1-8 女は死を与え給ふ
そこまで話して反応を待つと、彼女は首を傾げた。
「……説明が足りないように聞こえるわ。あなたはもちろんエルフには見えないけれど、かといって、あなたのような雰囲気のヒューマンを私は見たことがない――ヒューマンの持つ生存圏、そのほとんどを訪れたはずの、私がね。あなたは、どこかずっと遠くからやって来たんだわ。エルフ達がどうやってあなたを一時的にでも手に入れることができたのか……私は、それを知りたいの」
俺に近い民族がいるかもしれないという可能性は、ここで潰えたと考えていいだろう。少なくとも、彼女の知る範囲では。俺のような面をした奴は、この世界ではありふれていないのだ。それは、かなり大きな問題ではないだろうか。
「あなたは一体何者なのか――答えられる?」
「もちろん答えます。約束ですから。でも、それを信じるかどうかは、あなた次第です」
「そうね。聞かせて頂戴」
とはいっても、召喚されるということがこの世界においてどれほどの意味を持つのか、まだ俺にはよくわかっていない。当たり前に普及している技術なのかもしれないという可能性はある。彼女が言うように、俺のような存在が喚ばれたのは珍しいというだけで――。
「私は――多分、別の世界から来ました。こことは違う、遠いどこかの、小さな――本当に小さな、島国から来ました」
これといって、彼女は強く反応しなかった。代わりに、こう言った。
「それは、どうやって?」
「……魔法です。エルフの魔法」
俺は、彼女の表面に動揺が走ったのを見逃さなかった。
「召喚魔法家と――彼は、そう呼ばれていました」
それは、俺が彼女と遭遇してから初めての、大きな感情の目撃だった。
「復興していたの……?」
高度に冷静な印象を持たせていた彼女の無表情を打ち破るというのは、それは、この国の他の人々はもっと驚くような出来事ということではないだろうか。
案外ヤバいルートを踏んで来てしまったのかもしれなかった。
彼女はすぐに元の雰囲気を纏って、続けた。
「信じ難い話ね」
「そう……そこなんです。今、私はこういう突拍子もない話しか持っていません。だから、あなたにどう話せば自分を信じてもらえるか、ちょっと考えています」
自分の背景情報が無いというのは本当に厄介だ。どうすれば喋っていることに説得力を持たせられるのか、中身があると思ってもらえるのか。
俺には何もない。前から何もなかったが、今はそれに輪をかけて何もない。
住むところも、家族も、友達も、仕事も、学歴も、戸籍も、ない。何もない。
二十二歳の男という、ただそれだけの存在。それが俺。
だが、
「……いえ、あなたのことはもう信用しているのよ。ただ、私が最初に考えていたよりも複雑な事態だったようだから、それに驚いているだけ」
と、今はもう全く驚いていないような表情で彼女は言った。
――どういうことだ。
俺のことはもう信用している? 今までに彼女をそう思わせる要素が何かあったか?
