力を魅せるはなし
高校生活最後の夏休みが終わって、第一回目の日曜日。お昼のテレビ番組を見ていた私はいつの間にか靴を履いて玄関を飛び出していた。
下りるか上るか、迷いが生じたところでやっと意識が行動に追いついてきた。
私が住んでいるのは、十五階建てマンションの二階。外に出るのなら当然下に降りた方が早い。しかしそれだと目的の位置もわからず走り回る羽目になるだろう。ならば屋上へ登り、街を見下ろした方が良さそうだ。
エレベーターの三角形のボタンを押す。ほんの数秒で目の前の扉が開いたので、私はその空っぽの箱に乗り込み扉を閉めるボタンと[15]と書かれたボタンを押した。浮遊感に体を包まれながら、さっきテレビで見たことを思い出す。
調子に乗っていた、浮かれていた、こんなことになるなんて想像もできなかった。私がその場に行っても何ができるかわからない。でも原因を作ったのは間違いなく私なのだから私はあの場所へ行かなければならないのだ。
ベルの音と共にエレベーターの扉が開く。このマンションのエレベーターは屋上まで昇れない。その一つ下の階までしかない。エレベーターを降りた私はすぐさま屋上へと続く階段を駆け上がる。最後の一段を蹴ったとき、屋上への扉が全開になっていることに気付いた。先客がいるらしい。しかしそんなことは関係ない。扉をくぐり、フェンスの側まで駆け寄る。
そこで見た光景は私にとって目を覆いたくなるものだった。
街を歩く人々。その大半が鞄を持っていない。そう。それだけなら何も問題はない。問題はその人達が鞄を持ち歩く素振りをしている事だ。数年前に知名度を上げたエアギターならぬエアバッグである。
そのエアバッグが原因の喧騒が今この街のどこかで起きているらしい。
私は首に掛けている双眼鏡を手に取り街を覗き込んだ。
「すごい景色だよな」
隣で男の声が聞こえた。聞き慣れた声だ。私は双眼鏡を覗いていた目を彼の顔に向ける。夏休み前に持っていた彼独特の迫力ある雰囲気は綺麗さっぱり消えていた。
「見つけた」と彼は呟いた。
視力は消えていないらしかった。
一点に目を凝らしている。位置を記憶しどのルートで行くか想像しているのだろう。
再び双眼鏡を覗く。私はまだ見つけられない。
彼の見ている景色と同じ景色を見るために買った双眼鏡。諭吉が何枚も飛んだ。それなのに彼の裸眼は私の双眼鏡の性能を超えてしまった。彼が言うには視力が上がり続けているらしい。
私が「どこ?」と訊いても彼は「危ないから来るな」と言うだけで屋上を下りていってしまった。
追いかける事はすぐに諦めた。ほとんど運動をしない私が男の足に付いていくのは無理だと思ったからだ。
じゃあどうするか、彼を双眼鏡で追跡すればいい。
私は真下を覗いた。彼がマンションから出て来るのを待った。
始まりは高校に入学してすぐのころだったと思う。
授業中暇だったからノートに通学用鞄の落書きをしていたら、ここはこうしてそこはそうしてと次々にアイデアが浮かんできて、オリジナルの鞄が紙の上にひとつ出来上がった。
それからというもの、授業中は鞄の落書きに没頭した。気に入ったものは別のノートに清書した。
六月のある日、私は職員室に呼ばれた。心当たりはあった。いつも授業中に余所事をしているのだから、当然怒られないわけがない。目の前には中年の男性教師、名前を覚えていないので仮にA教師と呼ぼう。
A教師に「毎日毎日、何を書いているんだ」と訊かれたので、私は鞄の描かれたノートを黙って差し出した。もちろん清書の方をだ。
ノートのページをめくるA教師の口は開きっぱなしだった。呆れられているのか感心されているのか。私には、A教師が私のデザインした鞄に見惚れているように感じた。
これで説教は軽くなるか、なくなるものだと私は思っていた。
しかしA教師はノートを頭上に上げると他の教師を呼び出した、おもしろいものがあるぞといった感じに。職員室にいた暇だったらしい教師が集まってくる。A教師はこれ見よがしに私のノートを広げた。感嘆の声が聞こえた。比較的若い女性教師が特に騒いでいた。
その女性教師は本当に騒ぎ過ぎた。私のノートを勝手にどこかの会社へ持っていき、製品化が決まってしまった。
発売前に同い年の有名なモデルさんが紹介してくれたのも大きかっただろう。
半年後には老若男女問わず街を歩く多くの人々が、私の二次元だった鞄を持ち歩いていた。
それが発売されるまでの六か月の間も、私は引き続き鞄のデザインを描き続けた。頭の中のイメージが枯れることもなく、再び半年後には私の鞄が発売された。取材も沢山来たけれど、私は顔だけは映さないでと記者達に頼み、それら記者との取材中も、出来る限り無表情に無愛想で受け答えした。私の印象が悪くなるのは仕方のないことだ。それでもその半年後には私の鞄が飛ぶように売れた。
あっという間に私は高校三年生になっていた。周囲は進路についてざわつき始めたけれど、私は特に不安も何も感じていなかった。授業をしっかり聞いていないので進学の選択肢は最初からないし、就職して働く気もない。母は私に興味がないようだし、父は私が産まれたときからいなかったので相談することもなかった。このまま気ままにデザインを続けていくんだと漠然と思っていた。
