1-6 Rage! Rage!
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目が覚めた。すんなり起き上がれることに驚愕する。
あの部屋に戻されたわけではないらしい。上等なベッドとはいかないが、寝床らしき寝床にいる。なんと俺には毛布がかかっていた。何が何やら……。
どうして手足が自由なのかはわからないが、やることは一つだ。
ここから逃げる。
見たところ、小さな天幕の内部にいるようだ。身体が元に戻っていることを考えると、治癒魔法を受けられたのは確からしい。どうも状況がよくわからない。下流で俺を捕まえたはいいが、街まで帰る前に日が暮れてしまった、ってところか?
どうだろう。謎だ。それにしたって、拘束具くらい持って来ればよかっただろうに。
他には誰もいない。出ようと思えば出られる気がする。外では明るさが揺らめいている。焚き火か何かだろう。慎重に様子を探ってみると、数名の気配らしきものは感じ取れるが、すぐそばというわけでもないようだ。
どういうこった?
タイミングを計れば、ここから脱け出せるだろうか。地面には草が生えている。なんとか足音を殺せないもんか。物音も。
――うまくいってしまった。まだ近いから走る気にはなれないが、着実に歩いて離れることができている。誰も気づかなかった。天幕の数と規模から考えるに、十人程度のチームなのだろうか。馬も見えた。
もう彼らのキャンプ地が橙色の点にしか見えなくなった。俺は走ることにした。目覚める前の勢いこそないが、怪我がなくなったのでとても快適だ。これで空腹じゃなければ言うことなしなんだけど。
とりあえずまっすぐ、をしばらく続けた結果、道らしき道に突き当たった。舗装などされていない、ただの土の道。これに沿って行けば、いつかはどこかへ辿り着くだろう。一応、俺が来たのは右手側ということになるらしかったので、より遠くへ行くために左手側へ進路をとった。ずっと走り続けることはできないから休み休みだが、苦しくないうちは進むことだけを考えた。今にも俺がいなくなったことに気付いた見張りが、追手をかけているかもしれない。
走って歩いて、が繰り返された。
もうすぐ夜が明ける。今だから誰ともすれ違わずに済んでいるが、明るくなれば隠れながら進まなければならないだろう。
それが問題だ。
何もない土地、というのを久しぶりに見た気がする。駅がないとか、個人商店もないとかいうことではなくて、そこが畑ですらない、何にも使われていない土地がずっと地平線まで続いている。
この先、隠れられる場所などあるのか?
逆に、動いているものを見つけるのは至極簡単だった。
うっすらと白み始めている空を背景に、三騎。
深夜の散歩を趣味にしていた、中学三年の冬を思い出す。警邏のパトカーに見つかりそうになり、慌ててすぐそばに駐車してあった車の陰に隠れた。
思い返してみると、それだけ挙動不審にしておいて何事もなかったのは、ただ単に見逃されていただけだったんだろう。
今、俺を隠せるものは何もない。そして、あの三騎は確実に俺に気付いていた。
走るが、元から残っていない体力で引き離せるわけもない。すぐに立ち止まって呼吸を整えるしかなくなる。
三騎は俺を取り囲んだ。こいつらの耳は、長くも尖ってもいない。俺と人種は違うだろうが、話には聞いていたヒューマンというものだろうか。
「うおーい……たまには早起きしてみるもんだな」
「妙だぜ。こいつどっから来やがった?」
「何も持ってねえぞ」
「奴隷かな。なんで一人だ?」
「逃げてきたんだろ」
「どこから?」
「どこって、そりゃ……どこだ?」
「知らねえよ。それにしても、変な面してんな、こいつ」
カタギには見えなかった。身綺麗ではなく、蛮刀を下げ、愉快ではない状況で笑う。碌でもないロジックで動く碌でもない生物であることは、それだけで明らかだった。
「運がなかったなあ、お前。その様子だと、やっとこさ逃げてきたって感じだろ」
話していることは理解できる。エルフ達が操っていた言語と同じだ。
「まあ、俺達としてはどっちでもいいわけだ。お前の主人に返して礼をもらうもよし、奴隷商に売り飛ばすもよし……今日は機嫌がいい。選ばせてやるよ。どうせその面じゃ、どうやっても大した金になんねえだろうからな」
