1-2 赤熱の94
予想通りではあったが、下着も取られたのはかなりショックだった。取られたといっても、着替えた後自分で投げて渡したわけだが。
「これどうするよお。俺いらねえけど、お前着るか?」
「いや、いらん。だが、仕立てはかなりよさそうだ。売れば道化師なんかが高く買うかもしれん。そうだ、実況担当のボーナスが遅れているという話があった。奴にくれてやるというのもいい」
吊るしのリクルートスーツでも、彼らにしてみればそれなりの上物に見えるらしい。文化が違うからお気に召したわけではないようだが。だが意味するところを考えると、果たしてこのブカブカの袋二枚とどちらがマシか。というより、差はあるのか?
「そうするか。さて、じゃあ……早速試してみるとするか。おい、立ってみろ」
言われた通りに立ち上がる。手枷にはリードが付いている。そんなもので引っ張ってくれなくても、こう手足の間の鎖が短いと、走るどころか歩きすら覚束ないのではないかと思う。
軽そうな男が指を鳴らすと、足元の光は消えた。少し口調の堅い男が持つ、カンテラだけが輝くようになった。リードは彼の手にある。
意外にも、廊下を進んで階段を上った先の部屋にある扉が開くと、すぐ外だった。
たったそれだけの道程で、俺は三度転んだ。
彼らがせっかちすぎるというのもあるが、足枷の鎖で実現する歩幅のなんと短いことか。どれだけ努力したって、これじゃあまともに歩けない。まあ、そのための道具なんだが。
思わず目を覆いたくなるような魔境が広がっていたらどうしようかと思ったが、普通の芝生が生い茂った、広場のような場所に出た。空は青く、雲がいくつか浮かんでいて、太陽からは過不足なく日光が降り注ぐ。少なくとも地球の環境とはかけ離れていないように見える。高い壁がずっと続いているので、その先の様子はよくわからない。だが振り返ってみて驚いた。
それは巨大だった。といっても、高層ビルを見慣れている身としては腰を抜かすほどではない。だが今出てきた地下のある小屋に比べれば、遥かに圧倒される建物だった。
おそらく円形をしている。これに似たものを元の世界で見たことがある。言わずと知れたローマのコロッセオ、円形闘技場アンフィテアトルム。その完全版――俺はここで闘わされようとしている。
そんなよそ見をしているからまた転んだ。さっきの三回で、もう膝を軽く擦りむいている。こんな怪我など、久しくしていない。
「リードと鎖、外してやれ」
「ああ」
堅そうな男が指を鳴らすと、二セットの鎖とリードは溶けるように消えた。両手両足には金属の輪だけが残った。一瞬また逃げ出そうかと思ったが、多分もう一度指を鳴らされると鎖が復活するのだろう。不思議だが、そうなのだ。きっと。
「ちっと離れな」
物理的な拘束手段しか用意されていないというのは救いだな。こういう妖しげな術が存在するということは、精神に直接働きかけて逆らえないようにすることもできそうなもんだが。特に、別の世界から持ってくるなんてわけのわからん技術があるなら、セットで必要になっていてもおかしくはない。契約だとか何とか言って、命令したり対等な立場になったりするパターンは、元いた世界でもままある。
でも、そのへんのことを考えるには、まだまだ情報が足らんか。
「よーし、じゃあ、何かやってみろ」
「えっ」
「何でもいい」
「いや、あの、そんなことを言われましても、」
「なーんにもできねえってことはないだろ。この俺が召喚したんだから……即戦力じゃないはずがねえ。そうだろ、風の化身。自覚がなくても条件に合っているはずなんだから、何かは、できるはずだ」
こんなところに来てまで、即戦力、か。
つくづく運のない奴らだ。
どういう条件で引っ張ってきたのかは知らないが、俺より即戦力になりそうな奴が引っ掛かる可能性の方が高かったろうに。この俺が召喚したんだから……か。
事故? 手違い?
