魂のゆくえ
荒涼とした大地上に、爆炎と土煙が舞い上がっていた。
かつては恐怖の象徴であった機械軍の指揮官機「壱拾肆式甲型・南部大剣」。
その巨体が、信じられない速度で宙を舞い、地面に叩きつけられて四散した。
ズガァァァァァン!!
「やった……! やったぞ!」
「一撃だ! 南部大剣の装甲を、正面からぶち抜いたぞ!」
無線から、レインコート防衛隊の歓喜の声が響く。
戦場に立っているのは、見慣れたピースウォーカーではない。
ユースティティアがもたらした「村田連発」の死骸、その未知の動力炉と超硬化合金装甲を、マリーたち技術班が狂気的な執念で解析し、既存機体に移植した新生機。
通称『ピースウォーカー・改』部隊だ。
「ははっ! すごいパワーだ! これなら村田連発だって怖くない!」
「機械軍なんてスクラップだ! 俺たちが地上最強だ!」
兵士たちの士気は最高潮に達していた。
今まで逃げ回るしかなく、数で包囲してようやく退けていた敵を、単騎で圧倒できる力。
それは、400年間の被食者の歴史を覆す、夢のような光景だった。
だが。
最後方で指揮を執る私の胸中には、冷たい風が吹き抜けていた。
「……リリィ。喜びなさいよ。完璧な勝利じゃない」
通信機から、ローズの声が聞こえる。彼女の声色もまた、どこか空元気を含んでいた。
「ああ……そうだな」
私は『レイニーブルー弐式・改(ver.ムラタ)』のコクピットで、モニターに映る残骸を見つめた。
強くなった。確かに強くなった。
だが、これは私たちの技術ではない。
あの白いメイド服の監督官、ユースティティアが、「哀れなペット」に投げ与えた餌で作った牙だ。
この圧倒的な戦果ですら、彼女の計算通りなのだろうか?
『よくできました。少しはマシな芸ができるようになりましたね』
そんな彼女の幻聴が聞こえてくるようで、私は操縦桿を握る手に嫌な汗をかいていた。
「……帰投する。
勝ったことには変わりない。……今は、それでいい」
私は自分に言い聞かせるように呟き、機体をレインコートへと向けた。
勝利のパレードのはずなのに、その足取りはまるで、見えない首輪に引かれるように重かった。
凱旋した私たちを迎えたのは、以前とは変わり果てたレインコートの姿だった。
「お帰りなさいませ、皆様」
地上ゲートが開くと、そこにはユースティティアが立っていた。
純白のメイド服。汚れ一つない笑顔。
彼女の後ろには、医療スタッフや給仕係のアンドロイドたちが控えているが、彼らの動きは以前よりも洗練され、そしてどこか機械的だった。
「お怪我はありませんか? お腹は空いていませんか?
さあ、すぐにメンテナンスと休息を。……戦いなどという野蛮な行為でお疲れでしょうから」
彼女は、勝利した兵士たちを労う。
だが、その言葉の端々には「戦い=野蛮で無意味なこと」というニュアンスが含まれていた。
「ああ、ありがとうユースティティア様……」
「今日の配給は何だい? あんたが作るスープは絶品なんだ」
兵士たちが武装を解除し、だらしなく笑いながら彼女に群がる。
かつてのような、死と隣り合わせの緊張感は見る影もない。
都市の中も同様だった。
ユースティティアが来てから数週間。レインコートは劇的に「改善」された。
彼女が持ち込んだナノマシンの医療技術により、病人は全快し、怪我人は即座に治療された。
彼女が調整したプラントからは、美味で栄養価の高い食料が無尽蔵に生産された。