おそらく、野盗か何かの類なのだろう。本当は俺から何かを奪うつもりだったのだ。しかし、奪うものすらないので、ほんの戯れのつもりで俺を拾おうと思っている。彼らは必死ではなかった。俺が飯の種にならないことがわかっているからだろう。俺に何か、ほんの少しでも価値があれば、もう少しは真面目に捕獲しようとするはずだ。
でも、それも仕方のないことだ。俺ですら、俺の価値をどこにも売り込むことができなかったのだから。それでこのザマだ。
そんな俺に、自分の値段のつけ方を選べとこいつらは言う。
俺には価値などないのだ。どうやって値段をつけろというのか。
ひどい侮辱だ。
――不思議だ。ついさっきまで、諦念のようなものに支配されかかっていたはずだった。逃げる先など最初からありはしなかったのだと、この世界もまた俺のための世界ではないのだと……何かをしたところで、何になるのだ、と。
今、再び俺を突き動かそうとするものがある。疲れて苦しくて動きたくない、という思いを吹き飛ばす何かが。
その正体は、怒りだ。
風よ吹け、と思う。
そよ風が頬を撫でた。
そもそもの話に立ち戻ってみよう。俺はこの先どうするつもりだった? 人前に出られない立場で、どうやって逃げ続けようとするつもりだったのか、今一度、自らに問うてみようじゃないか。
客観的に見て、俺は何も持っていない。強いて言えば今穿いている袋は持ち物だと言えるが、これは無視してもらいたい。さて、当たり前のことだけども、生きるためには様々なものが要る。日本で健康的に暮らしていた頃部屋にあったものを、正確にここへ書き出したら、一体何ページになることやら。
だから、要るものは用意しなければならないわけだ。最低限のものは、少なくともね。
どうやって?
何も持っていないということは、原始的な物々交換さえ難しいということだ。
――オーケー、さっきは何もないと言ってみたが、少し、解釈を拡げてみようか。
時間は、持ち物になるだろう。この持ち物をいくらか他者に分けて対価を得るという方法はある。というか、これが基本的な考え方であって、普段は自分を生かすために自分の時間を払っているだけだ。それを応用して会社に行ったり、パフォーマンスを見せたりしているだけ。
だが、それも、奴隷扱いされないという前提があればこそだ。奴隷として扱われていたら、いくら時間をかけてみたところで、それを当面維持するための対価しかもらえない。まあ、いくらかマシな環境なら、本当に自分を買い取ることができる日も来るのかもしれない。マイエル・アーデベス卿が説明したように――でも、そんな理屈は、俺にとってはまやかしだ。
働いて路銀を稼ぐためには、まず認められなければならない。
それで、この何もかもが俺に新しい世界で、一体誰が認めてくれるっていうんだ?
どこの馬の骨ともわからん奴を雇ってくれないのはどこも一緒だ。
だから働く以外にものを手に入れる方法を考えるわけだが――そう多くはない。
要は、俺はこの先、他者から何かを失敬してでも生き延びようとしただろう、ってことだ。それは衣服かもしれない、食料かもしれない、住処かもしれない。――命かもしれない。
悲しかった。自分が目の前の野盗と、本質的には何も変わらないことが。
頭のどこかで、別の世界だから、俺のいた日本という国ほど文明化されていないから、という言い訳をしていたように思う。野蛮なのも、無慈悲なのも、彼らがいつか到達する地点まで進んでいないせいにすぎない、と。俺は現代人だから、先を行っているから、という甘えがあった。
そうではない。俺はただ適応できていないだけだったのだ。
奪って暮らすしかないのだ。当たり前すぎて誰も口に出さないだけで、奪って暮らすしか、ないのだ。奪って暮らしていたのだ。俺の安寧は、俺のいた狭い狭い世界の安寧は、その上に成り立っていただけなのだ。直接的な観測ができないだけで、外の誰かが割を食っている。そういうふうに決まっているのだ。誰が決めたわけじゃなく。そう……誰の、何のせいでもない。
それは違うって? 誰も何も奪ってなどいない?
