2-1 宮廷道化師のオリエンテーション
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姫様の言う空き部屋とは城に併設されている使用人宿舎の空き部屋のことで、広さは二畳ほど、ベッドと机と椅子が完備されている。
俺には下ろす荷物すらなかったので、その場でオリエンテーションが行われることになった。姫様は椅子に座り、俺はベッドに座った。
「じゃあ、簡単に仕事の説明をするけれど、」
「……ちょっと待った。あんたが直接するのか? さっきまで一緒についてきた人は俺の上司じゃないのか?」
それこそ仕事の説明なら、俺に懐疑的だったあの面子が俺の先輩になるのだろうから、彼らにさせればいい話だ。もっとも、かなり慇懃無礼にやっちまったから、その印象を拭い去らない限りは相当つらいことになりそうだが。
「彼はここの管理者の一人だったと思うけれど。後で挨拶しておくといいわ。あなたにさせたい仕事はここでは先達がいないし、私が勝手に決めたことだから、今のところは私が説明するしかないのよ。誰かに任せてまた妙なことになるのも困るし……」
確かにこの人はよっぽどのことがなけりゃあぶん殴ったりはしないだろう。それか、殴りたくなるようなことがあればその前に俺を放り出す。
「すると、従者の仲間入りって俺の推理は、ハズレか」
「まあ、半々ってところね」
「……というと?」
この国の公務員というよりは、彼女の手元に置かれることになると思うんだが、俺の思いもよらぬ、つまり、俺のいた世界では存在しない仕事の可能性も大いにあることを考えると、当てようなんてのがそもそもの間違いだったかもしれない。
何せ、魔法絡みだ。
「ねえ、フブキ」
一瞬、ドキリとした。考えてみれば、こちらに来てから初めて名前を呼ばれたことになるわけだ。自分の名前なのに、なんだか懐かしい感じがする。
「あなた、小話はできるかしら? 一つや二つでいいのだけれど」
「小話? んん……自信はないけど、そのへんの奴よりはまあ、知ってる方か……な?」
「そう、よかった。それじゃあ、あなたのいた世界にも、道化師はいたかしら?」
妙なことになってきたぞと思いながら、俺はゆっくり頷いた。
道化師――改めてその語句を頭に思い浮かべてみると、いくつかの姿を持っていることに気付く。サーカスのクラウン、路上のピエロ。おどけ役の大道芸人。だが、この状況から一番強くイメージできたのは、トランプのジョーカー――宮廷道化師。
これは前二つとは少し毛色が違う。宮廷道化師は、特に主人やその周囲の人々を笑わせる者という意味を持つ。高貴な人物の従者には違いないが、多くの場合お雇いや奉公とは違って、持ち物であると見られる。
だが、それは俺の生きていた時代からすれば遠い昔の職業であり、そもそも外国の文化で根付いていたものだ。当然馴染みはない。
「それを俺にやれと?」
彼女は頷いた。
「私を楽しく笑わせるのが、あなたのこれからの仕事よ」
「……馬鹿言うな、そんな難しそうなこと仕事にされちゃたまらんよ。昨日のは例外だろう」
「そうね。実際には私よりも家族や客を面白がらせることになるでしょうし、もちろんそれもただの建前。あなたの本当の仕事は、動きやすい立場を築くこと」
「それが、道化師?」
彼女は再び頷く。
「残念だけれど、私もそこまで好き勝手振る舞えるというわけではないの。いきなりあなたを飼うことはできても、いきなりあなたに口出しさせることはできない。わかるかしら?」
「ああ、よくわかる」
「だから、徐々に慣らしていこうと思っているのよ。あなたが何者なのかということを誰もが認識しないうちは、実のある話はできないだろうから」
「それで、道化師?」
やはり、彼女は頷く。
「何を言い出すかと思えば……でも、納得はできる話だ」
この世界における宮廷道化師と、俺の知る宮廷道化師のイメージが同一に近いものならば、これはそう悪い話ではない。いや、むしろ近道ですらあるかもしれない。
かつて、イメージばかりが華やかなりし頃の中世ヨーロッパでは、腕のいい宮廷道化師が期待されたのは主に喋りであったという。多少無礼な事を言ってもなんとかなる(かもしれない)というその特殊な立ち位置は、背景真っ白な今の俺にとって、おあつらえ向きの擬態となりうる。
「いきなり軍隊にブチ込まれるよりは性に合ってるかもな。しかしそーなると小話の一つや二つじゃ全然足らない」
