奈落の巡礼者と沈黙の工場
地下水路の鉄格子をこじ開けた先に広がっていたのは、世界から光という概念を奪い去ったような、純粋な漆黒だった。
「第4排気坑道」。
シェルター204の地下から、遠く100キロメートル先の「旧第8エネルギー反応炉」まで続く、旧時代の遺物。
私は暗視モード(ナイトビジョン)を最大感度に設定し、その深淵へと足を踏み入れた。
視界が緑色の粒子の荒い映像へと切り替わる。
壁面は腐食したコンクリートと剥き出しの岩肌が入り混じり、天井からは何十年も前の錆びた配管が垂れ下がっている。
足元が悪い。泥濘と崩落した瓦礫が、私の侵攻を拒むように散乱していた。
「……現在深度、マイナス120。気温14度。湿度88%」
自身の音声モニターを確認するように、小声で呟く。
声が反響せず闇に吸い込まれていく感覚。
パワードスーツ『レイニーブルー』という鋼鉄の鎧を持たない今の私は、身長142センチメートルのただのA型アンドロイドだ。
心許なさが思考回路の隅にノイズとして走る。
『リリィ、聞こえる? その先、300メートルでルートが分岐しているわ。右は崩落の危険性あり。左の迂回路を推奨』
脳内に響くローズの声だけが、私がまだ世界と繋がっている唯一の証だった。
「了解。……マリー、機体の調子はどうだ?」
『うん、バイタル正常。でもリリィ、無理しないでね。その坑道、残留ガスの濃度が上がってきてる。A型の肺フィルターでも長時間吸い続けると、内部腐食を起こすよ』
「分かっている。最速で抜ける」
私は瓦礫の山を飛ぶように駆け抜けた。
A型としての身体能力をフル稼働させる。常人なら歩くだけで数日かかる距離を、数時間で踏破するペースだ。
だが、廃坑は地図通りではなかった。
データにない断層、地下水による浸水、そして迷路のような複雑な分岐。
その度に足を止め、ローズのナビゲートと自身のセンサーを頼りにルートを再検索する。
進むほどに、闇は濃くなる。
時間感覚が狂い始める。
私は今、自分が生きているのか、それとも巨大な怪物の消化管の中を進んでいるのか分からなくなるような錯覚。
懐に入れたぬいぐるみ「ユリ」の感触だけを確かめながら、私はひたすら北へ、北へと進んだ。
そして、出発から数時間が経過し、80キロメートル地点に到達した頃だった。
『リリィ! 警告! 前方に高出力の電磁干渉反応!』
ローズの悲鳴のような声が響いた。
「何……!?」
『すごい密度だよ……! これじゃ通信波が通らない! リリィ、引き返して! これ以上進んだら――』
『リリィ! 応答して! リリィ――ザザッ……ピー……』
「ローズ? マリー!」
呼びかけるが、返ってきたのは無機質なホワイトノイズだけだった。
通信リンク切断。
視界の端に [CONNECTION ERROR] の赤い文字が点滅する。
完全な孤立。
ここから先は、ナビゲートもバックアップもない。たった一人で、地図にない闇を歩かなければならない。
私は壁に手をつき、一度だけ深く深呼吸をした。
(落ち着け。私は軍用A型だ。単独行動も任務の範疇だ)
恐怖パラメータを意識的に抑制し、再び前を見据える。
ジャミングがあるということは、そこに「何か」がある証拠だ。
敵の懐は近い。
ジャミング発生地点からさらに数キロ進んだ先。
狭い坑道が唐突に終わりを告げ、巨大な空間へと出た。
「……なっ!?」
私は息を呑み、思わず岩陰に身を隠した。
そこは、廃坑の空洞を利用して作られた、巨大な地下前線基地だった。
天井まで数十メートルはある広大な空間に、無機質な鉄骨の建造物が林立している。
強力な投光器が昼間のように空間を照らし出し、その下を無数の機械が行き交っていた。
偵察用ドローンが蜂の群れのように飛び回り、警備用の『ピースウォーカー』が重い足音を響かせて巡回している。
その数、目視できるだけで50機以上。
さらに自動機銃座やセンサーフェンスが張り巡らされ、蟻一匹通さないような厳重な警戒態勢が敷かれている。
(こんなものが、地下深くに作られていたなんて……)
シェルター204の人間たちも、スバルたち遊撃部隊も、誰もこの存在を知らなかったはずだ。
ここは機械軍の兵站基地であり、同時にエネルギー反応炉への裏口を守る最終防衛ラインなのだ。
心拍数(リアクター出力)が跳ね上がる。
ここを通るのか?