そうかもしれない。でも、生きていれば何度か決定的な椅子取りゲームに参加するものじゃないのか? 同じことだ。この世界はシンプルに残酷だという、月並みで斜に構えたような考え方が、今の俺にとってはただの真実に過ぎないということが、堪らなかった。
悲しまない理由がどこにある。
「申し訳ございません。先を急いでおりますので」
言った。
彼らは一瞬、目に見えて硬直した。
この卑屈そうな男が言いそうにない台詞を聞いたせいだろうか。
直後に、爆発的な笑いが起こる。
きっと、彼らにとってはシュールで愉快な発言だったのだろう。もちろん俺も全部本気で言ったわけじゃない。でも、こんな奴らに構うより先へ進みたいというのは、真面目な主張のはずだ。それなりに正当性もあると思う。そしてこいつらは取り合ってくれない。
堪らんね。
他の二人より少しは頭の回りそうな一人が、馬から降りた。
「そうかいそうかい、なるほどなるほど……」
そして、俺の前に立った。
「逃げてきただけあって、根性あるな」
腰に下げていた剣が抜き放たれる。正直見えなかったが大丈夫、こうなるとわかっていた分、俺の方が速い。風が吹いた。ちょっとびっくりしちまうくらいに強いやつだ。それが剣を強引にもぎ取って、どこかへ飛ばしちまった。
いくらかマシに見えたはずの男は放心している。何が起きたのか理解するのに時間がかかる程度には、こういうのはあまり起こらないことらしい。もしかしたら、彼はちょっと脅かすだけのつもりだったかもしれない、でも危ないもんは危ない。これくらいは許してほしい。
「こっ……――野郎!」
後ろにいた奴が一番早くもう一度やる気を起こした。振り返らずに手を腕ごと後ろへ向けると、さっきよりもっと強い風が吹いた。一人と一匹の悲鳴。……やや遅れて衝突音(文字にすると、ぐしゃ、かな)と、やはり痛そうな悲鳴。あれは、折ったかもしれない。
「な……あっ、……ば、バケモ、」
驚いている場合じゃないと、最後の男は判断した。暴れそうになる馬をなんとか制御しながら、とにかく俺から離れようとした。一目散って感じだ。
その目的は正しい。
でも手段が不十分だ。
俺は風に背を押されながら馬の前へ躍り出た。そしてやはり風の助けで跳ね、馬に跨っている男だけを掻っ攫った。そのまま地面に引き倒し、膝を――踏み割った。俺はそれを成し得た。裸足であったにもかかわらず、だ。痛めることすらない。
なんて不思議なんだろう。
まるで、周囲の空気全てが、俺の味方をしているようじゃないか?
しかも、思った通りに動いてくれる。滅茶苦茶だ。風でこんなことになるのか?
俺を斬ろうとした男は放心から立ち直ったようで、馬にも乗らずに己の脚力へ全てを賭けていた。そんなのは当然上手くいくはずもなく、俺は男の襟を後ろから掴むことになった。だが、予想外に引っ張る力が強かったので、動きを止める前に手が放れてしまった。妙な力の加わり方になり、俺も彼もバランスを崩して転んだ。先に立ち上がったのは俺だった。男は這ったまま前へ進むつもりらしかった。俺は問いかけた。
「どちらへ?」
男の動きが止まった。
「あ……」
「どちらへ?」
男はこちらへ向き直った。
「ま、参った! あんたが、その、魔法を……使うなんて、思わなかったんだ。今のことは謝る。悪かった。もうちょっかいかけたりなんてしねェよ、安心して先を急いでくれ!」
どうやってこの男に俺の意思を伝えたらいいのか、少し考える時間が必要だった。その沈黙を変に勘違いしたのか、男は続けた。
「……不満、か? そ、そうだよな! わかってる、迷惑料がないなんておかしいよな。何でも好きなもん、持って行っていい。あと、これでも少しばかり金があるんだ、全部やるよ、路銀の足しにしてくれ。あ、足しっても、元がなかったのか。ハハ、は……」
違うんだ。そうじゃないんだよ。
「あなたは、何か勘違いをしている」
そう言うと、男は何度も頭を下げ始めた。
「――ご、ごめ、すみませんでした……申し訳ございませんでした! この通り、この通りです。……わかった! しばらくあんたの言いなりになるよ。あいつら怪我しちまったからもう駄目かもしれねえけど、俺はまだ大丈夫だからよ! これでも体力には自信あるんだぜ、荷物持ちでもなんでもするよ。そうだ、あんたほどの腕なら、雇ってくれる奴を知ってる。長いこと会ってねえけど、あいつは俺にデカい借りがあってよ、きっと色々都合してくれるよ。だから、だから、だから殺さないでくれよ。……頼むよォ!」
俺が説明する前に、彼は自分で答えに辿り着いた。おかげで手間が省けた。