復興、という言葉から察するに、知識人にとっては、俺のような漂流者は、遭遇したことはなくても想像できうる存在なのかもしれない。
しかし、だからといって、俺がそうであると証明する手段は、今はまだないだろう。面構えがこの世界のヒューマンと比べてえらく違うにしても、それは決め手にはならない。
「どうしてですか? どうして、あなたには私のことが信用できるのでしょうか?」
「少なくとも私の前では、もうそういうふうに笑顔を貼りつける必要はないわ」
笑顔は絶やさない。
「――どうしてそんなことがわかる」
「目利きではあるつもりよ。何のために彼らをこの部屋から追い出したと思っているの? もう無理にそんなことをするのはやめなさい」
俺は言われた通りに、笑うのをやめた。
「……わかんねえな。俺はエルフの密偵かもしれないだろう。腕を怪我していても、極度に衰弱していたとしても、烙印が押されていたとしてもだ。それらは全てあんたを騙すための演出かもしれない。そこまでやるか、って思われるようなことをやればやるほど、騙せるもんなんだからな」
エルフとヒューマンは何らかの対立を起こしている。そうじゃなければ、逃亡奴隷の一匹くらい、下っ端にでも頼んで届けさせるはずだ。俺が情報を欲しがっているように、彼女達もまた、情報を欲しがっている。だから俺を連れてきた。
「言っていることだって、全部デタラメかもしれない。異世界から召喚された闘技奴隷が、隣の国まで逃げてきた? 陳腐だが、まあ手の込んだカバー・ストーリーだ。あんたのように注意深そうな人間には、逆に荒唐無稽な話をぶつけてやるってのは道理さ。そういうふうにあんたのことを知っている奴らがいてだな、そいつらにとってはあんたの動きが全て筒抜けで、俺を押し付ける機会を待っていただけかもしれないだろうが、御姫さんよ。そして、俺が敢えてこういうことに触れれば触れるほど、あんたは俺がスパイである可能性を頭から除外するようになる。違うか?」
都合のいいことほど、疑ってかからないといけないはずなんだ。俺はもうそうしないと精神の安定を保てなくなっちまった。そうなれば嬉しいと思えることは、必ず逃げていく。ずっと昔からそうだ。希望を持つと必ず裏切られる。
いつしか、最初から期待しないようになっていった。そして、そんなクソみたいなことばかりの世界で、俺はきちんと生きていけなかった。
俺を信用する? どうして簡単にそんなことができるんだ。
俺はもう既に信用されなかった人間だぞ。
社会の隙間で見逃されていただけで、社会に認められなかった人間だ。
何故、この女は俺を救おうとしているのか?
俺のような人間は救われるべきではない。
身に余る幸福が、いい結果をもたらすと思うか?
たかだか三ヶ月ぽっちだ。
体のどこも失わなかった程度の苦境を経て美女に救われるなんて、都合のいい話が、成り立つんならそんなのは嘘だ。なのに、
「あなたには陰があるわ。誰からも理解されず、触れてほしくもない陰が。なけなしの分相応なプライドさえも踏みにじられてできた、空虚な穴。ひどく打ちのめされて元に戻らなくなった、がらんどうの穴。あなたはその中に吸い込まれんとするだけで精一杯……」
この女は、既に俺を見透かしている。
「あなたの空洞を埋める者がいるとしたら、一時でもあなたをあのようなひどい状態で放っておくことができるかしら? どういう理由かは、あまり関係がない――もう少しでもマシなやり方ができない相手と組んでいるのなら、どのみち賢明とは言えないわね」
そして、彼女は笑顔を作った。きれいな、お手本のような笑顔だったが、その下にあるものまでは、俺にはわからない。単に安心させようとしてのことなのか、それとも、こうすれば俺が安心するだろうと考えて、必要だからそうしたのか。
「それに――もしエルフ達が私を掴んでいたとしたら、スパイを送り込むのではなく、単に私を殺すのではないかしら。回りくどい方法を用意したり、裏をかく必要なんてない。その程度のことも把握していないあなたは、やはりスパイではないのよ」
「……それも魔法かい」
「それも、とは?」
「さっきからわかったように言ってくれるけど、それも魔法のおかげなのかなって話さ」
元に戻すという、それだけが彼女の才能と決まったわけじゃない。例えば、さっき見せた魔力の光を通して俺の心の中を読んだ、という可能性だってあるだろう。
「まさか。それができるのにわざわざこうして質問するほど、私は暇じゃないわ」
「……そりゃそうか」
「読心の魔法自体は存在するけれどね」
「……――」
変な顔をしたかもしれない。
「ほら、やっぱり私には、あなたは何も知らないように見える。異界からの漂流者――いいでしょう、確かに驚くべきことだけれど、まったくありえない話というほどでもないわ。召喚魔法の復興、そしてあなたがその結果。信じましょう。私はそれを信じます」
「……なあ、あんた俺の話聞いてたのか? 簡単に信用するなっつってんだよ」
びっくりするほど少ない理由で俺を信用してくれる他人なんて、もう現れないと思っていた。俺はまだ志望動機も自己PRも、趣味だって話していない。客観的に見て俺を信用する材料は絶望的なまでに足りないはずなんだ。
この女には、何が見えている?
この女は、俺の救い主なのか?
