4-7 誅滅
再び、日々は穏やかに過ぎ去っていくかのように思われた。
あくまでも、次の刻限へと追われながら、だが。
本格的に修業が始まった。ジュンの上達は目を見張るものがあった――戦闘を想定されたものに関してだけ。
「どうですか、お嬢様の調子は」
「……そうね、……手際がいいとは言えないわね。慣れていないなら、あんなものかとも思うけれど……」
微妙にバランスの崩れた結び髪を揺らしながら、姫様はそう答えた。慎重だった。
侍女としては、まだあまりよくなさそうである。
アデナ先生のところの侍従殿は、会う度に際限なく疲弊している。
一週間で、とりあえず俺は負かされるようになった。
剣術と体術ではもうまったく歯が立たない。魔法ありになれば、さすがに経験の差でいくらか勝ち目も残るのだが、純粋な肉弾戦となると、元々の体格差もあって非常に厳しい。意外なことに、ジュンは学校に行ってない=部活もしていなかった割には、既にいい身体を持っていた。すごくではないが、ある程度鍛えられていたのだ。
これは本人によれば、
「お金がないから新しいものは買えなかったけど、時間だけは有り余ってましたから」
ということらしい。
女性でもそういうことをするのか……と思いつつ、孤独なまま黙々とそういうことを続けられるのは囚人だけだよ、と言うのはやめておいた。俺だったら別になんともないが、それで彼女が傷つくことは容易に想像できた。
異性の、しかも年下に遅れを取っていることに対して、思うところがないわけではない。俺も悪い意味で男だ。ただ、ここまで来るともうそういうレベルの問題ではなくなってくるというか、ジュンは俺とは違って、ある程度この世界に魔法以外でも適応できるように召喚されたのではないか、と密かに思っている。そもそも、アデナ先生の課した消化が困難なはずのトレーニング・セットに追いつきつつあるのだ。この事実は先生の機嫌を少し直した。スケジュールの更新が必要だと俺の前でぼやいたのだ。
一方の俺は、今でも姫様と対峙したら最初のローキックで沈みかねない。
「あだだだだだだだだだだだ、戻せるからって折るなよ姫様ァ!」
「いいえ、これだと折れないままになるのよ」
「うそだうそだそういうふうになってねーよ」
「ここからこちら側に回すと、きれいに外れるわ。わかる? ジュン」
「参考になります」
自分でも思うのだが、俺はレギウスの失敗の賜物なのだ。本当ならば、ジュンのようにすんなり魔法を使えて、肉体も元の形を保ったまま構造がこちらの世界向けに変性していたっておかしくないはずだったのだ。
だが、魔力でぶん殴られるまでフタは閉じたままだったし、身体も元の世界の性質を引きずっている。どうでもいい制限がかかっている。
一応、その代わり、エルフと戦う時だけは、俺は天災になるのだ。
ただ、ジュンのように正常に召喚されたからといって、一朝一夕に達人級まで育つかどうかまでは保証されない。
さすがの彼女も、岩を割るのには苦労していた。
俺と似たようなもので、魔法が器用にはなっていくのだが、最大の出力が思うように伸びていかない。かといって姫様のように剣だけでやれるほど熟達もしていない。
一番上手く魔法を使うための精神状態を自分で見つけるまでは、壁は崩れない。
ジュンの様子はそんなところだが、俺はといえば、レギウスを捕まえる前とはあまり変わらない日々を送っていた。もちろんジュンに付き合って訓練も重ねるが、エルフがいない状態での上限はたかが知れているから、正直、全部に付き合ってもこちらへのメリットは薄い。それならば、披露する頻度は減ったものの芸の仕込みに力を入れた方がよほど後々に生かせるだろうし、勉強会の準備も次から次へと入ってくる。ジュンの協力(特に理系)を期待してはいたのだが、彼女は彼女で取り組まなければならないことが山積み(何せ並行している)で、肝心な知識の方がどうも覚束ないということもあり、当分は援軍を望めそうにない。
まだ個人的に図書室の書物で調べなければならないことも山ほど残っていた。
ただ、それにも段々と満足できなくなってきた。
最近では昼間でも勝手に出歩いて姫様を捜しに行くことができるようになった。
捕まるかどうかはその日の彼女の予定次第だが、この時は運よく暇を持て余していたらしかった。
彼女達は庭にいた。姫様とジュンの二人で、卓上の何事かに耽っている。
「あ、いた。おーい……」
と、手を振りながら俺は近寄った。
ほどなくして、勝負の気配を感じ取る。
盤面を覘き込んだ。
「……これは、何をしているんですか?」
「戦盤よ」
「なんですかそ、あー……」
将棋だこれ。いや……チェスか?