どちらにしたってお生憎様。俺は違う。違うんだ。そりゃ俺だってあんたらの眼鏡にかなった方がいいとは思ってるよ。そうである方がみんな幸せだろうからな。でもそうじゃない。そうじゃあないんだ。違うんだよ。
「違うんですよ……」
きっと、俺は今卑屈な笑みを浮かべているのだろう。見ているだけで他者をイライラさせるような。そういうことばかりが上手い。だからこうなった。
「違わねえ。やれ」
「簡単な魔法で構わない。多分それしかできないだろうが。武芸の形や演武でもいい」
やらなきゃ殺されるな。
問題は今言われたどれもできないということだが。
よし、こう考えてみてはどうか? この世界と元の世界の間に、特殊な通り道があると仮定しよう。イメージは……まあ、トンネルでも電線でも何でもいい。
軽そうな男の召喚――魔法によって、アクセス。俺はそこを通ってきた。
それで今、この状況。俺は言われたことをやれと迫られている。
言われたことが理解できる。
ここ。これ重要。この自動翻訳機能はおそらく召喚するにあたって俺に与えられたものだろう。言葉が通じないと面倒だろうから、事前に用意するかなんかして適用したんだろう。どこで? ――通っている最中? つまり、トンネルの中。だとしたら、だ。他にも、俺に与えられたものがある?
彼らが召喚というものをどう捉え、理解しているかはわからないが、風の化身というものを期待して召喚を行った結果、何の変哲もない俺が、通り道の中で風の化身として仕立て上げられたという可能性はないだろうか?
つまり、彼らが召喚していると思っているだけで、いや召喚もしてるんだが、実際には無能を使えるようにするのが、その魔法の正体。風の化身を召喚したというよりは、風の化身を作れそうな素体を別の世界から引っ張ってくる。条件付けとは相性やら何やらの条件。だから、今自覚がなくても、いざやってみる段になれば、自然に彼らの言語を聞き、喋ることができるように、風を起こすことができるのではないか?
どうだろう、この仮説。ドンピシャとまではいかなくてもニアピンな気がしないか?
それなら、
「――やります」
構える。
リー師父とジャッキーとセガールあたりがごちゃ混ぜになった、素人丸出しの思想も体系もないスタイル。異世界の異種族の目には、どう映るだろうか。そのままトーシロの盆踊りだろうか。それとも、ただならぬ気配のまだ見ぬ武術、その片鱗か。
「こぉ……」
呼吸を整えるつもりになる。気やオーラというものがもしあれば、それを練るようなつもりになる。もちろん、求められているのは魔法なるものだから、魔力でもいい。そうやって、体内で増幅されたものをイメージ通りに膜で包んで、指向性を持たせる。
前。
いいぞ、それでいい。
そうしたら次は、外へ、一気に、
「――はァアアん!」
あ、駄目だこれ。
出ねえわ。
風、吹いてない。
思わず振り返って後ろのふたりを見る。
どちらも無表情。
まずい。非常にまずいぞ。
「ちょ、ちょっと待ってください。今のはウォーミングアップですから。こうやって気合を入れるんです」
あああ面接で喋って全然手応えなかった時もこんな感じだったなあああ。
くそ! ダメなんだこういう雰囲気は!
また死にたくなってきた。また逃げたくなってきた。
胃が際限なく縮小していくような感じがする。
一点を注視することができない。
なんでわざわざ本番なんてものが存在するんだろう。緊張するだけじゃないか。普段なら淀みなく喋れるし、こなせるのに。俺があたふたするのを見て楽しいのかよ?
力む。目まぐるしくポーズを変える。身体が熱くなってくる。
「え、えやァーッ! ハァッ! おおおぉお、トあーっ! えいっ、たァあッ! せええぇェ……ハッ! でぇエ、ぜあッ! ッ――いあァあアっ!」
それなのに。
くそ――。
「おか、おか、しいな……。あれえ……? なんでだ……?」
エルフ達はしばらく黙っていた。
俺の無能を罵るでもなく、即座に俺を処分するというのでもなく。
ただ、事実は喜ぶべきではないものだということを、失望の色も見せず眺めている。
やがて、軽そうな方が口を開いた。
「……養成所に送るか?」
堅そうな男は答えた。
「いや、こういう奴は鍛えようとしても鍛えられない。わかりきっているのに教官達の機嫌を損ねてもしょうがあるまい」
「じゃ、どうすんだ」
「……まあ、前座だな。体裁が整うかはわからんが。――お前にしては珍しい失敗だ。でも、気にするな」
「よせよ。今すっげー自己嫌悪なんだ」
