5-2 これは基本イベント
次に目を覚ましたら、もう朝だった。
記憶が途切れてしまったわりには、俺は事前にあてがわれた部屋で敷かれた布団に寝かされていた。きっとジュンがやったのだろう。彼女に運ばれている自分を想像するとそれだけで恥ずかしい気持ちになったが、ぶちのめされてしまったから仕方ない。
それより、姫様は結局大丈夫だったのだろうか。
俺は焦りを抑えつつ床から這い出て、光に透けている障子を開け放った。
――とっ。
外には白い石が敷き詰められていた。妙に曲がりくねって節くれだった木と、腰かけるには尖って大きすぎる岩。
廊下へ足を踏み出し、姫様とジュンの寝泊まりするエリアが結構離れていることに気付く。そして、そこまでの間を完全には把握していないことにも気付く。
途端に、もう何もかもが手遅れのような気がしてきた。
「……姫様ァ?」
呼びかけながら歩き出す。
「ひめさまあーっ」
邸内は静寂に包まれていた。
一体今何時なのだろう?
太陽が昇りかけていて、全てが薄く照らされている。
誰かもう起き出していないのだろうか。
あまり床板を踏み鳴らさないようにしながら、角を曲がる。すぐに突き当たりから分かれ道に出くわした。左――いや右。
別の庭に出た。
大きな池があった。
そこにジュンがいた。
ジュンが、蓮の葉の上に立っていた。
「――ジュン?」
彼女はじっと足元を見ていたが、俺の声に気付いて顔を上げた。
「あ、おはようございます」
「おは、ようございます。……お嬢様」
「昨日はすみませんでした。気分が悪かったり、吐き気が残ったりしてませんか?」
「ああ、いや、それはもう別にどうでもいいんですが、姫様は?」
「まだお休みになっていらっしゃいますよ。もうすぐ起きてくるとは思いますけれど」
「昨晩は、何もなかったんですか?」
「……ええ、何も」
俺はその場にしゃがみ込んで大きく溜息をついた。
「焦った……、誰もいねえし……」
「かなり早い時間ですよ。まだここの家の人達もほとんど動き出していないような……」
「――そう言う君は、こんな時間に何してるんだい?」
しかし、大方の見当はついていた。
ジュンは何故か裸足で――そして、魔力の迸りが見えている。
彼女は蓮の葉から一歩踏み出した。
水面へと、踏み出した。
「ちょっと――実験を」
波紋がゆっくりと広がる。それがさっきまで踏まれていた蓮の葉を揺らす。
どう見ても浮いていた。
いや、
「水の上に立ってみる実験?」
「そうです」
ここへきて、彼女の水を従える技術は新たな段階へ入ったということか。
「どうやってるんだそりゃ」
「その、最初は水の上を走るだけのつもりだったんです。これまで一人でこっそりやってて……。ほら、よく冗談で、片方の足が沈む前にもう片方の足を出せ、って言うじゃないですか。普通なら沈みますけど、わたしは水の動きに干渉できるから……足を押し上げたりして、近い動きができるようにならないかな、と……」
「それで、ずっと試してたのか?」
「はい」
「一人で? こっそり?」
「はい」
「……呆れたな。君みたいな女の子は初めてだ」
尤も、交流を持った女の子の絶対数が少ないので、こういう言い方はフェアではないかもしれないが。
「でも、最初は上手くいかなかったんです。思いっきり助走をつけたり、工夫してたんですけど、どうしても沈んでしまって。何回やってもよくならないから、そのうちイライラしてきてしまって……一度、やり方を変えてみたんです。自分でもおかしいと思ったんですけど、いきなり走るのは大変だから、歩くところから始めようって、無理矢理納得することにしたんです。わたしが本当に水を操れるのなら、沈まなくなるんじゃなくて、その上に乗ることができるんじゃないのかって……ヘリクツですけど、それで前よりは先へ進めるようになりました。おかしいですよね。そのうち、今みたいに、止まれるようにもなって……」
俺は一つ思いついて立ち上がり、裸足のまま土を踏んで、池の淵に近づいた。
「もしかして、だけど」
さらに一歩踏み出した。
「こんな、ことも――」
水面を踏む直前、魔力の輝きがジュンから伸びてきた。
そして、俺もまた、水の上に立った。
「素晴らしい」
俺はすっかり気をよくしてしまった。
それは不思議な感覚だった。水が波打った分はきちんと足に絡みついてくるが、それ以上のことには決してならない。とても柔らかいが絶対に底が抜ける気はせず、彼女が言ったように、沈み込まない。
「実のところ、俺達はこれを待っていたんだよ。君が自分で屁理屈を持ち出してくるのを、待っていた」
ジュンは首を傾げた。
「……どういうことですか?」
「それが魔法を使うのに大切な考え方ってことさ。脳ミソを柔らかく――ちょっと無理のあるくらいが、発想としては丁度いい。俺が音を風に運ばせるように、君も水の上を歩く」
「……はあ」
いまいちピンときていないようだったが、それでいい。
