1-3 はじめてのスプラッター
騒音で目が覚めた。バケツか何かを棒で叩きまくりながら、誰かが廊下を練り歩いているらしい。軍隊の目覚ましを連想しつつ、とりあえず起き上がる。寝覚めは最悪だが、もう一度横になろうとも思わなかった。体調はすこぶる悪い。体の節々が痛い。痛いといえば、火傷の痛みもまだ残っている。少しはマシになったが。
よく眠ることはできなかった。何度も痛みと違和感で目を覚ましたと思う。寝返りをうつのにも一苦労。まどろみの中で、自分が呻いているのを聞いたような記憶がおぼろげにある。いつだったか、親不知を抜いた時に一晩中血が止まらなくて、起き上がっては枕元のビニール袋に血を吐き続けたことがある。そんな夜に似ていた。
夢を見たような気もするが、わからない。
数分後に朝食が出てきた。昨日の夕食と同じメニューだった。相変わらず食べる気を失くさせる謎の物体だったが、どう嘆いたところでこれを詰め込むしかない。
その後は瞑想だ。意識してやるようなことは、もうそれくらいしか残っていない。それとて、俺のような俗物には五分と続けられるようなものじゃない。冷静さを取り戻すのは重要なことだと思うのだが、油断すればすぐ、怒りと不安と危惧と後悔の嵐だ。
何かに備えるということすらできない。
給餌係が今日の予定を読み上げてくれるわけではないし、ここで暮らす際の注意事項等の説明は誰からもされなかった。とにかく、何の考えを進めるにしても、材料が足りない。
ただ、堅そうな男が前座どうのこうのと言っていたから、一番近いイベントはおそらくそれになるのだろうが……いつなのかはわからない。
彼らの気が変わらず、俺の役目が剣闘士のようなものだとしたら、真っ先に思い浮かぶ相手は戦争で発生した捕虜や、戦えると見込まれた犯罪者だ。
勝負にならない。
仮に負けたとして、殺される前にストップはかかるのか? それでちゃんと試合は止まるものなのか? 止まらなかったらどうなる……。
死刑囚の恐怖は、死への恐怖ではなく、それがいつ来るのかに対しての恐怖である――という話を聞いたことがある。外では太陽が輝き、雀が羽ばたいて生命を示し、塀の向こうからは電車や自動車が絶え間なく行き交う、活気に溢れた物音が聞こえてくる。流れている時間は紛れもなく同じものなのに、それを鉄格子の付いた狭くて冷たい部屋の中で、靴音に震えながら共有しなければならない。それが苦痛なのだと。
これも、似たようなものだろうか。
抗うための余地がない、というのはこういうことなのか。努力をしようと考えるきっかけさえ潰される。ここはきっと、そういう場所なのだ。
元いた世界は、びっくりするほど自由な世界だったわけだ。窮屈で退屈にしていたのは俺自身だ。目を閉じ耳を塞いで、そのくせ口を噤まなかった。そんな奴に世の中の何がわかる? 本当は、俺はいくらでも見つけることができたはずだ――いくらでも。
頭のどこかでは、ちゃんとわかっていたんだろう。
俺はそれを不当に否定し続けただけだ。そんな呪い方に、効果なんぞあるわけがない。
こうして実際に屈まざるをえない状況になって、そういうことがやっとわかる。
遅すぎる。
もし、これからがあるとしたら、どうすれば先手を取れるようになるだろうか?
