28-6.進む先は前に1つ、されど迷いは遠い後ろ
テーブルに散乱する酒瓶を除け、グランは娘の後を追って台所へ持っていく。
釜戸の前には娘が火をくべて、鍋の中からは湯気と食欲をそそる香りが立ち上っていた。
「あの、お食事前にお手を洗われては?」
「…え?…あ。」
グランの両腕は小手が装着されたままであり、娘はその様子を見ながら苦笑いをする。
しかし、小手を脱ぐという事はその下、漆黒に染まった異質さながらの左腕を晒す事にもなり、グランは咄嗟に左腕を右腕で庇ってしまう。
その大げさな挙動は余りに不自然となり、しまったとグランは後悔するが、娘はただ静かに小手へと手を添える。
「…気を使わないでください。腕の事は知っていますから…。それに…」
娘はもう片方の手をグランの胸元にと添え、そっと微笑む。
左腕と胸、つまりは心臓。
本当に4~5年前から娘は自身を知っているのだとグランは理解するが、同時にこの好意的過ぎる態度に疑問を感じる。
女心となんとやら、というのもあるがそれだけの過ぎた時間、何か思惑があるのではないのかと勘ぐってしまう。
だが、娘の仕草は露骨に女を武器として用いていると感じられず、無碍にもできない。
「あ、あの鍋を心配なされては…?」
グランは娘の仕草に戸惑い、鍋へと話題を逸らし、鍋はゴトゴトと煮立った音を立てていた。
娘は慌てて火加減を調整しに動き、その隙にグランは一息を入れると小手を脱ぎ取り手を洗う。
そして、グランはテーブルに戻ると行儀良く、背筋を正し、座して待つ。
なまじ緊張が走っているも、その身は軽い。
考えてみれば常時身に着けているマントを脱ぎ、防具を外し食事を摂るのは何時以来だろうかとグランは思い浮かべていた。
「…はい、お待たせしました。」
娘はグランの露出し、楔が打ち込まれた左腕など気にも留めず、料理をテーブルへと運び、自身も椅子に腰かける。
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牛肉と野菜の深煮込みシチュー
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目の前に置かれた皿は濃い褐色のシチュー。
ぶつ切りにされた肉と野菜が表面から覗かせ、肉の脂身と匂いがシチューを艶やかに輝かせる。
些細な香辛料の香りがどこか家庭的な匂いを演出し、空腹の腹には堪らない。
一目でごくりとグランは喉を鳴らし、真っ先にその肉にスプーンを入れ口に運ぶ。
「…まずい。」
「お、お口に合いませんでしたか?今すぐ別のものを…」
グランの呟きに慌てて娘は皿を下げようとするも、グランは直ぐさまそれを制する。
「こんな美味い飯を食べたら、今後の続く携行食の旅が苦痛になってしまう…」
そう続けて呟くと、黙々とそれを口に運び続け、娘はその様子にほっと胸をなで下ろす。
「ところでコレが残りものなら、鍋ごと頂いても?」
皿を手にしシチューを口へ掻き込ながらグランは娘に尋ね、その申し出に娘は笑顔を通り越し半ば苦笑を浮かべた。
―――
食事も終わり、グランは椅子にふんぞり返る様にして腹を擦る。
満腹感で眠気が少し来ており、欠伸が自然と口から出ると娘が台所から金属グラスを持って戻った。
そのグラスには白い液体が満たされ、グランは顔を近づけると鼻をヒクつかせる。
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自家製・乳酒
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「…これは?」
甘い香り、乳のようでもあるが、酒にも感じる匂いにグランは興味を引かれ娘へと尋ねる。
「自家製の…お乳を発酵させたお酒です。酒精は弱いので、その、こっちこそお口に合うか解かりませんが…」
「…自家製…ですか。」
トレイで両手を塞ぎ、顔を半分隠しながら娘は恥ずかしそうに答え、グランは少し躊躇するもグラスを手に取り液体を口に含む。
舌先に酸味と、甘さの中に僅かに弾ける刺激を感じるも、直後には酒精の風味を感じなくなった。
飲み易くしたヨーグルトでも言えば良いのか、とりあえずグランはグラスをテーブルへと戻す。
「…どうでしょう?」
