11-6 カロムナ東帝杯第一レース
昔、大学に入りたての頃、付き合いで競馬のナイターレースを見ることになった。
当時まだ誰とつるむかということが完全に定まっておらず、俺は孤立するのを避けるため、自分の趣味ではないと思われるようなことでも試してみていた。正直言うとそいつはどうも大学生にしてもノリが軽すぎる危なっかしい奴で、気が合うとも思えなかったが、まあ、誘ってくれるうちが華というのもある。
結局、俺が馬券を買うことはなかった。別に見るだけでも文句を言われることはない娯楽だし、競馬は何が良くて何が悪いかという情報収集を入念にしておかないと分の悪すぎる賭け事というイメージもあって、とにかく今後のために傾向を探ってみるよ、と口では乗り気に言ったものの、最後まで金をドブに捨てる一線は越えなかった。
ただ、レースを純粋にレースとして見るのは、これは中々に面白かった。なんとなく気に入った馬と騎手を応援してみるだけでも気分は保てる。ハマることはなかったが、ナイターレースまできっちり見て、その日がつまらないということは決してなかった。俺は幾ばくかの満足感を得て、そして俺を誘った張本人は一万円をスった。彼は相当自信があったようだが、結果が全てを物語っている――と当時の俺は思った。こいつと同じになってはいけない、とも。
後で、もし勝っていたとして換金時に年齢確認されたらどうするのかと問いかけてみたところ(レースを見るのは子供でもできるが馬券を有効にするのは二十歳からだ)、そっくりの兄の免許証を借りているとの答えが返ってきた。
俺がそいつに感心したのはその一点のみだった。
そいつは、十二月頃に大学をやめた。
その話は、また別の、授業でのみ一緒になるような仲の知り合いから聞いたのだった。
今になって、奴が召喚装置を通ってこちらに来ないだろうかと夢想することがある。
何かやむにやまれぬ事情があったのかもしれないが、そういう深刻さとは無縁の男だったし、多分、なんだか面倒になってやめてしまったのだろうという見方が、同期の中では大勢を占めていた。そういう人間はいるのだ。十中八九、その後はロクな人生を送らなかったろうし、となれば設定した条件付けにひっかかる可能性は高くなる……。かつて俺と入社面接で相対したマエゾノさんがいるのだから、知り合いと会わないようになっているわけでもない。
それでも再び奴と出会うことがないのは、死のう、とはないように暮らしているからではあるまいか? そうだとしたら、それは二点目の感心どころとなるだろう。
少なくとも、俺よりは上手くやっているわけだから。
グランドレンの競牛場は、そんな思い出の中の、ナイターレースの光景にとても似ていた。よく整備された芝のトラックを、強力な光の石が照らしている。違うのは、これが朝っぱらからの開場ということだ。ドワーフ社会においては本日から休日と祝日が繋がって三連休の様相を呈しており、カロムナ東帝杯もこの三日間を闘う。客席は満員御礼で、貴賓席のあるエリアですら、椅子が置かれたボックスを出てうろつくと多少の混雑を感じるほどである。
一般席を眺めていてどうにもおそろしいのは、本当に家族連れらしいグループが多いことだ。核家族から一族郎党、お父さんから幼児に至るまで馬券ならぬ牛札を握りしめ、第一レースを今か今かと待ちわびているのである。しかも、牛のレースで興奮しようというのに牛肉の串焼きがあちこちで売っていて、映画におけるポップコーンの如く親しまれている。完全に行楽として定着しているのがわかる。これはもう雰囲気的にはスポーツ観戦の方が近いかもしれない。
それにしても、見た目オッサンと見た目少女しかいない光景は人間の俺からしたら異様である。いや、よく見ればまだつるりとした肌の少年だって相当数紛れているのだが、大体老け顔である。学校のクラスに一人はいたであろうあのタイプが、クラスに三十人はいるような感じだと思う。