意外にも、部屋の外へ出されたのは昼食後のことだった。
早い。
昨日の今日だぞ。
いや、焼印の他にも、まだ何か準備や手続きが要るのかもしれない。例えば、装備のサイズをチェックするとか。
この予想は当たった。俺が連れて行かれたのは武器庫のような所で、そこには大小様々な武器と防具が収められていた。ざっと見たところ、銃火器の類はない。主な内訳は剣、槍、斧。そして、博物館から引っ張り出してきたかのような鎧。甲冑という感じではなく、どれも一部分に装着するようなものばかりで、派手に見せたいのか装飾されているものがほとんど。
管理者と思われる男が、俺を連れてきた兵士と話し込んでいる。
「妙な奴を連れてきたな。上の注文はどうなってる?」
「剣と盾だけでいい、と」
「そうか。……まあ、それがいいだろうな。ありゃ、鎧付けたら満足に動けんぞ。ヒューマンか? にしちゃ珍しい面だが」
「俺にもようわからんよ。ステラングレ様に召喚されたらしいんだが、何ぞ手違いがあったとかで……」
「ふーん、そんなこともあるんだな。相手は?」
「すぐに他の奴らが連れてくる。どこだかへ泥棒に入ったけど、家のモンが起きてたってんで捕まったんだと」
「アホな話だ」
「まったく」
テキトーとしか思えない基準で見繕われた両刃の剣と、四角い盾が俺の装備に決まった。それも、試しに持ったり、振ったりすることはできず、体のサイズに合っていると判断されただけだ。まあ、手足を自由にした途端襲い掛かられるのが面倒なのはよくわかる。俺は違うが、手練れを相手にこの業務をこなさなければならない時だってあるだろう。だが、これから命を預ける道具を確かめることすらできないというところに、立場の弱さを感じずにはいられない。
装備は、俺の代わりに兵士が運ぶことになった。俺の代わりに……このまま部屋へは戻らないのか? じゃあ、俺はどこへ連れて行かれるんだ?
ちょっと待て。
まさか本当に今日なのか?
確かに、どういう頻度でこの施設におけるイベントが開催されるのか、俺は知らない。
だが、こんなにすぐだとは思っていなかった。客はどこから来るのか知らないが、塀の外はきっと街だろう。そこに住んでいる人々は普段は働いているんじゃないのか。この世界の暦はわからないが、そういうのは週末にやるものではないのか。今が週末なのか。今日は休みなのか。金だってかかる。有力者がそれを捻出していたとしても、それだけで足りるものなのか。俺が考えているよりも発展した経済がこの施設を支えているというのか。
もしかして、闘技会はプロ野球並みに毎日開催されているのか。
――ひょっとして、競馬みたいな頻度なのか。
もし賭博が絡んでいるとしたら、経営のやり方にもよるが、まあ、基本的な予算は確保できていると考えられる。そこにプラスαをしようと思った時に、スポンサーの存在が必要となるんだろう。なるほど……。
いや、いや。そんなことを考えている場合じゃない。問題は、今から俺がぶち殺されるんじゃないかということだ。どうやってそれを回避するか?
――だから、もう何度自分に言い聞かせたかわからないが、それが思いついていれば、とっくに実行へ移している!
チャンスがあるとすれば登場の直前、鎖の縛めを解かれたその時かと思っていたが、そんな都合のいい話はなかった。
今俺がいる控え室代わりのスペースには、ただでさえ兵士達が詰めていて、金属の輪を外される時には剣が俺の方に向けられていた。武器を渡されても先手は取れない。達人だったとしてもまず無理だろう。ひとりかふたりなんとか殺して、自分も死ぬのが関の山。
となると、だ。一番安全なのは、実はこの先の段階なんじゃないか?
さっき聞いていた会話が正しければ、相手はひとり。……ひとりだ。
俺が圧倒的不利なのは変わらないが、武装した兵士達と武装したコソ泥ひとりなら、後者の方がまだ勝ち目があるってもんだろう。何かやらかそうとするなら、そこだ。
外からはざわざわと幾重にも重なった話し声が聞こえてくる。客の入りは悪くないらしい。一対一で戦わされるにしちゃ、見えるフィールドは広い。それこそ野球場や競馬場に使われてもおかしくないような大きさが確保されている。
銅鑼のようなものが鳴らされると、会場の話し声はぴたりと止まった。同時に、俺は背中を小突かれた。そういう絡繰りがあるのか、目の前の門が自動的に開かれていく。
行け、ということらしい。
お望み通りに、歩いて出ていく。
盾も剣も、俺には重い。すでに腕がだるくなってきている。
こんなもん使って闘えって? 無茶言うな。
『皆様、アーデベス・アリーナにお越しいただきまして、まことにありがとうございます。本日のオープニングは、少々変わった趣向を凝らしております』
――拡声器があるのか?
だとしたら、最初に考えていたよりも科学は進歩しているんじゃないか?
