第三十五話 未体験の痛み
第三十五話 未体験の痛み
つくづく思うが、私は血の気が多い。せっかく殺人鬼が見逃してくれそうだったのに、呼び止めて一騎打ちを打診するなんて。我ながら正気の沙汰じゃない。
その場の勢いとはいえ、月島さんに黙って異世界に来てしまったことに、今更ながら後悔していた。アーミーのことが怖いというのもあったが、月島さんから説教されることも怖かった。
前回、あれだけ危険な真似はするなと釘を刺されていたのに、またやらかしたのだ。どんな目に遭うか考えただけで、ゾッとする。
おっと! まずはアーミーとの一戦を制することを考えないと。ここで負けてしまえば、月島さんに説教される未来は来ない。怒られるために頑張っているようで、変な気分になるが、とにかく明日のために頑張ろう。
さて、慎重に能力を選ばないと。ここで選択をミスしたら、勝てるものも勝てなくなるわ。そうでなくても、勝機は低いんだから。さらに下げることもないわね。
だいぶ悩んだが、能力の選択を終えて、異世界に降り立つことにした。アーミーが提示してきた条件に一致する異世界は、幸いなことかは不明だが、すぐに見つかってくれた。
気が付くと、私は真っ暗な森の中にいた。狼でも出てきそうな雰囲気だけど、これからのことを考えると、狼の方がマシな気がする。
私より少し遅れてアーミーがやって来た。見ると、神様ピアスと黄色のピアスの両方を付けている。そんなのアリ!? いくらどっちも持っているからって、大盤振る舞いはないんじゃないの?
一方のアーミーも、私を見て、やや目を丸くして驚いていた。
「少し見ない間にずいぶん外見が変わったね。君は一瞬のうちに性転換できる特技があるのか? もし良ければ、やり方を教えてもらいたいところだな」
「ただの特異体質よ。そもそもあんたなんかには、頼まれたって教えてやるものですか!」
私は敵意をむき出しにして叫んだが、ひたすら愉快そうにアーミーは耳を傾けていた。
やつは私に背中を見せると、首だけでついてこいのジェスチャーをして、歩き出した。殺人鬼の指示に従うことに、不安な部分もあったが、待っていても埒が明かないので、後を追うことにした。
「一つ聞いてもいいかな?」
「……質問によるわ」
「今の姿と、現実世界での姿。どっちが本当の君なんだ? まさかどっちも自分だとは言うまい?」
誰でも感じる疑問だ。答えたところで、不利になることはあるまい。正直に今の姿が、真の姿だと答えた。
「真の姿か……。ラスボスの第二形態みたいだな……」
「うるさいわね!」
私だって、言ってから、しまったって反省しているんだから、めざとく突っ込まないでよ。
「そういうあんたはどうなのよ? 変化の回数なら、私を圧倒しているじゃない!」
「どうだったかな。何しろ、数えきれないくらい手術をしたからなあ。もう覚えてないや……」
元の姿を忘れるくらい、整形手術を繰り返すって、何なのよ!?