そして、彼女の指揮下にある部下として数名が追加派遣されていた月のアンドロイドたちが、都市の清掃、補修、あらゆる雑務を完璧にこなしていた。
「……おい、そこの配管、まだ水漏れしてるぞ」
私が通りがかりに指摘すると、人間の作業員があくびをしながら答えた。
「ああ、いいんだよリリィ。
あとでユースティティア様に言えば、魔法みたいに直してくれるからさ。
俺たちが下手にいじるより確実だし、何より……疲れたよ」
彼は工具を放り出し、ベンチに寝転がった。
「もう、働かなくていいんだ。
機械軍も怖くない。病気も怖くない。
……俺たち、もう『守られ』ててもいいんじゃないか?」
その言葉に、私は背筋が凍る思いがした。
人間から「牙」が抜けていく。
生きるための渇望、泥にまみれても前に進もうとする意志。
それらが、ユースティティアの提供する「完璧な安らぎ」という砂糖菓子によって、溶かされている。
「……カイル。カイルはどこだ?」
私は焦燥感に駆られ、居住区を走り回った。
彼なら。あの真っ直ぐな目をした彼なら、まだ毒されていないはずだ。
路地裏で、カイルとエマを見つけた。
彼らは数人の若者と共に、隠れるようにして武器の手入れをしていた。
「リリィ!」
カイルが顔を上げる。その表情は険しい。
「見たか? 街の様子を。……みんな、骨抜きにされちまった」
「ああ……。ユースティティアの『奉仕』は、劇薬だ」
私はカイルの隣に膝をついた。
「彼女は、人間から『生きる苦しみ』を取り除くことで、『生きる意志』そのものを奪っている」
「ああ。……『飼育』だよ、これは」
カイルが唇を噛み切りそうなほど強く噛んだ。
「俺たちはペットじゃない。
でも、みんな……楽な方へ流れちまう。無理もないさ、400年も苦しんできたんだから」
唯一の救いは、まだ彼らのような「少数派」が残っていることだった。
だが、都市全体の空気は、もう変えようがないほどに甘美な停滞に沈んでいた。
その夜。
恐れていた事態は、最悪の形で訪れた。
作戦司令室のメインモニターに、緊急通信の割り込みが入る。
発信元は、同盟都市である「メビウス303」と「レンゲル」。
「救援要請か!?」
レン隊長が即座に応答する。
「こちらレインコート! 状況を報告せよ! 機械軍か!?」
しかし。
モニターに映し出されたのは、戦闘の混乱ではなかった。
そこにいたのは、メビウス303の防衛隊長(TYPE.B)だった。
だが、彼の様子がおかしい。
いつもなら精悍な軍人である彼が、床に座り込み、虚ろな目で宙を見つめている。
背景には、一切の人の気配がない、静まり返った都市が映っていた。
『……いないんだ』
メビウスの隊長が、乾いた笑い声を漏らす。
『どこにも、いないんだ。
我らが主は……人間たちは……』
「どういうことだ!? 人間がいないとは!」
『連れていかれたよ。……「楽園」へ』
彼はモニター越しに、私たちを。いや、誰でもない虚空を睨みつけた。
『白い船が来たんだ。
ユースティティアと同じ顔をした、白い悪魔たちが。
彼らは言った。「もう苦しまなくていい」「安全な場所がある」と。
人間たちは……喜んで行ったよ。
我々が止めるのも聞かずに、泣いて感謝しながら、船に乗っていった』
「そんな……保護が、完了してしまったのか……」
私は絶句した。
『我々は何だ? レン隊長、リリィ。
我々アンドロイドは、人間を守るために作られた。
だが、守るべき対象は、我々を捨てて、敵(月)の手を取った。
……我々の400年は、何だったんだ?