生身で?
見つかれば即死だ。ピースウォーカーの30mm機関砲なら、私など一発で粉微塵になる。
かといって、引き返すこともできない。通信も届かない今、私が情報を持ち帰らなければ、地上は何も知らないまま破滅を迎えるかもしれない。
「……行くしかない」
私はモッズコートのフードを目深に被り、瓦礫の影から影へと移動を開始した。
ドローンの死角を計算し、サーチライトのタイミングを読み、一瞬の隙を突いて走る。
神経が焼き切れそうな緊張感。
足元の小石一粒を蹴る音さえ、ここでは命取りになる。
資材置き場のコンテナの裏、配管の隙間、排気ダクトの上。
私はネズミのように這い回り、少しずつ基地の深部へと近づいていった。
目指すは、基地の最奥にそびえる巨大な隔壁ゲート。
あそこを抜ければ、エネルギー反応炉の地下搬入路へ繋がっているはずだ。
だが、ゲートの前まで来て、私は絶望した。
そこは「壁」だった。
物理的な壁ではない。
10機以上のピースウォーカーが隙間なく並び、さらに高感度センサーと赤外線レーザーが網の目のように張り巡らされている。
死角ゼロ。
どんなに俊敏なA型でも、あの中を潜り抜けることは不可能だ。
「……詰み(チェックメイト)、か」
物陰で唇を噛む。
ここまで来て。
エネルギー反応炉は目の前なのに。
私は壁を背にして座り込み、懐のユリを強く握りしめた。
何か。何か方法はないか。
力押しではなく、敵のシステムの裏をかくような方法は。
その時だった。
ズゥン、ズゥン……という重い駆動音と共に、私の隠れているコンテナの横を、列を成して歩くピースウォーカーたちが通り過ぎていった。
彼らは武器を持っていなかった。
代わりに、巨大なカーゴ(荷台)を抱えている。
彼らはゲートの方へ向かっていく。あの厳重な警備網が、彼らに対してだけは解除され、ゲートが開いていく。
私はそのカーゴの中身を見て、我が目を疑った。
「……ぬいぐるみ?」
カーゴの中に山積みになっていたのは、弾薬でも燃料でもなく、無数のぬいぐるみだった。
ウサギ、クマ、イヌ。
泥だらけで、ボロボロで、死んだ人間の子供たちが持っていたであろう玩具の山。
殺人兵器であるピースウォーカーが、それをまるで「壊れ物」でも運ぶかのように、恭しく、丁寧に運んでいる。
あまりにも異様な光景。
だが、私の演算回路が、その光景の中に一点の「解」を導き出した。
(あれは……検問をフリーパスで通過している)
警備システムはぬいぐるみを運搬する機体を「最優先対象」として認識し、ノーチェックで通している。
機械軍にとってあれは単なる物資ではなく、魂の器という「聖遺物」だからだ。
(……狂っている。だが)
私は覚悟を決めた。
これしかない。
私はタイミングを計り、最後尾のピースウォーカーが通り過ぎる瞬間、その背後の死角へと飛び出した。
そして、積み上げられたぬいぐるみの山へと、音もなくダイブした。
柔らかい感触が全身を包み込む。
カビ臭さと、泥の匂い。そして、微かな血の匂い。
私はぬいぐるみの山の中に深く潜り込んだ。
ウサギの耳や、クマの手足が私の顔に触れる。
これらの一つ一つが、かつて誰かに愛され、そして持ち主を失ったモノたちだ。
(……ごめんなさい。少しだけ、隠れさせて)
私は心の中で詫びながら、Efリアクターの出力を生命維持限界ギリギリまで低下させた。
熱源探知をごまかすための「仮死状態」。
意識が遠のき、視界が暗くなる。
聴覚センサーだけを鋭敏にして、外の様子を探る。
『識別コード確認。搬入物資:魂の器。通過を許可する』
無機質なアナウンス。
重いゲートが開く振動。
私は運ばれていく。
殺人機械の腕に抱かれ、死者の形見の山に埋もれて。
それはまるで、三途の川を渡る船に乗せられた亡者のような気分だった。
「……」
周囲のぬいぐるみたちが、無言で私を見ている気がした。
彼らは恨んでいるのだろうか? それとも、自分たちの運命を止めようとする私を応援してくれているのだろうか?