だとしたら……いや、何度だって疑ってやるぞ、こんなうまい話があっていいはずがないんだ。そうじゃないか。これから何もかもが上向きになるとしたら、俺の今まではどうなる。今までの俺って、何だったんだ?
「これでも、色々と考えているつもりなのよ。拍子抜けしたかしら。けれど、あなたはもう既に持たざる者ではなくなっている……そのことだけはきちんと自覚しておくべきね」
だから、言い訳はやめろ――と、そう言われた気がした。
「魔法か」
「やはり、使えるのね。あなたには私の魔力が見えている」
「まだちょっと実感がわかない、が、イエス……ってことになるんだろう。そうでないと説明のつかないことが多すぎる」
「そう――エルフ達から逃げようとした時……必ず魔法の助けが必要だったはずよ。あなたには何ができるのか、秘密にしておくのはもったいないと思わない?」
実際、魔法が手に入って、俺はどの程度デキる奴になったのか?
この世界における魔法のアドバンテージとは何か。この世界では魔法の行使者がどのくらいの数いて、平均だとどのくらいの効力で、つまり――魔法が使えると何者になれるのか? それが俺にはまだわからない。
質問には答えたい。いや、答えなければならない。そういう約束だ。だが魔法を話してしまうことは、なけなしの手札、最後の一枚を切ってしまうことになる。
切るべき時に切ってこそ切り札だ。それはわかっている。問題は、俺の鈍い判断力がそれを今だと、どうしても決め切れないところにある。
一国の姫だ、この人についていけば大きなリターンが見込める――ベットするだけの価値はある。それは疑いようもない。だが、だがそれでも、賭けは賭けだ。
俺は賭け事は好きだ。でも、本当に大きく賭けたことはない。アマチュアの賭博者だ。
そう、確かに言われた通り、俺はもう持たざる者ではなくなっている。誰かを殺すことができたのは、持っていることの証明だ。
それで今度は、また失うことがおそろしくなっている。
俺は金が賭けられていない勝負であっても、デリケートな局面で手が震えだすことがある。今は命がかかっている。震えるどころの話じゃない。
「……あんたには感謝している。でも――今、俺にとって魔法は、ただ一つだけ残った財産だ。わかるか? 俺はどうしようもねえ小物だ。何もかもをあんたに話すと約束しておきながら、大した価値もなさそうな情報一つ、話す決心がついてない。俺は自分の魔法が強いのか弱いのかもわかっていない。この最後の手札がどういう色をしているか、何が描いてあるのかわからない、それだけで躊躇っている。とっくに勝負へ出なきゃならないって時にだ!」
確かに、俺はどうしようもない状況が変わるのを望んだ。それが叶わなかったために自分を死へと追い込むことまでした。結局はそれも叶わなかった。逃げた先にも苦しみがあるだけだった。そして俺はそこからもさらに逃げてきた。
その途中でポロッと手に入った能力――何の努力もせず、策も弄さず、対価も払わず手に入れたものを、まるっと信ずることができるか……。
してもいい、のだろう。本当は。
世の中のあらゆることに必ず裏表があるという決まりはない。裏を取ろうといくら頑張ってみたところで、裏付けそのものが初めから存在しないのなら、それは徒労だ。
大した理由などないのかもしれない。
俺の手に入れた魔法が、例えこの世を滅ぼせるほどの力だったとしても、何者をも言いなりにできるような力だったとしても、それに由来も何もなく、それにルーツも何もない。
だから、頭を空っぽにして、そういうものだからと受け入れる。
そう、俺は幸運な男なのだから、それで当たり前だと――今までがおかしかったのだと、そう考える。そういうやり方はある。
そして、多分それが真に賢い者の行いだ。
――そんなのは悲しい。そんなのは虚しい。
「俺は理由が欲しいんだ。力が手に入るなら理由が欲しい、買ってくれるなら理由が欲しい、理由だ、理由、理由! 理由が欲しいんだ! 俺が救われるための理由が、建前が、虚偽が、欺瞞が、こじつけでもいい、理由が欲しい! あんたにそれを示すことができるのか? あんたが俺の救い主であることを証明できないのなら、俺はあんたにも、誰にも救って欲しくなどないんだ!」
悪い奴がいるから世の中は悪くなる、良い奴がいるから世の中は良くなる、そうであって欲しいじゃないか?
