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エルフヘイムをぶっつぶせ!  作者: 寄笠仁葉
第1章 94番
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1-1 ぼくのかれいなるけいれき

 ようこそ。来てくれてありがとう、嬉しいよ。

 結末を先に言っちまうと、俺は返り討ちにあって死ぬ。


 ……うそうそ。そんなの誰も読んじゃくれないもんな。だからそういう話はしない。

 本当のことを言うとこれは俺の英雄的冒険譚、――するどい、実はそうじゃない。

 ああいや、別にあんたをからかおうってんじゃないんだよ。

 ほら、今から結構長いこと文章が続くだろ?

 だからこういう意味のない冗談をいくつか用意して、リラックスして活字に目を慣らしてもらおうと思ってね。ちょっとしたウォーミングアップ。

 プールで足攣ったら危ないだろ? それと一緒。目が攣ったら危ない。


 でも、気に障ったなら謝るよ。


 大丈夫、安心してくれ。別にこんなとこに伏線を仕込んだりなんかしない。気を張るのはもっとずっと後、話がちゃんと転がりだしてからじゃないと、お互い疲れるだけだ。

 あ、そう? もう必要ない? 1600字は埋める気でいたけどゴミ箱にポイだな。

 じゃ、次からが本番。




 俺は幸運な男だ。


 もう一回言おうか。俺は幸運な男だ。

 両親は健在だし、身体も精神も健康そのもので大病は患ったことがない。姉と妹が一人づつ。母は専業主婦で父は保険会社の勤め人。東京庭付き一戸建て、ワゴン車が一台。絵に描いたような、誰もが羨む夢の中流家庭。


 人と比べて苦労らしい苦労はしてこないで今までやってきた。あまり目標を高く設定しない性格というのもあったと思うが、受験で頭がおかしくなるような不安は感じたことがないし、コミュニティで孤立した経験もない。修学旅行の班決めではいつも丁度いい人数が揃っていたし、多少講義をサボったとしてもお互いさまでカバーし合える相手がいた。

 面白みがない? あんたの評価はおそらく正当だ。


 今年、二十二歳になる。


 現代の日本国でこの年齢というと、大抵の場合、こなすべきイベントがある。

 今更明文化する意味も特に感じないが敢えて表記すると、就職活動。

 俺はいつだって()()というものに含まれてきたので、もちろんこれをやった。

 それじゃあ早速、戦績を発表しましょう。

 うん、多分、わざわざこれを読んでいるようなあんたは、こんなことは聞きたくないだろうね。察しの通り、つまらなくて不快な話さ。でも必要っちゃ必要なんで、まあちょっと我慢して付き合ってくれよ。俺がどういう奴かわからないと、これからに支障が出るからな。それに、もしかしたら他人事じゃないかもしれないし。


 始めよう。まず四十七、これは書類の段階で落ちた数だ。当然フィルターにかかったとこもあっただろうし、最初の頃なんかそもそも下手くそな作り方だったから、まあこれはいい。次の三十四、これが本格的にダメな部分だ。面接だ。ああ、ああ、わかってるよ。そんな詳しくは言わないよ。五分くらい沈黙が続いたり、途中で「帰っていいですよ」と退室を促されたりなんて話、俺だってしたくない。


 敗因はまあ、色々だ。ウリになるようなエピソードを作らなかったとか、学校主催のセミナーをサボりがちだったとか、業界を絞らなかったとか、上がり症を克服しないまま続けたとか、卒論が難航していたとか、まあ、鼻で笑われそうな色々だ。


 ちなみに、警察も受けたが、それもダメだった。ペーパーテストは通ったわけだが、やはりその先がいけない。そもそも俺は視力聴力その他諸々の項目こそ悪くないが、身体を動かすのが苦手な上にインドア派だから絶望的に細くて体力がない。一応、求められた水準は満たしたが、いくら万年人手不足だからといって、柔道剣道の帯持ちの次に生っ(ちろ)い痩せっぽちが来たら、誰だってあちこちを(つつ)きたくなる。


 結局のところ、俺は本当の本気では必死になれなかった、ということなんだろう。


 博打のもたらすくだらないスリルや、ゲームクリアの作られた達成感、創作物に見る(つか)の間の感動、そういうことばかりに血道をあげて、学業だって単位は満たしたが優秀ではないし真面目ですらなかった上に、内容はどこまでも虚を求めるようなものだったから、俺は実のあることなんか何一つしてこなかったことになる。

