11-24 一晩中の雨の中
「この人に自信を持たせるのが私の役目なんだと思ったわ」
外で雨が降り始めていた。一気に強さを増し、窓を叩いている。
「将来、あの地方の島々をまとめ上げる。そういう役目を背負うことに苦悩していた。責任の重さを引き受けられるような人物ではないと、自分を捉えていたのね」
「彼は、あまり自分のことが好きじゃなかったかな?」
「そうだったように思うわ。あの人には弟が――今のロンド家の当主がいたけれど、そちらの方が自分より優秀で、家督を譲るべきと考えていたの。でも弟の方は、兄の方が優秀だと思っていた。二人共、親や互いの前で直接口に出すことはなかったけれど」
「実際、貴女から見て、どうだったんだ? そこんところは」
「どうかしらね。今もわからないわ。あの人も失敗が多かったから……。確実に言えるのは、あの人が権力者にならなかった場合は、嫁がされる予定の私が政治的に困窮するということね」
「貴女が、というより貴女を送り込んだ王様が、だろ? まあとにかく、やる気を出させなければならなかったわけだ」
それは俺の時も十分すぎるほどしてくれたように思う。
「でもそれは容易ではなかった」
「厄介な性格だったんだろう。俺に似ているということは」
「それは否定しないけれど、そもそも社会の状況が楽観を許していなかったから、何をするにも意欲を削いでいたところはあると思うわ。あの頃はまだヒューマン圏全体が将来に絶望していたもの。あの人が特別に後ろ向きな考え方をしているとは思えなかった。自分達の代で破滅がやってくるという認識は、広く浸透していた」
「それで、どうしたんだ? 貴女も全体としては乗り気じゃなかったのか?」
「私は――私は、でも、諦めるのは違うと思っていた。そしてあの人も、心の奥底では奮い立たないといけないことはわかっていた。それは付き合っていくうちに知ることが出来た。性根から朽ちているのだったら、見限っていたでしょうね」
俺も振る舞いによっちゃどこかで切られていたのかもしれない。
今まで捨てずに置かれていただけで感謝というものだ。
「ただ、今思えば――別に私は、心構えの割には何も特別なことはしていなかったのよ。そのための能力もなかった。単に励ましてあげたりだとか、出来る限り楽しい話題だけを選ぶとか、意識したのはそのくらい。それでもあの人は、徐々に良くなっていったのだけれど」
「まあ、そりゃ、貴女くらい器量のいい女の子と付き合えるんだったら、それだけで男は頑張ると思うよ。ダラダラやって失うようなことになったら、それこそ絶望だもんな」
「結構それで真理だったのかもしれないわ」
「その上、貴女はその人をきちんと愛してやったんだろう?」
「……そうね。私を好きになるよう仕向ければそれでいい、とだけ考えていた頃もあったけれど。不思議なもので、歳を重ねるにつれ――私の方が引き寄せられていった」
「すると相当上手くやったらしいな、彼は」
「相変わらず戦況は悪くなっていく一方だったけれど、反対にあの人は希望を取り戻していっていた。何の根拠があったのか……」
「貴女が根拠だったんだろう。わかるよ。彼にとっては貴女が希望そのものだ」
そしてそれは当たっていた。彼は未来視でもしていたのだろうか。
ゼニアは複雑そうに俺の言ったことを受け止めていた。
やがて身じろぎをして、続けた。
「武はいまいちなままでも、内政へ力を発揮していったわ。狭い島々の面積をどう活用し、少しでも利益を生み出すようにするか。それがあの人のテーマだった。自分でも研究に打ち込んでいた。戦えないなら豊かにすると言って」
おそらくその頃が、二人にとって最も幸福な時期だったのだろうと思う。
大体そうだ。上向いていることに何の悲しみがあろう。
