12-16 ダメージコントロール
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よりによって利き腕をやられた。
負傷というより破損だ。まったく動かせなくなったし、動く道理もない。骨は砕け、肉もちぎれた。痛みが伝わってくるのみ。仮に、脳からの信号を受けるだけの力が神経に残っていたとしても、作用させる先がない状態だ。
このレベルの激痛は懐かしさすら覚える。闘技場にいた時、毎日がこうだった。それを思い出させた。当然ながら、怒りもセットで呼び起こさせる。俺の魔力は膨張した。解き放つのに躊躇いなどなかった。
だが、それこそ昔のように、俺が行使した魔法には制御が欠けていた。痛みが繊細さの邪魔をし、思考のほとんどを支配してしまったのだ。頭の片隅で味方が巻き添えを食わないよう配慮するのが精一杯で、それも完遂できているかわからない。確かめる余裕がなかった。
ひとしきり悲鳴を上げながら風を撒き散らし続け、ようやく落ち着いた――といっても意味のある言葉をなんとか発する程度の落ち着きだ――それを取り戻した頃には、腕と破れた衣服の融合体は、血液で完全に染め上げられていた。瑞々しいほどに……。
まずいと思った。痛みがもたらす不快感よりよほど問題だった。このペースで血を失い続ければ、待っているのはショック死……良くても行動不能。
ともかくこのままでは話にならない。
「容赦しねえ……もう容赦しねえッ……!」
歯を割りそうなほど食いしばって、シンに狙いをつけてみるものの、キレがない。
遠距離戦にこだわらず、肉迫して風の刃を振るうが、やはり空を切る。
威力は間違いなくあるのだが、それだけだ。成功させる条件が足らない。
元から心を読まれて奴には攻撃が当てづらいのを、スペックの差で埋め合わせていたわけだから、負傷によりそれが著しく低下すれば、脅威にはなりえないということか。
宣言とは裏腹に、自分から距離を取る。
しかし、そうしたところで何になる?
俺は多分、この使い物にならなくなった腕をなんとかしようと思って、仕切り直しの意味で交戦距離を離したのだろうが、回復のアテはない。
すぐに治癒の恩恵を受けるには状況が混沌としすぎているし、どこへ頼みに行っても割り込むような形になってしまうだろう。そういう安全が確保されていない条件下では、仮にヒーラーが見つかってもその能力を十分に引き出せない。つまり意味がない。
自分がどうしたいのかわからないまま高度を下げ、一番近くにあった建物の窓から侵入する。奴は後を追ってきているだろうから、そこで行動を止めず、すぐに別の出口を探し、隣の建物に移る。できるだけ急いでそれを繰り返す。風魔法はこういう時移動の制限がなくていい――ただ、シンも俺ほどではないにしろ、同系統の手段を用いることができる。かなり念入りにまく必要がある。
あちこちにぶつかり、もたれかかりながら、十から先、数えるのも馬鹿らしくなるくらい多くの構造物を跨いでやっと、どこかの二階で止まった。限界だった。何しろ身動きするだけで腕が痛みを訴える。それを無視するよう努めたが、いつまでもはどうしても無理だった。
床に滴る赤黒いものを見て、止血だ、と自分の声が頭の中に反響していくが、すぐに取りかかれるほどの気力はなかった。
それに悪い考えも浮かんだ。
よく考えたら、ゆっくり歩いて来たとしても、血痕で俺の足跡を辿れるかもしれなかった。いや、間違いなくそうだろうと思う。余裕でそうだろう。
だったらまだ逃げなきゃならない。
そうか――俺は逃げてきたのか。
逃げてどうするんだ、こんな時に。いや逃げたんじゃなくて退却だ。
退却でも駄目だ。
また逃げるのと、ここで応急処置――どちらならやる気になるか。
無事な方の手で何かを握りしめているのに気付いた。
ここへ来る途中、目についたので反射的に掴んで持って来ていた。小さなテーブルにかかっていたので多分テーブルクロスだ。
そういうことであれば、それが答えだ。
嫌なので敢えて目を背けていたが、注視してみると、傷口は予想以上にひどい有様だった。グロテスクだったし、あまりに複合的で、何ヶ所が傷ついているというのを数える気にもなれなかった。こんなものは見たくなかった。過去目にしてきたものの中では断然マシな方だったが、それでも自分自身にリアルタイムでリンクしているとかなり堪えた。こればかりは慣れようがない。だからこそ、このような運命が俺を取り巻いた。
厄日。
シリアスさの圧倒的に足りない単語だが、片手と口と足で押さえながらぎこちなく布を裂いていると、それが浮かんだ。
急ごしらえの止血帯を脇の近くに当てて、縛るために引っ張ると、痛みが際立った。喉の奥から呻き声が漏れた。か細くて情けない音だった。誰にも知られたくない種類の情けなさがあって、しかし孤独にこんなことをしているのもつらかった。誰かが助けてくれるならその方が絶対にいいと思った。恥ずかしくても楽になれるのなら……。
一応、やってはみたものの、これで効果があるのかわからなかった。自分では力の限り縛ったつもりだが、まだ腕からは血が滴っている。止血できていないのか、止めた先に残っていた分が抜け出ているだけなのか。確かめるだけの元気はない。