 ――それでいて、暮らしていけるほどシビアにはやらなかった。本格的に金のかかる趣味には手を出さず、何もかもが仕送りで事足りたから、短期のバイトさえ試しにやることすらしなかった始末。


 当然のことだが、きちんと立てた目標を、()()()()、多少マズくてもなんとか帳尻を合わせて達成するという、悪くても()()()して達成したことにするという、当然積んでおくべき経験を積まなかった人間を、社会は必要としていない。ケツに火がついてもダメな奴は、何をやらせたってダメに決まってる。自分でもそう思う。


 だが、自覚していても――しているからこそ、お前はこの社会にとって不要だ、身の程を知れ、と言われ続けるのは、なかなかにつらいものがある。

 いや、頭ではわかっちゃいるのだ。彼らはそんなことは言っていない。彼らは、君はここに来るべきではない、と言っているわけではないのだ。彼らはただ、君には他に行くべき場所がある、と言っているだけなのだ。


 じゃあ、俺が行くべき他の場所というのはどこか?


 レールをなぞって走ることしかできない人間が、レールから外れた場所を走って辿り着くことのできる場所などそう多くはない。加えて勤勉でないとなれば、相場も大体は決まってくる。

 俺にはもう、彼らの言う俺の行くべき場所が、そういったろくでもない何かを指しているようにしか聞こえないのだ。

 理性はそうではないと言っているし、頭で理解もしている。だったら、この、抑えきれない怒りはなんなのだろうか? もちろん自分へ向けられた怒りだ。だが決してそれだけじゃない。


 いいだろう。言われた通り、今まで目を背けてきた建設とか飲食とかIT業界のヤバい方面とかに目を向けてみるとしよう。

 それで、そこではなかったら?

 わかった。カタギでもヤクザでもない、グレーなギリギリアウトの詐欺やら何やらを取り扱う、会社と呼べるかどうかもわからない集団に目を向けてみようか。

 それで、そこではなかったら?

 彼らの言っている、俺の行くべき場所とは、一体全体どこにあるのか?

 刑務所のことか?

 そこですらなかったら?

 誰からも、家族にすら愛想をつかされた先に待っている、人間としてではない生活のことか? おっとそこの人権派、彼らとて人間だ、という旨の発言はここでは遠慮していただきたいね。今はそういうのはいい。

 俺が指摘したいのは、彼らはレールをちゃんとなぞれた人間にも無茶を要求するくせにそういう物言いをするのか――ということで。


 忘れてくれ。


 誰か、俺に都合のいい答えを教えてくれ。

 多分、やろうと思えば、今からでも普通にベッドへ入って、明日の朝起きることもできるだろう。時間が切れたら切れたで非正規の勤め先を検討することはできるだろうし、それも難しければ実家に帰って頭下げて一緒に手を考えてもらうことだって、きっと不可能ではない。親戚中を回って頼み込んでみれば、誰かがどこかにお試しで()じ込んでくれるかもしれない。


 そう、いきなり死ぬわけじゃないし、全く後がないわけでもない。持たぬ人々に比べれば、俺の置かれている状況など、まだまだ涙が出るほどの幸運、代われるものなら殺してでも奪い取りたい、恵まれた環境。まだ生き方の一つが、道の一つが閉ざされただけだ。底を打ったわけでもない。普通になんとかなる。

 たかが新卒の就職活動じゃないか。

 されど新卒の就職活動じゃないか。


 疲れた。


 つらい仕事をつらいままでも続けられるのは、報酬があるからだろう? 何か、ほんの少しでもリターンがあれば、この自分をいたずらに痛め続ける作業が精神を蝕むようなことはなかったかもしれない。結局俺は楽をしたいだけの生き物で、先に楽が見えていればこういうことを考えることすらなかったのだろう。


 見えないのだ。何も。

 それに耐えるのは、俺にとっては大変なことだ。

 大変なことだった。

 結局耐えきれなかったわけだ。

 そして何より、こんな状態の俺を、極力、誰にも、知られたくない。

 知られないままでいたい。


 そろそろわかってきたかな?