「俺は酒を飲み慣れてないものなので、少しずつ…」
何処かそわそわとしている娘に、グランは後頭部をくしゃりと搔き、苦笑しながら再びグラスを手にする。
その時であった、手にしたはずのグラスは掴れず、上へと昇り、グランの背中にずしりと重圧し掛かった。
「ン~~~~まァ~ァァ~い!もう、一杯!」
その背中の重圧の正体はラミーネ。
「お、お前、何時の間に!?」
「ぬぁによォ~。私に黙って、私の知らないお酒を飲むとかぁ、不届きィ~千万じゃな~い~のぉ~?」
彼女はグラスの残りを一気に飲み干すと、背後から椅子越しにグランを抱き付いたまま、娘へとそのグラスをねだる。
娘は席を立ち、台所へと向かおうとするが、グランはそれを制止し、首を振るとラミーネを担いで席を立つ。
…
そして、2階の部屋に上がるとラミーネを再度敷物の上に寝かせ、自身のマントを掛け直して部屋を出た。
過程に抵抗や文句が無かったあたり、ラミーネはただの悪酔い状態だと判断して、グランは溜息を吐いて階段を降る。
テーブルに戻るとグラスの中は再び満たされ、娘はトレイを胸に抱える様にして立っていた。
「…」
これ以上の飲酒は控えるタイミングではあったが、娘はどうしても酒を振舞わせたい様子を伺わせる。
席に戻るとグラスを手にし、グランは喉へ流し込むとグラスをテーブルへと戻した。
1/3は飲んだであろうか、酒精が鼻に抜けるのを感じてグランは一旦手を止める。
「自家製、なんですよね?結構手間がかかるのでは?」
酒が進まないのを悟られぬよう、グランはもう一口飲みながら尋ねていく。
「はい。酒母にお乳を加えて発酵させるのを繰り返すだけですが、時間はかかります。でも、お薬を飲み控えてもいいので…」
「…?」
最後に何か話が噛み合わないような気もしたが、一呼吸入れると会話の最中に手放したグラスを取った。
しかし、またも手は空を掴み、グラスは頭上を過ぎる。
「…くひ~!おいしい!このいっぱいじんせいだッ!」
そして、またも背中に掛かる、つい先程と全く同じの重圧と声。
「何でまたいるんだよ!?」
「何よ~、ちゃんと飲むならァ、飲みきりないよぉ~。お酒に失礼よ、んー…、ヒック。イヒヒ。
「…」
頭上から飲み干されたグラスを置くと同時にグランはラミーネをすぐさまに担ぎ、早足でまたも2階へ。
今度は部屋の中へ放り投げてしまおうとするが、すやすやと眠るピアの姿を見ると、物音を立てぬよう、そっと先と同じにラミーネを寝かせていく。
…
大きい溜息を吐きながら部屋の扉を静かに閉じると、妙な疲れが身体を襲う。
下の階の娘と互いに苦笑を交わしながら階段を降り、グランは再び席に着く。
目の前のグラスの中は再び満たされ、先と同じように娘はトレイを胸に抱える様にしている。
「…」
グランは観念し大きく息を吸い込むとグラスを一気に煽った。
口に含んだ乳酒を喉を鳴らしながら一気に流し込むと、グラスをテーブルに叩き付けるように置く。
一気に飲み干せばもうラミーネからの横槍は無くなると踏み切ったのだ。
しかし、グラスの中は僅かに残ってしまう。
グランは残りも飲み干そうとするが、僅かな酒精とはいえグランにとっては酒は飲みなれぬもの。
一気に飲んだ分の酒精が体内に回り、グランは目を丸くし、視界が歪む中、動きを止める。
「…覚えていますか?」
ふと、娘は呟き、グランのグラスを手にすると彼女は残りをゆっくりと飲み干していく。
「……何を?」
娘はテーブルに両手をついて、前屈みとなり微笑みをみせる。
―――■■■■。
だが、途端と娘の声は消え、グランの眉間に激痛が走り出すと視界一面は白い光に飲まれるよう染まっていく。
眩い光が視界を奪い、次には黒に塗り潰されていき、全てが染まると徐々に光が戻り始める。
…
…
戻った視界に映るのは、見知らぬ光景であった。
幅のある川が目の前を通り、その先は長短、太細の棟が並ぶ。
その間を通り抜けるように梁が縦横に走り、グランの視界の先には無数の窓が並んでいた。
後ろを振り返ると、整備された川沿いを憩いの場とする人々の姿が目に入る。
だが、人々の服装は余り見ないもので、更には種族が<ヒューネス>ばかりが集っていた。
「…知らない…だが、覚えている?」
先に見た花畑とも違う記憶、グランは混乱するが、視界に映る景色に覚えはある、何故かその実感だけが残る。
