君の瞳に映る世界
背後からのシャッター音に振り返ると、君が夜空に向けてスマホを構えていた。空も、撮れた写真も、僕の目には何の変哲もない、月夜にしか見えない。変なものが飛んでいたり、面白い形の雲があったりもしない。特筆事項のない、ただの夜空だ。
「いや、今日の月の月齢は本当はどのくらいだったかなと思って」
眼鏡をかけ直した君が、そう言って苦笑いする。改めて月を見る。まんまるには少し足りない、けれど半月よりは膨らんでいる、十三夜というやつだろうか。
「別に、わざわざ写真を撮らなくたって見えるだろ」
「写真に写る世界と、僕に見える世界は同一ではないよ」
君の目に映る世界と、僕の目に映る世界は違う、らしい。君にどう見えているのかは、僕にはわからないのだけれど。
「眼鏡をしてても?」
「眼鏡をしてても。…というか、君だって写真を撮ろうとしてなんか違う、ってなったことはあるだろう」
「ないとは言わないけど」
ピントの合い方とか、倍率とか。自分の見たものをそのままに切り取ることは、意外とできない。僕が扱いが下手なだけかもしれないけれど。
君はよく、スマホで写真を撮っている。それも、特に何の変哲もない、道端の花とか、路地裏の猫とか、郵便ポストとか、木に留まった鳥だとか、殊更人の目を引かないものを撮っている事の方が多い。時には、僕から見れば何を撮ろうと思ったのかさっぱりわからないものもある。感性の違いと言われたらそこまでなのだけど。
君の目に映る世界と、写真に映った世界が違うというのなら、もしかしたら、君が撮りたいものは写真に写っているものではないのかもしれない。或いは、己の視界とは異なる世界を疑似的に見ようとしているのか。
「君は、自分の世界が嫌いだったりする?」
「まあ、この視界は不便だからね。好きでは、ないかな」
君はそう言って苦笑する。
「けど、どう思ったって変えられるものでもないし、付きあっていくしかないんだよね」
僕には君と同じものが見えない。だから、君が本当はどう感じているのか、想像することもできない。君の視界がどうなっているのかがわからない。だから、その是非が判らない。それが、何となく悔しくなった。同じ視界を持ちたい、なんて思ってはいけないのだけれど。
「眼鏡じゃ解決しないんだ?」
「眼鏡じゃ解決しないよ。外せば関係ないし、結局はピントの合い方が違うだけだ」
不可逆の変質というものもあるのだと君は言う。それは僕にもわかっている。あちら側にいけばもうこちら側には戻れない。だから、望んではいけない。好奇心だけでそんなことを思ってはいけない。
君と同じものが見たい、なんて。
「僕に世界がどう見えるのかなんて、知ろうとしなくていいよ。君の目に映る世界が正常で、僕の目に映る世界は異常なだけなんだから」
僕は、君のその言葉に頷くわけにはいかないと思った。君から言い出したことでも、肯定してはいけない言葉だと思った。
「歪んでいるだけだとしても、それでも僕は」
「同情なら必要ない」
「同情なんかじゃない」
そう、これは同情なんかじゃない。同情であるはずがない。だって僕は、君の視界が人と違うことを悪いことだとは思っていない。君がそれを厭っていたとしても。
「特筆すべき事のないような景色が、そうでなくなる世界なら、僕は羨ましいと思う」
「君は、本当はどんな風に見えているか判らないからそんな事を言うんだ」
そうなのかもしれない。僕は、君にこの世界がどう映っているのかがわからない。わからないから、安易にそう思うのかもしれない。
「だけど、写真を撮っている君は、いつも楽しそうに見える」
カメラはもう一つの目のようなものだ。君の世界は写真には映らないのだとしても、それでも、ある意味で君の見る世界には違いない。君と僕以外には見る意味さえない、平々凡々な写真でも、それを撮る君は、楽しそうに見えたから。
「それは、君の世界がそうだからだろう?」
「…本当、ああいえばこういう…」
君はそう言って、苦笑のような表情を浮かべた。