2-7 誰こいつ?
翌朝は、部屋の扉をノックする音で目が覚めた。
寝過ごした感覚があった。窓から差し込む光の明るさが、昼前の印象を持っていて焦る。口の中が乾いていた。それがアルコールのある時間を思い出させた。
俺の場合、酒は毎回幸せを約束してくれるというわけじゃなかった。本当に上手く酔える時というのは、数えるほどしかなかったように思う。大抵は浮遊感よりも先に頭痛が意識の底を占め、後から考えると話すべきではなかったことを話し、ひどい時には胃がひっくり返ってまたしばらく酒はいいやという気分になる。
だが、昨晩の酔い方は悪くなかった。だからこんな時間まで眠ってしまったわけだ。
「はい……はいはい」
ベッドから抜け出して、部屋の中を横切る。
扉を開くと、そこには管理人がいた。
「おはようございます」
と彼は言った。俺も同じように挨拶を返した。
彼が訪問してきたということは、つまり、何か用事があるということだ。言うまでもなく。そして、おそらく朝食の時間はとうに過ぎているだろう。
「何か?」
「お客様ですよ。下に待たせてあります」
「お客? ――姫様からの遣いですか?」
「いえ」
違うのか、と俺は思った。
「見たところ、軍の方ですね」
心当たりはなかった。
姫様の秘密主義が今度はこういう形で姿を現したのかとも思うが、しかし……。
「――人違いということは?」
「先方はあなたのことをご存知のようですよ。フブキという名前の道化師がいるはずだから、そいつを出してくれないか、と」
「そうですか……」
確かに俺だった。そう何人もいてもらっちゃ困る。
「わかりました。すぐに行きます」
「いや、それが」
数分後、一人の男が俺の前に立った。
短く切り揃えられた髪はいかにも兵隊といった風情で、さりとて刈ったというには小洒落ている。鍛え抜かれた筋骨隆々の体躯は服の上からでもよくわかり、しかし筋肉ダルマというほどでもない。顔だって目を見張るような美形ではないが、いつか望みの女を手に入れるであろうほどには男前だった。
なんだか随分バランスのいい奴が来たな、と俺は思った。
「どうぞ、お掛け下さい」
椅子を勧めると、男はにこりと笑って右手を差し出した。
「まずは挨拶だよ」
おまけに人当たりも良さそうときている。一体何の用だというのだろう? 少なくともこの人は士官だ。それは間違いない。一兵卒でこれだったとしたら、戦争に負けるはずがないからだ。
俺がその手を握ると、彼も握り返した。力強さを十分に感じさせるが痛くはならない、絶妙な加減だった。俺は早くも呑まれかけている自分を発見し、気を引き締め直した。この状況下で、警戒し過ぎるということはないだろう。
「はじめまして」
「……はじめまして」
「おれはデニー。デニー・シュート少尉、百八人長だ」
何やら耳慣れぬ言葉が出てきたが、とりあえず自己紹介を進める。
「フブキ、と申します。ゼニア姫様の道化師でございます」
「よろしく。まあ、おれはおまえを見たことがあるけどな」
「そう聞いております。どこかでお目にかかったでしょうか」
「おいおい、なんでそんなに不思議そうなんだ? 昨日の晩だよ」
「ああ……」
納得がいった。
「あの場にいらっしゃったのですね」
「まあな」
男は椅子に腰かけた。俺もベッドに座った。
昨晩の会合には軍人も大勢いた。彼もその中の一人だったというわけだ。そうじゃなくても、警備か何かで潜り込んでいたのだろう。とにかく、このデニーと名乗る男は昨日俺を見て、それで今日、会いに来ようと思ったわけだ、直接。
――何を考えているんだか。
だって、そうだろう。あんたどう思う? 昨日の今日でわざわざ部屋へ押し掛けるには、俺の身分は低すぎるよ。最底辺かどうかってことになるとまた話は変わってくると思うが、それにしたって、士分も一応、上流階級の一つではあるだろう? 姫様の持ち物である俺だけれども、彼女は毎日一日中構ってくれるわけでもない。俺の所在を調べるという手順を踏めているなら、そのまま落ち着いてアポを取るなり、呼び出しをかけるなりすればよかろうに。
それとも、この兄ちゃんはそんなことを全て超越したファン一号だとでもいうのか?