本当は、骨の方も肉の中に収納して、正しい方向に繋いで、さらに安定させる必要があるのだと思うが、事実上不可能だ。自分自身に施す処置としては難しすぎる。麻酔無しで痛みに耐えられるとも思えない。
――ふと、切り落とすのはどうか、という考えが浮かんだ。
そんな自分に驚いたが、すぐに、案外アリかもしれないという気になってきた。
意識すればするほど、この腕はもう駄目だと思えた。完全に機能を失っていて、こうなるとデッドウェイトでしかない。はっきり言ってしまえば、邪魔だ。少なくとも今は。リタイアする気がないのなら、この後まだ一戦交えるだろうし、その先だってある。
こんな、ぶらぶらした痛み発生装置は抱えていられない。
一旦、この辺りに腕を隠しておいて、戦闘を終えた後で回収し、優秀な治癒魔法家にくっつけてもらえばどうか。欲を言えばゼニアに戻して欲しいが、おそらく魔力をほとんど使い果たしているだろうし、時間が空けば空くほど行使が難しい性質だから頼むのは無理だ。
冷静な判断力を失っているのか判断するための判断力が欲しい。
決定を保留する余裕がないとはいえ、早急に手を打とうとする欲求が湧き上がってくるのに恐怖を覚えた。それこそ、不可逆的な変化があるというのに、やってしまおう、という意識が強権を振りかざしてくる。
大丈夫だ、と頭の中で声がする。自分の声だ。
何が大丈夫だというのか。
昔、一時間もかけて片腕を自分で切断して生き残った男の手記を読んだことがあるから大丈夫だ。どういうシチュエーションだったかは忘れたが。
いや、何も大丈夫ではない。
壊れた腕から目を背けるように天井を仰ぎ見た時、全体に亀裂が入った。
きた、と思った。
飛び退いたのと、圧倒的な衝撃が建物全体を崩すように破壊したのは同時だった。
無数に迫る破片を風で叩き落とし、無事に脱出できるルートを残された数少ないメモリで算出する。身の丈三倍はあろうという大槌を担いだシンが見える。
回避行動を取るべく浮かび上がると、再び、地面の位置がズレたような感覚に陥った。今度は、右方向に――惑星の中心があるような、そんな奇妙な環境の変化。
右手へと、落ちていく。俺はそれに抗って飛行する。
話には聞いていたが、どうやら天地の方向を――というか多分、重力を――操れる奴がいて、そいつからラーニングした魔法をシンが行使しているのだ。よく考えなくてもヤバい能力だが、実際やられてみると、こんな厄介なことはない。さっきだってそれで腕をやられた。強引に隙を作られてしまうのだ。
二度はさせまいと、必死になって抗う。
効果は無くていいから、こちらからも仕掛けないとすぐに次のアクションへと繋げられてしまう。残骸と化した建物から脱出し、つむじ風をいくつも起こしてシンに向かって走らせる。パワーなどないが、鬱陶しくはあるはずだ。今だと壁に沿って生えているように見えるが、俺達がおかしいだけで普通に地表を進んでいる。
シンは持っていた槌を一旦分解して、虫取り網のような道具に素早く変形させると、つむじ風を一本、捕獲してみせた。
「んだと……!?」
奴はそれをキープし、他のものは自前の風魔法で打ち消すと、さらに重力基準を変更させた。今度は数秒ごとに方向を更新してくる。俺は宙に浮いたまま適応しようともがいたものの、開けた場所へ出た分、余計に混乱するハメになった。
ほとんど溺れかけている。主導権を握っているシンは器用に距離を詰めてくると、空いていた方の手で俺を――掴もうとした。
さすがにそこまでは看過できなかった。がむしゃらに風で周囲を引っ掻くと、シンの頬に赤い線が一本引かれた。頭の中に筋道を立てなかったのが功を奏したか。しかし与えられたダメージはそこまでで、奴はすぐに爪の圏内を脱した。
そしてやり方を変えたのか、今度の俺は吸い込まれるようにシンの方へと落ちていった。疑似的に引き寄せられている。空気の壁を作ってそれをぶち当て、拒絶する。
「ベタベタする気はねえっ……!」
戦場を変えた方がいい。もっと入り組んだ場所に。
また建物の立ち並ぶ一画へ逃げ込む。振り返ると、シンは俺と同じペースで追ってきていた。それ以上かもしれない。いずれにしろ、魔法合戦より捕まえる気で来ているのは確かだ。
ドアを踏み抜き、窓から這い出て、クローゼットを乗り物に使う。
かつて見た映画のワンシーンみたいに、この重力変動の環境で部屋中にぶつかりながら殴り合えるのだったら、いっそぶちのめしてやるのにと思うが、そんなことをしたら俺は直接心の内に触れられて破滅だ。
ああ――本当に腕を邪魔に感じる。
どこかで切って、置いていきたい。
シンは必要となれば建物のありとあらゆる箇所を破壊して俺に追いつこうとしていた。その姿勢は全体的には差を縮めたが、時折、奴はやりすぎてしまうことがあった。向こうも冷静さを欠いているのか、余計に崩して、ルートを狭めたり潰したりしてしまう。
そんな時、俺は束の間の休息を取り――呼吸の整わないうちにまたすぐ追われる。
そういうことが続いた何回目かで、疲れから発作的に、つい実行してしまった。
腕を風で切り落とした。
やってすぐに後悔した。気のせいか痛みは一本化されたように思えたが――喪失感の方が、重く精神にのしかかった。やはり極限状態で頭がおかしくなっていたんだと自己嫌悪に陥り、かといってやり直しもできない。
もう仕方がなかった。
俺は近くにあったチェストの二段目に腕を収納し、その部屋を離れた。




