10.行ってきます
「それでは、お母さん。行ってきます。」
肩まで伸びた墨色の髪を揺らして、少年はおじぎをした。
おもてを上げれば微笑と共に、輝く瞳が三日月のように細くなった。
豊穣の預かり手であるユーマは、昨日で十になった。窪地の集落では、成人として認められる年齢だ。
これからは、それぞれの役割や性質そして能力を存分に発揮して、土地と仲間のために活躍する。
一人前になったユーマは、自分が誇らしくて仕方がない。
今日は、預かり手である自分にとって、初めての務めをする大切な日。
巨大な鳥はもう、丘の上で待っている。
まだかまだかと、気を揉んでいるのが伝わって来た。
鳥はユーマが生まれた時からずっと待ち続けていた。
ユーマを背に乗せ世界を巡ろうと、鳥はこの十年、ほぼ毎日ユーマの心に話しかけて来た。
待ちわびた時がやっと来たのだ。
鳥遣いは深々と腰を折って、巨鳥ルゥ・ラァの前でおじぎをした。
「守り主どの。本日は預かり手の君との初めての飛翔。おめでとうございます。」
嬉しいのだろう。光を照り返す羽根が、虹色を帯びて揺らめいている。
鳥遣いは、生まれたての目も見えない雛の頃を思い出していた。
羽根も乾かぬ内だったよ。生まれたてのユーマどのの所へ飛んで行った…。
その一途な気持ち、深い慈しみがありがたくて、そしていじらしくて、愛しかった。
彼はルゥ・ラァの護衛係としてこの十年間、充実した時を過ごした。
鳥遣いは、銀色に輝く小山のような鳥を感慨深く見つめた。
赤い瞳がふんわりと彼を見た。
「光栄でした。ルゥ・ラァどの。お気をつけて行ってらして下さい。」
鳥遣いは晴れの門出にふさわしく、明るく言祝ぐ。涙ぐんだ彼の声は、少し震えてしまったけれど。
ユーマの母親、クヌとて、とても晴れやかな心持ちであった。
だが、どの時代も母親はいつだって、心配をするものだ。
クヌは代々の預かり手が所有した刀をユーマへ差しだし、言葉をかけた。
「気を付けて、行ってくるのですよ。」
精一杯の気持ちを言葉に籠めて、送り出す。
わが子の明るい瞳を見やれば、喜びに溢れている。
ついこの間だった。
ほんとうに、ついこの間、私はこの子を授かったのだわ。いつの間にこんなに大きくなったのかしら。
この子は、誰だろう。
あの子は、どこに行ったのかしら。
クヌは、この現象を目の前にして、言葉を失う。
この十年、いつも共に暮らしたユーマ。
私はあなたを預かっただけ。
いずれ時がくれば、誰もが役割に生きる。
これからも共に暮らすことは変わらないけれど。
だけど、もう、私ができることは、ないのだ。
たった十年しか、経っていないのに。
「おめでとう。ユーマ。」
クヌは、ユーマのあかがね色の瞳を見遣った。
ユーマはにっこりと笑う。蜜色の光が瞳に溶けた。
「お母さん。ありがとう。」
ユーマは駆けた。くるりと踵を返して太陽に向けて走り出した。
その先にいるのは銀の鳥。
墨色の髪をなびかせて、腰には光る剣を佩いて 。
「私こそ、ありがとう。愛しい子。ユーマ。」
クヌは知らずに涙をひとつ、こぼした。
いつだって門出には、涙する者がいた。
これはいつだって、変わらないことだ。
その涙が根源の光と同じ構成であることもまた、変わることはないのだ。