「なかなか楽しませてもらったよ。老いぼれ共のつまらん話を聞かされるばかりで退屈していたところにアレだ、末のお姫様も粋なことをなさる」
「そうですね、姫様は本当に素晴らしいお方です。私のような者を手元に置くような余裕と、懐の広さをお持ちなのです。……心無いことを囁くお方もいらっしゃるようですが、そんなことはないと、私は信じております」
「飼われている立場なら、そう言うしかないか? ここに主はいないんだ、少しくらい本音の混じった声も聞いてみたいもんだが」
――いきなりなんてこと言うんだ。少しムッとしたが、堪える。
「今のが私の本音でございます」
本当に。……ほとんどの部分は。
「それは失礼した。いや、正直に言うと、俺もあの姫君が道化師を抱えるなどとは考えていなかった一人でな。何か裏の意図があるのではないかと、いかんとは思いながら勘繰ってしまった」
「はあ……しかし、仮にその通りだったとしても、姫様は聡いお方ですから、真意など漏らしますまい。つまり、私には、なんとも」
うーん、なかなか鋭いじゃねえの。物腰といい、このフットワークの軽さといい、こいつ、できるな。
「本日は、それを確かめにいらっしゃったのですか?」
「まさか。そのためだけに来たんだったらあまりに下衆ってもんだ」
「それでは、他のご用件が?」
「ん、いや、まあ……実は、用件ってほどのもんじゃないんだ。おまえを賞賛しようと思ってここに来た。感動が薄らいでいく前に」
――あっ、いかん。嬉しい。
……いやーリップサービスだろ普通に考えたら。落ち着け。
「……はあ。それは、どうも、その、何と言ってよいのやら」
「素直に受け取ってくれよ」
「いや、身に余るお言葉……すみません、こういうことはあまり慣れていないもので」
「実際、大したもんだ。相当練習しただろう?」
「いやあ、半分は魔法のおかげといいますか……見える方にはその分退屈だったかもしれません」
「まあそうだが、おれには見えなかったしな。結局どこまでが魔法なのかもわからなかった。それに、最後の小話は魔法関係ないだろ?」
「ええ、まあ……しかし、魔法を使わなかったのは、四方を壁に囲まれたよう見せた時くらいで」
こうして振り返ってみると、かなり魔法頼りだったな。
「それでもすごいと思うけどな。あいつらにも見せてやりたかったぜ」
部下のことだろうか?