だが俺は既にこの先に訪れるものを知っている。
まさに束の間の安息と――捉えるほかない。
雷が轟いた。
ゼニアは怯えるように俺に寄りかかった。
「そして――最初の報せがあったわ。兄が亡くなったという報せが」
終わりの始まりである。
「敵将と相討ったのだと……そう語られても、何の慰めにもなりはしなかった。次兄が敵の策に陥り命を落としたという経緯も、重要とは思えなかった。ただもう生きていないということだけで、十分悲しかったのに! ――今でも昨日のことのよう……」
虚空を見つめる彼女の瞳が、映写機のように記憶を再生していくのがわかった。そのシアターに俺は立ち会えない。ただ外、で上映の終了を待ち続けるしかない。
彼女の帰りを――。
「そのうち、小姉様がいたあの美しい町も滅んだ。兄弟の中では一番強かった弟が破れて、万に一つも勝ち目はないと思うようになった。私はわからなくなった」
乗り越えるには、あまりに高すぎる波。
寄せては返すことがなく、ただ次々に畳みかける禍難。
「あの人が成果を得る度、私の家族は死んでいった。あの人が良くしているのに、世界は悪くなっていった。何もかもがあの人の努力を嘲笑っているのだと思った。何もかもが、私を悲観へ追い込もうとしているんだと思った」
悲観――そんな程度で済むことだろうか。
短期間で肉親を失い続けることの精神的苦痛は計り知れない。
翻弄される少女の心を支えたのは、やはりその男の包容力だったのだろうか。
「私は十七歳になった。まだ塞ぎ込んでしまわなかったのは、あの人と一緒になることを望んでいたから。残された者の務めを全うする気があったから」
雨音に、ぎりり、と歯ぎしりが混じった。
「でも、それが成る前に――あの人が戦場へ出なければならなくなった」
その声色を聞くと、俺はこう思わずにはいられなかった。
あるいは二人を仲を引き裂くよう決定を下したこの時代の社会へも……ゼニアの、憎悪までは行かずとも――憤りは向けられているのではないか、と。
「私は止めたわ。お父様に直訴もした。それほどまでに追い込まれているのだと頭では理解していても、感情は――」
彼女は怯えていた。この先を話すことに。
再び閃光が窓の外を照らす。
俺はゼニアを抱き寄せていた。自分も恐かったのだ。
「そしてあの人は死んだ。エルフの手にかかって」
遅れてきた雷鳴に彼女は震えた。
「遺体が戻ってくる頃には、それだけでも幸運だったと信じ込むようにしていた。最後にあの人を慈しんで、そして全てを終わらせようと……。でも、止められた」
「止められた? どうして」
「その理由に気付くべきだった。簡単に考えればわかることだったのに――私は自分自身に惑わされていた。反対を無視して、遺体と対面したわ」
それで? と催促する前に、俺もふと、予想ができて――どうしてもそれを否定したい衝動に駆られた。
「無かったの、顔の部品が全て」
――息を呑む。
それだ、と思った。
「私が愛した、あの人の顔は――」
それがとどめを刺した。
それがゼニア・ルミノアを復讐鬼にした。
永遠に、その、削ぎ落とされた光景が記憶に刻まれてしまったのだ。
「私は過去に帰りたいと思った。あの人の死体を、せめてきれいな状態にまで戻したいと思った。一晩中泣いたわ。涙が枯れるまで」
知らず、俺も涙を零していた。
言葉を聞いているだけなのに、それは、何か――身につまされるような悲劇だった。
「朝になって、こんなことをする生き物を、この地上に残してはいけないと思った。一匹残らず駆逐しなければ、人の世に安寧が訪れることはないと確信した。私は自分が、魔法を使えることに気付いた」
ゼニアは俺から離れた。
「あの人との思い出はこれで終わり」
抱擁も終わりだということか?