結局のところ、その小話もただのとっかかりで、即興と当意即妙が求められることになるだろう。まだ具体的なイメージはあまりわかないが、人気商売だろうから、事によっちゃあ歌って踊れる必要だって出てくるかもしれない。
「明日からすぐ始めるというわけではないのよ。まだこちらでも色々と準備が要るわ」
「そうか。まあ、なんとかするさ。できなきゃオワリだしな」
「そうね。……とりあえず、そういう口の利き方は、人の目がある場所では慎んでもらうわよ。理由は言わなくてもわかるわね?」
「ん……そうだな。……そうですね」
当人がどうでもよく思っていても、周りが気にする。
口調一つで殴られなくなるなら、それに越したことはない。
「人前では、あなたのことはどう呼べばよろしいでしょうか?」
「そうね――あなた、と呼ばれるよりは、姫様、や殿下、ゼニア様、が妥当でしょうね」
「では、そのようにいたしましょう、姫様。――そういえば」
「何かしら」
「魔法の話をまだしておりませんでした」
「ああ――」
昨日うやむやにしてそのままだ。
そして、こうなった今、もう悩む理由は何もない。
「あなたの勢いにびっくりしちゃって、頭から抜け落ちてたわ」
絶対にそんなことはないと思うが、本人がそう言うのなら仕方がない。
「それで、あなたは一体どんな魔法を使って、エルフから逃げおおせたの?」
「――風……」
この世界へやってきてから、普通なら百回は死んだと思う。
だがこうやって今生きていられるのは、ひとえに魔法のおかげと言うべきか、魔法のせいと言うべきか……。
風だ。全て風のせい。全て風で説明できる……はずだ。
「それは、どのような風?」
「……あまり記憶がはっきりしていないので、もしかすると私の言ったことと事実に齟齬があるかもしれません。それでもよろしければ、説明いたしますが」
「構わないわ。思い出せる分だけでいいから、話してみなさい」
いや、本当は――その時の意識は朦朧としていたので現実感は薄いけれど――ほとんど憶えている。
だが、信じてもらえるかどうかは、また別の問題だ。だから予め断りを入れた。
「――川に落ちる前までは、結構、上手くいっていたようです。そこは森になっていて、エルフ達には地の利があったと思うのですが、飛んでくる矢は……私には当たりませんでした。一本も。風のせいです」
「風が、あなたを守っていた?」
「そうだと思います。こう……矢が飛んできた時に限って……風が、それを押しのけるように逸らしてしまう。だから、逃げることができたのではないかと……」
「でも、それだけならば、エルフはあなたに追いついて斬るなり殴るなりすればよかったことになるわ。仮に、森の中でそれが難しかった、と考えてみても、ずっとその状態だったわけではないでしょう? その前は? メイヘム――あなたがいたであろう街から、その森林地帯へ入るまで、決して少なくはない距離があったはず。エルフ達は馬でも何でも使ってあなたを捕まえることができた……違うかしら?」
「ええ、仰る通り。ですが……そう、またしても風が私に味方をしていました。……追い風ですよ。この言葉も的確ではないかもしれませんが、とにかく、風が私の背中を押し、手足を動かすのを助けました。――馬よりも速く」
「……なるほど、ね。だんだん見えてきたわ。けれど、まだ腑に落ちないことがあるわね」
「……そうですね」
「そもそも、どうして逃げるに至ることができたのか――あなたの言うところの手違いとは何? それが不思議ね。あなたが最初からそれほどの魔法を使えたならば、そう苦労はしなかったと思うけれど、きっと、そうではないのね」
「……召喚された時、私には魔法が使えませんでした。私を喚んだエルフ達はいくらか期待をしていたようですが、召喚される前と同じく、何の力も持たないままだったのです。強いて言えば、苦しむ姿を見せることで観客を楽しませる、という力を持っていたのかもしれませんが、それも意識的なものではありませんでした。私が魔法を手に入れたのは、逃げようとする直前――いや、魔法が手に入ったからこそ、逃げるという発想が生まれたのでしょう。その日は、まあ大体いつも通りだったと記憶しています。あ、いや、待てよ――私をのたうち回らせるために用意されたという点では同じですが、魔法が使える相手と試合を組まれたのはそれが初めてでした。――もしかすると、そのせいだったのかもしれません。彼は風の魔法を使いました。突風が吹いて、私はアリーナの壁に強くぶつかって、それで、それで――」