「――その通り。俺はあなた方を殺そうと考えている。俺だって本当はそんなことしない方がいいと思うんだが……殺さない理由がないんだ。ものすごく簡単に言うと、あんたらは力で俺をどうにかしようとしただろう? だから、俺も力であんたらを好きに扱っていいと思うんだよ。俺は今とても、とても怒っている。あんたを殺す以外に、この怒りのやり場がない。別に欲しいものは奪えばいいし、あんたの言う働き口だって、考えを変えるほど魅力的には思えないね。どうして殺さずに終われる?」
俺は男の返答を待った。何か目から鱗が落ちるような言葉か、そうじゃなくても、思いつく限り喋り続けてみてほしかった。俺にはそれができなかったから。
彼は、すぐには答えられないのではなく、それっぽっちで手持ちの理屈が尽きたように見えた。
それでも俺はこう言った。
「まあ、いきなりじゃ困るよな。わかった。ゆっくり百数えるから、その間だけは待とう。俺を説得するんだ。いいな? いーーーーーち、」
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脱走が判明した。
しかし、上手く出し抜いたわりには、ぬかるんだ地面からすぐに足跡が見つかった。交代の間隔から考えても、そう遠くへは――妙な手を使っていなければだが――行っていないはずだ。馬なら簡単に追いつけるだろう。
ゼニアはそうすることに決めた。逃げ出すのなら、相応の理由があるはずだ。それを聞かないうちは、自由にさせてやることはできない。魔力だって払ったのだ。
足跡は、消えずにきちんと続いていた。これだけ残せば辿られてしまうと気付きそうなものだが、何か工夫をしたような形跡は見られない。まあ、あの状態から何も取らずに出ていったのなら、何かをしろという方が酷な話なのだが。
途中から、足跡は街道をなぞり始める。きちんとエルフ圏から遠ざかる方向を選んでいるのは、本能がそうさせているのか、それとも何らかの指針を持っているからなのか。
もうすぐ夜が明けようというところで、ゼニア達は彼に追いついた。予想より早かったのは、彼がそこで前進するのをやめていたからだった。付近にヒューマンの死体がいくつか、つまりすぐに判断することはできない数の肉片がいくつか、転がっていた。馬が一匹、鞍を付けたままあらぬ方向へ走り去ろうとしていた。
94と刻まれた男は、やってきたゼニア達を見つめている。意外にも様子は落ち着いており――晴れやかな笑みを浮かべていた。それが作られた笑顔であることが、ゼニアにはすぐにわかった。
我々はあなたを保護するつもりでいる、という説明をすると、男はあっさりとついてくる気になったようだった。この状況でもおとなしいままだった馬が残っていたので、それに乗せてキャンプへ戻ろうとしたが、男は馬に乗ったことがないらしく思うようにいかなかったため、曳き方だけを簡単に教え、なんとか徒歩の速度で同行することになった。幸いにもそれでなんとかなり、到着した頃には残った部下達は朝食を終えていた。ゼニア達も遅れて食事を始め、男にも糧食が分け与えられた。猛烈な勢いでそれは平らげられた。
食後に尋問が始まった。訊きたいこと、訊かなければならないことは山ほどあった。
しかし、男は不敵にもこう言った。
「私の身の安全が本当に確保されたと判断できるまでは、全てはお答えできかねます」
ゼニア自身も驚いたが、それ以上にこの発言は部下達の反感を買った。解放されていない奴隷の身でこれはまずい。それがエルフの論理に依るものだったとしてもだ。いや、奴隷であることを差し引いたとしても、保護された上で何者かを明かさずにこの物言いは、身勝手と受け取られても仕方がない。
だが、男はどこ吹く風といった態度を崩さなかった。それが余計に部下達を苛つかせた。
ゼニアにしてみればこの男が奴隷の身に堕していることの方が不可解で、それゆえにこの状況を設定したわけだが、まだ部下達にはそのことを説明していない。少々申し訳なく感じるが、これは慎重に扱わなければならない問題だ。我慢してもらうしかない。
この男に後ろ盾はある。あるのだ。魔法が。
ゼニアはそれを確信せざるをえない。血の臭いの中で男を見つけた時、ゼニアは軽く魔力を練ってみせた。そしてこの男は間違いなくそれを見た。見ることができていた。おとなしくしているのもそのせいだろう。そしてこの男は、自分に奴隷扱いが適切でないということを、もう理解している。
だから、言いたいことはわからないでもなかった。一応、質問を重ねてはみたが、結局、名前は? といった問いに対して腹の94を示されただけに終わった。
できる限り急いで都へ戻らねばなるまい、とゼニアは思った。