1-4 風が吹けば桶屋が損する
……なんということだろう。途切れたところから意識が繋がっている。痛みに身構えるが微かに残った94のそれを除けば、何もない。どこかに寝転がっているらしい。
わけがわからない。またぞろ何かが起きて、新しい法則の奴隷として支配されるのか?
――どうやら違うようだ。一日とちょっとの付き合いだが、この金属の輪の感触には覚えがある。状況はあまり変わってはいないのではないか。
突然、慌ただしく頬を叩かれる。驚いて目を開き、起き上がろうとしたが両手が不自由なのであまりうまくいかない。
「起きたな」
軽そうな男は最初の時から笑っていたが、堅そうな男が笑うのを見たのはこれが初めてだった。ちょっと信じられない話だが、彼は俺の手を握ってぶんぶんと振った。
召喚されたのと同じ部屋だった。俺は台に寝かされていた。
「素晴らしい!」
何が?
「……お前は運がいいよ」
軽そうな男が苦笑しながらそう言う。確かに自分でもそう思うが問題はそこじゃない。一体何がどうなって俺は今生きているんだ? 夢――ではないだろう。どんなにリアルな夢でも、起きれば夢だと気付く。あの出血、あの欠損……夢ではない。
「君は完全な敗北を喫した。君は刺激を体現した。君は……観客の望むことをやった。君には可能性がある。君には才能があるんだ」
「……あー、つまり、ええと?」
言ってることがよくわからない。
「惹きつける力だよ、君。君は君を見る観客の目を君自身の目で見なかったのか? 君は無様だった。素晴らしく無様だったんだ。そうか、君はあの時自分がどんな顔をしていたのかを知ることはできなかったのだな。残念だ。嗚呼、それを見ている観客の目! 興奮と笑い、目を背ける婦人! 子供の目を隠そうとする母親! 素晴らしい! そうでなくてはならない。これは新たな可能性だよ。今、それを拡げられそうなのは君だけだ。君をこのまま潰してしまうのは惜しい」
「――つまり、つまり、その、ええと……だから、私を治したということですか?」
それしかないだろう。絶対に使われないと思っていた、回復魔法や治癒魔法の類……それが俺に適用されたらしい。まったく理解できない理由で。
「そうだ。この私が直々にな」
「――私は死んだのですか?」
「いいや、いいや。その前に君を元通りにすることができたよ。白状するとかなり焦ったがね。それなりの腕だと自負してはいるが、蘇生まではどうにもな。ところで、何かおかしくなってしまったところはないか? たまにそういうことがある」
たまにそういうことがあるのか。例えば車に撥ねられた後体はピンピンしてたが数時間後に頭がダメになったとかそういう類の話だったらそれは非常にまずいぞ。
「いえ、特には……」
どうせ治すなら腹の94も治してくれればよかったのに。……いや、それだと焼き直されるだけか。それは望むところじゃない。
何にせよまだ死んでないんだ、俺は本当に運だけはある。指もちゃんと全部あるし。
「それはよかった。口うるさい奴らに妨げられていた企画がたくさんあるんだ。この際だから、全部君で試そう!」
そんな調子で、四十五回ほど死にかけた。
味を占めたマイエル・アーデベス卿――堅そうな男の名前だ――は、飽きもせず俺に治癒魔法をかけ続けた。部屋の外から漏れ聞こえてくる会話やら、試合前の口上などを総合すると、俺を召喚したレギウス・ステラングレ卿はアーデベス卿の友達で、アーデベス卿はこの闘技場におけるプロデューサーのような仕事をしているらしい。貴族か何かなのかもしれないが、エルフの社会制度が俺にはまだよくわからないから、想像するしかない。
ただ、彼らはいわゆる「トールキンのエルフ」ではなく、「トールキンに影響を受けまくって模倣も繰り返されたが結局何も受け継がなかった日本のアニメマンガ的耳のとんがったエルフ」に限りなく近い。実写だがそんな感じがする。
試合のことに話を戻すと、だいたい二日に一回のペースを保っていたから、こっちに来てから丁度三ヶ月くらいが経ったと思う。脳の時間感覚を司る部分に破損が残っていなければだけど……あんまり乱暴な扱いだから、自信がない。
え?
一度くらいは相手を倒すこともあったのか、って?
あんたはどう思う?