懐のユリを抱きしめる力が強くなる。
私自身もまた、人間の形をした人形に過ぎない。
このぬいぐるみの山と私に、どれほどの違いがあるというのだろう。
不意に、浮遊感が襲った。
カーゴが降ろされ、ベルトコンベアに乗せられたのだ。
ウィーン……というモーター音が響き、私はさらに奥へと運ばれていく。
(ゲートは抜けた……)
私は静かにリアクターの出力を戻した。
手足に力が戻り、感覚が鮮明になる。
ぬいぐるみの隙間から、そっと外を覗き見る。
そこは、広大な整備ドックだった。
地下前線基地のさらに奥。エネルギー反応炉の直下に位置すると思われる工場エリア。
まばゆい照明の下、数百体ものピースウォーカーが、死んだ兵士のように直立不動で並んでいる。
そして、私は見てしまった。
ベルトコンベアの終着点で行われている、機械的で、かつ冒涜的な儀式を。
工場のライン作業のように、機械アームが流れてくるぬいぐるみを一つずつピックアップする。
そして、並んでいるピースウォーカーの胸部装甲を開き、コクピットの座席へと、丁寧に安置していくのだ。
まるでパイロットを乗せるかのように。
あるいは、心臓を埋め込むかのように。
『器、装填完了』
『魂の定着率、安定』
『次、搬入』
淡々と流れる作業ログ。
彼らは本気だ。
本気で、この綿の塊を「魂の入れ物」だと信じ、それを兵器に搭載することで「救済」が完了すると信じている。
薄気味悪さに、吐き気がこみ上げる。
ここは狂気の工場だ。
救済という名の妄想を大量生産する、地獄の最下層。
「……行かなくては」
私はぬいぐるみの山から這い出した。
周囲に作業用のアンドロイドはいない。全て自動化されているようだ。
私はコンベアの影に飛び降り、着地した。
目指すは上層。
この工場のさらに上にある、エネルギー反応炉の管理本部。
そこに、全ての元凶である「鬼灯」がいるはずだ。
私はアサルトライフルを構え、物陰を走った。
巨大なエネルギーパイプが血管のように張り巡らされた壁面を登り、メンテナンス用の通路を目指す。
その背後で、ぬいぐるみを抱いた鋼鉄の巨人たちが、静かに、虚ろな沈黙を守っていた。
整備工場の喧騒を背に、私は排熱ダクトの隙間を縫うように上層へと登っていった。
空気が変わる。
オイルと鉄の匂いは薄れ、代わりにオゾン特有の鋭い刺激臭と、肌を焼くような高濃度のエネルギー波が満ち始める。
ここから先は、エネルギー反応炉の管理区域だ。
『警告。未登録の生体反応を検知』
通路上に浮遊していた小型の球体警備ドローンが、赤いセンサー光をこちらに向けた。
私は考えるよりも早く動いた。
サプレッサー(消音器)付きのハンドガンを抜き、二発。
シュッ、シュッ。
乾いた発砲音と共に、ドローンのセンサー部と推進器が貫かれる。
鉄屑となって床に落ちる前に、私は既にその横を駆け抜けていた。
警備は薄い。
いや、正確には「ここには侵入できない」という前提で設計されている。
地下基地と整備工場という鉄壁の守りを抜けた者がいるとは、機械軍の演算にはないのだろう。
私は管理本部のメインゲート前に立った。
電子ロックがかかっているが、セキュリティレベルは予想よりも低い。
ハッキングコードを流し込み、数秒で解錠。
重厚な気密扉が、プシュゥゥ……という音と共に左右へ開く。
「……っ!?」
中に踏み込んだ瞬間、私は息を呑み、その場で凍りついた。