「いつかは、そういうこともあるかもしれませんね。でも、私はこの稼業を始めたばかりですし、もっと場数を踏む必要があります。それに、何をやるにも基本的には姫様のお許しが必要ですから、」
そこまで言って、急に彼の真の目的に気付いた。
「つまり、そういうお話なのですか?」
「つまり、そういうお話なんだ。昨日帰ってからうっかり自慢してしまったんだが、それからしつこいのなんのって……。確かに、おれの隊にも一人くらいおまえのような奴をつけたいと思っちゃいるが、田舎出身の小隊にそれは高望みというもんだ。まずそういうわけにはいかない……が、今のうちなら予約もまだ一杯じゃないかもしれないとも思ってな。一度きりでも可能性があるなら、出向いてみる価値はある」
「だから、ここへ……」
彼は頷いた。
「それとなく、おまえのご主人に伝えてほしいんだよ。俺が普通に行っても、到底個人的なお目通りなど叶わないからな。特に、こんなお願いとあっちゃあ、俺が元帥だったとしても思い通りにいくかあやしいもんだ」
「なるほど。しかし……」
姫様が首を縦に振るかどうか。
俺は、まあ……一回くらいなら構わないという気も、しないでもないが。
「大丈夫だ、端からこんな要求が通るとは思っちゃいない。……ただ、一応かけあった、というポーズを見せないことにはな」
「はあ……」
軍の士官なら、一番下の階級でももっと偉そうにできそうなもんだけどな。それこそ彼が言うように、部下がいるのだから。なんだってこんな使い走りまがいのことをしてるんだ? 少尉だぞ、キャリア組だ。手足の延長を寄越せるくらいには、偉いと思う。
ただ、日本語に訳されると少尉に思えるというだけで、この国なりの意味を持つのだろうから、必ずしも俺の知っている少尉の限りではないかもしれない。百八人長などという言葉が出てくるあたり、ローマ軍団と似たような雰囲気を感じる。なぜ百八人なのかは、疑問だが。百じゃダメだったんだろうか? 百八といえば煩悩の数だが、それだって仏教由来の、俺のいた時代じゃ正月くらいにしか思い出さないような概念だ。今のところ宗教の臭いがしないこの世界で、関係があるとは思えない。
「そういうわけで、頼む」
「……まあ、そのくらいなら」
「すまんな。手数をかける」
「いえ、こちらこそ、わざわざお越しくださいましたのに、飲み物も出せませんで……」
飲み物を欲しているのは俺だった。
飲み物じゃなくてもいいから、何か間を持たせるのに役立つものが欲しかった。
しかし目の前の男は、そういうことは一向に気にならないようだった。
一応、用件は言い終わったのだからすぐにでも帰るかと思ったが、彼は話を続けた。
「しかし、あれだな、あの派手な服を着ていなければ、おまえも存外普通の男に見えるな。変わっているのは刺青くらいか。こうして話していると、なおのことそう感じるよ」
「――あっ、すみません……これからでもよければ、少しはおどけて見せますが?」
「いや、いいよ……実を言うと、素の状態が見たいってのもあって今日は押し掛けたんだ。だから、欲を言わせてもらえば、ちょっと畏まらずに喋ってみて欲しいんだが、できるか?」
「は?」
「俺を目上のヒューマンじゃないと思って話してみるんだよ。もっと気軽に、馴れ馴れしく。おまえには同僚はいないだろうが、同い歳で同じ年に同じ仕事を始めて同じ部署に入り、それ以来良好な関係で続けてきた相手を想像してみるんだ。俺をそれだと思って話してみて欲しいんだよ」
……こいつ、変だぞ。
「できません」
「できないってこたないだろう? 生まれてからこっちずっとその喋り方で通してきました、とは言わせないぞ」
「しかし、私は一介の道化師でありますれば……そんな畏れ多いことは、とても」
「んー、そこを押してなんとかして欲しいんだけどな」
確かに不可能ということではないが、何の意味があってそうしなきゃならないんだ?
目的が全然わからん。
そんな俺の内心を読み取ったのか、彼は無闇に安心させてくれそうな笑顔で(尤も、会ってからほとんど笑顔のままだが)言った。
「心配するな。抵抗もあるだろうが、それでおまえが不利になるってことはない……これは仕事じゃないんだ。おれは仕事をしようと思って今日来たわけじゃない。ごく個人的な頼みなんだよ。わかるかな」
「わかりません」
多少迷惑そうに言ってみる。首も振って。ここで頑張っておかないと、このままずるずると居座られそうな気がした。
デニー・シュートは、ここに至って真剣そのものだった。
「その程度で気分を害するほど狭量ではないと、自分では思ってるんだがな。仮にそうなったとしても、木端貴族の下っ端士官が姫君に盾突けるものかよ。しかも相手は道化師だ。そいつの言うことをいちいち真に受ける方がどうかしてる。違うか?」
「そういう問題ではなくてですね」
こいつは一体、何をしに来たんだ?