わざわざこんな古代のような場所を使わなくても……いやいや、冷静になれ。魔法があるんだぞ。通常より遠くへ声を響かせることくらい、簡単にできたっておかしくない。俺がいた文明とは違うんだ。
『ただ今、東から入場いたしましたのは、新進気鋭の召喚魔法家レギウス・ステラングレ卿によって召喚された、異世界からの風の化身……だと期待されうる者、94番ですが、未だ予想されていた力の片鱗さえ確認できておりません』
会場を見渡してみる。観客席に空きはないように思えた。予想はしていたが、人間らしき生物はいないらしい。彼らは皆、地球に住んでいる人間でいうところの白人に似ているが、一様に、ここからでもわかるほど、耳が長い。
そして、奇妙に若年層だった。
ほとんどの視線は俺に向けられている。奇異なものを見る目だ。
多分、俺も同じ目をしている。
上の袋は一時的に回収されている。見せつけている腹の94が、今の俺の身分証。
奴隷の身分証――。
『実力は未知数、そのままではただのヒューマンと何も変わらないということで、』
ここで少し笑いが起きた。実力は未知数、か。ものは言いようだな。
『一度は処分が考えられました。しかし、曲がりなりにも知性が確認されたため、何か隠し事をしているのではないかという疑いが残っております。そこで今回、このように試しの場が設定される運びと相成りました。この者が追い詰められれば、あるいは皆様を楽しませる何かを披露するやもしれません。ひとつの実験として暖かく見守っていただければ、幸いであります』
どうやらこのナレーションは、比較的手前の方にある、明らかに身なりのいい者達が終結している区切られたエリア――コンサートやスポーツ試合のS席に当たるのだろう――の隣に設けられたコーナーで喋っている男によるものらしい。
飾られた短い棒を持って、そこに向かって喋っているように見える。
マイクなのか?
だがあれ自体に拡声効果があるかどうかまではわからない。
再び銅鑼が鳴って、向かいの、俺が出てきたのと同じ形をした門が開かれる。
やはり、現れたのはエルフ。
『対して、西から参りましたるは、民家に忍び込んだ何の変哲もない泥棒であります。しかし、この男運がなかった。明かりが消されていただけで、家主は起きていたのです』
再び笑いが起こる。泥棒だとされる男はゆっくりとこちらへ向かって歩いてくる。
うーむ、やはり無理なんじゃないかと思えてきた。
だって、あまりにも体格が違いすぎるよ。こいつなんで泥棒なんかやってたんだ?
そんだけ持て余してそうなら軍隊にでも入ればよかったのに……そんなに睨むなよ。
こうなると、なんとかして倒す案は却下だな。
プランBでいこう。
『少々奇妙なカードではございますが――皆様、どうぞお楽しみください!』
銅鑼が三回連続で鳴らされる。声援とも野次ともつかない叫びがあちこちから飛んできた。耳を抑えようと思っても両手は塞がっている。いきなりすぎて戸惑うが向こうはやる気らしく、ずんずん歩いて距離を詰めてくる。
そこへ話しかける。
「ちょっといいかい?」
男は足を止めた。俺は挑戦するかのように剣を向けた。
「提案がある」
観客達の反応は変わらない。周りがうるさいから、俺の声は聞こえていないだろう。何か喋っている、ということには気付くだろうが。
「正直言って俺はあんたと闘いたくない。こんなくだらないことで血を流す必要なんてない。そうだろ?」
彼の装備と服装は、俺と大して変わらない。お互いにこんな状態で斬り合ったら、勝ったって傷を負うかもしれない。この世界には怪我や病気を治す魔法もあるのかもしれないが、俺達のような立場の者は、おそらくその恩恵を受けられまい。
で、あの驚異的な食事だけで治癒力を賄えると思うか?
どう考えたって割に合わねえ。誰にとっても、だ。
「もう手遅れかもしれないが、ちょっと頭を使ってみようじゃないか」
間合いをはかっているかのように、衛星的な軌道で足を運ぶ。
訝しげな表情を男は作った。そりゃそうだ。
続ける。
「考えてみてくれよ。俺達は敵同士だが、それは俺達自身が決めたことか? 違うだろ、人に言われて闘うことになっているだけだ。そんな状況で真面目にやったってしょうがねえ。使い潰されて死ぬのがオチだ。それなら、もっと利口に立ち回るべきじゃないか!」
沈黙。しかし、やがて、
「……お前が何を言っているのかわからない」
よし、よし! 反応を引き出せた。
こいつは偉大な一歩だ。
声が小さいって意味じゃないよな? ちゃんと話、伝わってるよな?