ハハ、そんな顔するなよ。
まあ、言うまでもなく色々あったんだが、あんまり細かく説明すると大変だし、あんたもキツいと感じるだろうから、ダイジェストでお送りしようじゃないか。あんまり大事じゃないしな。
試したいことがたくさんある、といっても、彼らはすぐにその手配を済ませられるわけじゃなかった。だから最初の数回は普通の闘技奴隷との試合が続いた。
その中にちゃんとした訓練を受けたプロが混じっていて、いやあれはすごかった、事前に段取りを決めていたのかもしれないが、なかなか殺してくれない。興行的なツボを押さえつつ進行していく、洗練された破壊の流れ。
三回闘わされたことを考えると、人気のある企画ではあったらしい。
一応、毎回は、八百長にできないかどうか対戦相手が変わる度にお願いし続けていたのだが、意思疎通できない相手を組まれると、これがどうにもならなくて参った。
そう、スライムである。
あのマスコット扱いされているヤツじゃなくて、捕食対象を溶かす方のスライム。
もちろん溶かされた。
あの感覚はちょっと筆舌に尽くしがたいものがある。ある意味では貴重な体験だったが、六回もやることはなかったんじゃないかと思う。いちいち捕まえてくるのだって大変だったろうに。最後の方なんか生物の講義なんか始めやがって、たまったもんじゃないよ、まったく。
かといってライオンの方がマシだったかというと、決してそうじゃない。見たことがあった分余計に恐かったのはよく憶えてるな。それよりつらかったのは、キリスト教史の映画でまったく同じ場面を見たことがあって、それでちょっと地球が恋しくなってしまったことだ。ちなみに、虎の時も釈迦の逸話を思い出して同じ気持ちになった。
あと熊にも食われた。
こういう時くらいはやれやれって言ってもいいよな?
彼らはほどほどのところで俺を手放す気はないようだった。かといって飽きる気配も今のところない。一度寝台に頭を打ち付けまくって割ってみたが、やはり治癒された。
音を出したのがいけなかったと思って、尖らせた爪で首を掻っ切ってみたが、その時にはもう見張りの兵士が俺のことを警戒していたので、やはり失敗に終わった。
俺は基本的に反抗的な態度を取っていなかったからそれまでほとんど縁はなかったんだが、この時ばかりは鞭打ちがあった……色々麻痺したのか、あまり堪えなかった。
これで一つ教訓を得た。ケースバイケースだが、死ねる時には死んでおくべきだ。
人気が出たからって待遇がよくなる気配はないし、わかっちゃいたが奴隷ってのはいいことない。続けたって身体と心、健康を害するだけだ。
ところで、多くの闘技奴隷はなんだかんだで誇り高く死ぬことを選ぶらしい。
何度か舞台袖から見学する機会があったが、負けは認めるものであり、いい試合だったら二人とも生き残れる、観客の要望が強くて殺さなきゃならない時は一思いに殺してやる――そんな展開が散見された。結構さっぱりしてる。
まあ、養成所があるって話だから、俺の初戦みたいに訓練を受けてない者同士がぶつかることの方が、多分珍しいんだろうが。
そういえば、泥棒君(だってこう呼ぶしかないじゃないか)と再びマッチングすることはなかった。見かけることも。いくつかの断片的な情報によって、俺は彼が死んでしまったのではないかと推測している。
そして、ここ最近の俺の試合は、闘技会の形式に則らない傾向にある。
若い(多分な)兵士達の訓練に使うのはまだいい。途中までは殺さずに捕まえる練習だから、比較的楽な部類だしな。
だが明らかな子供と闘わされるのは、さすがに勘弁願いたい。
たとえその娘が物盗りだったとしてもだ。
ひどいもんだ。震える手で泣きながら俺をたくさん刺さなきゃいけないんだからな。たくさん、たくさんだ。そういうことをされると闘いにならないじゃないか。仮に俺が考えを変えて彼女を殺そうとしたところで、すぐそばに控えてる兵士達が割り込んでくるようになっている。残るのは、趣味が悪いという事実だけだ。
とはいえ、もし俺という相手がいなかったら、彼女はもっとひどい試合に臨んでいたかもしれない。どうせひどいことになるんだったら、抵抗しない俺を刺してた方がまだしも救われるってもんさ。
んなわけあるか。
結局は元を断たない限り、あんなことが続けられるわけだ。本当は俺は黙って刺されるべきじゃなくて、なくて、でも……できることなんて何もない。
何かをできる力も、立場も、筋合いもない。
不毛なのは重々承知として、仮に、俺がそのどれか一つでも手に入れたとしたらどうだろう? あんたはどう思う? どうせもしもの話なんだから、「学校に突然テロリスト」とか、「ロボットを操縦できる資格を持った」とか、「何らかの異能を持つ一族の末裔」とかのお気楽さでいいんだけど、どうだろう?
