プロローグ
プロローグ
いつの間にか迷いこんでしまった、見慣れたはずの街角の見慣れない風景に自然と速足になってしまう。彼はひたすら前だけを見据えて肌寒くなってきた襟首をきゅっとしぼめた。肌寒い。なのにどうしてかこめかみに浮かんでいるのは汗の粒だ。いくらあるけども変わらない風景に焦りばかりが募っていく。
こんな背の高い壁が両端にそびえている区画がこの町にあっただろうか。それのせいで差し込んでくる光は極端に少なく、昼をいくらも過ぎていないというのに、通りは夕暮れ時のように薄暗かった。
見上げれば高い壁の先に小さな空があり、その向こうに賑やかなバザールの声や音が漏れ聞こえてくる。その音量からそんなに離れていないのだと分かるのだが、なのにどうしてかこの通りから抜けることが出来ない。こんなに動いていれば近づいているとか、遠ざかっているとか分かりそうなそのバザールの音も、変わらない音量でその、空の先にある。
膜1枚向こうにあるようなそんな空間。空間と空間のその狭間のような、穴のような。ここからはもう、出ることはできないかもしれないという恐怖がむくむくと身体のなかに積もって手足の動きが支配されていく。
ねっとりとした空気が手足を重くする。前方に見えている通りの先に目を凝らすと、人々の賑わう様子が見えていた。
おれも、そっちに、行かせてくれ。
手を伸ばすも、届かない。
どうしてこんなことになったのだろう。
久しぶりに故郷に帰ってきたので、息苦しい実家にいるのがいやでバザールに寄ってみた。回転の早いバザールは数ヶ月見ないだけで物珍しいものに溢れ帰っていた。物珍しい店を覗き、冷やかしていたら唐突に誰かに呼ばれたようなそんな気配がして顔をあげたのだ。
見知らない通りがあった。
こんな、通りあっただろうか。
子供の頃から出入りしている庭のような場所だ。自分が知らない場所があることが許せなかった。頭を少し通りに突っ込んでみた。まだまだ先があるようだった。その先を確かめてみないことには、今日は帰れないと思ったし、帰りたくない気持ちにもなった。実家よりも居心地のよいここに、誰か他人が入ったようで落ち着かない。
彼はゆっくりとそこに足を踏み入れた。
好奇心は猫を殺す。確かにその通りだ。好奇心に負けて、この薄暗い通りに足を踏み入れたのがそもそもの間違いだったのだ。
そして、今に至る。
何処まで行っても何処にも行っていないような空間に、怯えと苛立ちを感じて足元の石を蹴りあげたところで、声をかけられた。彼は肩を大きく揺らしておそるおそる振り返った。さっきまで、何も。
なかったのだ。
そこはただの壁だった、はずなのに。
いいものがある、と。声は語りかけてくる。
狭い通りに、さっきまでなかった扉が出来ていた。
入り口にランプがかかっている。煌々と焚かれたその炎は時おり身をよじりながらあたりに光を落とす。だが、不思議とランプで照らされているはずのその看板の名前は読むことができない。比較的新しそうに見えるのに目を凝らしてもどうしても、書かれている文字を読み解くことはできなかった。だが、その様子からどうやらここが店であることがわかった。
明らかに、どう考えても、怪しい。だが今は藁にもすがる思いだった。なんだっていい。ただ、ここから出る術が知りたかった。
扉をおす。
思っていた以上に大きなベルかなって、びくびくとしながら中に入った。
真っ暗だった。いや、光源はあるのだがどうも部屋を十分には照らしてくれない。少しの光で目が慣れるのには時間がかかった。
ようやく部屋を見回すことができた。
店の構えだと思っていたのだが、違うのかもしれない。だって、本来なら賞品が並んでいるであろう棚には何もなかったからだ。
空っぽの棚ばかりがずらりと並んでいる。
身動きする度に、静寂の中に亀裂がはいるような、床が軋む音がする。
もう少し目が慣れてくると、空っぽの棚に守られるようにたったひとつ品物があった。
籠、のようなものだ。
何が入っているのか気になってそろりと近付いてゆく。音を極力立てないようにしているため、そこまでの道のりは果てしなく遠く思えた。ようやく辿り着いて籠の網の隙間を覗き込んだ。
『お気に召した?』
耳元に響く声にあまりにも驚いて大声をあげてしまう。腕で頭をガードしながらしゃがみこんだ。
『ごめんなさい、驚かせたかしら?』
笑いを含んだその声音に固く瞑っていた瞳を薄く開いた。飛び込んできたのは、光だった。それも、ランプなどの光ではなくて、その人物自身が光っている。真っ白なローブに、真っ白な腰までもある長い髪。それらがきらきらと輝いているのだ。美しい緑の瞳が笑みを浮かべる。親しげに話しかけてくるその女に先程までの緊張が解けていくのを感じる。
『入り込んでしまったのね。ここは、特別な人しか入ることができないの。貴方は何かこの店に呼ばれてしまったのかもしれないわ。』
そんな、おれは。
今までずっと、貶され続けていた記憶が頭に甦る。どうしてお前は、どうしてもっと出来ないんだ。我らの血を引いているというのに。
この恥さらしが。
優秀な兄たちがにやにやと笑みを含みながら見下してくる。
『そんなことないわ。ここに来られたのが何よりもの証拠よ。あなたには何か特別な力があるわ。それを回りが理解しないだけなのよ。』
微笑むその眼の細さに、親しみを感じる。白い耀きが笑みと共に尚一層強くなる。薄く、優美な手が彼の手をとって胸元まで引き寄せられる。特別、そんな言葉を自分に当ててもらえると思わなかったから、くすぐったい。貴方は周りの凡人とは違うの。特別なの。
やはり、自分には何か他の力があったのだと、むくむくと心の奥から声がする。この世界の基準では測ることができない、もっと強い素晴らしい力が。
ようやく納得がいった。自分が生家に馴染めないわけが。大きな豪華な派手なソファにふんぞりかえり偉そうに他人を見下している、あんな人達と相容れないわけだ。だって、自分は特別な存在だったんだから。
あんな下らない権力だけが取り柄の人間と、暮らせないわけだ。
だって、自分は特別な存在だったんだから。
『でも、今のままではダメね』
どうして。
『貴方が本当の力を震えるだけのスイッチのようなものかしら、それが足りないの。』
手に入れるには、どうすればいい?
『簡単よ、そのためのこのお店何だから。なぜここに他のしなものがないか、分かるかしら?』
どうして?
『貴方に必要なものだけが存在しているのよ。貴方に必要なのはたったひとつ。あの、籠だけ。』
ひらりと蝶が舞うように宙に漂わせた指先が、彼の背後を指差した。
『たった、あれだけ。』
ゆっくりと手を伸ばして、その籠に触れる。びくりと何か中身が震えた気配がした。
『たった、それだけで貴方はとても素晴らしい存在になるわ。貴方は特別なのよ。』
長い白い髪が、その美しい顔にかかり、微かな影を落とす。
彼は、貴方は特別なのと繰り返す声を耳に入れながら、ただただ恍惚とその籠を抱き締めていた。
その人物の密やかな笑い声だけがその店にこだましていた。