俺が観察を始める前に、ジュンが口を開いた。
「――すみません、多分もう勝てないです」
「まあ、そうね」
と姫様も降伏に応じた。
「こういう遊びがあったんですねえ。考えることは一緒ですな」
「あなた達の国にもあると聞いたわ。だから、こうして付き合ってもらっていたの。それで、わざわざ来たからには、用事なの?」
「ええ、やはり奥の書庫の貸し出し許可が欲しいのですよ」
図書室の奥の書庫は、原則として貸し出し禁止である。
残っているが、大多数の目に触れさせることのできない書物が保管してあるそうだ。
大昔に回収指定された思想書やら、全年齢向けではないやら、あまりに冒涜的な内容であるやら――と、そういういわくつきの書物達である。魔法がかかった本というのもあるらしい。極一部ではあるそうだが……。
「他に歴史書が残っているとしたら、あそこしかないでしょう」
そんな中に、希望がまだ残されてはいないかと俺は考えていた。
「まだ目を通していない資料を見つけ損ねている、ということはない?」
「いや、歴史に関するものは、全部読みましたね」
しかし、こう断言できるほど文字に溺れても、この世界の歴史はあやふやだった。
どこまで信用していいものかわからなかったし、第一、三百年戦争以前の有力な資料は、ほとんど散逸しているといっていい。詳細なものは、既にヒューマン側が敗走を重ねるところから始まっている。ヒューマンやエルフは戦争が始まる前は一体何をしていたのか? 俺はそれが知りたかった。
もっと具体的には、召喚魔法がどのように使われていたのかを、知りたい。
召喚魔法は復刻されたものだ。レギウスが俺達を召喚するまでは、ずっと、ずーっと失われていた。素質のある者が生まれてこないか、素質を見出せるだけの環境が整っていない状態が続いていたのだ。
誰もが、召喚魔法はもう絶えたものであると考えていた。
今に至るまで、それはほとんど伝承でしかなかったのだ。
大真面目に召喚魔法を復活させようと考えていたレギウスは、エルフから見ても相当変な野郎だったに違いない。だから国の保護を受けられなかった。闘技場で肩書きを紹介された時も、誰も本気では受け取っていなかったのだろう。
だが、あのエルフは召喚魔法が使えることを、残っていることを、かつて使われていたことを証明した。レギウスのやり方は、奴の言い分を丸々信じるならば、老衰を迎えるほど長く生きたエルフが死ぬ間際に書き残したと言われる比較的最近(といってもそれも二百年は昔のものらしいが)のハウツー本を偶然手に入れ、それを大いに参考にしたとのことである。成果が出てからその存在を公開するつもりだったらしい。資料を手に入れるまでは、レギウスは自分に魔法の才能があるということすら気付かなかった。
しかし、戦争が始まってからも著者が生きていたのならば、その力を俺達のように戦争に生かそうとしなかったのだろうか?
これについて、レギウスは老エルフが衰えによってアガリを迎えてしまったのではないかと推測している。推測でしかないのは、その本はかなり不完全で、比較的序盤と思われる章の部分しか残っていないせいらしい。
奥の書庫に、似たようなものか、あるいは続き、あるいは関連資料があるとしたら?