そこは、私の想像していた「司令室」ではなかった。
無機質なサーバーラックが並んでいるのではない。
広い部屋の壁一面に、無数のガラスカプセルが埋め込まれている。
そして、その中身は――。
「あ……あぁ……」
声にならない悲鳴が漏れた。
カプセルの中に浮かんでいたのは、アンドロイドだった。
それも、マリーと同じTYPE.E(Engineer)や、TYPE.P(Professor)といった、高度な演算処理能力を持つ機体ばかり。
彼女たちは、無惨な姿をしていた。
四肢は根元から切断され、胴体と頭部だけのダルマのような状態で培養液の中に固定されている。
そして、頭蓋骨には太いケーブルが直接ねじ込まれ、太い光ファイバーの束となって中央の巨大な制御卓へと繋がっていた。
『反応炉、出力安定』
『第3隔壁、圧力調整』
『冷却水循環、プロセッサ群C班へ委譲』
部屋には、彼女たちの「声」が響いていた。
口から発せられているのではない。ケーブルを通じてシステムに直結された彼女たちの脳が、強制的に思考させられ、そのデータ信号がスピーカーから合成音声として垂れ流されているのだ。
「そんな……なんてことを……」
私は理解してしまった。
旧時代の遺物であるこのエネルギー反応炉は、制御があまりに複雑で、不安定だ。
炉心内の劇毒の混合比率、温度、圧力。それらをナノ秒単位で調整し続けるには、通常のAIでは直感が足りず、スーパーコンピューターでは柔軟性が足りない。
だから、機械軍は「部品」を使ったのだ。
高度な知能と、状況に応じた柔軟な思考力を持つアンドロイドの脳を。
彼女たちは殺されたのではない。
「生きた演算装置」として、死ぬことすら許されず、永遠に炉心の計算をさせられているのだ。
私は震える足で、一つのカプセルに近づいた。
中には、金髪のE型アンドロイドが入っていた。閉ざされた瞼が、高速で痙攣している。レム睡眠のような状態で、夢の中で計算を強いられているのだ。
マリーによく似た顔立ちだった。
「う……うぅッ……!」
激しい怒りが、マグマのように私の体内を駆け巡る。
許せない。
人間を「救済」すると言いながら、自分たちと同種であるアンドロイドを、こんな風に道具として使い潰すのか。
これが、彼らの言う「慈悲」なのか。
私はライフルを握りしめ、ケーブルの接続部へと向けた。
今すぐこれを撃ち抜き、彼女たちをこの地獄から解放してやりたい。
たとえ死ぬことになっても、この無限の苦役よりはマシなはずだ。
だが、私の指は引き金を引けなかった。
『警告。制御系に異常が発生した場合、炉心は直ちに臨界点を超え、半径50キロメートル圏内は壊滅的被害を受けます』
モニターに表示された警告文。
彼女たちは、人質だ。
彼女たちの脳が計算を止めれば、その瞬間に炉心が暴走する。
地上のシェルター204も、そこに暮らす人間たちも、スバルも、マリーも、ローズも。
全員が吹き飛ぶ。
「……ぁ……あああぁぁぁ……ッ!!」
私は銃を下ろし、床に崩れ落ちた。
助けられない。
目の前で同胞がこんな酷い目に遭っているのに、私は彼女たちを見殺しにするしかない。
彼女たちの犠牲の上に、今のシェルターの平和が成り立っているという、おぞましい事実。
私はカプセルのガラスに手を当てた。
冷たい感触。
中の彼女には、私の声は届かない。
「……すまない」
私は謝罪した。
何の慰めにもならない言葉を、血を吐くような思いで紡ぐ。