アポもなしにいきなりやってきて、何をのたまってる?
俺は多忙の身じゃないが、それとこれとはまた話が別だ。自分とこの隊にも道化師の芸を見せたいからお借りする、それはいいだろう。姫様さえよければ俺も結構だ。だが、妙なところにまで話を持っていかれるのは困る。
こいつは俺に何を期待してやがるんだ?
何か企んでるのは、こいつの方だ。隠そうともしねえ。話になんか乗れるか。
「できないか」
「できません」
重ねて言うと、しかし彼はあっさりと引き下がった。
「できないよな」
「でき、……――」
「いや、すまん、急すぎたな。初対面の相手にするような話じゃなかった」
デニー・シュートは立ち上がった。
「この辺で去るとしよう。妙な戯れに付き合わせようとして悪かった。邪魔したな」
俺もベッドから立ちあがった。正直、ホッとしていた。
「は、いや……何のお構いもできませんで」
扉に手をかけて開いた後、彼は振り返って言った。
「じゃあ、貸し出しの件だけ、よろしく頼む。おれは宿舎にいるが、要求が却下されるのであれば、連絡の必要はない。忘れてくれ。その逆に、必要があったら、人を寄越すなり、書簡を届けるなり、直接出向くなりしてくれ。一週間は期待して過ごさせてもらうとしよう」
そうして男は、俺の部屋から出ていった。
~
「と、いうわけなのですが」
ゼニアは答えた。
「私にメリットがないわ」
フブキは少しベッドを軋ませてから同意した。
「まあ、私もそう思います」
後々のことを思えばこそ、手間と時間をかけて皆にフブキを披露したのだ。お披露目はゼニアが考えていた以上に上手くいった。とにもかくにも、フブキは成し遂げた。とりあえず、ではあるが、切り抜けた。
これからまだまだその存在を誇示していかなければならないし、それに伴ってやらなければいけないこともある。だからすぐに安売りをする理由はないし、その予定もない。そんなもったいないことを、ゼニアは考えてもみなかった。
「その少尉が私を満足させるほど報いてくれるのなら、話も変わってくるでしょうけれど、そうは思えないわね。何と言ったかしら、その――」
「デニー・シュート少尉。どのような人物か、姫様もご存知でない? 本人が木端貴族と言っていたくらいですから、元々あまり知られていないのかもしれませんが」
「――いえ、端の方にそういう名前の家があったと記憶しているわ。兵も出してもらっていたはず……まあ、今日日はどこからも兵を集めているけれど。確かに、それほど名声のある家ではないわね」
それほど、というよりは、ほとんど聞くこともなかった。
「そうですか。ところでその男、お願いの他に、妙なことも言い出しましてね」
「何?」
「それが、その……よくわからなかったのですが、敬語を使わずに喋ってみろ、と」
「……確かに、よくわからないわね」
「できないと言ったらすぐに引き下がりましたから、どうということもなかったのですが、気にはなりましたので、一応、お耳にと思いまして」
「私には、新しい口説き文句のようにも思えるけれど?」
フブキは少し考えて、ゼニアの言わんとしていることに気付き、首を振った。
が、完全な否定には苦労していると見えた。
「――いや、まさか、そんな……仮にデニー・シュート氏がそうだったとしても、私はこんなですし、対象になるかどうかは、また別の話ではないですか?」
「そうかしら。人の好みは、わからないものよ」
「しかし、しかし、私にはとてもそうは、いや……」
「まあ、どういう目的であれ、あなたをその某に貸し出すということはないわ」
少し悪戯心が芽生えて、ゼニアはいかにも但しといったふうに付け加えた。
「今のところは」
「――冗談きついぜ……」
フブキもそうだったら少し面白かったのに、と思いながら、ゼニアは話題を変えた。別に、デニー・シュートがそうだと決まったわけではないが。
「それよりも」
「はい」
「明日は朝食を終えたら出かけるから、そのつもりで」