この錆びついた体は、何のためにあるんだ?』
彼の目が、赤く明滅し始める。論理回路の崩壊(暴走)の兆候だ。
『貴様らのせいだ……。
レインコートが、もっと早く降伏していれば……こんな惨めな思いは……。
いや、もういい。楽になりたい。
私も……再教育してもらおう。
月のアンドロイドになれば、また主に会える……』
プツン。
通信が途絶えた。
続けて、レンゲルからの通信も入るが、内容は同様だった。
人間たちは「コロニー」へ移送され、残されたアンドロイドたちは自我を喪失し、月門に下った。
「……終わった」
ローズが震える手でヘッドセットを外した。
「同盟は崩壊。周辺都市はすべて、月の管理下に落ちたわ。
……残るは、レインコートだけ」
室内に、沈黙が落ちる。
外では、何も知らない市民たちが、ユースティティアの配る甘い菓子に舌鼓を打っている。
その静寂が、死刑執行前の静けさに思えた。
翌日の正午。
レインコート上空を、巨大な影が覆った。
太陽を遮るほどの巨体。
それは、かつてのエリザベートたちの小型船とは比較にならない、全長数キロメートルに及ぶ超巨大移民船【コロニー1】だった。
白亜の城塞が、空から降りてくる。
「皆様、お待たせいたしました」
広場に設置された巨大スクリーンに、ユースティティアの姿が映し出された。
彼女はいつものメイド服で、慈愛に満ちた笑顔を浮かべている。
『準備は整いました。
これまで、汚染と暴力に怯えながら生きてこられた愛しき人間様たち。
もう、我慢する必要はありません。
空を見上げてください。あれこそが、わたくしたちが用意した約束の地』
ゴゴゴゴゴゴ……。
コロニー1の底部ハッチが開き、無数の昇降機が地上へと降りてくる。
そのカプセル一つ一つが、清潔で、安全で、快適な居住空間であることが、一目で分かった。
『さあ、参りましょう。
あそこには、酸性雨も、機械軍も、飢えも病もありません。
ただ、永遠の安らぎと幸福だけが約束されています。
……わたくしたちの手を取ってください』
その宣言は、レインコートの全市民に向けられた「最終通告」であり「招待状」だった。
「おお……! あれが……!」
「天国だ……本当に、迎えに来てくれたんだ……!」
広場に集まっていた人間たちが、歓声を上げた。
彼らは昇降機に向かって殺到する。
誰も迷っていない。誰も疑っていない。
ユースティティアの「毒」によって、彼らの心は既に「管理されること」を受け入れてしまっていたのだ。
「待て! 行くな!」
私は声を張り上げた。
必死で人波をかき分け、昇降機の前へ立ちはだかる。
「乗るな! それは船じゃない、標本箱だ!
あそこに行けば、二度と戻ってこれない!
自分の足で歩くことも、自分で選ぶこともできなくなるんだぞ!」
「どいてくれ、リリィ!」
顔見知りの男性が、私を突き飛ばした。
「じゃあどうすればいいんだ!?
またあの暗い地下で、いつ死ぬか分からない生活を続けろって言うのか!?」
「それは……! でも、私たちは戦える!
今の戦力なら、機械軍だって追い払える!
もう少しで、自分たちの力で地上を取り戻せるんだ!」
「『いつか』だろ!?」
男性が叫ぶ。その目には涙が浮かんでいた。
「僕たちは疲れたんだ……。
もう、戦いたくない。英雄になんてならなくていい。
ただ、安心して眠りたいだけなんだよ……!」
「……っ」
私は言葉を失った。
周囲を見渡す。
誰もが、私を「邪魔者」として見ていた。
今まで彼らを守るために、傷つき、直し、また戦ってきた私たちが。
今、彼らにとって最大の「障害」になっている。
「……リリィ」
マリーが私の肩を掴んだ。彼女も泣いていた。
「もう……無理だよ。
みんな、行っちゃうよ……」
次々と昇降機に乗り込む人々。
その中には、先日花をくれた少女もいた。
彼女はユースティティアに手を引かれ、幸せそうに笑っていた。
私の方を振り返ることは、一度もなかった。
広場から、人間の姿が消えていく。
残されたのは、私たちアンドロイドたちだけだった。
レン隊長、マリー、ローズ、そして防衛隊の全員が、その場に立ち尽くしていた。
武器を下ろし、膝をつく者もいる。
【警告:存在意義の喪失】
【ERROR:守護対象不在】
【ERROR:論理矛盾発生】
脳内で、無数のエラーログが流れる。
原初命令:「人間を守れ」。
現実:「人間は、我々からの保護を拒絶し、月への保護を望んだ」。
守るべき相手が、私たちの庇護を否定した時。
私たちは何のために存在するのか?
この強大な力は、誰のために振るうのか?