考え過ぎないに越したことはない。
「このことは隠し芸にしないで、きちんと姫様に報告した方がいい。帰ったらアデナ先生にもだ。次へ進むだろうから」
「わかりました」
そこまで大それたことだろうか、とでも言いたげに彼女は頷いた。
もしかすると視察になりかねないのではないかと思ったが、意外にまっとうな観光プランが組まれていた。
俺達はまず、すぐ近くの都へと連れていかれた。
見物した印象としては、まず碁盤の目状に区画が整理されているという点で、セーラムより優れている。俺は京都との類似性を古今両面から指摘し、姫様に説明してみせ、ジュンもまた、この規則的な街並みは故郷の札幌のようだという感想を漏らし、そこが計画都市であるということを暗に示した。これらの会話は案内役を買って出たフォッカー氏を驚かせた。
道行く人々はわざとらしすぎるほどに昔話の日本人だったが、やはり共通語のやり取りが面妖な印象を持たせた。それを拭い去ることは容易ではなく、ジュンも同じように複雑な受け取り方をしていた。最高の美術で最低の演出を含む時代劇、それがディーン皇国への第一印象だった。
「『かぐや姫』の世界ですねえ」
「『源氏物語』かもしれませんよ、お嬢様」
もしかするともっともっと先、室町くらいまでは食い込んでいるかもしれないが、おそらく戦国までは行っていないだろうと思われる。傾向から言って、もしそこまで進んでいるとしたら、俺達は一発で江戸だとわかる都市へ連れて来られたはずだ。
それにしても解せないのは、セーラムと同じ大陸にあってこの文化を保っていることである。俺達の知っている日本はものすごい島国で、よその国の文化を狭く閉じた領土へ持ち帰っては勝手な解釈を加えて、決して同化まではしなかったものだ。しかし地続きであれば――それは非常に難しくなる。
そのへんについて何か理由があるのかフォッカー氏に訊ねてみようかと思ったが、やめた。あんまり突っ込んでいくと、何故道化師風情がその程度には見識を備えているのかといった疑問を爆発させることになりかねない。別に隠しているわけではないが、余所の世界から来たことを説明するのは面倒だったし、また余計なことを言って、この国の学者先生を呼び寄せるような事態になるのも避けたい。後者に関しては、最悪、帰りたい時に帰れなくなるおそれまで出てくる。
向こうが無害だとわかればまだそれも許容できるが、そうでない今は、まだ少し慎重に立ち回る必要がある。
午後からは少し足を延ばして、宿場町件保養地となっているザンケイと呼ばれる地を訪ねることになった。
ここは、そう、保養地と聞いた時点であんたは気付いたと思うが、俺達が間違った想像をしていなければ、姫様の言っていた湯が湧き出る場所――すなわち温泉の、風呂の、存在する場所ということになる。
悲しくなるだけなので描写を省いていたが、実際セーラムの衛生事情は耐え難いとまでは言わないが非常にストレスの溜まるものとなっており、ジュンがやってくるまでは湯水のようにといった状況は夢のまた夢であった。姫様ほどの高貴なお方ですら連日の入浴には制限がかかることも多いというのだからこれはもう根本的な問題で、どうすることもできず諦めかけていたのだが、まずジュンの登場によって不正ギリギリの頻度で水を回してもらう機会に恵まれることになった。ただ、それさえもこれからの季節温める必要が出てくるため困難が予想されており、やはり冬場は回数を減らして耐えるべきかと思案していたところに今回の一件が舞い込んできたのである。
昨日は入り損ねたが、俺は住宅レベルの浴場だけでもいいので素人なりに盗めないかと画策していたのである。再現は学者先生に任せるつもりで――。
が、とりあえずは天然ものを味わうとしよう。
結論から言うと、ザンケイは本当に温泉街だった。
しかも、そのウリを構えた宿が乱立しているほどの温泉街だった。
フォッカー氏は事前に手を回していたのか、宿の一つを翌日まで完全に貸し切っており(というより掌握しており)、その日に宿泊することまで決定されていた。
そして今、俺はデニーと共に露天のそれを目の前にしていた。全裸で。
最早安全がどうのこうのは頭から吹き飛んでしまっていた。
「すっげ……おれこういうの初めて。――よし」
俺は走ろうとし始めたデニーの首根っこを掴んだ。
「先に身体を洗おうぜ」
性能は高くないが石鹸に近いものは用意されている。
俺達は念入りに垢を落とした後、そろりと――湯船に浸かった。
沁みた。
「――おまえ何泣いてんの」
言われて初めて気付いたのだった。
久しくこの感触を忘れていた。全身が淡い熱に包まれ続ける感触を。
声にならない声が出て、時間が限りなく引き延ばされていくような錯覚に陥った。いや、それを強く望んだ結果、意識が自らそのように変形していったのだろう。
永遠に続けばいい。心からそう思って、