だが、これが自身の記憶であるならば、<こんなもの>を思い出している場合ではない。
グランは首を振り、眉間を押さえると頭痛と共に記憶の模索を始める。
娘が告げた言葉、それは彼女にとって大切な言葉か、もしくは何か大事な約束ではないのか。
記憶の断片が少しずつ重ね合わせ、一つの景色として組上げていくが、どれもがノイズ混じりでハッキリとした形が浮かばない。
模索に焦るグランであったが、それらは時間が経つに連れ、黒く塗り潰されるだけとなっていき、ノイズも段々と酷くなっていく。
そして、頭の中を駆け巡る景色の断片は一切無くなり全てが黒く染まっていった。
―――
深い水の底から浮き上がるような感覚に襲われると、グランは目を開く。
「グラン!…グラン!あの子は居たの!?」
ラミーネの声が耳の中を響かせたと思うと、グランの視界にはピアの顔があった。
心配そうな表情を見せる彼女に、グランは目をぱちくりとさせるとラミーネに視線を移す。
腰に手をあて、膨れっ面で彼女は不機嫌さを隠そうとしない。
気が付けば自身は両手に小手を装着しマントも羽織っており、帯剣もされている。
だが、テーブルに置かれた金属グラスとそこから香る乳酒の香りがそれまでを夢で無い事を示していた。
―――農場の世話周りをして来ます。皆さんの都合でここをお発ちください。
グラス下に敷かれた置手紙が目に入り、グランはテーブルに置かれた手紙を手に取るとラミーネに掲げる。
「何言ってるの?だからこうして探しているのでしょう?」
溜息混じりにラミーネは言葉を続け、グランは目を丸くさせる。
彼女は何時の間に居なくなったのか、そもそも自分はあの後どうしていたのか、全く身に覚えが無く、グランは混乱した。
「…おや、皆さん、道中に会わないと思いましたら、まだおりましたか。」
そこに娘の父である帰って来た男性が姿を見せると、彼は驚きの声をあげる。
窓からは陽が差し込み、灯り無しでも部屋の中は明るくなっている時間となっていた。
「昨晩は如何でしたか?」
「…さ、昨晩は大変楽しかったです。の、ですが…」
言葉を濁しながら、グランは置手紙を男性に渡す。
「今朝から姿を見せなくて、何か失礼な事でもと…」
「…しかし、貴方は客人です。招き入れたのはこちら、是非を問うのも筋違いというものです。」
男性は置手紙を手にし、険しい表情を一瞬見せるが、直ぐに柔和な態度で返す。
「娘の為に、このまま、ここを発つのは忍びないですか?」
「…覚えていて貰えてないというのは辛いものですから。せめて、別れの挨拶くらいは…」
そこまで聞くと、男性は顎に手を当てて何かを考える。
「コイツとあのコに昔、何があったの?」
「…彼と娘とどう過ごしたのか、私は詳しくは存じません。」
ラミーネは腕を組み、グランの顔を覗き込みながら尋ねるが、男性は首を振るだけ。
「ですが、あの時、ビルキース様へ娘の相手に貴方を宛がう事を許し勧めたのは私の責任でもあります。余り自分を責めないで下さい。」
男性は穏やかな口調で続けると、グランの肩を軽く叩く。
「…」
ふと、グランの脳裏に一瞬、乳酒の香りがよぎったがそれは一瞬で消え去り、思い出す事は出来なかった。
「さぁ、ソウシロウさんが心配なされております。皆さんはここでお別れといたしましょう。」
男性は玄関の方を手で示すと、一行は後ろ髪を引かれる思いを抱きながらも外へと向かう。
…
男性との別れを済ませついた帰路は露草の香りを漂わせ、冬が遠くなっていくのを感じさせていた。
「…あだっ!?…なんだよ!?」
そんな中、グランはラミーネに<脚先>で蹴り飛ばされる。
「らしくなさすぎよ。私と別れるときだって勝手に姿を消すわ、紙切れ押し付けて足早だったわでいい加減だったくせに。アナタにとって、<いつもの事>でしょ!」
「…そうか、それが俺の<いつも>なのか。」
だが、グランからはいつもの皮肉も嫌味も返ってこない。
「過ぎたるは何とやら。だったら、せめて、前に進みなさいよ!」
その態度に苛立つラミーネはグランの背中を押し、無理矢理にでも歩かせていく。
「…」
グランの背を押すラミーネに掛かる両手は軽い。
進む足取りに対し、自分の手は添えているに過ぎない事がラミーネは腹立たしく、寂しくもあった。