 実は、少し前から決めていた。この、手持ちの最後の面接がダメだったら――と。

 ダメだったに決まってるじゃないか。


 ものの本によれば一番簡単だっていうんで、ポリエステルのロープを試しに買ってみると、なるほど説得力があるような気がした。ので、通販でぶら下がり健康器を取り寄せて、届いたのが昨日。後々の手間を省くために、ブルーシートも買って広げてある。二日前から水しか口にしていない。自慰も小用も済ませた。大した内容じゃないが、遺書もしたためた。下に住んでいる大家さんの部屋の郵便受けに手紙を入れて、後始末の依頼もした。パソコンはさっきぶっ壊した。

 結束バンドの感触を確かめる。

 完、璧、だ。でも、俺のことだから、きっと完璧じゃない。

 やれることは全てやってない。だが俺はもうやらん。

 ……見ない方がいいぜ。




 まあ、いくら手軽で成功率が高いといっても、失敗することはあるわけだ。紐が切れたか、健康器が壊れたか? あとは無意識にもがいてしまうこともあるっていうから、リミッターが外れた状態なら、結束バンドでも案外引き千切ってしまうものなのかもな。


 まったく、俺って奴はどこまでいっても締まらねえ。

 回復したら、またすぐにやらなきゃな。


 そうなると、さしあたっての心配事は脳へのダメージによる後遺症やら何やら、つまり動けなくなっているかもしれないという可能性だが、意識は眠りから覚めるのとあまり変わらない印象で戻ったので、多分大丈夫だ。ダメだったらどのみちそこで終わりだ。

 それより、先に心配しなきゃならないことがあるような気がしてならない。


 明らかにベッドじゃない。


 だから、すごく病院じゃない気がしている。

 かたい。

 目を開く。動かす。……ああ、なんということだ本当に病院じゃない。石造りなのはまだいいとして、一目見て衛生不安な部屋が病院にあっていいはずがない。どういうことだ。ここは一体どこだ? 妙な暗さだ。

 そう、部屋は暗いはずなのだが俺の周りだけが妙に明るい。この光源は一体何か?

 

 光の中にいる。


 炎じゃない。電灯でもない。光そのもの。二畳ほどの光。形を持った光。文字と記号が彩る円。その上に俺はいる。

 光は湯気のように立ち昇った先から消えていく。その幕の向こうにふたりの、人間――じゃない。人型をしているが彼らは明らかに人間ではない。


 まず、日本人に見えない。

 金髪と碧眼、ステレオタイプな欧米の風味。そして現代人に見えない。纏っている雰囲気もそうだが、着ているものが、その……辺境にだって大量生産品が出回っているような時代にこれはおかしいだろう――ローブは。

 最後、耳がとんがって長すぎる。


 変だ。どうも事の繋がり方が妙だぞ。

 医者と看護師でないのは当たり前として、映画の撮影とか演劇の舞台裏とか、思いついた先から最後の記憶へと繋がっていかない。

 病院以外へ運ばれるという想定が、俺の中にない。


「わお! ビンゴォーッ!」


 ふたりのうち、躁状態っぽい方の男が大声でそう叫んだ。明らかに俺を見て。

 もうひとりの、そこまで躁状態じゃないっぽい方の男は黙ってこちらを興味深そうに――観察、してくる。


「成功だ! 成功だろこれなあ成功だよな?」

「どうかな……」


 どちらも、整った目鼻立ちのくせして人相(?)が悪い。

 躁状態っぽい方の男は、大学でいくらか似た類の雰囲気と顔を見たことがある。彼らは柔らかい表現ではチャラ男と呼ばれる。この男はいわゆるイケメンの範疇に入るだろうからまだ救いがあるが、そうでない個体はとてもじゃないが見るに堪えない生物となる。それにしても、人種が違うのにそういうカテゴリに放り込めるのは不思議だ。

 そこまで躁状態じゃないっぽい方の男は、これもやはり大学で何人か似た個体を見ている。落ち着いていない若手の講師というものは、どうしてああいう独特の胡散臭さを纏うのだろう? この男も同じ感じだ。


「思っていたよりもヒューマンに近いし、この体格では……。お前の言う遠い場所まで、本当にアクセスできたのかな?」

「手応えはあったけどな」


 言葉がわかることに、少なからず驚きを覚える。俺は日本語しか喋れない。目の前の彼らは明らかに外国語を喋っているが、なぜか、ほぼ完璧にヒアリングできている。しかもこの言語を話せる自覚もある。ますますもって妙だが、言葉が通じそうなら、まず、はっきりさせておかなければならないことが一つある。