クソ野郎がいるから俺が割を食っている。そうじゃなきゃやってられない。
ただの一人も、そんな奴がいないとしてもだ。
誰のせいでもないとしたら、自分を壊すしかなくなるのだから。
「俺は死のうとした……自分のせいでだ。怠惰で、愚かな、その結果が俺を殺そうとした。――死ねなかった。ここへ召喚されたからだ。最初は苦しみから逃れられるかと思った。何もかも一度リセットされてしまうなら、それもいいかって思った。そんな虫のいい話、あるわけないってのになあ! まったくあいつらはひでえことをしやがったよ。弱ってる奴をもっと弱らせるにはどうしたらいいか、よーくわかってやがる。俺にはもう何もわからねえんだよ、御姫様。どっか壊れたのか、それすらもわかんねえ。言われる前に言ってやるが俺はクズだ。魔法があるかないかなんて関係ねえ。クズにならない道もあったはずなのに踏み外した本物のクズだ。そんなクズを拾って役に立つまで待てる辛抱強さがあんたにあるのか?」
話さなくてもいいことを話している。話してはいけないことを話している。
女は発狂しかけている俺の熱弁を黙って聞いている。その目には、軽蔑も、憐憫も、嫌悪も宿っていないように見える。
ところで、俺は何を言っているんだ。俺は救われたいんじゃなかったのか?
どうして自分がいかに死んだ方がいいのか、自分を選んではいけないのか、自分が許されてはいけないのか説明しているんだ? 何もかもが上手くいくとはいかないまでも、自分が生きていていいという、ささやかでも確かな実感が欲しかったんじゃないのか?
「あっちもこっちもクソ塗れだ。生きていくのが辛いのは当たり前だって言う奴もいる、でもそれなら、生きている方がおかしいじゃねえか。そんなことが当たり前の世界でどうやって生きていけばいい? 希望が持てないのに生きていくことなんてできねえよ。そんな状態で現実にしがみつく理由ってなんだ? 生きたいっていう本能が負けるような世界で、どうして、どうやって――」
溺れそうだ。
でも、俺は誰にもこんなことを言ったことがなかった。
どうして、親しくもないこの女に向かって、必死でこんなことを喋り続けているのだろうか。
何がそれをさせているのだろうか。
「残念だけれど」
と彼女は言った。
それでいい、と俺は思った。
「私も生きていくのが辛いのは当たり前だと考える一人よ」
それでいい。バッサリと斬って捨ててしまうべきなんだ、クズのたわごとは。
俺を見なかったことにしてくれ。
俺の言っていることが否定されなければ、それこそ世は末ってもんじゃないか。
「――でも、あなたに理由がないのなら、私が与えます」
なのに、
「だから、私があなたを信用しているように、あなたにも私を信用して欲しいのよ」
この女は、まだ、俺を、
「あんたはわかってない。……あんたは、自分ですごく難しいお願いをしてるってことがわかってない。それとも、そういう命令なのか?」
「いいえ、ただのお願いよ。――実を言うと、私にもあまり余裕がないの。正確には私達……大袈裟に言ってしまえば、ヒューマン全体ということだけれど」
女は――ゼニアは、椅子から立ち上がると腰の剣を流れるように抜いた。
「あなた、一度死になさい。虚偽でいいなら、私が殺してあげましょう」
「……な」
にを、と言う前に、剣が走った。こちらに来てからそこそこ斬られたと思うが、ブッちぎりで洗練された動きだった。今のところは文句なしの一番――机ごと俺を斬ったのだから、格が違うって気にさせてくれるじゃないか。
椅子から崩れ落ちて、血溜まりが視界にあるものをゆっくりと染め上げていく。俺はゼニアを見上げた。痛みと不自由さは確かに存在しているが、それらは遠く彼方から鈍く干渉してくるに過ぎなかった。
ゼニアは笑っていた。
