中不平不満をもらしていた。その声を無視して、水雉は百目鬼が最後に言い残した言葉の意味を考えていた。おそらく、このままででは終わらないのだろうと、将来の危機を危惧していた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦
――月明かりが、屋敷で起こった激しい戦いの痕跡を浮かび上がらせる。そんな屋敷の庭に、まるで夜の闇から零れ落ちたような、二つの影が忽然と現れた。
「うんうんうん、まるで戦争の後のようだねヨーコくん」
シルクハットに燕尾服を纏い、手には杖を持ち丸眼鏡をかけた、まるで大正時代のような装いをした七十過ぎの老練な男性と、ヨーコと呼ばれた無機質で無表情だが、造形物のような美しい顔立ちに、腰まで届く黒髪を風になびかせ立つヨーコも、大正時代の女学生のような袴姿で、まるでコスプレのような格好だが、彼女とよく合っていた。
「うんうんうん、最近、百目鬼君のところの売り上げが落ちていたから、その調査も兼ねて来てみたが、正解だったようだね」
ボロボロの屋敷を眺めながら男は呟く。
「……この様子からして、調伏師の襲撃を受けたようだね。うんうんうん……そして、敗れたってところかな?」
独り言のように男は言葉を紡ぐ。それに慣れているのか、ヨーコは黙ったまま宙を見つめる。
「うんうんうん、まぁ、もともと人身売買なんて古いやり方、私は好きではなかったので、まぁいいとしますか」
男はヨーコの相槌がなくても、一人でしゃべり続けた。
「……ですが、気になりますね。百目鬼君を倒した調伏師……」
「ならばおまえさん。そこの生き残りに聞くかえ?」
無機質な声を発し、ヨーコの足元の影が伸びる。
「おや、生き残りがいたんですね。うんうんうん、是非お話をお伺いしましょうか」
草むらに隠れていた者を引っ張り出した。
「た、助けてくださいてよ!」
ヨーコの影が引っ張り出したのは、アライグマ妖厄仙だった。
「うんうんうん、心配いりませんよ。私たちはお仲間です。ちょっと、ここであったことをお聞きしたいだけですから」
男は柔和な笑顔を浮かべ、吊し上げられているアライグマ妖厄仙を見上げる。その笑みに落ち着きを取り戻したアライグマ妖厄仙は、少しずつ話し始めた。
「――――うんうんうん、高校生の調伏師ですかぁ……。面白い人材が育ったものですね調伏師にも」
「笑ってないでおまえさん、こいつどうするかえ?」
「え? え? 助けてくれるのではてよ」
「……うんうんうん、自分の上司の危機に、何もしない部下を生かしておく必要性を、微塵も感じないのですが」
男は笑顔でアライグマ妖厄仙の死刑を宣告する。それを、ヨーコは無機質に頷く。
「い、いやだあああ! 助けてくださいてよ」
泣き喚くアライグマ妖厄仙を、男は笑みを湛え見つめる。ヨーコは無表情のまま影に少し力を加えた。すると、アライグマ妖厄仙の体を真っ二つにし、そのまま影に飲み込ませた。
「うんうんうん、これで案件が二つになったわけですね」
「『まほろば』からきたダメ王子と、高校生調伏師の二つってことかえ?」
「うんうんうん。では、『青き瞼墨』が主催するフェスティバルを開催しましょうか!」
舞台に立つ役者のような仰々しさで、燦然と輝く月に向け両手を広げ宣言する。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦
――獣道しかないような鬱蒼とした山の中に、荘厳なほどの建物が数多く建ち並んでいた。その建物は自然を最低限いじり、空から見えない工夫を凝らし配置されていた。それはまるで、何かから隠れているようであった。建物には多くの人が行き来していて、みな山伏の格好をしていた。
建物の中の一つに、眉目秀麗な顔立ちに似つかわしくない真新しい白い眼帯と、この場所とはミスマッチな学生服を着た水雉が、神妙な顔で板張りの床にある黒い染みを指でなぞる。
「どうじゃ水雉、また新たなシミを増やしていくか?」
水雉の背後から、年季の入った男の声が聴こえたかと思うと、男は水雉のお尻をなでた。
水雉は指を止め、「師匠の方が、シミを付けたいようですね!」と振り向きざま手刀を繰り出す。師匠はお尻から手を離し、バク転でよけた。
「カカカカ、相変わらず水雉は手が速いなぁ」
その人物は小柄で頭は禿げ上がり、顔に刻まれた年輪の数が、長寿であることをうかがわせる風貌をしていた。
「師匠こそ、相変わらずのスケベぶり。もし八雲に悪影響を与えていたら、父親代わりの師匠といえ、殺しますから……」
殺意を隠すことなく剥き出しにする。
「カカカ。水雉相手だと、冗談も死ぬ気でやらないといかんなぁ」
ハゲあがった頭を掻きながら、苦笑いを浮かべる。
「――ところで、父の消息は掴めましたか?……」
「まだじゃが……。あやつはそう簡単にやられる男ではないよ。必ずどこかで生きておる」
「あたしはもう諦めています……が、八雲には、お気遣い下さいますようお願いします」
慰めの言葉に昔は期待を込めていたが、いつの日からか、父親は死んだのだと思うようになっていた。
「……おぬし、八雲がいるいないで、人が違うようだのぉ。どちらが本当のおぬしやら?」