「――私は、死んだのですか?」


 信じていなかったが、あの世という概念は理解している。ここはそこかもしれない。

 よく考えてみれば、最後に着ていたのはリクルートスーツで、今もそれを着ている。そして不自然にきれいだ。劣化等の時間が長く経った様子が見られない。ここは救急車の中でもないし病室でもない。病室ならスーツは脱がされて患者衣に着替えさせられている。そうでないということは、あの状態から直接ここへ来た可能性が高い。どうだ?

 この疑問には、より躁状態の男が答えた。


「さあ? 別に蘇生はしてないと思うから、死んでないんじゃないのか。生きてるように見えるぞ」

「……はあ、そうですか」


 そのように見えますか。というよりこの――とりあえず便宜上こう呼ぶが、エルフも、なんだかよくわかってないような感じがする。

 どうも、俺が想像できるよりも遥かにややこしい事態になっているような気がしてならない。まあ、なんにせよ会話が成立するのはありがたいことだ。


「大変申し訳ないのですが、私は今自分が置かれている状況をまったく把握できておりません。差し支えなければご説明をお願いしたいのですが、よろしいでしょうか?」

「いいよ。ってかわかんなくて当たり前だよー、お前この世界の生き物じゃねえもん」


 なに?


「……そうなんですか?」

「そうだよ、風の化身。お前は闘技奴隷としてこの俺に召喚されたというわけだ」


 言っている意味はよくわからないが、ややこしい事態から非常にまずい事態へと認識を改めなければいけないのはよくわかった。わざわざ頬をつねらなくたってこれが現実であることくらいもう気付いている。


 甘かった。


 あんな程度じゃ現実から逃げることすらできないわけだ。また一つ学ばせてもらった。

 問題は、それが次に生かせないかもしれないということだ。

 風の化身とは?

 闘技奴隷とは?

 奴隷というくらいだから、ひとまず人権は剥奪されたらしいことがわかる。


「あの、それは、」

「読んで字の如くだよ。闘うための奴隷だよ」


 古代ローマとかで見世物になっていたやつか。それはいいんだが、


「なぜ私なのですか?」


 俺は、風の、化身じゃ、ねえ。

 召喚だかなんだか知らないが、失敗していますぞエルフ殿!

 何が悲しくて無職候補なんか呼び出しちまったんだ?

 剣術家やボクサーを()んだ方がよかったんじゃないのか。

 死にかけがよかったんなら、それこそジョン・カーターがいただろうに!


「なぜ? なぜだろうな。条件付けにひっかかった中から選ばれたのがたまたまお前だった、ってだけのことだよ」

「――私は風の化身というやつではありません。元いた世界でまともな闘いを経験したこともありません。奴隷になることは避けられないようですから、この際甘んじて受け入れますが、せめて他の仕事をいただけませんか?」


 エルフ達は顔を見合わせた。


「……だってよ?」

「盛り上がればなんでもいい」


 ――この噛み合わなさ!


「あなた方が期待するようなことにはなりませんよ!」


 こうやって喚び出したモンスター同士を育てて戦わせるゲームが昔あったな。

 だが俺にはその役は務まらん。どう考えても。


「それはこちらが決めることだ」

「んー、俺達はだね、別に急いでいるわけじゃないんだな。だから君の事情はあんまり関係ないのよ。ダメなら次さ。すぐにとはいかねえけど。でもわざわざ手間かけたんだ、その分くらいは働いてもらわねえと示しもつかんし。言っておくがこの下なんてなかなかねえぞ。まあ、どうしてもって言うなら、今この場で死んでもらうしかないな。少しなら手伝える」

「そういうことだ。案ずるな、きちんと一試合ごとにファイトマネーは支払われる。いつかはそれで自分を買い取ればいい」


 なるほど、自分の買い取り……。

 つまり、それは不可能だということだな。


「やれやれ、不要かと思っていたが……」


 そこまで躁状態でない男は、側にあった机のようにも見える台から金属の何かをこちらへ、円の内側へ投げて寄越した。

 輪が二つ。

 正確には輪を半分に割って蝶番(ちょうつがい)で開くようにしたもので、錠か何かで閉じることができるようになっている。それには短めの鎖がついていて、もう一方の輪に繋がっている。