「私はこういう女よ。あの人のことを今でも想いながら、あなたに縋ろうとしている。幻滅したと言って。私を好きになったのは、思い違いだったと言って」
俺は涙を流れるままにしていた。
「何を――何を恥ずべきことがある! その人との思い出が、ずっと貴女を動かしてきたんじゃないか。俺はそれを否定したりなんかしない」
ゼニアとの巡り会わせだって、思えばそこに端を発しているのだから。
「その人と俺が似てるというのなら、いいだろう、俺は貴女に面影を見せ続けよう。それで構わない。だから――こっちに戻ってきてくれ」
腕を広げ、ゼニアを待つ。
一度だけの躊躇いがあったが、最後には彼女は胸へ飛び込んできた。
子供のように、声を上げて泣けばいい。
外では雨脚がより一層強くなったようだった。
その勢いで、止まっていた歯車を回してしまえと俺は思った。
錆びついた悲しみも全て押し流してしまえと、そう思った。
裸のまま起き出して、裸のまま窓辺の椅子に座り、外を眺める。
一晩で雨は上がったようだが、まだ町は濡れていた。
そこへ地平線の向こうから朝日が差し込んで、何もかもが輝いて見えるのだった。
背後でごそごそとした気配があった。
次いで、ぺたぺたと裸足で床を叩く音が聞こえる。
首元を髪でくすぐられた。
「何を見ているの?」
「強いて言えば光」
と俺は答えた。
彼女は特にコメントせず、一緒になって外を眺めていたが、やがて飽きたのか俺の肩に二度口づけをした。
「ゼニア」
俺は今日の朝食なんだろう、という調子で声をかけた。
「何?」
「生きよう。生きて奴等を滅ぼすんだ」
ゼニアは黙って俺の後ろから手を回し、頭に顎を乗せた。
余談を少し。
そのままの勢いで婚約発表がなされた。
この報はもちろんセーラム内部だけではなく同盟全体にも向けられ、召喚装置を預かる地であるオーリンもその例外ではなかった。グランドレンへも島嶼群を通じ、それほどの時差なく届くことが予想された。
実は、俺はゼニアの言う根回しとやらにはあまり期待していなかった。あの時の彼女はとても興奮していたし、勢いで話を盛ることもありえると思ったからだ。
だから人々は大いなる驚きをもってこの話に相対すると信じていた。
――乱暴な言い方をすると、大混乱に陥ると思っていた。
もしもその混乱で、暴動やクーデター、その他諸々の人為的国難が引き起こされたりしたら、俺は傾国の美女ならぬ、傾国の醜男だな――などと内心自嘲気味に怯えていたのである。
しかし、さすがにゼニア・ルミノアは無用の嘘をつかなかった――怖ろしい女である。あちこちから悪い意味で驚いている旨の反応も届いたものの、世間は概ね好意的に受け入れるつもりで行くらしかった。工作はどこまで本当だったのか気になるが、俺に調べる術はなかった。それでいいのかもしれない。
客人達の感想では、異世界ドリーム的な捉え方が顕著に見られた。あまり意識したことはなかったが、言われてみると現地の姫君と結婚するつもりの俺は、トントン拍子に成り上がった男として見えなくは――いや、そのものなのは、わかっているが……。
唯一、ジュンだけが、口に出して、
「何を今更」
と宣った。
さて、こうなると俺の実際の立場も結構変わってくる。仕事内容はまあ面倒な義務がちょっと増えるくらいで大方そのままであるとしても、生活様式に関しては多大な変化を余儀なくされた。
長いこと親しんだ使用人宿舎を引き払った俺は、とりあえず上客をもてなすための宿泊部屋をあてがわれているが、それでも呆れるほど落ち着かないのだった。何人か適当に見繕われた従者も、今のところ追っ払う命令ばかりしている。
そのうち改築された専用部屋を正式に賜り、従者も自分で選んだ者を配属することができるというのだから、滑稽で仕方ない。従者の従者とはどうも、おかしな塩梅だ。
客観的にはもちろん、待遇が良くなっていると言えるのだろうが、前の方が身軽で身の丈に合っていたという贅沢な悩みをどうしても抱えてしまう。しばらくは事務棟のオフィスへ入り浸りになりそうだった。
翌月、ヒューマン同盟はセーラム国王ガルデ・ルミノアを総司令に据えた遠征軍を編成した。兵力の大部分は先んじて進発させ、要人や運搬に苦労するものは魔法を使って一気に大陸端の港へ集結させる。
その数、実に二万五千である。占領地維持のための第二波を含めると、三万まで達する見込みだ。エルフを故郷の大陸まで追いやったことで、一旦陣取りをほぼ考えなくてもよくなったが故に実現した大軍だった。
その中にあって、俺とゼニアは約六百名の隣界隊を変わらず率いていくことになる。
これが最後の一押しになればと、誰もが思っていた。