彼女はしぶとくてデカい害虫を見るのと同じ目で俺を見た。あの時、いや、そのずっと、ずーっと前から、俺は奴隷ですらなかった。
それって、変えられるものなのか?
実際には、十日を過ぎたあたりから、考えることが三種類くらいに絞られてローテーションを繰り返している。時折脱線することもあるが、それはごく短い時間だけですぐ元の線路を走り始める。
生きたいのか死にたいのかが、はっきりしない。
無気力に振る舞っていればいつかは殺されると思うのだが、俺はまだ自分の意志で本能を抑え込める領域に到達していない。斬られれば痛がるし、潰されればのたうち回る。これ以上苦しめないでくれと泣いて慈悲を乞うのに新鮮味を感じなくなっている。観客達はそんな俺に飽きる気配がない。あるいはそんな俺を一目見ようと観光しにやってくるエルフもいるのかもしれない。
日本にいた頃より強く、何もかもがなくなってしまえと願う。
願いは聞き届けられない。そもそも何に対して願っているのか。
結局、あの部屋に今日も戻るのだろう。お前は不思議なことに人間の形をしているが別にその資格などないと、虫けら以下の何ら顧みる必要を感じない塵芥にすぎぬと、そんなに何度もわかりきった事実を突きつけなくても、ここへ来る前から十分すぎるくらいに教えてもらっているし、きちんと覚えている。
大丈夫、忘れていない。
『皆様お待ちかね! 風の道化、94番!』
観客は盛り上がっている。俺は盛り上がっていないがそれはどうでもいいことだ。今日の相手は新米の魔法使いで、才能はあるが気が小さいのでそれが魔法にも悪影響を与えている、心の優しさが不必要な段階に達していてもうそれは単に度を越して臆病なだけだ、故に度胸づけとしてのこのセッティング、という説明があった気がするが、ついさっきのこととはいえ、これが正確な記憶かもう自信が持てない。
もしかしたら五日前の記憶と混同しているかもしれない。そうじゃないとしたら二日後か、三日後か。とにかくアテにはしないでほしい。
確かにその少年はタフガイには見えなかった。決してこんなことは本意ではなく、衆人環境で萎縮しているように思えた。だがここではそんな態度は許されない。
試合開始の銅鑼が鳴る。
俺はそうプログラミングされていたかのように前へと進む。
止めようとは思わない。
俺の目的は、最短距離で最少の手順で彼を殺すことだけだ。
だが、俺が彼を殺すことはありえない。
俺がどんなに手を尽くしたとしても、それが功を奏し結果を残そうとしたとしても、奴らはそれを取り上げる。奴らは必ずそれを取り上げる。そんな状況下で、自主的な行動に意味は残るのか? 一体誰が何かを望んで行うというのか。
そういえば、魔法使いと闘うのは初めてだ。アーデベス卿とステラングレ卿が俺に見せた魔法は、どれも直接傷つけたりするようなものではなかった。だからいまひとつこの世界における魔法の立場がよくわからずにいたのだが、この状況から考えるに武力として既に認められているものでもあるのだろう。そして目の前の少年はその力を持っていて、俺を殺そうとしなければこのデモンストレーションを終えることができない。
俺はとっくの昔に相談を持ちかけるのはやめている。
そして彼は無抵抗主義者ではない。
俺がどうあっても向かってくるであろうことを悟ると、腰の剣を抜くこともせず、開いた両手をためらいがちにこちらへ向けた。彼は最初から盾を持ってきていない。何かを短く口走ったが距離と早口のせいでよく聞き取れなかった。単に、かつて俺が持っていた注意力の大部分が失われているだけかもしれないが。
突風が吹いた。
それは不自然だった。前触れもなく、俺を浮かせるほど強く、そのままアリーナの壁へ叩きつけてくれるほど固まっていて、何より意思の産物だった。認識能力があるうちにかけてもらえる治癒魔法と似た感覚があった。魔力やMPというものがあるとすれば、それが体に触ってくる……そんなイメージだ。
忘れかけていたが、俺は風の化身という触れ込みでここへやってきたのだった。狙い通りの召喚になっていれば、俺もこのくらいのことはやれたのだろうか。全身打撲と左腕の骨折という結果を考えれば、それほど大したものではない。欠損がないのだから、大したことではない。