 次に、布の塊が飛んできた。


「着替えて、付けろ。それが終わったら、次は手枷だ」


 広げてみると、なるほど服だ。意図的に穴を開けた袋と間違えていないか確認を取りたいが、ここは服だと信じよう。

 さすがに、黙らざるをえない。

 彼らの目は笑っていない。表情も。かといってクソ真面目というわけでもない。至って平熱で言っている。慣れている感じがする。俺はヤクザとつるんだことはないが、おそらく彼らは似たような種類の生物だ。決してファッキン・コメディアンの類ではない。


 逃げるか。


 考えようによっては、彼らは俺を殺してくれそうだから救い主と捉えることもできなくはないのだが、多分楽な方法を採用してくれないだろう。かなり雑にやる気がする。死しか逃げ場がないといっても、死ぬのがこわいのは当たり前だ。本能に刷り込まれているのだから。楽でそれほど苦しまず大きな被害も出ないっていうんで、飛び降りや入水を避け山手線への八つ当たりもやめて部屋でひっそりやることに決めたのに、苦しみから逃れるために苦しむなんて本末転倒だ。


 俺の望むところではない。


 状況が変わりすぎているのだ。俺は再び死がこわくなってしまったらしい。

 最後の記憶に死への恐怖が鮮烈に焼き付いたままで、俺の命は終わっていない。おそらく死の直前に喚ばれてしまった。結局、俺はひどい目を見ないと学習しないわけだ。だからこんなことになっちまった。ロープを買うよりも以前に、どんな状況でも死は何にも勝る恐怖だということを学習しておかなければならなかったのだ。少なくとも、凡人にとってはそうだ。就職活動を始めるよりも以前に、その準備を終えておかなければならなかったのだ。そう、先の準備、先の準備だ。計画、見通し、段取り、予行。そんな単純なことさえ、俺は学ばずに生きてきてしまったわけだ。それでこれ。


 もうたくさんだ。


 幸い、この部屋にドアというものはないらしい。縦長の出入り口だけがある。

 わかったよ、本気を出すべき時は今ってことだな? 服と靴があるというのは本当にありがたいことだね。今一度、火事場の馬鹿力を引き出す時だ。人生で一度くらいは、もう走れないところまで走ってみるべきだろう。


 よし!


 一歩を踏み出す途中で()に阻まれた。見えないがそれは確かに壁だった。(したた)かに額を打ちつけて、反動でひっくり返り、そのまま後ろの壁へつむじのあるあたりをぶつけた。


「いぃいッて――」


 一瞬で脱出の決意が溶かされていく。

 痛み。

 自分で作った、容赦のない痛み。

 オーライ、なるほど、ここまで落ちといてそんなうまい話はねえってことか。悔しくなんかねえ。最初からわかってたよ、クソッタレ。

 この――既にある言葉ってのは便利だな――魔法陣は、結界でもあるってわけだ。


 恥ずかしすぎる。召喚したものが逃げないようにするのは当然だと――こうなってから、初めて当然だと理解する。足枷が通過できたからなんだ? 別の世界から俺を着ている物ごと運んでくるようなシステムだ、ただの物理法則じゃないのはわかりきっているじゃないか――と、わかりきっているはずのことを上手く初見で現実に適用することができていない。遅れている。俺は、何もかも。


 ふたりのエルフもさすがに苦笑している。自分でも自分の姿が滑稽だと思う。滑稽だから、こうなった。当然できなければいけないことが当然にできない。その滑稽さだけが、今、俺が持つ全てだ。ああ、もう、本当にもう――ああ。


「……まあ、今のは見なかったことにしてやるよ。それで、どうする?」


 俺を召喚したらしい方、どちらかというと軽そうな男が俺に問う。

 顔を上げる。つまり彼がこの魔法陣を消してしまわない限りは、俺にはどうすることもできない。死ぬことさえも。

 本当の理不尽とはこういうものか。何十枚の労力が全部ふいになったり()る気もないのに(なじ)ったりしてくることなんて理不尽でもなんでもなかったんだ。

 機会すらない。それが今。

 それで、俺は、どうする? 俺にできることは?

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