頼むぜ。
「そんなことはないよ。俺達の元々の役割を考えれば、自ずと答えは見えてくる。今の俺達は客を楽しませるためだけの存在だ。そうだな?」
男は少し考えて、首肯。
「だから、要はその条件さえ満たせばいいんだよ……殺し合わなくても! 簡単さ。闘っているふりをすればいいんだよ。誠実なやり方じゃないが、お互いさまだ。ここで怪我したってつまらないぜ」
俺と似たようなことを考えている奴がいるはずなんだ。それでうまくやっている奴だって、きっと。それが理解できない彼じゃあるまい?
「肯定なら、三回連続で瞬きだ、いいな?」
だが、男の瞼は微動だにしなかった。
最初は、突然のことで考える時間が必要なのかと思ったが、いつまで経っても、いや実際には大した時間は経ってないと思うのだが、この場においては長すぎる時間が経ってしまった。観客は始まらない試合を不審に思ったのか、初めに見せた盛り上がりを萎ませつつあった。
まずいな、と思い促すような意味で俺は何度も瞬きしてみたが、男は応じない。
代わりに、呆れたように笑った。
ブーイングがあった。
いつまでも何もしないわけにはいかないことは、彼にだってわかっている。
決裂だ。なんでだ?
思っていたよりも、踏み込んできたその一歩は大きかった。下がったのは無意識のことだったが、そうしなければ多分男はそのまま攻撃を始めていただろう。
やっとこさやる気を出したと判断されたのか、ブーイングはすぐに止んだ。
「ヘイ、ヘイ! まあちょっと落ち着けよ。そんなに難しいことじゃないさ……!」
男は剣を構える。
くそ、人をぶん殴ったのだって小学生の時が最後だぞ!
俺に奴が斬れるわけないじゃないか。
それで交渉したっつーのに……足元見られたかな?
「わかった。後悔するなよ」
とは言ったものの、プランCまでは考えていない。
まずい。非常にまずいぞ。
奴もきっと素人だが俺はド素人だ。技術無い同士でやったらでかい方が勝つのは火を見るよりも明らかだっていうのに、そのへんに利用できそうなものも転がってない。
奴は勝手がわからないなりに、こちらの隙を窺っているように思える。多分もうずっと俺は隙だらけだと思うが、奴なりの判断基準にはまだ引っかかっていないらしい。俺も隙があれば踏み込んでいかなければ勝てないということを頭では理解しているのだが、そもそもの決心がつかない。
奴はそのことに気付いた。意を決した気配があった。
そして、三度瞬きをした。
それで対応が遅れたのだと思う。いや、多分それがなくても俺の対応は間に合わなかったと思うが、とにかく大事なのはそれで俺の盾はどこかに行ってしまったということだ。
剣でぶっ飛ばされたから探せばちゃんとあるはずだが、それに優先して振り下ろされる剣先をなんとか逸らしてしまわなければいけないわけで、右手を振り回したら偶然だと思うが刃同士が激突した。甲高い金属音と共にびりびりくる衝撃が腕に伝わる。
スイッチが入ったと感じる。
やらなきゃやられるという強迫観念が体を突き動かそうとしているが、体は全然ついていけない。どうにもならないとわかった途端、俺の中を支配するものは身を守ることだけを肯定し始める。もうずっとそうなのだが、恐怖しているせいだ。
盾はどこだ? あった。
奴が俺と盾の間に割り込んできた。
ダメだな。あれはもう回収できん。
いや、待て、奴は瞬きをしていた。合意と考えていいのでは?
確かに盾は失われたが俺は無事だ。なんだか観客も盛り上がってきたような気がする。今の一連の流れは考えてみれば迫真の演技だ。いや、俺のは演技じゃないが、奴にとってはそうだったかもしれない。
――やるじゃないか。大した野郎だ。敵を欺くにはまず味方から、ってところか?