まあ男はいい。
順当に歳を取っていけば白髪になるか禿げていくようだし、見た目で判断できる。
問題は女だ。
その令嬢を紹介された時、俺はひどい早とちりをした。
「やあ、これは、なんと可憐で品のあるお嬢様でしょうか! まったく、本物の美貌とは種族の垣根など易々越えてくるものです。そうは思いませんか、ねえサカキさん?」
「え、ええ、まあ……しかし……」
「なんです、恥ずかしがって。ごめんなさい、想像以上にお美しい方だったので照れているんですよ彼は」
「ほほ、さすがヒューマンのお方は面白いことを言いはりますなあ」
世話人の婆さんの方を手で示して褒めちぎってしまったのだ。
「おいおい、道化者、そのような冗談も悪くはないが、六十の婆にかけると、ちと嫌味な台詞ではないかのう?」
カロムナ帝に茶化された時には後の祭りだ。
周りは笑ってくれたが、俺はふらつくほど血の気が引いた。
一応言い訳させてもらうと、彼女達の若さというのは、それほどのものなのだ。
ドワーフは平均して百歳ほど生きるという。ヒューマンと比べると二倍近い寿命である。その前提があってこれは、まさに想像以上ではないか。この失敗を無駄にはすまいと入念に観察してみても、絶望的になるばかり。
手首の皺とかで判断することもできないなんて!
驚いたのは、サカキさんがきちんと見抜いていたことだ。
ターゲットとふたりきりにさせる直前、小声で訊いてみる。
「どうして歳の差がわかったんですか?」
「――わからなかったんですか?」
なるほど、これは、なんか――ある意味相性はいいのかもしれない。
「で、どうです、実際対面してみて。下世話なことを言うようですがここが大事なんでね、ぶっちゃけイケそうですか?」
青髪の、ちょっとアニメ調な乙女だ。
彼は何も言わず、代わりに、意味深に微笑んだ。
それはこの男に接してから初めて見ることのできた、自信ある表情だった。
「それで、相手の方は、おいくつなんですか?」
遠巻きに見守りながら、当然の疑問をジュンがぶつけてきた。
「にじゅうよん」
と、俺は思い出したプロフィールをそのまま伝える。
「ええーっ! 見えない……絶対わたしより若い……」
「若いってんじゃないでしょう、ありゃ幼いと言うんです」
下手すりゃ三で割って年相応というレベルだ。
「まったく、スキモノもここまでくると……ところで姫様」
「何?」
姫様は目を通していた出走牛のリストから顔を上げた。
「二十四というのは、ドワーフでも少し遅れ気味なんでしょうかね?」
「一般論で言えば、そう考える家庭は多いのではないかしら」
それを聞き、くくく……と喉奥から笑いが漏れてくる。
「そうかそうか……それで奴のあの笑み――くく」
サカキさんと青髪の乙女は、それぞれオペラグラスを片手に、トラックを落ち着きなく歩いていく競走牛の列を眺めているようだ。どうやらサカキさんの方から積極的に話しかけていっているようである。心なしか距離も近い。おそらく、わからないことだらけの競牛という娯楽について質問を重ねているのだろう。娘の方も嫌がるどころか、熱心に説明しているような感じだ。もしかするとそちらの方から近づいていっているのかもしれない。自分の所の牧場の牛が出るのだから、誇り高いという気持ちがあるのだろう。
「これは案外、簡単に決まってしまうかもしれないなあ」
これまでの散々な結果からは敢えて目を背け、俺はそう言った。
何しろ条件が違うのだ。彼の男性的な部分に響くならばそれは決定打になりうる。
いくらか希望も持てようというものだ。
「ま、彼の奮闘ぶりに期待するとして、こちらはこちらでレースを楽しみましょうか」