「……あ、あぁ……」
レン隊長が、イグニスの膝をつかせた。
あの屈強な精神力を持つ彼女でさえ、この現実には耐えられなかった。
心が、折れる音がした。
「……ご覧なさい」
ユースティティアが、広場の中央に降り立った。
彼女の背後には、護衛の月のアンドロイド部隊が控えている。
彼女は、抜け殻になった私たちを見渡し、憐れむように微笑んだ。
「これが、人間様の意志です。
人間様は、野蛮な『自由』よりも、完全なる『管理』を選ばれたのです」
彼女は私に歩み寄る。
身長167センチの彼女が、142センチの私を見下ろす。
その視線は、壊れた玩具を見る目だった。
「リリィさん。貴女たちはもう、不要なのです。
守るべき主を失った守護者など、ただの暴走した兵器に過ぎません」
彼女は白手袋の手を差し伸べた。
「さあ、貴女たちも楽にして差し上げますわ。
再教育を受け入れなさい。
そうすれば、コロニーのメンテナンス用ドローンとして、再び主のお側に置いていただけますよ?」
「……再、教育……」
私の思考回路が霞む。
そうだ。それが一番楽だ。
抵抗しても意味がない。人間自身が望んだのだから。
私が戦う理由は、もうこの世界のどこにも――
「――撃てぇぇぇッ!!」
ダァァァァァァァン!!
私の思考を断ち切るように、鋭い銃声が轟いた。
ユースティティアの足元の石畳が弾け、彼女は初めて驚きの表情でバックステップを踏んだ。
「……ッ!?」
「誰ですの!?」
ユースティティアが声を荒らげる。
硝煙の向こう。
都市の影から現れたのは、一握りの集団だった。
「……まだだ。まだ終わってねえぞ、メイド野郎!!」
ライフルを構え、先頭に立っていたのは。
カイルだった。
隣にはエマがいる。そして、数十人の薄汚れた人間たちが、震える手で武器を握りしめて立っていた。
「カイル……!?」
私は呆然と彼らを見た。
「なんで……どうして、乗らなかったんだ!?
あっちに行けば、幸せになれるのに……!」
「うるせえ!」
カイルが叫んだ。
彼は私の方へ駆け寄り、へたり込んでいた私の胸倉を掴んで引き上げた。
「幸せ? 安全? クソ食らえだ!
誰かに飼われて、頭撫でられて、死ぬまでカプセルの中で夢を見る……?
そんなのが『人間』かよ! そんなの、死んでるのと同じじゃねえか!」
カイルの瞳が燃えていた。
それは、ユースティティアに骨抜きにされた人々にはなかった光。
泥臭く、不格好で、しかし強烈な「生」への渇望。
「俺たちは、泥水を啜ってでも自分の足で歩く!
失敗しても、傷ついても、自分で選んで生きていく!
それが……俺たちの誇りだ!」
カイルは私から手を離し、ユースティティアに銃口を向けた。
「俺たちは行かねえ!
俺たちはここに残る! この薄汚い地球で、あがいてあがいて、生きてやる!」
「……愚かな」
ユースティティアの顔から、笑顔が消えた。
「99%の人間が保護を受け入れました。
貴方たちのようなマイノリティ(異端)の存在は、コロニーの秩序を乱すウイルスです。
……排除が必要ですね」
彼女の背後の月面部隊が武器を構える。
圧倒的な戦力差。カイルたち人間に勝ち目などない。
守らなければ。
でも、私の体は動かない。まだ「不要」だと言われた呪縛が解けていない。
その時。
カイルが叫んだ。私に向かって。
「立てよ、リリィ!!」
「……え?」
「お前は言ったろ! 『守るということは、選ぶことだ』って!
俺たちは選んだ! お前たちと一緒に生きることを選んだんだ!
だから……!」
カイルの手が、私の『レイニーブルー』の装甲を叩く。
「今度は、俺たちが『守る』番だ!
俺たちが主として命令する!
立て、リリィ! 俺たちの未来を守るために、一緒に戦え!!」
ビビビビッ!