「ただ……、とてもつまらなかったのは覚えているなあ……。あと、悲しかった……」
「え?」
思わず聞き返してしまったが、返事はなかった。
「まあ、老人の姿になるのは、今回が初めてだけどな」
などと、何の補足にもならないことを言って、私を森の中に一件だけ存在する屋敷に案内した。
無人の屋敷なのか、誰も私たちを出迎えようとはしなかった。使用人の一人くらい作ったらどうだと嫌味を言ってみたら、満更ではない表情をしていた。
屋敷内を歩くごとに、血の匂いが濃くなっていく。こいつの話では、この世界に存在する生物は、外科手術を施している女医だけというから、この匂いは女医が手術をした時に流れた血の匂いということになる。
アーミーを見ると、心なしか心が躍っているようだった。血の匂いに、全神経が反応しているようだ。とことん獣だな、こいつ。
少し広めの部屋に案内された。血の匂いがこれ以上ないほど濃くなっている。ここが手術室で間違いあるまい。
ドアを簡単にノックの後、私たちは室内へと足を踏み入れた。
「言葉に出来ないほどホッとしているよ。今日ばかりは返り討ちにされるんじゃないかと冷や冷やしていたからね」
室内には机が置かれていて、髪を肩の辺りで切り揃えた女医さんが書き物をしていた。アーミーだけが入ってきたと思っていたのだろう。振り返って、私の姿を確認した時に変な顔をしていた。
「……隣の可愛い子は誰だ?」
アーミーと違って、彼女はだいぶまともな思考回路をお持ちらしい。すぐに不穏な空気を察知していた。
「これから狩る人間だよ」
買ってきた食材をどう料理するか考える主婦のように、サラッと言い切りやがった。誰も狩られることなど了承した覚えはないというのに。
「……そういう訳で、この世界で、彼女と一騎打ちすることになったんだ」
アーミーから一通りの説明を受けると、女医さんは憤怒の形相で、手術器具を投げつけた。
「この馬鹿! まんまと乗せられやがって!」
投げつけられた道具を難なく交わしながら、アーミーは楽しそうに笑っていた。その様子を見て、女医さんはますます怒りを爆発させる。
「分からないのか? 君はしてやられたんだよ、その子に!」
「そうとは限らない……」
「限るんだよ! その子を殺せば万事上手くいくとでも思っているのか? あの場面で君がするべきだったのは、何を差し置いても逃げることだったんだ。それをまんまと挑戦を受けてしまうなんて……。こうしている間にも警察が君との距離を狭めてきているんだぞ。この間瀕死の状態にまで追い込んだやつだって、その内にここへ現れるだろうね!」
「それは、楽しそうだな……」
こいつの目的はあくまで月島さんへのリベンジだ。こいつが神様として君臨しているこの世界に来てくれるのなら、願ったり叶ったりの事態だろう。どうせ月島さんを料理しているところでも思い浮かべているのだろう。口元がだらしなく歪んでいた。
女医さんはしばらく唖然としていたが、すぐに「勝手にしろ」と捨て台詞を残して、どこかへ立ち去ってしまった。
「嫌われたわね」
「くくく……、しばらくは手術をしてもらえそうにない。当分の間は老婆のままということだ」
あまり気にする素振りは見られない。まさか、老婆の姿を気に入っているのだろうか。
「ドクターの紹介も済んだことだし、そろそろ始めようか。それとも何か食べるかい? 最後の晩餐くらいは認めてあげても良いよ。この世界では、俺は神だからな。大抵の要求は叶えてやれる」
「結構だ」と晩餐を突っぱねた。お前を倒してから、親友と仲良く鍋をつつくことにするよ。でも、願いはあるかな。
「死んで」
アーミーは首を横に振った。当然だが、却下された。何だ、神様だって、出来ないことはあるじゃない。そう言うことなら、仕方ないわ。自分の力で叶えることにしましょう。
「じゃあ、始めようか」
「ここで?」
「そっちの方が良いんだろ? 君としては、気色悪い手術器具ごと、俺をぶちのめしたい筈だろうからな」
あんたの言う通りだけど、手術器具を気色悪いなんて言っちゃ駄目よ。女医さんがまた怒っちゃうわ。女の怒りは怖いんだからね。
「そうそう。君は幻肢痛っていう言葉を知っているか?」
幻肢痛。確か事故とかで、腕や足を失った人が、それがあった場所に痛みを感じる症状よね。
「私がこれからしようとしていることは、一言で言うと、幻肢痛だ……」
言っていることの意味がよく分からない。幻肢痛は体の部位を失った人がなるものでしょ? 私は見ての通り、五体満足よ。
「実際に腕や足を失う訳じゃない。失った場合に感じる痛みを経験することになるだけだ……」
……あまり経験したくないわね。
「『幻想痛覚』……」
アーミーが呟くと、私たちの周りに、人の体ほどもあるシャボン玉が幾つも出現した。これがこいつのキーパーとしての能力の一つ……。
「ネタばらししても良いが、実際に食らって確かめるのが一番だろう……」
シャボン玉に関して黙秘を貫くつもりらしいが、こいつからもたらされる情報など、元から信用する気はなかったので、少しも残念には思わなかった。
どっちにせよ、食らわなければいいだけの話だ。それは、こいつの他の能力にしても同じだ。みんな味わう気など、毛頭ない。
先手必勝。ただその一言に尽きた。
久しぶりの異世界です。異世界を舞台にしている作品なのに、現実世界の話が長かったと反省しています。