そこには、弟を溺愛している姉の雰囲気は微塵もなく、冷徹な調伏師としての水雉がいた。
「――それより、お願いした調査の件ですが……」
「〝六師外道〟のことじゃったな……。さて、どこまで話すものかのぉ……」
「師匠!」と目で射るように睨む。
「……おいおい、師匠を脅すもんじゃないよ」
「…………だったら、早くお話し下さい」
水雉は譲るつもりのない頑なな姿勢を貫く。それに、師匠の方が溜め息をついた。
「水雉は、この弾正台がなぜ存在するか知っておるな?」
「……はい、月世界にある妖厄仙の世界『まほろば』から正規のルート『回廊』ではなく闇ルートの『闇穴道』を通ってやってくる妖厄仙、通称『無頼』を取り締まる機関です」
解りきったことを聞くな、と睨むように答える。
「ふむ――。そして、月世界にある『まほろば』が出来たのが――」
「師匠、あたしが聞きたいのは〝六師外道〟についてです!」
婉曲な物言いをする師匠に対して声を荒げる。水雉の心に余裕がないのが見て取れた師匠は、憐憫さを感じ溜め息をつく。
「……妖厄仙たちをまとめ、『まほろば』の世界を創ったのが、〝六師外道〟の二人じゃ」
水雉は何度も目を瞬かせる。ようやく理解できると、今度は深い海の底に落ちるような息苦しさと重圧を感じ押しつぶされそうになった。十年間追い続けていた敵が、『まほろば』を創造したというならば、それは『神』に等しい存在だと言われたのも同然であり、それが自分たちの追い求めていた母親の仇であると知り、絶望のどん底に心が沈んだ。
「……ただ、おぬしの敵はその二人ではないだろう。ほかに四人の〝六師外道〟がいて、その六人を指す呼称なのじゃ」
師匠の言葉は、なんの慰めにもなっていなかった。
「……その〝六師外道〟とは、一体何者なのですか? 妖厄仙とは違うわけでしょ!?」
「――のう水雉よ。世の中、いやこの宇宙で、人間なんて小さい存在だと思わんか?」
「……お気遣いは無用です。あたしは敵を知りたいのです」
婉曲に話そうとした師匠の親心は理解できた。だが、覚悟を決めた水雉にとって、もはや師匠の気遣いは無用の長物でしかなかった。それが分かった師匠も話す覚悟を決めた。
「〝六師外道〟とは、地球誕生とともに生まれた『神』に近い生命体じゃ」
ある程度は覚悟していたが、はっきり『神』に近いといわれ、目の前が暗くなるのを感じた。そんな相手が母親の仇だというのか。まるで、夜空に浮かぶ星を取ろうと手を伸ばす行為に等しく、決して叶わぬことだと思い知らされた気分だった。
服の上から背中の呪印を恨めしそうに触り、水雉は全身で死の恐怖を味わう。
「……お話しありがとうございました。くれぐれもこの話、八雲には内緒でお願いします」
八雲なら、例え相手が『神』だろうと戦いを挑むだろう。だが、そんなことをさせるわけにはいかない。高鉾家の長男として両親の期待を一身に背負った八雲は、絶対に生き残り、高鉾家の未来を担わなければならない。それが亡くなった両親の思い、そして水雉に託された使命であった。
立ち上がった水雉は、まるで抜け殻のように、か弱く歩き出した。その背中に、師匠が言葉を投げかけた。
「かつて、〝六師外道〟を手なずけた御仁がおられた」
「――ど、どういうことですか!?」
水雉は大鎌を取り出し、師匠に突きつけた
「……お、落ち着け水雉……今から話してやるから……」
師匠に言われ、水雉は大鎌を置き聴く態勢をとった。
「その方は、百二十年前にこの弾正台におられた方で、わしの師匠じゃった人だ。今はもう亡くなられておるがの」
水雉は深いため息をつく。だがすぐに、何かに思い当たり破顔する。
「師匠は、その人から〝六師外道〟に対抗する手段をお聞きしているのではないですか!」
今まで婉曲な物言いをしたのは、これを誇るためだったのかと希望が見え喜ぶ。
「――いや、なんーも聞いておらん」
あっけらかんと言う師匠の態度に、水雉は本気で殺したい衝動に駆られ大鎌を握る。
「その方の弟子は大勢いて、わしはその一人に過ぎなかったのじゃ。しかも、その方は弾正台を出られてから〝六師外道〟を手なずけたと、風の噂で聞いただけじゃからのぉ」
笑って話す師匠に、「つかえないじじい」と侮蔑を瞳に宿し見つめる。
「オイオイ、一応これでもわしはお主らの師匠で、父親代わりだぞ」
水雉の悪態に苦笑いを浮かべる。
「……手立てがないわけではない。と言いたいのでしょ!? 何とかしてみせます!!」
一縷の希望があるなら、それに全力を傾ける。昔から、あがき、もがき、苦しみながらも、必ず解決策を導いてきた。今回も希望があるなら、それに全力を注ぐだけであった。
暗く沈んでいた右の瞳に、いつもの輝きが戻る。
「わしも、全力でサポートしてやるからのう」
「あてにしていませんから」
師匠の申し出を、笑顔で一刀両断する。
「……あははは、ハァ~……。今度は、八雲も連れてきなさい」
水雉は微笑を浮かべ、颯爽と山を降りていった。親代わりとはいえ、愛弟子の後姿に巣立っていく娘を重ねた師匠は、寂しげな表情を浮かべる。
「『まほろば』からきた王子に〝六師外道〟――そして謎の犯罪組織かぁ……。何かが動き出そうとしているようじゃのう……」
水雉と八雲の行く末を心配し独言する。