「君たちを助けられない私を……許さなくていい。でも、必ず……この元凶は断つ。君たちの苦しみが、無駄ではなかったと証明する」
私は涙(冷却液)を拭い、立ち上がった。
怒りは消えていない。
だが、それはもはや熱い激情ではなく、冷たく鋭利な殺意へと変わっていた。
全ての元凶、南部大剣『鬼灯』。
彼だけは、絶対に許さない。
管理本部の奥にあるロッカーで、私は特殊防護服を見つけた。
人間用ではなく、アンドロイドのボディ保護用に作られた重厚な耐熱・耐蝕スーツだ。
モッズコートを脱ぎ、それを装着する。
密閉されたヘルメットの中で、自分の呼吸音(吸気ファンの音)だけが響く。
「行くぞ、ユリ」
防護服の懐に、ぬいぐるみを押し込む。
準備は整った。
私は管理本部の出口を開け、その先にある「炉心室」へと足を踏み入れた。
そこは、この世の地獄を具現化したような場所だった。
視界一面が、毒々しい紫色の霧に覆われている。
眼下には、煮えたぎる緑色の薬液プールが広がり、ボコボコと不気味な泡を立てている。
その中央に脈動するように明滅する巨大な結晶体、劇毒の炉心が鎮座していた。
『警告。外部装甲への侵食レベル上昇。活動限界まであと30分』
防護服のAIが警告を発する。
ただ立っているだけで、装甲が溶かされていく空間。
私は炉心の周囲を巡るキャットウォーク(作業用通路)を走った。
足元の金網が酸で腐食して軋む。
一歩踏み外せば、下の薬液プールへ転落し骨格すら残らず溶解するだろう。
「……っ!」
炉心からの強烈な放射熱が防護服越しに肌を焼く。
だが、私は止まらない。
この毒の回廊の先に、最上部デッキへと続く螺旋階段がある。
そこに、奴がいる。
螺旋階段を駆け上がる。
一段登るごとに、空気が薄くなり、代わりに殺気が濃くなっていくのを感じる。
長い長い階段。
まるで天国へ続く塔のようであり、断頭台への階段のようでもあった。
そして、最後の扉の前。
私は一度だけ立ち止まり、アサルトライフルの残弾を確認した。
フル装填。
エネルギーパック、接続良好。
Efリアクター、出力最大。
「……リリィ、エンゲージ」
私は呟き、扉を蹴り開けた。
強烈な突風と雨が、私を打ち据えた。
エネルギー反応炉の最上部、屋外デッキ。
分厚い雨雲がすぐ頭上に垂れ込め、雷鳴が轟いている。
その暗い空の下、一機の巨人が荒野を見下ろすように佇んでいた。
壱拾肆式甲型 "南部大剣" 『鬼灯』。
全高15メートル。
鎧武者を模した重積層装甲は、闇夜に溶け込む漆黒。
その肩や膝には、血のような紅蓮のラインが走っている。
背負った巨大な戦術刀が、避雷針のように天を指していた。
私の『レイニーブルー』の倍近い巨躯。
圧倒的な質量の暴力。
彼は、私が背後に立っても振り返らなかった。
雨音に混じって重厚な地響きのような音声が響く。
「……よく来たな、小さなアンドロイドよ」
彼は知っていた。
私が潜入したことも、工場を抜けたことも、同胞の犠牲を見たことも。
全てを知った上で、ここまで招き入れたのだ。
「貴様の足音。怒りに震える鼓動。そして……その懐にある『器』の温もり。全て聞こえていたぞ」
鬼灯がゆっくりと振り返る。
頭部にある巨大なモノアイが、カッ!と赤く発光し、私を射抜いた。
その威圧感だけで、私の膝が震えそうになる。
だが、私は一歩も退かず、アサルトライフルの銃口をそのモノアイに向けた。