当たり前のことだが、ボンクラはどこへ行ったってボンクラだ。俺を召喚したのは彼らの落ち度だが、だからといって俺が相対的に見直されるようなことはない。
こういう時だ、逆に申し訳なくなってきてしまうのは。手の中にデザートイーグルがあればあのふたりをぶち殺して自分の頭も吹き飛ばせるのに、と思う一方、この程度の生き物で本当に申し訳ございませんでしたという気持ちがある。
俄かにビジョンが重なる。
そのPRは足りなくないか、それしか台本用意してこなかったのか、ここ突っ込まれるって想定してこなかったのか、ソツのない嘘もつけないのか、なんでこいつ面接に上がってきてんだ、それがお前の完成形だとしたらとてもじゃないが、なんて、そんな目をされても――言い訳すら尽きた俺は、ただ黙るしかないわけで。
そう、完全に俺が悪いのに、それでも社会が悪い国が悪いてめえらが全て悪い、と言いたくなるこの精神構造を木端微塵にしてしまいたい願望だけがぼんやりとあって、実行には移されない。明日世界中で戦争が起こってヤバい兵器がどんどん投入されて全部更地になって全部リセットされたらどんなにいいだろうか。
しかし冷静になって考えてみれば、それで一番困るのは俺だ。
彼らはすぐ俺を殺す気はないらしかった。再び両手足が鎖で繋がれ、リードが俺をせっついた。次に連れて行かれたのは、これまた円形の建物に付属しているような箱だった。連れ出された小屋と比べるとかなりでかい。側面に規則正しく並んだ格子窓を見るに、その役割はなんとなく想像がつく。
鍵は外側からかかっている。
この部屋を説明するのはそう難しくない。備え付けの家具――果たして本当に家具と言っていいのかどうか――ベッドと、トイレというよりは便座。以上、この二つ。いや、かなり譲歩してベッドと表現したが、正確には少し高いところにある木の板だ。シーツもなければ枕もない。地べたに横にならないで済むというだけの設備。
そして、悪臭、悪臭、悪臭!
外にいたときは袋二枚でも快適に感じるくらいだったのに、この暖かみのなさはどうだ? まあ、奴隷船やら何やらと比べてみれば、この程度の扱いなんざぬるすぎて問題にもされないだろうが……二十一世紀の発達国人としては、即座に破滅の影がちらつくほどのカルチャーショックだ。
あっちにいた頃にしたそれらしい体験は東西線の通勤ラッシュくらいのもんで、それだって数分後に解放されるとわかっているから我慢できるわけだが、こんなふうに数時間、数日単位の苦痛が予想される環境に、俺は今まで置かれたことがない。ただでさえ不条理で混乱した状況だというのに、加えてこのストレステストだ。元々それへの耐性が低いから健康器を買うようになるまで判断力が低下していたというのに、この調子だと三日と経たないうちに気が狂ってしまう。
扉の向こうは意外なほどに静かだが、ここと同じような個室がずらっと並んでほとんど空き部屋がないことは、入ってくるときにわかっている。その証拠に、時折不穏な呻き声や、扉の開閉とそれに伴う会話、怒声、中身の詰まった何かを打ちつけたり打ちつけられたりしている音が聞こえてきている。
俺の身柄はこの建物に入ってから、あのふたりの手を離れている。この建物を管理しているのは別なエルフ達で、彼らは昔の、銃が発明される前の兵士ふうの格好をしていた。というか多分本物の兵士なんだろう。少なくとも警備兵だ。軽そうな男と堅そうな男は剣を帯びた彼らに俺を任せるとどこかへ去ってしまい、そして、この陽光もろくに射さない部屋がとりあえずの割り当てになった。兵士のひとりにこの先の予定を質問しようとしたら、「あの」と言った途端に小突かれたので、情報はあまり増えていない。
なので、ただ、待っている。既に暇を持て余して久しい。
日が暮れ始めていた。
気を紛らわせるものが何もない、というのは予想以上に堪える。
大抵は文庫本を持ち歩いていたし、それを忘れたら携帯端末をインターネットに繋げて、電池の残りも少ないとなれば、電車の中なら流れている風景を追ったり、病院の待合室なら同じく呼び出しを待つ人々を観察したりもできるのだが、この部屋は三度眺め回したらそれ以上読み取れる情報がなくなった。
残された行動は記憶の反芻だけだ。両手足がこれでは腕立て伏せすらできない。まあ、断食三日目なので、そんなことに使うエネルギーは残ってないのだが。死にたくなさを意識してから空腹が甦ってきていて、とてもつらい。刑務所のような形態をとっている以上は、起床、食事、就寝といったあれこれは規則で定められていると思うのだが、まだそれを把握できるほどの時間も経っていない。正直、食事の質に期待などしていないが、とりあえず何かを摂取しなければいけない、という危機感を解消してしまう効果には期待している。