光明が見えたな。かなりびっくりしたが、この調子ならいける。
突然、左肩のあたりが熱を持った。異常に奴が近くなっていたので、驚いて飛び退いた。奴の剣の位置が変だ。さっきは上を向いていたのに、今は下を向いている。振り下ろされたかのように。熱を持った部分が痛くなってきた。不意に、腹と腕へ赤い筋が引かれて、俺は自分が出血していることに気が付いた。それは、放っておくとかなりの量になってしまうのではないかと思われた。
「……ちょっと、やりすぎじゃない?」
声は震えていた。奴は俺の非難に対して何の反応も示さない。
「わかった。このくらいはなんとかなる。けどこれ以上はやめてくれ、取り決めをした意味がない。わかるな?」
奴の剣は、急激に俺から見える面積を減らした。貫くように刃が伸びてきて、しかし幸運なことに俺はそれを捕捉することができた。避けた。奴の側面へ移動した。時間的な猶予がたっぷりあるように感じられた。左半身はひどいもんだが、右腕はまだ満足に動かせる見込みがあった。
ちょっとした駆け引きに敗北した、ということはきちんと理解しているつもりだ。
俺より奴の方がほんの少しお利口さんだったわけだ。
奴は同意などしていない。
だが、どういうわけか、俺は今、奴を斬ることができるチャンスを得た。
だからそうした。
そうしたのだが、奴を斬ることはできなかった。
実のところ、奴の突きは思っていたよりは浅いところで終わっていた。簡単に言ってしまえば、本気じゃなかったということだ。フェイントだ。隙があるように見せることができれば、それでよかったわけだ。俺はまんまと引っ掛かった。尤も、途中でちゃんとそれに気付いたのだが――しかし、却ってそれが悪い方向へ働いたかもしれない。
気付いたのだから、それを防ぐことだけが俺の課題だった。選択肢が二つあって、それは避けと受けだった。前者に関して、今や俺は圧倒的に自信を失っていた。奴は明らかに斬りかかる俺よりも先に刃を届かせる準備ができていた。だから俺が選択したのは後者だ。本来は奴を斬るつもりだった刃の軌道を、反撃に合わせて変えた。その方が確実な気がした。
奴は本気なんて出していなかった。それがよくわかる手応えだった。
鍔迫り合いになるまでもなく、俺の右手は剣を取り落とした。
拾えるか?
無理だ。奴は俺の剣を蹴った。
観客は随分盛り上がってきた。
何もかもが冗談じゃない。
何をやったってもう延命は不可能だ。
あと俺に何が残されている? 剣と盾はもうない。血も減ってきている。
絶体絶命じゃないか。
――さあ、いよいよ追い詰められたぞ。条件は整った。そろそろいい頃合いじゃないか。御望み通り。さあ、どうぞ。……さあ、どうぞ。
潜在的な能力? 隠されていたパワー? 何でもいいよ。現実的なところでは、乱入者とかでもいい。この状況を打開してくれるなら、何でも。
横薙ぎに払われる。反射的に手が前へ出る。左手の指先の感覚のいくつかが失われる。親指だけが残った。叫ぼうと思うのだが声を出すのが難しいと感じる。呼吸困難に陥っているのかもしれない。落とされた指が砂の上を転がっていく。下半身が生温かくなった。失禁らしい失禁なんて、小6の時にした屈辱的なおねしょ以来だ。もう脚も満足に動かない。腹が開いた。やはりそういうことになると腸というものはしまっておけなくなるらしい、悪臭が鼻をつくが正直それどころではない。やっと悲鳴を上げ続けることができるようになったが止め方がわからない。いつの間にか地面に背をつけて、空を見上げている。自分は物理エンジン内のキャラクターで、深刻なバグが左腕をねじっているのではないかと思う。多分もがいているだけだ。
視界を縁取るように観客が見える。だが彼らを正確に捉えられるほどの集中力は最早維持できなくなっている。ほとんど全ては反射でしかなく、俺の意志はもうどこにもない。耳障りに感じたのか、奴は額に皺を作りながら俺の下顎を切断した。それでも悲鳴は続くかのように思われたが、すぐに血の泡の音しかしなくなった。
記憶はここで途切れている。