「ちょっとここでやって見せて頂戴」
姫様の声で一気に現実へと引き戻された。
多くの風呂屋がそうであるように、この宿のそれもまた、女性用の浴場と大したことのない仕切りだけで分けられていた。仕切りはシアマブゼを組み合わせて立てられているにすぎず、そのため今のように会話が容易に聞き取れるのだった。
「えっ、ここでですか……?」
「そうよ。何か問題があるかしら」
「ありま、……ないですけれど……その、ここを出てからでもできることですから」
「ここでもできることよ」
「でもその……何も着てないですし」
「私も何も着てないわ」
デニーは訝しげに振り向いて言った。
「……何の話をしてるんだ、あの人達は」
「なに、ちょっとジュンが水の上を歩けるようになったから、試してるんだろう」
「おいおい、そんなことまでできんのか?」
「俺も今朝知ったばかりだよ。一緒に池の上に立たせてもらった」
「魔法使いってのは末恐ろしいな……」
俺は再び湯に集中しようとした。
「あの……そんなにじろじろ見られますと」
「じろじろ見られると、何かしら」
「それは、その。……えっえっなんでそんなに近づいてくるんですか」
ざば。ざば。
「なんでなにも言わないんですかぁっ!」
ざばぁー。
「いや、ちょ、ほんとだめですって、あああわぷ」
ぼちゃ、じゃっ、ばしゃ、ばしゃ、ばっしゃぁあ。
俺は立ち上がり、湯船から出た。
それから周囲を見渡し、どこかが都合のいいことになっていないか調べ始めた。
「……おまえ何してんの」
俺は言った。
「見ようぜ」
デニーは一瞬、俺が何を言わんとしているのかを理解しなかったが、やがて衝撃のようなものに打たれた格好となって、
「やめろ馬鹿殺す気か」
とかなりの小声で叫んだ。
「そこまでひどいことにはならねえだろう」
「おまえはそうかもな、おれはどうだ?」
「それは――金銭的な面では、故郷は安泰になるかもしれんが」
「断言してやる、おまえもタダじゃ済まねえ」
「ふむ。まあ、仮にここで命運尽きたとしても、これまでを考えればまずまずか」
「――、……。いやあのさおまえさ、ちょっとそれおかしくないか」
論争している間、俺は浴場中の桶を拾い集めて一か所に纏めた。
柵の向こう側の水をかき回す音は激しさを増していた。もしかするとジュンが魔法に手を出しているかもしれない。
「チャンスがあるとしたら一瞬だな。それ以上は危険すぎる」
「もう危険だっつー」
俺は風付きでデニーを湯船に向けて押した。
それから大急ぎで桶を積み上げた。
なんとか、顔は出せる高さになった。
出したパカンという音と共に視界が強制的に向きを変更された肌色を捉えたような気もするが判然とせず強引に首を回そうとするも水鉄砲が頭部を弾き飛ばした。
頭から落ちなくて幸いだった、とだけ言っておこう。
夕食を終えたところで、デニーに代わり警備を行っていたフォッカー氏が座敷までやってきた。舞踊を行っていた芸者は動きを止め、彼に言われて一旦退散していった。いいところだったのに、とデニーは呟いた。俺は言った。
「何かトラブルですか」
彼は首を振った――半分ほど。
「いやその……問題が起きたというわけではないのですが、少々明日の予定を変更できないかと思いまして、こうして参った次第です」
「ここまで急ぎの用ですか?」
と、デニーが芸者の去った先を指して、少々不満そうに言った。俺も多少は心の中で同意した。
フォッカー氏は恐縮し、代わりにジュンがこう言った。
「構いません。何か順番が前後するのですか? それとも、予定そのものが増えたのですか?」
「増え、たということになりますね、はい」
その歯切れの悪さに不穏なものを感じ取り、俺達は崩していた姿勢を正した。
「問題ではないが、軽い用事でもない――ということですか」
「そうですね。それが、正しい表現かと思います」
十中八九、面倒事だった。俺は先手を打つために口を開いた。
「一体何が割り込むっていうんです? 随分と急ではないですか。あまりこういうことを言いたくはありませんが、姫様はそちらが来てくれと言うから参ったのですよ。元から予定の詰まった旅ではないですが、あまりころころ変えられるのはどうなのでしょうかね。それに、そのご様子ですと、どうも口で言われるよりは厄介な気がするのですが」
「いえ、いえそんなことは。その……そこまで複雑な事態ではないのです。ただ、ある方と会っていただくというだけで」
「……どなたとですか?」
ある方。
その言い様にひっかかりを感じ、次に嫌な方の閃きが脳内を満たした。
ハギワラ氏はディーン皇国の中でも一、二を争う勢力であると聞いている。つまりハギワラパパが既にある方と呼ばれてもいいような立場である。その息子が気を遣うような相手――自然と絞られてくるだろう。
飛躍しすぎな気もするが、まさか、
「あー、その……。皇帝陛下、でございます」
うわああいやっぱり。