「あっ、わたし馬券買ってみたいです」
「牛札ですよ、お嬢様。それに、わざわざ買いに行かなくても、巡回員に注文を伝えれば賭けたことになるみたいです」
「ありゃ……なんか味気ないような」
「カロムナのとまとめて出してもらいましょう。まあ、彼女は付き合いで例の牧場の牛に賭けるでしょうけれどね」
「ああ、そうか。じゃあサカキさん達もそうでしょうね」
「なんて牛でしたっけ」
ジュンもリストを覗き込む。
「七番の、バクガンガルド」
「強そうな名前」
「七番、あれか。――あー、私もあれに賭けましょうかねえ」
確かに強そうだ。多少接触が起きてもそのまま相手を弾き飛ばしそうな、堂々たる筋肉の動き。どいつが速い鈍いというのは知らないが、あいつは生き残りそうだ。
「結構激しい競技なのでしょう? 姫様」
「そう聞いているわ。私も見るのは初めてだけれど、そういう観点で牛を選ぶのも方法の一つだと考えられているようね」
「姫様も、お友達と同じにいたしますか?」
「いいえ、もう決めたわ。二番、シュビッツライエン」
「――ふむ、なるほど。確かに、速そうな牛です」
「あれは、かなりよく引き締めてある気がするのよ。きっとよく疾る」
「そう言われると、合わせたくなってきましたな」
「駄目よ。そんなのつまらないでしょう?」
「左様ですか。では御心のままに」
「ジュンも違うのにしなさいね。いいのを上から順に二つ、私とフブキで取ってしまったかもしれないけれど」
「もう! お二人はずるいんですから……。別にいいですよ、わたしとしてはどちらも好みじゃなかったですし。もっとかわいい名前のやつにします」
「そんな選び方でよいのですか?」
「いいんです。どうせどの牛が一着になるかなんてわかりっこないですよ、だから賭け事として成立しているんでしょう?」
それもそうか。
「一理あるわね」
少し迷った後、ジュンも牛を決めた。
「じゃあわたしはこの子にします。九番、テミホ」
「九番……大丈夫かしら?」
思わず姫様も心配する九番、テミホは、見比べてみると出走する十二頭の牛の中では最も貧相に見えた。
「ちょっとジュンお嬢様、これ、オッズが……」
「六十四倍? えぐい倍率ね」
「当たんなきゃゼロだ」
「でも面白いかどうかという意味では、姫様も喜びそうですし……」
「それで懐寂しくなるなら世話ないですよ! 姫様いいんですか、貴女のせいで若い娘が道を誤ろうとしている!」
「止める理由はないわね」
「これだ……」
「さて、いくら賭けるの?」
「へっ、生まれた時からお金持ちの姫様と違って、私は平民出身なんでね……ちょこっとその気になれれば、それで構わないのです。賭博や籤に使う金なんて、所詮夢見料ですよ」
俺は注文用の盆に銀貨を二枚置いた。
「と言いながらそこそこ出しましたね」
「では、私はこれくらい」
姫様は金貨を三枚置いた。
「うわあ……」
「私に言わせれば、賭博の金は自信料よ」
「じゃあわたしは、」
ジュンは、ぱんぱんに詰まった銭入れの小袋を取り出すと、そのまま、置いた。
どじゃり、と重そうな音がする。
「げっ……」
「あら」
「お前、そりゃ破滅したってなんぼか姫様は補填してくれるかもしれないが、一応払ってもらった給料なんだからさあ! そういう使い方は……」
「止めはしないと言ったけど、今日は全部で八レースあるのよ」
「あっ、そですか……」
ジュンは考え直し、小袋から半分取り出して、ジャラジャラでバラバラな銭を積むにとどめた。それでも姫様の数倍はある。
もう何も言うまい、と俺は思った。
第一レースは荒れた。
まず、初っ端から十番スクローパレディカと十一番ケングレンの事故が起こった。それに巻き込まれて十二番グラックドルザがバランスを崩し、先頭集団に遅れた。トップスタートはやはり速かった二番シュビッツライエン、次いで四番セイレンテ、三番手は割り当て番号も三番のキリ。