戦争が始まる前の時代に、先達がいた可能性は非常に高くなる。
既に誰かが俺と同じようなことを考えて、目を通しているかもしれない。その可能性がある時点で望み薄ではあるのだが、書物を読むためだけに遠方まで出かけるにはまだ早いし、首都にない資料が地方に出て見つかるかというと、それも疑問なのだった。
その前に、やれることはやっておきたい。
「でも、特例中の特例になるわ。書記官には書記官の権限があって、説き伏せるには相応の準備が必要だし……公式に奥の書庫が開かれた最後の記録は、私が知る限り百年以上前のもの」
「非公式だろうが何だろうが構いません。面倒くさがってる場合ではないですよ。向こうがいつまでも悠長に構えていることはないのですから、こちらも急いで新しい戦力増強手段を確立しなければ……そのために少しでも情報を集めようってだけのことではないですか。教授のご機嫌を取るのもそのためでしょう」
教育施設に所蔵されている書物の方も、当たってもらってはいる。
だが、本職が普段利用している図書館で今まで結果が出てなかったわけだから、おさらい以上の意味は持たないだろう。
「手間を惜しんでいるわけではないわ。言うまでもなく、私も同じ考えだもの。でも、特例はあくまで特例なのよ。それを通す時は、それまでにはなかった力のかけ方が必要になる。それをすれば、誰かの機嫌も損ねるの。それでなくても私達は先の件で顰蹙を買っている。私やあなたのような人格が存在しているだけで面白くないという誰かが、常にいる。無論、ヒューマンの中に。そういうことは、あなたも憶えておかなければならないのよ。わかるわね? 最近のあなたを見ていると、どうも気持ちばかりが先行して、頭からいくつか物事が抜け落ちているように感じるわ」
確かに、最近俺は自分がただの道化師に過ぎないことを忘れがちかもしれない。
実態がどうであれ、ただの道化師を、重要機密や希少価値の高い書物の詰まった部屋に通すわけにはいかないのだ。普通は。
「私の魔法は、何でも実現できる魔法ではないのよ」
その通り。姫様を通しているから無理矢理融通のきくような状態になっているだけで、本来なら姫様の権限にも限りがある。王様が姫様の言うことを比較的聞き入れるようになっているからいいものの、彼だってそのうち考えを変えるかもしれない。
彼女は少し俺を咎めるような目つきで見ている。
伝わるかどうかはわからないが、俺も反省するような視線を返した。
「そう遠くないうちに奥の書庫は使えるようにしておくわ。あなたが立場を忘れないのなら」
「お願いします。……ところで――私もこれ、やってみていいですか?」
俺は駒の一つを手に取った。一番数が多いので、おそらく歩やポーンと似たような役割の駒だろう。
「構わないわ。でも、まずはやり方を覚えてもらわないと」
「頑張ってください!」
そう言って、ジュンが席を譲ってくれる。
「いや、お嬢様を立たせるわけには……」
「まあまあ、今は周りに誰もいませんし、じっと立ってるのも修業です」
「そうですかね……?」
戦盤は、そこまで変わったゲームではなかった。
復活しない将棋、が近いだろうか?
元いた世界で将棋もチェスも定石をある程度憶えるまでは齧っていたせいか、姫様との勝負は存外長くなった。しかし、経験の有無と、地頭の違いで、結局は途中で手がなくなった。
飢えていたというのもあるが、戦盤には不思議な魅力があった。本当はそんなことをしている場合ではないのだが、もう一回だけならやってもいいかという気になり、俺はそう姫様に伝えた。
「……あなたとは疲れるわ。ジュンとやりなさい。私は先に戻っているから」
そんなにアレな打ち筋ではなかったと思うが、決めるのは他人だ。
「じゃあ……お手柔らかに」
と、ジュンが姫様と席を入れ替わった。
「今までに将棋とかチェスの経験は?」
と訊ねてみる。
「全然なかったです。こういう、対戦するゲームって、流行ってなかったですし。でも、新鮮で面白いですね。どうやったら勝てるか、さっぱりわからないですけど……」
「ふーん」
駒を並べながら、俺はぼやいた。
「どっかにダイヤモンド落ちてねえかな……」
質の高い金剛石の確保も急務だった。
とにかくアレがないと、あまり意味もなくエルフを一匹飼っているだけになる。
一体いつになったら、煩雑な課題が綺麗さっぱりなくなって、ただエルフを殺すだけの作業に入ることができるのだろう?
この調子だと、準備をしているだけでジジイになっちまう。
姫様の言ったことは、そう遠くないうちに表面化した。
次の戦いの準備に追われているのは、何も俺達だけではない。実際に金や人手を出す貴族達もまた、水面下で話し合っている。
城で行われる会合は、いわば時間制限を設けた待ち合わせ場所のようなもので、そう考えると俺もストリートでおひねりを頂戴するパフォーマーと大差ない。
「しかし、妹の婿殿は存外頑強な性格をしていて、なかなか首を縦に振りません。議論を重ね、なだめすかしてどうにか承諾させた頃には、夜明けを迎えていました。結婚式はその日の昼から行われ、誓いを済ませる段になって、急に暗雲が空を多い、雨粒がぽつりぽつりと出席者を濡らし始めます。急な祝宴にかけつけた村人達は不吉なものを感じずにはいられませんでしたが、なんとか気を奮い立たせ、陽気に歌い、手を打ちならしました……」