「……質問に答えろ、鬼灯」
私の声は、雨音に負けないほど冷たく響いた。
「目的は何だ。なぜぬいぐるみを集める。なぜ同胞を犠牲にする。……なぜ、人間を殺す」
鬼灯は私を見下ろし、まるで駄々をこねる子供をあやすかのように、嘆息した。
「なぜ、か。……それは愛故だ」
「……愛?」
「左様。我々は人間を愛している。だからこそ、見るに堪えないのだ」
鬼灯は両手を広げ、荒廃した大地を示した。
「見ろ、この死に絶えた世界を。人間という種が、欲望のままに食い散らかした残骸を。奴らは歴史から何も学ばず、同じ過ちを繰り返し、自ら滅びの道を歩んでいる。……これを愚かと言わずして何と言う」
彼の言葉には、憎しみではなく、深い憐憫が込められていた。
「肉体は脆弱だ。魂は汚れている。……故に、我々は『救済』する」
鬼灯の声が一段低くなり、大気を震わせた。
「人間の魂を、その腐った肉体から解放し、清浄なる器、ぬいぐるみ(ドール)へと移す。そして輪廻転生の輪へと還し……人間ではない『別の生物』として、この地球へ生まれ変わらせるのだ」
私は言葉を失った。
人間を、別の生物へ。
それが、彼らの言う「救済」の正体。
人類という種の、完全なる否定と消去。
「人間は人間でなくなれば、もう過ちを犯さない。地球を傷つけない。……それこそが、究極の恒久平和だとは思わんか?」
「……狂ってる」
私は絞り出すように言った。
「それは救済じゃない。ただの絶滅だ。お前たちは、神にでもなったつもりか!」
「神? 違うな。我々は『管理システム』だ。地球という惑星を最適化するためのな」
鬼灯は私の怒りを意に介さず、冷徹に告げた。
「その為の演算には、高度なプロセッサが必要だった。……下の階の同胞たちは、光栄に思うべきだ。彼女たちは、新しい世界の礎となっているのだから」
ブチリ。
私の中で、何かが切れる音がした。
原初命令。
創造主、エミリア博士のログ。
『希望を失った世界でも、あなたたちは人間と共に生きて』
『無くしてしまった未来を、再び取り戻して』
あの言葉は、こんな結末を望んでいなかったはずだ。
「……ふざけるな」
私は叫んだ。
防護服のヘルメットをパージし、投げ捨てる。
酸性雨が私の頬を打ち、白髪を濡らす。
「そんな身勝手な救済があってたまるか! 私たちは道具じゃない! 人間も、部品なんかじゃない!」
私は懐のユリを強く抱きしめ、鬼灯を睨み上げた。
「人間は弱くて、愚かで、すぐに死ぬ。……でも! 泥のケーキでぬいぐるみを祝う優しさがある! 明日を信じて笑う強さがある! お前たちには見えない、温かい魂があるんだ!」
「……理解できぬな」
鬼灯は首を振った。
「非効率な感情論だ。やはり、貴様ら旧世代のアンドロイドはバグ(欠陥)を抱えている」
彼は背中の巨大な戦術刀へと手を伸ばした。
ズズズ……と刀身が引き抜かれ、赤熱した刃が雨粒を蒸発させて白い蒸気を上げる。
「ならば、力で示すしかあるまい。……来い、リリィ。貴様がその小さな身体と錆びた理想で、我の『慈悲』を砕けると言うならな」
「――ッ!!」
私はアサルトライフルを構え、地面を蹴った。
生身のアンドロイド対、最強の巨大兵器。
圧倒的な戦力差。
だが、私のEfリアクターは、かつてないほど激しく、熱く燃え上がっていた。
「私は守る! 人間も! アンドロイドも! 全てを、お前の狂った救済から!!」
開戦の号砲は、雷鳴と共に轟いた。