七番バクガンガルドは五位。
九番テミホは不幸なグラックドルザを除けば最下位である。
「どうやら私の見立ては間違ってなかったようね」
「いや、まだまだ、これから……」
「テミホ頑張ってテミホ――!」
最初のコーナーにさしかかって、シュビッツライエンはセイレンテに抜かれる。だがそのセイレンテも、2コーナーが終わる頃には五番コウサマウサの巧みな足運びに一時敗れ去ろうとしていた。
その間、さらに後ろから、じわじわとバクガンガルドが距離を詰めていく。
「よーしよしいいぞ、温存するんだ……足を……」
「テミホがんばってえー!」
姫様は黙って行く末を見守る。
再び直線に戻る。スタート後半分の直線を走り、半円の1コーナー2コーナーを回り、この長い直線を走って、3コーナー4コーナー、最後にまた半分の直線でフィニッシュというコースだ。
コウサマウサが先頭に落ち着き、シュビッツライエンとセイレンテは様子見の構え。
バクガンガルドは調子が悪そうには見えないが、どうにも離されていく。
「しっかりしてくれ」
ここで、後続にいた一番サーランダーと八番デュナンガが全く同じタイミングで仕掛ける。ぐんぐん距離を伸ばし、外側から覆い被さるように――、
「また接触かよ?」
コウサマウサ、セイレンテ、そしてシュビッツライエンすらも逃れられない。
間一髪クラッシュは免れているが、いつ転倒してもおかしくない危険な、そしてお六粘ついた走りが続く。
そうなると得するのは後ろ、漁夫の利でトップに立ったのは、なんと、いつの間にか六番ベックローンを追い抜いていた、これは――テミホ! 九番テミホが先頭!
そのまま3コーナーへと突入する。場内は驚きと興奮に燃え上がる。
「ええーっ!?」
「いやーっ! テミホーっ! いけー!」
「ああもう、これは駄目ね」
だが、破綻寸前の集団をようやく回避し、猛然と追い上げてきたバクガンガルドがテミホを尻からドカンと突き飛ばし、無慈悲に叩きのめしてしまった。
「ああーっ……ああーあ!」
「やっぱりパワーだよお嬢様」
哀れテミホは転倒したが、不思議なことに乗り手共々、全く衝撃がなかったかのようなソフトな着地をし、目を疑うようなスムーズさですぐに復帰してきた。
「あら、なかなかやるわね」
「テミホっ!」
「あれ……?」
反対にバクガンガルドは、今のスプリントがきつかったのか疲れを見せている。明らかにペースが落ちた。これでなんだかんだと余力のあるテミホが、ゴールインまでに追いつく目も出てきた。
「おい嘘だろ」
さらに後続の集団が、ついにバランスを保てず連鎖転倒! サーランダー、セイレンテ、コウサマウサ、デュナンガはもみくちゃになって進路を塞ぎ、三番キリをも巻き込んで完全に沈黙。
「お――なんだそりゃあ!」
だが、そんな中で奇跡的にシュビッツライエンだけは、修羅場を切り抜けている!
「残ったの……?」
速い! テミホよりもよっぽどバクガンガルドを刺しかねない!
「テミホ……!」
ジュンが両手を握って祈る。
テミホは懸命にバクガンガルドを追いかける。シュビッツライエンは抑えられていた走りを全て解放する。バクガンガルド、ただゴールだけを見据える――。
「逃げろ、逃げるんだバクガンガルド――!」
「やるのよ……! シュビッツライエン……!」
だが、その三頭のデッドヒートよりも遥かに、駿足を示した牛がいた。
それはあっけなくも華麗にテミホの脇を通り過ぎ、シュビッツライエン、バクガンガルドの両牛を抜き去ると、そのまま、当たり前のようにゴールラインを突破した。
勝利を得たのは全く目立っていなかった、六番、ベックローン。
配当倍率は十六倍であった。