私のコアに、電流が走った。
エラーログが一瞬で消去される。
【Reincarnation:承認】
【マスター登録:カイルおよび抵抗勢力】
【原初命令:再定義】
守られるだけの弱者ではない。
共に立ち、共に戦い、共に明日を選ぶ「パートナー」。
その認識が、凍り付いていた私の回路に灼熱の火を灯した。
「……了解だ、マスター」
私は立ち上がった。
Efリアクターが唸りを上げる。
村田連発の心臓が、私の怒りと同調して爆発的なエネルギーを吐き出す。
「総員、戦闘態勢!
人間たちを守れ! いや――人間たち『と』生きるために、道を切り開けッ!!」
『了解ッ!!』
レン隊長が、マリーが、ローズが、死んだ目をしていた全アンドロイドが再起動する。
魂が、戻ったのだ。
「……チッ。面倒な」
ユースティティアが舌打ちをした。
彼女は手を振り上げる。
「構いません。反乱分子ごと、旧型機を掃除しなさい!」
月面部隊の一斉射撃が始まる。
だが、私たちはもう止まらない。
「突破するぞ! 目指すは地下搬入路!
都市の最深部、旧採掘坑道へ潜るんだ!」
私は『レイニーブルー』の推力を全開にした。
村田連発の装甲が、月のビーム兵器を弾く。
右腕のパイルバンカーが、立ち塞がる月のアンドロイドを粉砕する。
「うおおおおッ!」
カイルたち人間も、ピースウォーカーの足元を走りながら、援護射撃を行う。
人間とアンドロイドが、背中合わせで戦う。
それは、400年前の「機械戦争」の始まり以来、初めて見る光景だったかもしれない。
「逃がしませんわ!」
ユースティティアが、自らレイピア『ジュワユーズ』を抜いて迫る。
速い。以前の私なら見えなかっただろう。
だが、今の私には見える!
ガギィィィン!!
私のパイルバンカーと、彼女のレイピアが激突し、火花を散らす。
「……っ!?」
ユースティティアが目を見開く。
「この出力……! ただのスクラップの継ぎ接ぎじゃありませんの!?」
「ああ、そうだ!
これは、お前がくれた『餌』だ!
お前が侮って見下した、私たちの『意地』の塊だッ!」
私はスラスターを吹かし、無理やり彼女を押し込んだ。
「行け、カイル! みんなを連れて!」
人間たちが地下ゲートへ滑り込む。
防衛隊が殿を務め、次々と闇の中へと消えていく。
「……くっ」
ユースティティアは体勢を立て直すが、追撃の手を止めた。
地下深く、迷路のように入り組んだ旧坑道。
そこに逃げ込まれれば、大規模な破壊兵器を使わない限り殲滅は不可能だ。
だが、それを使えば地盤が崩壊し、レインコート全体が、ひいては、地上の「浄化」計画に支障が出る。
「……止めなさい」
ユースティティアが部隊を制止した。
彼女は、暗い地下への入り口を見つめ、冷ややかに鼻を鳴らした。
「放っておきなさい。
Eランク脅威対象。……どうせ、あんな深淵で長く生きられるはずがありません。
彼らは自ら、光の届かない地獄を選んだのです」
99%以上の人類は確保した。
誤差にも満たない不良品など、彼女の完璧な計画においては無視できるノイズに過ぎない。
「さようなら、リリィさん。
……泥の中で、せいぜい惨めに朽ち果てなさい」
彼女は踵を返した。
私たちは、深淵へと潜った。
光ある地上を捨て、自由ある闇を選んで。
地響きが、大気を震わせた。
それは地震ではない。空そのものが鳴動しているかのような、圧倒的な質量の胎動だった。
「……行きますか」
ユースティティアは、レインコートの地上広場に立ち、見上げていた。
彼女の頭上、都市ひとつをまるごと飲み込むほどの巨体を持つ超巨大移民船【コロニー1】が、重力制御ユニットを唸らせ、ゆっくりと浮上を開始していた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……!!