――このくらいのことを、やれるはずだったのだろう。彼らは本当は、程度がどうであれ、俺に力を与える予定だったのだ。予定が狂ったために、そうはならなかったのだ。
仮にもし、その狂いが修正されたとしたらどうだろう。多少強引な方法でも、予定の修正が実現できたとしたら? もしそうなっていたら、俺はどうしただろうか。
当たりどころが悪かったのか、その先を考えることはできなかった。
本能が俺を占有した。
微かに風が吹き始める。
~
94番は動かなくなった。
新米の魔法使いは、これ以上やる必要はないと考えていた。
そもそも、始めるまでもなく決着はついていたのだ。
皆が言うように、彼は自身の才能に気付いていた。
彼はそれをおそれていた。
皆が要求するあれこれを成し遂げてしまうことは簡単だ。しかし、その次の要求は、必ず前の要求よりも大きなものになるだろう。彼は、自分がそれをどこまで実現できてしまうかわからなかった。それがおそろしいのだ。いつかできない要求が立ちはだかることをおそれているのではなく、ひょっとすると、自分はどこまでも実現できてしまうのではないか――それがおそろしかった。果てが無いように思えたのだ。
いつまでも逃げることができないのは理解している。だから今回こうして腕試しの場にわざわざやってきたのだ。散々叱られて、不承不承なふりをして、やるまでもない、腕試しの場に。
あの94番が勝てる道理などないのだ。
……尤も、それは皆が承知していることでもある。
あれが彼を脅かすことなどないのだ――仮に、スレラングレ卿とアーデベス卿が冗談交じりに話していたように、風の化身だったとしてもだ。彼はそれ以上の風を持っているのだから。
遥か後ろで控えている兵士達に、振り返って目を向ける。もう十分だろう、と表情で非難するが、彼らには伝わらない。観客も同様で、さらなる展開をお望みのようだった。
彼としてはこの辺りで終わらせておきたかった。これ以上のことが出来ると、多くのエルフに思ってほしくなかった。自分ができるのはこれが精一杯であると思わせておきたかった。やはりここへ来たのは失敗だった。いつだって逃げ帰れると思っていたが、甘かった。この場所の持つ雰囲気が、彼を呑み込み始めていた。
後に引くことなどできない。
それはできないのだ。ここでの出来事は、今までとは違う。ここで彼が闘いの先を放棄すれば、失望が一斉に襲いかかってくることになる。彼と94番を除く、この場にいる全員の失望が。それは今まで彼に向けられてきた失望とは、規模も種類も異なるものだ。勝手で無責任な失望は、暴力だ。彼の将来を思うが故に向けられるそれとはまったく違う。
彼はそれには耐えられない。彼はそれには耐えられるようにできていない。それは彼を破壊してしまうだろう。
やるしかないのか、やるしかないな。自問自答し、彼は再び両手を94番に向けた。あの闘技奴隷が死んでいないことはわかっている。その程度の調節など造作もないことだ。
嫌だったが、先程と同じ風に襲わせた。
94番はぴくりとも動かなかった。
――動かないままだった。
それはありえないことだった。万全な状態の彼が、魔法を発動し損ねるということはありえなかった。倒れ伏している彼を、風が無情にも苛まなくてはいけない。そうならないはずはなかった――この異常さに気付いているのは、まだ、彼ひとり。観客達の興奮は変わらず、振り返っても兵士達はその意味を理解していない。
何かの間違いであってほしいと、淡い期待を抱きながら、彼は三度目を撃った。
四度目を撃った。
ようやく、周囲が事態の異常さに気付き始めた。盛り上がりは消失し、何かよくないことが起きているのではないか、という不安が会場に浸透しつつあった。兵士達が慌てながら未だ倒れ伏しているだけの94番へ駆けていった。そしてそのまま三人が手にしていた槍を94番めがけて伸ばした。
確かに、原因があるとすればそこしかなかった。
穂先は94番に届かなかった。阻まれて届かなかった。
彼は急激な魔力の立ち昇りを見た――この距離からでも目視が可能な、それを見た。
咄嗟に風壁を前方へ向けて展開したが、直後に側面からの突風が彼の自由を奪った。