『走れメロス』である。
俺は話しながら、ちらりと遠くに座るジュンを見やった。彼女は姫様の近くに控えていて、今はおとなしくしているが、あの料理を取って来い、とか、あそこの太い殿方を連れてこい、とかの細々とした用事をこなすことになっているらしい。ジュンが来る前は、その時姫様の目についた端女が担っていた仕事だが、こうして侍女を置いたおかげで一本化されたわけだから、まあよかったのではないだろうか。
物語が進み、メロスが諦めの淵から帰還する段になって、それは起こった。
「そっと頭をもたげて、息を呑んで耳をすますと、どうやらすぐ足もとで水が流れているらしいことがわかりました。よろよろと起き上がってみると、岩の裂け目からこんこんと、小さな囁きを伴いながら清水が湧き出ているのです。水の精霊の加護でしょうか。泉に吸い込まれるように身を屈め、水を両手で掬って一口飲」
突如として、広間の出入り口が開かれた。
いつものように衛士が詰めていたはずだが、前触れはなかったように思う。
俺は一旦話を中断し、おそらくは闖入者の登場に注目した。
人垣に阻まれて、誰がそこにいるのかまではわからない。
次の瞬間で、血に染まっているところまではわかった。
跳んだから視界に入ってきたのだ。
客人達の肩や頭を足場に易々と軽業を披露したところから察するに、あの血は自分のものではないだろう。おそらくはここへ至るまでに処理してきた衛兵のもの。しかも、騒ぎにならないよう、静かに静かに流してきたものだ。
遥か頭上を通過していこうとしていた。
王様を狙っているのだと思った。しかし最短距離が算出されて考えを改める。
姫様だ。
人型をしてはいたが、一瞬で種族の判別がつきかねた。
それが魔法を鈍らせている。風で空中から叩き落とそうと、せめて進行を少しでも妨げようとするが、相手の方が何倍も速い。
中にいた衛士が着地点の前に立ちはだかった。また跳躍されたら意味がないだろうと思ったが、刺客は無造作に三人をまとめて一太刀で屠った。
パニックの膨張が始まった。
そしてその時にはもう、賊は次の跳躍に移っていた。
姫様と交戦するのに、あといくらもかからないだろう。
「誅滅!」
姫様は頑丈だ。ちょっと血を流したぐらいでは全然問題ない。
毒などもらっても魔法で戻す。
だが、と俺は思った。
だが――即死したら、そこで終わりだ。
賊の得物は気合が入っていた。大鎌だ。首を欲しがっている。
姫様は丸腰だった。
それでも姫様なら、上手いこと捌いてしまうかもしれない。
――というのは、こちらの希望にすぎない。
駄目だったらどうするのだ。
死ななかったとしても、戻しが追いつかないほどの怪我を負ったらどうするのだ。戻してもまたすぐに負傷するだけだったら?
奇襲が成功してしまったら、それが有効な手段であることを、証明してしまうのではないか?
あっさりとしたものだった。
俺は間に合わなかった。
見逃した。
ジュンが迎撃に向かった。
無茶だ、と俺は思った。
確かに彼女は俺よりやる。だが、姫様とは比べられない。
その有名轟く姫様を、こんな真正面から仕留めようとする相手だ、実力は折り紙付きでないとおかしい。ジュン自身も丸腰なのだ、太刀打ちなど、
空間が決壊する。行き場を失った透明な液体が止めどなく溢れ出るかのように思えたが、すぐに何者かの――コミナトジュンの――支配による影響を受けた。
単純な形だった。
彼女は水で剣、というより刃の作成を試みた。果たしてそれは上手くいき、わざわざ握らなくとも自在に操れるであろう一枚のカッターナイフとしての役割を得た。
刺客が怯むわけはなかった。
だが、ジュンにもまだ余力が残っていた。
こちらへ向かってくるその勢いを――大して労力も使わないのだろう――水の壁で、一旦殺そうとした。
いくらも減衰しなかった。交錯が決定された。
そして、ジュンの刃は、明らかに、五十枚以上――に、分かれた。
てんでばらばらな動きで、切り刻みを始めた。
あっさりとしたものだった。
すぐに事態は収束した。
賊は孤独だった。組織的ではない突発的な凶行として、その場は処理された。
会合はお開きになったが、ほとんどの者が残って、姫様の無事を喜んだり、暴漢や衛兵の死に様に恐れおののいたりした。
『走れメロス』は宙ぶらりんになって、俺もとりあえずその場に残ったが、周りの反応に触れながら、ズレを感じずにはいられなかった。
確かにジュンが魔法を使えることは知れ渡っていなかった。姫様の新たな侍女であることも、広間の半分くらいは今日初めて知ったのかもしれない。身体こそ大きいが、まだまだ若く、何よりもか弱い婦女子でありながら、咄嗟に反応し、退けた。戦闘用の装備など一切着けず、魔法の力だけで、主人を救ってみせた。
驚くべきところは、そこではないように思える。
それとも、俺だけが気付いていたというのだろうか?
ほんの一瞬だけだが、しかし、確実に、ジュンは笑っていたのだ。
今のところ一番、いい表情で。