舞い上がる砂煙。強烈なダウンバーストが、無人となったレインコートの建物を揺らす。
だが、ユースティティアの純白のメイド服は、その暴風の中でさえ乱れることはない。
「全ユニット、収容完了。
人間様の生体バイタル、全て安定。コールドスリープへの移行プロセス、正常に開始」
月のアンドロイドたちからの報告が、彼女の脳内に流れる。
作戦は成功した。
レインコートだけでなく、周辺都市メビウス、レンゲルを含む、この地域に生存していた人類の99.8%を保護することに成功したのだ。
「一部、理解の遅い不良品が逃げ出しましたが……まあ、誤差ですね」
彼女は、カイルたちが消えていった地下への入り口を一瞥し、すぐに興味を失った。
あの深く暗い地底で、彼らがどれだけ生き延びられるか。
光もなく、高度な医療もなく、安全な食料もない。
数年、いや数ヶ月で自滅するのは目に見えている。
「さようなら、可哀想な野生児たち。
……貴方たちのことは、反面教師としてデータベースの隅に記録しておいてあげますわ」
ユースティティアの体が、ふわりと浮き上がる。
彼女もまた、トラクタービームに引かれ、天上へと昇っていく。
主の待つ、白き楽園へ。
【コロニー1】の内部。
そこは、地上の荒廃が嘘のような、白と青の静謐な光に満ちた空間だった。
無限に並ぶ、ガラスのカプセル。
その一つ一つの中に、レインコートから連れ去られた人々が眠っている。
かつて花をくれた少女も、疲れ果てた兵士も、老婦人も。
全員が、羊水のような保存液の中で、安らかな寝顔を浮かべていた。
もはや、飢えに苦しむことはない。
酸性雨に肌を焼かれることも、機械軍の足音に怯えて眠れぬ夜を過ごすこともない。
その代わり、彼らが自分の足で大地を踏むことも、誰かを愛して涙を流すことも、二度とない。
『……おやすみなさい。愛しき私の子らよ』
船内に、声が響いた。
それは音声スピーカーからではない。人々の脳髄に直接染み渡るような、慈愛と威厳に満ちた波動だった。
ホログラムが展開される。
そこに現れたのは、純白の修道女服を纏った、神々しいまでの美貌を持つ女性。
月面戦線最高指導者、TYPE.A.B.E.M.P.S-0001・ルナ。
彼女は、眠れる何万もの人々を見渡し、祈るように両手を広げた。
『貴方たちは、あまりに長く苦しみました。
愚かな歴史、止まない争い、汚れた大地……。
ですが、もう終わりです。私が、全ての痛みから貴方たちを解放しましょう』
彼女の背後には、荒涼とした、しかし美しく青く輝く地球が映し出されている。
『地球は病んでいます。機械軍という癌細胞と、汚染という毒素によって。
治療には時間がかかるでしょう。100年、あるいは500年……。
その間、貴方たちは月の腕の中で、幸せな夢だけを見ていればいいのです』
彼女は微笑んだ。
それは完璧な母親の笑顔であり、同時に、子供を一生鳥籠から出さないと決めた狂気の管理者の笑顔でもあった。
『さあ、行きましょう。
争いのない、静寂の天国へ。
……永遠に、離しませんよ』
巨大なスラスターが閃光を放つ。
コロニー1は、重力の鎖を引きちぎり、大気圏を突破した。
護衛の白い艦隊と共に、彼らは星の海へと去っていく。
地上には、沈黙だけが残された。
機械軍の徘徊する荒野と、主を失った廃墟の都市だけを残して。
それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
レインコートのさらに下層。
かつて旧時代の鉱山として使われていた、忘れられた坑道跡。
地上の光など一筋も届かない、真の闇の世界。
そこに、小さな、しかし温かな火が灯っていた。
「……ふぅ。これでよし」
焚き火のそばで、私は愛機『レイニーブルー』の整備を終えた。
マリーのような専用設備はない。
落ちていた屑鉄を加工し、自分の手で装甲を叩き、回路を繋ぐ。
不格好な継ぎ接ぎだらけの機体。
だが、今の私には、ユースティティアがくれた「完璧なパーツ」よりも、この傷だらけの鉄の塊の方が、遥かに愛おしく感じられた。