「それで?」
「……笑わないで下さいよ?」
「内容によるわ」
自分で話していて、実に嘘くさい気がする。特にこの先がひどい。
「――何かが繋がったような気がしました。はっきり言えるのはそのくらいで、あとは自分でもわけがわからないうちに魔法を使っていました。兵士が何人か私を殺すためにやってきたような気がしましたが、彼らの槍は私を貫くことができませんでした。風です。空気だったかもしれません。――必死だったのでしょう、私は後先など考えずに、とりあえず全て出し切ってしまおうと考えました。その結果だと思います――竜巻が生まれました」
そこで、姫様は目を細めた。疑っているのかもしれない。疑って然るべきだろう。
「竜巻は闘技場を破壊しました。だから私は外へ出ることができた。私は走りました、そうしなければ戻されるとわかっていたから。それは嫌だった。何としても逃げおおせねばならないと思った! 街の中は混乱していました。抜けるのは簡単でした。その後が問題だと、私にはわかっていました。予想通り、エルフの追手が背後に迫っていました、きっと熟練の弓騎兵だと私は思いました。彼らの放つ矢の一本でも命中すれば、一歩も動けなくなるだろうと思いました。死よりもおそろしい苦しみが待ち構えているとわかると、私の風はより強く吹き始めました――私は、馬よりも早くなっていた。そして、矢は私から勝手に逸れていく。間もなくして森が見えてきました。私は追手を振り切るために、そこへ入ることを決意しました。しかし、そこではまた別のエルフ達が待ち構えていました。私の心を絶望が襲いました。自分の風が無限に続くものではないということがわかっていたからです。矢はいつまでも逸れてくれるものではないということがわかっていたからです。そして、森は唐突に終わりました。私の目の前には崖が、谷が広がっていました。底には川が流れています。もしかすると私はそこを飛び越えることができたのかもしれません。しかし、その時にはもう、風が頼りにならないのはわかっていました。私は追い詰められました。急に雨まで降ってきました。エルフ達の気配がすぐ後ろにあるのがわかりました。私は振り返らずにはいられませんでした――しかし、その前に、矢じりが私の顔を裂きました。私は驚いて足を踏み外しました。残りの風で出来ることといったら、水に落ちる前にほんの少し衝撃を和らげることだけ……。私は川を流れていきました。どうやって沈まずに済んだのかは、全くわかりません。ただ、はっきり言えるのは、結局私は下流まで辿り着き――その後のことは、貴女様の方が詳しかろうということです」
今や俺は立ち上がっていた。部屋の中を落ち着きなくうろつき、身振り手振りを交えて話した結果だった。そうでもしなければ堪らなかった。
姫様は、しかし、黙って椅子の上で身動きもせず俺を眺め続けた。
「――小話は、このように語って聞かせればよろしいでしょうか?」
仕方なく、俺はそう誤魔化した。だが姫様はきっと見透かしているだろう。
「そうね、中々聞かせるわ。それで――少なくとも、あなたは全て本当のことを話したつもりなのね?」
「誓って」
本当だ。少なくとも、俺の記憶の中では本当だ。
「……じゃあ、今から竜巻を再現できる?」
「――できません」
それは、試す前からわかっていることだった。理由は簡単で、できる気がしないからだ。
俺は再びベッドに腰掛けた。
「使えなくなったわけではないと思います。ですが、おそらく、あの時ほど強力なものは、今の私には使うことができないでしょう。試しに――」
俺は手を振って、そよ風を部屋の中に吹かせた。姫様の長い髪が微かになびく。
「これが問題なのです。私はおそれています。私には、その……風の魔法というのは、実にありふれていて、取るに足らないものだという印象があります。前の世界の影響ですが、それはこの世界でも同じことなのではないか――と、その考えを拭い去ることができない。だから、つまり、貴女様の役に立とうと思っても、単純に能力の問題がそれを阻むのではないか、それが何よりもおそろしい。あの竜巻は、そう、最初限りの特典のようなもので、そよ風が私の真の姿にすぎないとしたら、私の小話もここで終わり、ということになってしまうのです。貴女様は私に魔法を見た……だから連れてきた。しかしその前提が崩れているとしたら、私は既に御役御免というわけなのです――違いますか?」