それは彼女の本心の発露だった。見ればわかる。百人が見れば百人が理解する、貼りついていない、内から滲み出た笑み。死にゆく俺を見守る、慈母の如き凄惨な笑み。
意識が消える前に気付く。
あれは俺の来世での振る舞い方を実践して見せているだけのことだ、と。
彼女はいつの間にか椅子に元通り座って、俺が起き上がるのを待っている。
ついでに机も元通りで、床も元通りで、俺の着ていた物も元通りで、俺自身も元通り。
でも、夢じゃない。
あれは絶対に、夢なんかじゃない。
彼女もまた、元通りの読めない表情になっている。俺が意識を取り戻したのを確認すると、立ち上がって部屋の扉に手をかけた。
「一晩だけあげる。私の下で不自由に暮らすか、解放されて自由の身になるか、選びなさい。この世界で生きていく方法を見つけるもよし、元の世界に帰る方法を探すもよし……明日の朝に、答えを聞くわ」
そう言うと扉を開け放ち、部屋から出ていってしまった。
生まれ変わった俺を残して。
迎えが来るまで、まるまる五分は猶予があったと思う。逃げようと思い立てばそのまま逃げてしまえる可能性のある五分だ。
結局、俺はそうしなかった。
彼女は、わざとこの五分を作った――そう考えたからだった。
~
翌日、ゼニアは94の入った牢へと出向いた。
94は床に胡坐をかいて座り、緩やかに指を組んでいた。背筋はぴんと伸びている。それは瞑想のように思われた。目を開き、彼はゼニアを出迎えた。
一晩で、男の顔つきは大きく変わっていた。正確には、ゼニアが仮初の死から戻したその時にはもう、彼の顔からは憑き物が落ち始めていたのだが。
「考えた」
ゼニアが口を開く前に94は先手を取って、人差し指と中指の二本を立てて見せた。
「俺のやりたいことは二つある。一つは、あんたにこの恩を返すことだ。そしてもう一つは――奴らへの仕返し。エルフ共を血祭りにあげる。それが俺の望みだ」
そう言って、男は唇を歪めた。皮肉気な、含みのある笑いだった。そして、それが彼にとって自然な笑い方であることが、ゼニアにはよくわかった。
「いいでしょう。あなたと私の利害は一致しているわ」
ゼニアは男に手を差し伸べた。そして男はその手を取った。
「エルフヘイムをぶっつぶすのよ」
魔法が使えるからといって、この男が必ずゼニアの役に立つとは限らない。これがリスクのない拾いものであるという保証もない。だが、ゼニアはこの奇妙な遭難者に決して少なくない金額を賭けようとしていた。
この男は未知の世界から来た。召喚魔法の復活が本当のことであるとすれば、エルフ達は久しぶりに大きくしくじったことになる。
計り知れないリターン、それこそが今ゼニアの――セーラムの求めているものである。今や誰もが、このまま行けば順当にエルフがヒューマンを滅ぼすと考えている。ゼニアさえもその信奉者に含まれていた。ほんの少し前までは。
単純な力学と計算式を破壊してしまえるほどの混沌をこの男から引き出すことができれば、戦況を変えられる可能性はある。引っ掻き回して欲しいと願う。
いつまでもミスを見落としたままの長耳達ではないだろう。間に合うかどうかまではわからない。だが、やってみる価値はある。このままずるずると敗北していくよりは。
「実は、あなたに何をさせるかはもう考えてあるの。空き部屋の用意をさせるから、しばらくはそこで暮らしてもらうことになると思うわ――それと、」
「それと?」
「あなたの本当の名前を訊いておかなければね」
そう言われて、男は少し迷ったようだった。何か思うところがあったのかもしれないが、ゼニアにはよくわからない。彼は笑うのをやめて、一瞬だけ真面目くさった顔になり、やっぱりそれもやめて、煮え切らない表情のまま名乗った。
「フブキ。俺の名前はフブキだ」
「――不思議な響きね。どういう意味の名前なのかしら?」
ゼニアの問いに、フブキはなんだかばつが悪そうに答えた。
「風が吹く、って意味さ」