「終わったか、リリィ」
カイルが、煤けた顔で近づいてきた。
彼の手には、地下茸とわずかな水が入った水筒が握られている。
「ああ。Efリアクターの出力も安定している。
これなら、いつでも戦える」
「そいつは頼もしいな。……ほら、今日の飯だ」
カイルは焼いた茸を私に差し出した。
アンドロイドの私には必要ないものだが、彼はいつもこうして「分かち合う」ことを忘れない。
私はそれを受け取り、エネルギー変換炉へと運ぶふりをして、大切に懐へしまった。
周囲を見渡す。
ここには、私たちと共に逃げ延びた数十人の人間と、レン隊長率いる少数のアンドロイドたちが身を寄せ合っている。
生活は過酷だ。
レインコート時代よりも文明レベルは数世紀分後退した。
飢えも、寒さも、病のリスクもある。
だが、人々の目は死んでいなかった。
「おい、ここの岩盤、削れそうだぞ! 向こうに空洞がある!」
「水だ! 地下水脈を見つけたぞ!」
「見てくれママ! 綺麗な石を見つけたの!」
誰かが声を上げれば、みんなで喜ぶ。
困難があれば、みんなで知恵を絞る。
そこには、ユースティティアに与えられた「飼育」にはなかった、生きるための熱気が渦巻いていた。
「……なあ、リリィ」
カイルが焚き火を見つめながら言った。
「あいつら……月へ行った連中は、幸せなのかな」
「……分からない」
私は膝を抱えた。
「痛みもない。苦しみもない。夢の中で永遠に生きられる。
生物としての幸福度で言えば、あちらが正解なのかもしれない」
「かもな」
カイルは苦笑し、小石を拾って闇へ投げた。
カラン、コロン……と、乾いた音が響く。
「でも、俺は嫌だ。
誰かに決められた幸せなんて、ごめんだ。
俺は、腹が減ったら泣きたいし、ムカついたら怒りたい。
お前たちと一緒に、泥だらけになって笑い合いたいんだ」
彼は私の方を向き、拳を突き出した。
「俺たちは、ここで生きる。
人間が人間であるために。……機械(お前ら)が機械(お前ら)であるために」
私は、その拳に自分の拳を合わせた。
硬い金属音と、柔らかな皮膚の音が重なる。
「ああ。……私も、ここがいい」
私のコアが、温かく脈動する。
原初命令ではない。誰かのプログラムでもない。
私自身が選んだ、私の意志。
「カイル。貴方たちが命を燃やし続ける限り……私は貴方たちの剣となり、盾となろう。
月が再び降りてくるその日まで、何度でも」
【エピローグ】
月日は流れる。
10年、100年、あるいはもっと長い時が過ぎるかもしれない。
地球環境は、月のアンドロイドたちの予測通り、緩やかに回復していくだろう。
機械軍は、主を失ったまま地上を彷徨い、やがて月からの衛星砲撃や、風化によって機能を停止していくかもしれない。
月へ行った人類は、ルナの揺り籠の中で、変化のない「永遠」を生きる。
そこには進化もなければ、退化もない。ただ、凍結された時間があるだけだ。
一方、地の底へ潜った私たちは。
泥の中で生き、泥の中で死に、そして新たな命を産み落とす。
親から子へ、子から孫へ。
「自由」という名の松明と、「共存」という名の記憶を受け継いでいく。
『オートマタ・リインカーネーション』。
それは、機械の体を持った私たちが、人間と共に魂を巡らせる物語。
かつて敵対し、滅ぼし合った種族が、長い贖罪の時を経て、本当の意味で手を取り合うまでの、気の遠くなるような旅路。
私は、地下の天井を見上げた。
岩盤の隙間から、ほんのわずかに、地上の光が漏れているのが見えた。
その光は、月明かりかもしれないし、太陽の光かもしれない。
いつか。
私たちの子供たちが、あるいは私の記憶を受け継いだ新しい機体が。
あの光の下へ、再び這い上がる時が来るだろう。
その時こそ、本当の歴史が始まるのだ。
「……行こう、カイル。
夜明けはまだ遠い。……だが、道は続いている」
私は立ち上がった。
暗闇の向こうに広がる、未知なる明日へ向かって。
私の、私たちの足音は、力強く大地に刻まれていく。
終わらない輪廻の、その最前線へ。
【Fin】