事実、イメージの枯れる気配は全くなかった。描いても描いても浮いてくるイメージに追いつかない。
その上最近では鞄に合う服や靴、帽子までもが頭に浮かんでくる。これだけ多くのデザインを今のペースで発表していたら製作側が大変だと思った私は前回、六月に行われた新作発表会で、これまで年二回だった発表を年四回にすると宣言した。次の発表は九月、それも一風変わった物にする、と。
その一風変わった物というのが、鞄に合わせる服などのことだ。私は夏休みが始まるまではひたすら鞄を描いて、夏休みが始まったらそれらの鞄に合う服らを描こう、と計画を立てた。高校生活最後の女の子の夏休みにしては華がなさすぎるな、とひとりで笑った。
夏休みが始まってすぐ、資料を探しに本屋へ行ったときのことだ。偶然会った同じ学校の男子に告白され性交した。強い眼力と、全てを見透かすような瞳、彼の独特な雰囲気に私も一目惚れだった。高校三年生の女の子の夏休みとしてはいささかながら花が芽生えた。
彼との出会いが原因だったんだと思う。
私の頭の中に溢れていたイメージは枯れてしまった。別に、彼のことで頭がいっぱいというわけでもない、むしろ頭の中は何もないすっからかんだ。
ノートが白紙のまま七月が終わってしまう。本当なら今頃ノートが数冊終わっているはずなのに。
描き方がわからない。今までどうやって描いていたのかわからない。彼にも相談した。私の思考が出会って数週間の人にわかるわけがない。私は彼に八つ当たりした。出会わなければよかったと。散々酷い言葉をぶつけた。彼はただ「わるかった」と一言だけ。気付けば初めて会ったとき彼にあった独特の雰囲気が、今は微塵も感じられない。それは私の頭の中からイメージがすっぱり消え去ったときの感覚に似ていた。音量最大のスピーカがぷつりと止まるような、マックスから一瞬でゼロになるような、形容しがたい感覚。もしかしたら彼も私と出会ったことで力を失ってしまったのかもしれない。そう思ったら私も申し訳ない気持ちになって「ごめん」と謝った。
夏休みも半分が過ぎた。対面するノートは相変わらず真っ白。隣に居る彼が何かを思いついたように「あっ」と声を漏らした。どうかしたのかと私が尋ねると「夏休みが終わったら教える」と言って再び考えに耽ってしまった。私もノートに向かう。きっともう私も彼もお互いのことを好きではないんだ。あのとき謝ったけれど仲直りはできていない。それでも一緒にいてくれるのは罪滅ぼしだろうか。自分が支えなくちゃいけない、自分しか支えられない、そんな自己満足だろうか。
八月三十一日。ノートは一ページだけ描けた。目の痛くなるような毒々しいカラフルなシャツ、当然却下だ。
夏休み前に描いた鞄のデザインが十数枚、これだけじゃいつもより全然少ない。それに「一風変わった物にする」と宣言してるのだ。私のデザインを待っている人達をがっかりさせたくない。……いや、がっかりさせてしまおう。私が恨むべきは目の前にいる彼ではない。私の人生を捻じ曲げていった人々だ。人のノートを無断で持ち出した学校の教師、あることないことをぺらぺらと紹介した知らないモデル、勝手に喜んで勝手に期待して私を持ち上げていった皆。
私は一人でノートに落書きしているだけでよかった。いつか彼と出会っていつまでも無邪気に笑って過ごすことができればそれでよかったのだ。私は今の自分がしたいことをしようと決めた。
気持ちがどろどろと崩れていく私に彼が台本を渡してきた。この通りやれば大丈夫だから、とそれを見て二人で話し合った。会社の方にも、今度の新作は全部自分で用意すると伝えた。
新作発表会の日、全て彼の台本通りに行動した。
私が初めて公の前に顔を出すという事で取材記者も沢山来ていた。そのカメラの中に、私は手ぶらで登場した。新製品の発表会なのに新製品を持たずに出てきたことで、当然カメラマン達は戸惑う。
斜め後ろにいるマイクを持ったお姉さんが喋った。
「今回はー、……おしゃれな人にしか見えない鞄です!」
私は鞄を持っている素振りをして、飛び切りの笑顔を作った。
これで冗談で終わらせるつもりだった。周囲は全員大人なのだからエアバッグなんて笑い飛ばすと思っていた。期待していた人達を裏切ってしまうけどこれでもう終わりにしようと二人で決めた。
ところが大人たちはエアバッグを鵜呑みしてしまった。
しかも三日後には商品として売り出してしまった。
それは一気に広まった。材料は空気だから品切れがないのだ。
こんなものが流行るなんて馬鹿みたいだと思った。売り出した方も馬鹿だし、作った私たちも馬鹿だ。
しかしそんな風に皆で馬鹿をするのも、たまにはいいのかもしれない。
そんな間抜けな考えも今日の昼で終わりを告げた。
双眼鏡越しの彼が喧嘩中の二人の間に割って入るのが見えた。この双眼鏡では両者がぼやけてしまって識別することは無理だ。彼が彼であるという証明も、最初から追いかけていなかったら難しかっただろう。
それを裸眼でやってのけるとは。彼の視力はどれだけなのだろうか。どんな世界が視えているのだろうか。
そんな彼は現在、二人を説得していたらしかったけど、その片方に後ろから股間を蹴られ悶絶していた。
魅力のはなし 終