廊下を進む気配を感じ取る。
耳をそばだてる。数は? 三だろうか。
また、見えなかった廊下の向こうへ歩き去ってしまうのだろうか。
……止まった。唐突に。止まったままになった。通り過ぎていかない。
開錠の金属音が聞こえて、扉が開かれる。
寝台に座って顔を上げた俺を見る数は、四。
ここへ来る時も思ったが、両手足の自由を奪った人間に、武装して数を揃える意味がよくわからない。まあ、彼らにとっては、俺は人間ではないのかもしれないが。これだけ拘束してもなお、何かの危険が残っているかもしれないと考えているのか。召喚した相手には敵わなくても、ただの兵士なら出し抜けてしまうという可能性。無能に見せかけて監視の目を緩くしてから脱出する――確かに、常套手段ではある。
そんなわきゃねーだろ。
そういう意味では、風の化身というあの幻想を、軽そうな男はまだ捨てきれないでいるのかもしれない。手を尽くしたのに成果が出ないというのは、なかなか認めがたい現実だ。一応……などと言って念を押す姿を想像すると、少し愉快な気持ちになる。兵士達の警戒の色が濃いような気さえしてくる。
「出ろ」
いちいち言われる前に、手の鎖を差し出す。兵士のひとりがそこにリードを結んだ。消したり出したりできる魔法のリードだが、普通に外したり付けたりすることもできる。
俺は来た道を戻らず、奥へと連れて行かれた。しばらく歩かされる。思っていたよりも建物の内部の構造は複雑で、広かった。いくつかの角を曲がった。もしかすると円形のアレに直結しているのかもしれない。廊下は薄暗く、それだけで不安を掻き立てたが、エルフ達は体が憶えているのかこれできちんと見えているのか、苦もなく進んでいく。必死で頭の中に地図を描きつけていると、また唐突に移動は終わった。
召喚された場所に似ていた。そして、魔法陣とは別の要因で、一部分だけが明るかった。
火鉢だ。
遅まきながら肌が熱気に気付いた。手袋をした男が兵士達に入ってくるよう促す。どうせ引っ張られるのだからさっさと進まないといけないのに、ここへきて足が前へ出ない。鉢の中に刺さっているそれはただの火かき棒だと自分に言い聞かせるが、それよりも早くあれが何であるか確信してしまっている。同じようなやつが二本ある。手が引かれていく。転びそうになったが今度はなんとか這いつくばらずに済んだ。これもひとつの進歩だが何も嬉しくない。今からそういう些細な喜びも全て粉砕するような儀式が行われる。リードが外された。部屋の真ん中にはやはり台とも机ともつかないものがあって、先頭で入った兵士が顎でそれを指した。芋虫のように這い上がろうとする俺を残りの兵士が支えて押し上げる。仰向けに寝そべる格好になった。上の袋がぐいぐい捲られて、腹部が露わになる。鉄の棒が鉢から引き抜かれる。先端の四角い部分は赤熱している。腕が二本、脚が二本、なるほど、兵士の数は合っている。屈強な彼らは分担して俺を押さえる。棒の先端は四角いだけではなくて、刻印になっている。手袋をした男がそれをこちらに向ける。
俺は数字が読めることに気付いた。
9。
94。それが俺に与えられた烙印だった。
縁起の悪い数字だ。苦しむと死ぬのダブルパンチ。
腹の表面は未だに鋭い痛みを訴えかけている。なんだかんだ暴れたせいか、ナナメって雑な印象を受ける、94の形をした火傷。水で冷やすことさえ許されなかった。そもそも冷水がなかった。再生能力を遥かに超えた損傷。一生残る、損傷。
食事は食事ではなかった。
腹が減っているのに食欲をそそられないメニューは初めてだった。嫌いな茄子だって何だって食べるつもりでいたが、食い物に見えないというのは想定外だった。多分、パンだったんだと思う。それと豆のスープだったかもしれない。判然としない。
それでも、食べないという選択肢はなかった。回復食もなしに固形物は危険な気もしたが、どうせそんなものは支給されない。よく噛んで食べるしかなかった。両手が不自由なので、何度も汁をこぼしそうになった。
ここまでされると、さすがに泣けてくる。
もう何度目尻を拭っただろうか?
どんな種類のことであれ、取り返しがつかないというのは悲しいもんだ。
闇の中で、布団もなしにうずくまっているだけの生き物となって、俺は、それでも眠りに落ちた。