こんなことを言ったところで、もう後には引けない。それはわかってる。でも、俺としてはこの点は何としてもはっきりさせておきたかった。自分に能があるのかないのか、それがわかっているだけで、立ち回り方も変わってくるというものだ。
「あなたの言う通り、風の魔法を使う者は、この世界ではありふれているわ。魔法使いの数自体が少ないけれどね」
姫様は、しかし、明言はしなかった。できないのではないかと、俺には思えた。
「あなたが魔法のことをどう捉えているのか、私にはよくわからないけれど、魔法というものはそんなに単純ではないわ。どんな場合であれ、一概に決めつけることはできない。複雑で、それでいて理屈だけのものではないから。……まあ、そのことについては、おいおいね。焦る気持ちはわからないでもないけれど、時間をかけなければわからないこともあるわ。とにかく、あなたが本当の魔法使いであることはわかりました。今はとりあえず、それをよしとしましょう」
「……はい」
姫様がそう言うんならそうなんだろう。結果が早く知りたいという気持ちに変わりはないが、仕方ない。俺が何をのたまおうが、彼女の方がこの世界ではものを知ってる。魔法については、専門家の言うことに従うのが吉。
「さて、話を戻すけれど、あなたをお披露目するためのお膳立ては私がするわ。さっきも言ったように、これには少し時間がかかる。その間、あなたは暇ね?」
俺は頷いた。
「色々とやりたいこともあるでしょう。けれど、あなたは新参。勝手がわからないし、私がつきっきりであれこれ教えるわけにもいかない。わかるわね?」
「ええ、とてもよくわかります」
いくらペット扱いといっても、一国の姫が下男以下の存在に四六時中べったりとなれば、そいつは誰の目から見ても問題となりうる。
「ある程度は私からあちこちへ都合をつけておくけれど、全部とはいかない。だから、後で札をここへ届けさせるわ」
「札?」
「私の持ち物であることがわかる札よ。見やすいように、首から下げておくといいわね」
「……なるほど」
一目見て姫君に関係のある誰かだということがわかれば、疎ましくは思われても邪険には扱われまい。
「少しは効き目があるはずだから、皆があなたのことを知るまでは、それで凌いで頂戴」
「わかりました」
不安がないわけではないが、涙が出そうなほどありがたい待遇だ。
「時々様子を見に来るわ。――こんなところかしらね。細かいところはその都度詰めていきましょう。何か質問は?」
何でもいいから何か質問をしなければ、という気になってしまうのは前の世界での刷り込みのせいだ。きっと、こういうことはこれから先どこまでも決して消えずに追いかけてくるだろう。
だが、いつまでも足を取られているわけにはいかない。
大事なのは、どうやって付き合っていくかだ。俺はそうならなければならない。
姫様が言うように、俺が生まれ変わったのは虚偽だ。大ウソ。だが、あんな芝居まで打って彼女は俺を沼から引き上げようとしてくれた。それが打算であろうが何であろうが、彼女は俺の治療を試みた。それが大事なことだ。
俺はこれから快方に向かわなければならない。そうならなければ、今度こそ本当に俺は駄目なものになってしまう。それは許されないことだ。
俺は正直に言った。
「……うーん、……今はありません。というより、何を質問したらいいのかも、私にはわからないのです。でもきっと、これから山ほど質問したいことが出てくると思います。その時は、貴女様が答えて下さいますか?」
彼女は頷いた。
「そうね、出てきたらでいいわ。答える時間もそのうち作る。さてと――」
椅子から立ち上がると、姫様は悪戯っぽい笑みを作った。
「昔の人は言ったわ、蝶の羽ばたきが竜巻を起こしうることもあると。それならば、どうしてそよ風がそれ以上のものを作り出せないと言い切れるかしら?」
エドワード・ローレンツの提言、バタフライ効果。因果のメタファー。カオスの予測困難を示す寓意。同じことを考えた奴が、この世界にもいるのだ。
姫様は励まそうとして俺にこれを言ったのだろうか。彼女にとって魔法の強弱は重要ではないと? 魔法の使い方、そしてそれによって得られる結果こそが重要なのだと?
早速、質問しなくちゃならなくなった。
しかし、言葉の意味するところを問う前に、彼女は部屋から消え去っていた。